黒点星
少年の背後で太い枝や蔓草がうねうねと蠢いている。
月明かりの中うねり広がっていくそれは、少年のいびつな翼の様にも見える。
少年は白目と黒目を完全に反転させ、地面にふわりと降りて来ると急に右手をシルバに向けて勢い良く振り下ろした。
鋭く風を薙ぐ音が響き、飛びのくシルバのいた場所に茨の鞭を叩きつけた。
少年は宙にしなって音を立てる鞭を手のひらに従えると、パンと音を立てて引き延ばす。
「今度は、アタシのリード?」
「まさか」
戯れる<彼女>の言葉に、シルバは地面に唾を吐く。
彼は抜身の剣を自分の腕に当て、スッと浅く切った。
じわりと彼の腕から血が滲む。
彼は血を刃に擦り付けた後、額の前で剣を真横にして目を閉じる。
刃に擦り付けられた彼の血が、地を這う虫の様に鋼の上を這って消えた。
「? ナニソレ。死にたいのぉ?」
「……いいから来いよ」
シルバは薄目を開け、<彼女>を挑発した。
「ウフ、カッコいい」
<彼女>は茨の鞭を地面に打ち鳴らして舌なめずりすると、腕を頭上に上げて振りかざした。
棘のついた鋭敏な一撃を撃ち込む為、鞭はシルバ目がけて唸った。
シルバはその勢いに全く臆せず、とん、と軽く跳ぶ。
バシンと地面を打つ鞭を空中で身体を捻らせて避けると、銛を打つ様な勢いで鞭に剣を撃ち込み声を上げる。
「先生!」
彼の声に応え、彼の手にしていた剣が一瞬にして黒く染まった。
黒は幾つかの点に凝縮し、刃の中で黒い星が瞬いた。
くねる鞭を、シルバは体重を乗せて地面に縫い留める。
「なに……?」
シルバの剣を持つ手に、透けた女が手を添えていた。
年のころは二十代後半だろうか。真っ直ぐ長い髪を揺らめかせ暗緑色の瞳を伏せている。
「ナニヨ……誰と踊ってんのよ……ッ」
女が、シルバと重なっている様に見えて<彼女>の―――少年の顔が歪む。
少年は片目だけ細め鞭を引いたが、ビクともしなかった。
茨の鞭の生き生きとした表面に、じわじわと黒い点が広がり初め、じくじくと腐り始めた。
「……!?」
顔を歪める少年に、シルバは唇を片方だけ釣り上げて笑った。
笑うシルバの顔と重なりながら、シルバと対比の冷淡な表情で女が声を発した。
『久しぶりですね、ヘリアンサス』
「!」
少年の顔が、女を見た途端真っ青に変化した。
「アアア、アンタは……」
『貴女の手で一国に封じられた女よ』
「アアアアア……な、ん、で」
女は形の良い小さな唇を上品に微笑ませた。
『封印を解く為。申し訳ないですが、姫を戴きます。これで貴女の「庭いじり」は終わりです』
シルバの黒点を光らせている剣が捕えた鞭に、女は身をかがめ手を伸ばす。
女は透けているのに、鞭を掴んだ。冴え冴えとした暗緑色の瞳が、ふ、と笑う。
『捕まえましたよ』
彼女がそう言うと、彼女の手の中に納まっていた鞭がジュッと音を立てて腐り落ちた。
少年が驚愕の表情を貼り付けて後退る。
『長い追いかけっこでした』
女は子供の悪戯を見る目で、触れる度腐り落ちて行く鞭を手繰り寄せて行く。
そんな女に臆したのか、<彼女>の声が震えた。
「ア……、あぎゃ、ダメ、ダメ、ダメェエエ!」
『いいこね……』
「くっ! イヤ!」
少年が鞭を放り出して、背を宙に吸い込ませ飛んだ。
女は少年に向って、手に持っていた鞭の残りを振る。
『こうですかね』
女の振る光る黒点のついた鞭は先ほどよりも強く頑丈そうに太くなると、少年の脚へ絡まり、容赦なく地面へ叩きつけた。
起き上がる間も無く、シルバがサッと駆け寄り、少年の胸を踏みつけ剣を喉元にビタリと突きつけた。
<彼女>は、無理に少年の身体を動かさなかった。
「ザマミロ、バケモンめ! ブッ殺してやるからさっさと先生を解放しろ!」
『シルバーニ様、殺さないでください』
興奮するシルバを、女が静かに止めた。元々透けていたが、さっきよりも透けている。
シルバは不満げに少年を剣で突く。
「でも先生。コイツ<触手>だ」
生かして置いたら、姫を護る為後々厄介な存在になるに決まってる!
