十二歳の狩人
『鐘の日』からしばらくして、フリージアは十二歳になった。
若草色の美しいドレスを身に付けて姿見の前に立つ彼女の隣に、厳格そうな父王の姿が並んでいる。父は恐る恐るといった様に、彼女の綺麗に結われた金色の後れ毛を指先で整え、おめでとうを言った。
「美しくなった。そなたの父親で良かった。若者でなくて良かった。そうでなければ、ひれ伏してしまいそうだ」
「わたくしは、美しいでしょうか。でしたらなぜ――――」
フリージアの言葉を、父は遮った。
「二度も言わせるでない。それよりも、今宵はそなたの誕生日パーティである」
「……ありがとうございます」
フリージアは沈んでいく気持ちを抑えて頭を下げる。
今までの彼女の誕生日パーティは、ちっとも楽しくなかった。
重たく分厚いローブを頭から被り、いつもよりも派手な仮面を着け、楽しそうに踊る人々の前でジッと座っている。それが彼女の誕生日パーティだった。
子供の頃は、絵本や物語の誕生日との差にしくしく泣いたものだった。
――――でも、今年は何故だか少し違うみたい。
ドレスだ。袖は無く、胸元も開いている。華奢ですべらかな首には、首飾り。ほんのりと先がバラ色の耳たぶには耳飾りがキラキラ揺れている。
仮面もしなくて良いのだろうか。
しかし、父に仮面の入った箱を差し出し出されて直ぐにフリージアは期待を捨てた。
「そなたは何故仮面を着けなくてはいけないか、解るか?」
――――いいえ。いいえわかりません!
「……結婚するまでは、顔を男性に見せてはいけないからです」
父は「うむ」と、重く頷いた。
―――― でも、この国の女の子達は誰も仮面なんかしていないわ。
「皇女だけの、重いしきたりである」
「……はい」
フリージアは泣きそうになって顔を床に向けて頷いた。
彼女には姉妹が二人いる。けれど、姉妹の二人とも、一度も仮面を着けていなかった。
今日初めて聞いた訳じゃない。けれど、何度告げられても、この言葉は新鮮にフリージアを傷付けて来る。
いっそ、『お前だけ』と言ってくれればどれだけ楽か。
涙の滲んだ瞳を隠す為に、フリージアはノロノロと仮面を箱から出して着けようとした。
「――――?」
仮面に違和感を感じ、目を見張る。涙を忘れて、父を見た。
「陛下……お父様……」
父は物問いた気なフリージアに頷いた。
フリージアは再び仮面に視線を落とす。
仮面はいつもの頭ごと覆う物では無く、目元だけを隠す仮面だった。忌々しい鍵穴も無い。
「着けなさい」
言われて、フリージアは驚きと興奮に震える手で仮面を着ける。慌てて覗き込む鏡の端に、父の顔がチラリと見えたけれど、彼女はその表情を気にする暇が無かった。
美しい瞳を完全に出す事は出来ずとも、愛らしく艶めく唇が鏡の中でフリージアに微笑んだ。
――――わたくしに表情! 表情、皆の前で……!
鏡に見入っていると、唐突にフリージアの足元へ父が片膝を突いて頭を下げた。
「お、お父様?」
「百花繚乱の姫よ。今日までの、数々の御無礼をお許しください」
「お父様!?」
「そんなに驚かれますな、これからも父です。十二歳を迎え、大人扱いさせて頂くだけの事」
「大人扱い……」
それでこんなにも変わるのだろうか? そんなはずがない。それとも、そうなのだろうか? 姉にも、父は膝を突いて頭を下げるのだろうか。二年後の妹にも?
フリージアは混乱して、自分を見上げる父を見る。父は既に知っている父ではなく、まるで――まるで僕の様な、そんな顔を彼女に向けていた。それに、父は今、なんと言った? 百花繚乱の姫……?
「さぁ、パーティへ。今宵は異国の貴公子を大勢招待しております。貴女はもう大人です。このパーティはいずれ迎える結婚の練習も兼ねております」
「結婚の練習……?」
「難しい事ではありません。気に入った若者の前で、仮面を取って見せるのです」
父の豹変に動揺しながらも、フリージアは短い喜びの声を上げそうになった。
「仮面を……」
「そうです。しかし、お気をつけください。たった一人にです」
「でも、皆の前で取ったら皆に顔が」
顔が。
――――否、どうして顔を見せたらいけないというの?
