十一.キョンシー使い参戦
下の階には、鬼が徘徊している。
それは分っているのだから、とにかく距離をとろうと、談子は上へ上へと階段を登っていった。考えなく登っていくと、屋上へ通じる扉に突き当たってしまった。こんな場所へ来るのは初めてだ。
扉のノブを回してみるが、鍵がかかっていて開かない。まあ休日だし、当然と言えば当然だが。
それに、屋上に出たところで、逃げ場なんてない。素早く降りて、別のルートから生徒会室へ行かなくては。というか、生徒会室はどこにあるのだろうか。
場所すら知らないのも、また情けない。
迷子になってしまい、頭の中がパニックだ。知恵熱で溶けかかった脳みそを、更に混乱させるように、鬼の鳴き声が響く。
一瞬、驚いて身体を震わせる。かなり逃げたつもりなのに、さっきよりも近くなっている気が。
だんだん上へ上がってきている? 身体が金縛り状態で動けなくなる。
「お願いだから、こっち来ないでよー。本当にヤバいって……」
頭を抱えて、慌てる。下のほうから、階段を登ってくる足音が聞こえる。布を擦るような、静かな摩擦音も。かなり速いペースで近付いてくる。
今、階段を下りて逃げようとすれば、鬼と鉢合わせになる危険がある。下手には動けない。
談子は、屋上への扉のすぐ側に積まれた、机の下に潜り込んだ。身体を丸めて、できるだけ気配を消すように心懸ける。気付かれずに、やり過ごせるだろうか。
足音が大きくなる。比例して、心臓の音も、もう爆発寸前だ。
頭にどんどん血液が送られて、気が遠くなる。脳みそが破裂してしまいそうだ。
ダカダカダカ。すぐそこの階段を登る、素早い足音。少し、鬼のものとは違う気がした。
だとしたら、誰?
歯を鳴らしながら、ゆっくりと頭を上げてみる。足音が止まった。階段を登ってきたのは、人間の影だった。
しかも、よく見馴れた――。
「あ、あかつ……」
声が震える。目尻から、涙が滲み出た。それは安心感から来るものだったのだろう。目の前に立つ男子生徒――春眠暁が、まるで正義のヒーローのように感じた。
「――月見!? お前、何でこんなところに」
そのか細い声に、気付いてくれた。暁はこちらを見て、目を丸くする。顔は汗だくで、かなりの距離を、かなりの速度で走ってきたのだと見て取れる。
「ぐうぐう!」
階段から、別の声がした。幼い子供の声のように聞こえたが、はっきりとは分らない。
暁は、声のした方角をちらりと見て、叫んだ。
「そのまま突っ込め、安眠!」
そして、こちらへ飛び、談子を庇うように机の下に滑り込む。突然の事に驚いて声を上げようとしたが、その口を暁の手に塞がれる。
屋上へ向かう扉の前に、誰かが駆けて来た。
小さな女の子だ。背丈は綺羅姫と同じくらい、黒い長い髪を細い三つ編みにして、頭に逆台形の円柱のような形をした帽子を被っている。
袖が大きく広がった中国風の服を着た、可愛らしい女の子だった。
眠そうな顔をしていて、活発に動いているのに、その目は寝ているように、トロンと閉じている。その肌の色は青白く、血が通っていないのかと思うくらいに、冷たそうに感じた。
女の子は扉の目の前で立ち止まり、軽々と地面を蹴った。すさまじい跳躍力で天井に張り付き、身を潜める。
直後。
「ガアアアアア!」
鬼の声が、すぐ側で響いた。階段を駆け登ってきた鬼が、そのまま真っ直ぐ突進。扉に激突したのだ。
破壊音を立てて、扉が変形する。まるでダンボールのように易々とへしゃげて、吹っ飛んだ。扉を追いかけるように、鬼も屋上へ飛び出していった。
その後、鬼の咆哮は遠くなり、激しい金属音と共に、聞こえなくなった。
あっという間の出来事だった。既に、暁の手は談子の口から離れていたが、呆然としすぎて、声すら出てこなかった。
「よくやった、安眠」
「ぐうっ」
暁は立ち上がり、天井に張り付いている女の子に声をかける。安眠と呼ばれた女の子は、身軽に地上へと降り立ち、胸の前で手を合わせ、お辞儀した。そして、すぐ目の前で座り込んでいる談子の姿に気付き、恥かしそうに暁の後ろへ隠れる。暁は視線を談子に移し、声を掛けた。
「怪我はないか? 立てるか」