けれど、女は譲らなかった。
『駄目です。ここでは意味がありません。姫と一緒に、私の元へ、連れて来て下さい』
「ええ~っ!? 荷物が増える!」
シルバがさも厭そうに声を上げたが、女は動じず静かに彼の名を呼んだ。
「シルバーニ様」
それだけ。
そこには自信があった。
シルバが自分の言う事を聞く、という自信と、目の前に倒れる化け物を自分は抑えられるという自信。
磨かれた刃の様に凛としたそのサマに、シルバは内心舌打ちする。
「……わかった」
「……誰がいくもんですか」
<彼女>が女を睨みつけながら呻いた。
少年の顔や腕に、黒点が浮き出ていた。
黒点はゆっくりじわじわと大きくなっている。
この黒点が<彼女>にどういう訳でか効いているのだろう。少年はもうピクリとも動かない。
動いているのは、<触手>の特徴を光らせる瞳だけ。
シルバの横に女がすぅっと移動し、冷たい視線を<彼女>へ落とした。
『貴女は連れて行きませんよ? 枯れ行く「庭」へ逃げたらどうです?』
女の言葉に<彼女>は顔を歪め、それから絶叫した。
「逃げるものか! リトル・フローラをかえせえええぇっ!!」
『では、出て行きなさい』
女はそう言って少年の傍に膝を突くと、手を額に当てた。
すると、少年の身体中に浮き出ていた光る黒点が一気に額に集中し始めた。
途端、<彼女>がけたたましく叫ぶ。
「ぎ・ああッ!? いや! いやぁぁッ!?」
『朽ちなさい。所詮本体の小枝でしょう』
「リトル・フローラ! リトル・フローラ! 逃・げ・て……ッ! いや!」
少年が最後の抵抗とばかりに脚をバタつかせるが、シルバが抑えつけた。
『ヘリアンサスにお伝えなさい。近々お会いしましょうと』
少年の瞳がカッと見開かれた。その視線はシルバへ向いていた。
なんて瞳だろう。どうしてこんなにも禍々しく輝くのか。それでも輝きは輝き。
――――先生の黒点星と同じに。
シルバは少年の―――<彼女>の瞳に見入った。
「アンタは……アンタは……わかってるの」
「……?」
『消えなさい』
何か言い掛けた<彼女>とシルバの間に女が割って入り、視線は断ち切られた。
『シルバーニ様、私はお教しえした筈ですよ。戦う相手の特性を』
「ああ……」
『今後はお気をつけ下さい』
そう言いながら、女の姿が薄くなっていく。
最後の仕事とばかりに、女は少年の閉じた瞼を手のひらでそっと撫でる。
少年の目が、虚ろに開いた。もう、眼中花は咲いていない。
『立ちなさい』
少年は虚空を見詰めながら女の言う通りに、ゆらりと立ち上がった。
意識は無い様子だ。
『彼も連れて来て下さいね』
「ああ」
シルバは彼女に反抗的に頷いて見せて、ひらりと手を振った。
既に女の姿は消えていた。
「すぐ帰る」
――――お待ちしております。ご無事で。
女の涼やかな声だけが木霊して、夜の闇に消えた。
生ぬるい風が一つ吹き抜けて、残ったのはシルバと意識なく立っている少年。
宮殿の方から、幾つもの灯りと喧騒が近づいて来ていた。
ゴチャゴチャやっている内に、とうとう首無し王が発見された様だ。
シルバは舌打ちして剣を鞘へ納め、少年に近寄り背を乱暴に押す。
「行くぞ」
本当は駆け出したい。捉えられる恐怖からではない。
ずっとこの日を待ち望んでいた先生を、一秒でも多く待たせたくないのだ。
姫と少年を持ち帰る事により待っているであろう、喜ばしい予想と想像で胸が膨らみ、楽しみに気が急いて少年の背を殴る様に押しせっつきながら、シルバはその場を去って行った。
後には無残に散った茨の蔓と、カサカサ音を立てる木の葉や花びら。
そのどれもに、黒い斑点が光っていたが、やがて黒色だけを残して光は消えてしまった。