鏡を持った王子
ハンスの心は浮足立っていた。
木彫りのゴブレットに酒を手酌し、煽る。
シルバーニが姫を攫ってきてくれてから、酒が美味かった。
自分を騙そうと微笑むあの妖魔の姿も、今はない。
ヘリアンサスを抑え込むために妖魔自身がつくった薬を、飲ませてついに捕えてやったのだ。
涙を零しそうな程瞳を潤ませて、ハンスは一人晴れ晴れと微笑んだ。
*
妖魔は、彼がまだ幼かった頃、城の中心で枝葉を伸ばす聖なる木の根から現れた。
ハンスとシルバーニが毎日祈りを捧げる場所だ。
ある日、木の根の間から二人の名を呼ぶ声がしたのが始まりだった。
私をここから解き放ってください。
私はこのルベンス国を守護する精霊です。
この地を穢した妖魔に、封印されているのです……。
両親を亡くした幼いハンスとシルバーニが顔を見合わせ、その声に従ってしまったのは言う間でもない。そして、ハンスにはある希望があった。あの、洞窟の絵の女神ではないか、きっとそうに違いないと思ったのだ。
二人の兄弟は三日三晩声のした根元を人に掘らせ、埋められた祠を発見した。
彼女はその祠の中に、木の根で繋がれていた。
ハンスは見た。
一瞬だけ、その女が怪しく唇を曲げて微笑んだのを。
ゾッとしたものの、洞窟の女神ではないかという期待がその怖れを弱めてしまった。
解き放たれた女は、小川の水を毒に変えている苔をただの苔に戻し、奇形ばかり産む種の家畜を正常に戻してみせた。人々は驚き、喜びの声を上げて地面に膝をつき、祈り乞うた。
もっと、もっとこの国の毒を払い、清くしてください。
妖魔は聖母のごとく微笑んだ。皆、その微笑みに心照らされるようだった。
特にシルバーニは一気に心酔していった。幼い彼は、妖魔の偽りの姿に薄い記憶の母を重ねて見たのかもしれない。
親しんでいく中で、ハンスはどうしても彼女から温かみを感じる事が出来なかった。
自らの中に毒を抱き、浄化の花を咲かせるという身を切る様なやり方を、この女はしないだろう、と、感じたのだった。
用心深いハンスの予感は当たり、つらつらと説かれた教えの中でヘリアンサスは恐ろしい魅了の妖魔として登場し、『先生』は、巧みに兄弟の憎しみを煽った。壁画から受け取ったハンスの中の物語と、まるで正反対の事が語られる事に憤り、怯えながらも、毒に負けぬ様、ジッと耐えた。
恐ろしい妖魔――恐らく、ルベンスが毒まみれになってしまった元凶――に騙されているフリがバレぬ様、大切な弟が洗脳されていくのを歯噛みしながら―――。
半面、謎が解き明かされて行く事には胸躍った。
妖魔の講義を真逆に捉えていけば、どんどんと洞窟の女神の力を読み解けたのだから。
何も知らないシルバーニは、ハンスよりも国の現状を憂いていたのだろう。
他国から差別され、嫌煙されて貧しくコソコソと営みを繋いできた国と民たちの上に立つ焦燥と苛立ち、未来の無い暗い閉塞感、何処まで行ってもどうあがいても……という状況を憎み、それらに希望をもたらした『先生』を苦しめる元凶の悪い妖魔。――憤怒し憎まぬ筈がない。
しかし、あれほどになるとは思わなかった。
いつかもう少し幼さが抜けたら。心に保護者を求める事が薄くなったら。
そう思っていたのに、妖魔は弟の心を囲い込み、憎しみという根強い炎を放ってしまった。
いよいよ姫が公にお披露目されると知り、機は熟したと妖魔が『妖魔の力を抑える薬』を取り出した時、ハンスの機も熟した。妖魔を捕らえる際に足枷となるシルバーニを遣いに出すのは容易かった。弟は最早、その日のその為に生きていたから。
妖魔もシルバーニを危険な遣いに出す事に、異存はない様子だった。
彼女はシルバーニを本心では毛ほども気にかけていないのだろう。
シルバーニは、その様子を自分への信頼と受け取っていたが……。
妖魔は何故かハンスを気に入っていて、こっそり愛を囁くほどだった。それだってきっと真っ赤な嘘だ。多分妖魔は焦っていた。今期に咲く百花繚乱の姫を確実に手に入れ、この地へ連れてきたかったのだろう。それだけ、毒が薄れ始めているのかもしれない。だから余計に、妖魔を自分に信用させなくてはならなかった。汚らわしい妖魔に口先だけの愛を囁かれ、心酔し溺れるフリをして、然るべき時に、然るべき隙を突きたかった。
唇も肌も合わせた事はなかった。妖魔もそこまで踏み込んでは来なかった。それとも、人間如きと、と、見下されていたのだろうか。
弟の心を裏切りながら、妖魔と目線と唇の動きで戯れるおぞましい日々。
洞窟に描かれた花の女神だけが、ハンスの心の支えであり、癒しだった。
*
さて、妖魔は捕らえた。あとは姫を抱き、再び眠りの花を咲かせれば、妖魔も毒を抜かれながら眠りにつくだろう。この国の為だ。王族として喜んで魅了されよう。国はシルバーニに任せる。あれの方が、まだまだ厳しい状況が続く国を、上手く励ましながら束ねていけるだろう。
どうしてイポメア国にあったのかはまだ調べがつかないが、姫株は奪ってきたのだから、次の姫もこの地で生まれるはずだ。もしかしたら、これが最後かもしれない。そうだったら嬉しい。
問題は、シルバーニが頑なにあの妖魔を信じている事。
初めはショックを受けていたが、利用されていた事に傷つくどころか、未だに固く妖魔の方を信じている。
隙あらば妖魔を解放しようと躍起になるので、自室に押し込め、妖魔の拘束場所も隠した。
何度も説明を重ねたが、しばらくは無理そうだ。
ハンスは酒を片手に、薄く鞣した家畜の皮にペンを走らせる。
これから、後世の為に真実を綴るのだ。
見つかるのを恐れて、書き残せなかった真実と、姫の迎え方。
そして、シルバーニへ信頼を寄せた遺書。
幸福だ、とハンスは思った。
幼き日に、魅了は成されていたのだ。