黒曜石の夢
変わり切ってしまった髪を乾かす為に、日当たりのいい窓辺に椅子を置き、おかみに髪を梳いて貰う事になった。
汚れの落ち切ったフリージアの髪を見て、何も知らないおかみは感嘆の声を漏らした。
「お兄様も見事だけれど、お嬢様の髪はもっと素晴らしいですねえ」
と、フリージアの髪を何か高価なものの様に大事にそっと梳いてくれるのだけれど、フリージアは喜べなかった。仕方なく、ぎこちない微笑みだけをなんとか作って黙っていた。
おかみはフリージアの白い髪をひと房手に取って、窓から射す日の光に透かして見たりして喜んでいる。
こんな綺麗な髪を見たり触れたりする機会など、後にも先にもないでしょうねぇ、なんて言いながら。
「なんて優しい銀色だろう」
おかみの呟きに、フリージアは少し驚いた。
「……銀色ですか? 白ではなく」
「白と言われると白い花みたいな白ですねぇ。日に当たるとあんまり眩しいので、銀色に見えます。でも、確かにお兄様とは大分印象が違いますねぇ」
「そうですか……」
フリージアはぼんやりと答えた。
もう、自分がなんなのか分からなくなってきた。
ナズナは驚くだろうか。
彼がわたくしの容姿を見慣れていなくて良かった……。
しばらくおかみのされるがままになっていると、子供達と朝食を取っていたシルバと医者が部屋にやって来た。
医者はフリージアの髪におかみと同じように感嘆し、シルバは目を逸らした。
淡い金髪だと言わなかったか、などと、この賢い医者はシルバに対して追及しなかった。
それどころか、何となく予期していた様子さえある。
もしかしたら食事中に、シルバから聞いたのかも知れない。「変な病気じゃねぇだろうな」。そんな風に。
医者は「末恐ろしい愛らしさですな」と言いながら、フリージアにお辞儀をして跪く。
眩しい朝日を背に自分の方を見るフリージアの姿に、医者は自然と身体がそう動いてしまったのだった。
そして、こんな事を言った。
「どうです、髪を結ってもらっては」
「まぁぁ、良いですねぇ!」
医者の提案に喜んだのはおかみだ。
早速、髪を何束かに分けて思案し出した。
「髪を……ですか?」
「そんなに美しい長い髪だと、道中目立ってしまいます」
医者はシルバを意味深にチラリと見る。
シルバはコッソリ深い息を吐いて、腕を組みながら、一見にこやかに微笑んだ。
「良いじゃないか。そのままだと邪魔だしな。やって貰え」
「長旅でも崩れない編み込みなんか良いねぇ……」
フリージアは髪など切って欲しいと叫び出したかった。
けれども、そんな癇癪と勇気が彼女には無い。
だから「お願いします」と囁いて目を閉じる。
*
髪を結うのには少し時間が掛かるから、と、医者がシルバを別室へ誘った。
「妹を見ている」
「今後の薬の説明をしたいので、少しだけ」
「もう聞いた」
「熱が良くなってからの薬だから」
「……」
こんな風にやりとりがあって、シルバは医者と渋々部屋を後にした。
フリージアは少しホッとして、窓の外を眺める。
窓の外は庭先の痩せ細った木々と、その先に続く乾いた畑の風景が広がっていた。
なだらかに隆起する丘が遠くにあって風に吹かれているが、所々緑が枯れてみすぼらしい。
大きな両腕でたくさんのものを抱きかかえながら、それらに何も与える事が出来ない悲し気な大地。
あふれ返るような花や樹に囲まれて、それが世界の全てだったフリージアには胸の痛む景色だ。
世間知らずな彼女は、ナズナがいたら、きっと辺り一面生き生きとさせるのではないだろうか、と思う。
――――ナズナ。どうしているかしら。
そうこう考えている間に、自分のものとは思えない髪がどんどん編み込まれ、纏められていく。