「構いません。見詰めるのです。たった一人を」
「たった一人」
「他の者の目を見てはいけません。しかし、気を張られますな……これは練習ですからな」
「あの、あの……」
なにがなにやら解らないフリージアの前に、父は無言で手を差し出した。
「さぁ、ダンスホールへ」
――――ああ、これは父だ。有無を言わさない。でもきっと、この為に今まで父だったんだ――――
「……はい」
フリージアは自国の王の手を取った。王は頷いて、彼女の手を引いて部屋を出る。
柱の連なる渡り廊下を行く途中、庭園の方から、花火が上がった。
花火は夜空に大きな音を立てながら打ち上がって行く。
紫色のヴィラ。ピンク色の八重咲きアーカー。青く花びらの鋭いベカチャギャン。
白いポンポンのククリ。煎じると麻薬になる真っ赤なポッカ。
足を止めたフリージアに、王は何も言わなかった。しばらく二人は夜空に咲く庭園を眺めた。
王はフリージア姫を見る。
降り注ぐ色とりどりの花火の光に染まる、娘ではない美しい娘。
高貴で、愛らしく、清廉で、可憐で、狂ってしまいそうな、美しい娘。
自分のものではない。強くそう心で思いながら、王は魅入る。
フリージアが溜め息を吐いた。ただそれだけで、王は片手を彼女へ近づけそうになり我に返った。
「行きましょう」
「……お父様」
ドーン、と花火の音が、王の頭の中にまで響いた。
見上げて来るフリージア姫の唇が動き、自分を呼んだだけで。
王は立ち竦み、胸に下げた女神像のレプリカを握りしめる。
「なんでしょうか」
「おた、お誕生日プレゼントを下さい……」
意を決した様に思い詰めた様子で言う、目の前の娘に、王の心臓が高鳴る。
この娘が、自分に贈り物をねだっている。
この高揚した気分は何だ?
――――この姫の願いを叶える事ができる自分。ああ……!!
いや、解っている。しかし、私は父だったではないか!
王の口が、勝手に動いた。
謎の幸福感に、声が震えた。
「なんなりと。お望みのままに、我が姫……」
「わたくしに時間をください。半刻で良いのです。お願いします」
「……どういう事です?」
「その……幸せに胸がつかえて……庭園の空気を吸いたいのです」
意外な願いに、王は戸惑った。
「しかし、姫が来なければ宴が始まらない」
そっと、白い手が王の手に触れた。
雷に撃たれた様に、王の心臓が跳ね上がった。
育てるのは、母でなくてはならなかった、と、王は深く後悔した。
しかし、王妃はこの日を恐れて姫から遠ざかった。
姫は見上げて来る。自分を、見ている。それだけ、それだけで。
「……お願いします。お願い」
「半刻ですぞ……」
姫の顔に喜びがパッと花の様に咲いたのを、王は目をつぶって見ないように努めた。
固い約束の言葉を述べて姫が走り去っていくと、王は渡り廊下の床に膝を突き、顔を両手で覆った。
「――――狩られそうになった……」
呻く王の薄い唇が、歪んでいた。笑んでいたのだ。
*
ナズナ、ナズナ、と、彼の名を心で呼びながら、フリージアは庭園へ駆けた。
あの花火を観て、きっと喜んでいるハズだ。だって、わたくしたちの庭園の花ばかり!
花火職人が、フリージアの庭園好きを知ってこしらえた花火。ナズナは観ているに違いない。
フリージアはナズナと一緒に見上げたいと思った。
そして、見て貰うのだ。
自分の姿を。
――――お父様は『たった一人に』と、仰っていらした。
たった一人。
だったら、ナズナだ。
彼に顔を見せたい。笑顔を見せたい。
フリージアは花火に照らされる庭園で、ナズナを探した。
ナズナは直ぐに見つかった。
人気の無い一角の、大きな果樹の上にいた。
「ナズナ」
呼ぶと、ナズナは直ぐにこちらを向いて目を見張り、首を傾げた。
「誰……ですか?」
「あの、あの……フリージア……で、す」
「姫様!?」
驚いて木から飛び降りて来たナズナに、フリージアは微笑んだ。
ナズナはフリージアの姿を見て、少し呆然とした後厳しい顔をした。
フリージアの胸がざわついた。――――想像と、違う。
微笑んでくれるかと――――。
「どうして? お誕生日のパーティじゃないのですか?」
「す、少しだけ時間をもらったの。花火を、見たくて。それで……み、見て下さい。ドレスを着ているの」
ドレスの裾を摘まんで広げて見せた。
けれどもナズナは首を振る。
「は、花火なら宮殿から見えるじゃないですか!? 駄目です、こんなところにいたら」
「ナ、ナズナと……」
「姫様は、ダンスホールで踊るんです」
「ナズナと……」
「僕といても、土の上でしか踊れませんよ。さぁ、誰か呼びましょう」
「いや……いや。待ってナズナ」
スタスタと行ってしまうナズナの腕を、フリージアが掴んだ。
「仮面を、今夜は取っていいんですって。顔を……」
「姫様……」
「わたくしの顔を見て……」
庭園に来なければ良かった、と、フリージアは心の中を悲しみでいっぱいにして思った。
お父様は「大人に」と仰ったのに。
もう十二歳なのに。
子供みたいに、花火に浮かれて。ナズナを困らせて。
すぐに戻ろう。
でも、わたくしの顔を、知って欲しい。
目をいっぱいに広げているナズナの前で、フリージアは仮面に手を取った。
初めて、父や召使い以外に顔を見せるのは、少し恥ずかしい。
けれど。
仮面が外れた。
フリージアは、そっと瞳を上げる。
碧く虹色に揺らめくオパールの瞳を。