「うん、たぶん、大丈夫……」
談子は何とか起き上がろうと、身体に力を入れる。しかし震えは止まらないし、腰が抜けたようで立てない。暁は呆れた息を吐き、談子の手を引いて起き上がらせた。まだ足がガクガクするが、何とかバランスを保って直立できるようになった。
「鬼が気になる、屋上に出るぞ。歩けるか?」
頷いて、一歩前に踏み出した。震えは抜けないものの、何とか歩ける。初めてスケートリンクに立った時のことを思い出した。あの感覚とよく似ている。
危なかっしくて見ていられなくなったのか、安眠が徐々に近付いてきて、恐る恐る談子の手を握った。
冷たい手。でも柔らかくて優しくて、かなり嬉しかった。
「ありがとう」
にっこり笑いかけてみた。まだ筋肉が強張って、ぎこちない笑いになってしまったが、気持ちは伝わったらしい。安眠も笑い返してくれた。
暁を先頭に、ゆっくり外に出る。屋上は静かだった。風だけが、下界で起こっている騒動など知りもしない、といった様子で、穏やかに吹き抜けていく。
雲ひとつ見当たらない、晴天。その爽やかさに圧倒され、空を見上げる余裕さえなかったのだと、初めて実感した。
目の前には、無残な姿になった鉄の扉が横たわっていた。その向こうのフェンスが突き破られ、大穴が開いている。
「鬼は落ちたらしいな。ここは暫く安全だ」
周囲を観察しながら、暁が無事を確認する。軽く扉を蹴り飛ばし、こちらに視線を向けた。
「で、お前は何で、こんなところにいるんだ?」
「安眠って呼ばれてたよね。アンちゃんって呼んでもいい?」
「ぐうぐう」
「おいコラ、人の話を聞け」
安眠は、ぐうぐうしか言わないので、何を言っているのか分らない。それでも、なんとかそれなりに会話っぽくなってきたなと思ったのだが、眼を飛ばす暁に遮られる。
ばつが悪そうに、談子は顔を上げた。
「何でって訊かれてもねぇ。何から話せばいいのか。暁こそ、こんなところで何やってんの? この子誰、暁の妹?」
「違う。こいつは俺が使役するキョンシーだ。休日登校命令が出たんで、ついでに連れて来たんだが、幸か不幸か、鬼が暴れていたところに出くわしたんだよ。文句あるか」
偉そうに腰に手を当て、簡略的な説明をする。談子は安眠と暁を交互に見て、眉を顰めた。
「キョンシー? キョンシーって、あれでしょ? 中国の、なんか、おでこにお札貼ってあって、ピョンピョン跳ねるやつ」
「アバウトな前提知識だが、まあそういうことだ。……何だ、その疑り深そうな目は」
「だってさー、キョンシーなんて、いまどきいると思う?」
「いまどきいない鬼だって、ここにいただろうが。鬼は信じるくせにキョンシーは信じないのか、この偏屈我儘女め」
「そこまでいうかな。まあ、当たってるから否定はしないけど、あんたに言われると腹立つよね」
相変わらず口の減らない奴だ。談子が呆れ返って肩を竦めていると、左下の足元で、安眠が何か、ぐうぐう言っていた。
何かと思って下を見れば、安眠の左肩の部分が妙に萎んで、服の裾がヒラヒラと風に揺れている。さっきからずっと手を繋いでいたはずだ。今も手を握っている感覚がある。
ふと自分の手を見て、叫ばずにはいられなかった。
「えっ、手っ? ギャ――――!!」
談子が手に握っていたのは、肩から下が取れた、細い人間の腕だったのだ。この細さといい、土のような血の気のない色といい、明らかに安眠のものだ。
「ぐうっ、ぐう!」
慌てて安眠は腕を取り返し、袖の中に通した。しばらく固定していると、くっついたらしく、腕は元通りの位置につき、自分の意志で動かせるようになっていた。
その間、談子は陸に打ち上げられた金魚みたいに、口をパクパクするしかできなった。その姿を見た暁が、見下すように笑う。
「信じる気になったか」
「あわわ、ううう……」
信じる気になった。と言うか、そうしなければ、更にとんでもないものを見せられそうな気がしたので、とにかく無心で頷いた。
「とりあえず、俺たちのことは話した。で、お前はこんなところで何をしてる? 暫らくは鬼に追われる心配もない。一からでいいから、説明してみろ」
逃げ道も見つからず、談子はしぶしぶと頷いた。