「後れ毛があった方が愛らしいですね」などと、おかみが楽しそうに言ったけれど、心ここに在らずなフリージアは「お好きな様に、お願いいたします」と、小声で言って、おかみの好きなようにさせた。
そうして、おかみはフリージアの髪を結い終わると、嬉しそうに瞳をキラキラさせた。
「出来た。まぁお嬢様、何処かの皇女様みたいですよ!」
顔周りを華やかに編み込んでアップスタイルに纏めたそれは、所詮素人の技だったが、愛らしく清楚なイメージはフリージアに良く似合った。
おかみはフリージアを誇らしげに眺め、どこかにリボンがあったハズだと言って部屋を出て行った。
部屋にはフリージアだけになって、ホッと息を吐く。
久しぶりにたった一人。誰もいない。誰も見ていない。誰もわたくしを気にしない。
――――数日前には、誰かに気にかけて欲しくて仕方なかったのに。寂しくて仕方なかったのに。
しかし、安息も束の間だった。
すぐに部屋のドアが静かに開き、医者が一人でやって来た。
医者は髪を結ったフリージアを見て、目を細め愛らしさに詰まってしまった胸を片手で押さえた。
「似合ってなさいますねぇ。ああ、なんだか息が出来ないくらい」
「……お薬をありがとうございます」
とぼとぼ近寄って来た医者に、何か言葉をと思い、フリージアはお礼を言う。
医者は小さく首を振って微笑んだ。
「ヘリアンサス様、お兄様はきっと早々にお発ちになるお考えでしょう。まだ休養が足りないと言って止められると良いのですが……多分……」
医者の目が、憐れむ様にフリージアを見詰め、潤んだ。
――――できません。止められません……。
そう言われているのだ、とフリージアは潤んだ老人の濁った瞳を読む。
「……構いません。体調は戻りました」
「……お力になれず……」
「いいえ、お世話になりました」
医者はとても純粋な、少し泣きそうな顔で、子供みたいな溜め息を吐いた。
そして、フリージアに手を差し出し、手のひらを開いた。
そこには黒い宝石の様な石の欠片が乗っていて、黒い表面につるんと光を滑らせていた。
フリージアの小指程の長さで、片方の先だけ少し尖っていた。
「黒曜石と言います」
「黒曜石……」
医者は頷き、黒曜石の尖った方を、自分の乾燥した手の平へスッと滑らせた。
石の軌跡を追う様に静かに皮膚が裂け、血が盛り上がった。
「あ……」
「私は貴女から聞き出せない。弱いから。けれど私が貴女へお話するのは良いよね」
医者はフリージアの戸惑いの声を遮る様に囁いた。
「遠い昔にね、娘を暴漢に連れ去られた事があるんです――――今でも忘れない。知らない男が急に馬で駆けて来て、横ざまに抱えて――――一瞬だった。あの子の驚いた顔が遠ざかって行くのが今でも……」
早口に言いながら医者はフリージアに屈みこみ、フリージアの髪に触れた。
「神様は悪戯だねぇ。金色を貴女に授けたらしいのに」
彼は掠れた声でそう言うと、結った髪のボリュームがある部分に黒曜石を刺しこんだ。
「もしも私と出逢ったのが運命なら、これはナイフに。ただの通りすがりなら、お守りに……」
彼はフリージアの手を取って、黒曜石を刺し込んだ位置に触れさせた。
髪の中に、滑らかで固い黒曜石の感触。
「ここだよ。覚えたね」
「あの……」
「もしも、娘がこれをもっていたらって。夢見んです」
「……」
「もしも、針穴みたいな希望でも持たせることが出来てたらなぁって。私の娘は撥ね返りだったから」
フリージアは錆び付いた様に首を小さく振った。
それでも、医者の瞳は優しく潤んでいる。
「何も出来ないの……」
「私の夢なだけだから。いいね、ここだよ」
「オイ! 何してる!!」
シルバが部屋に飛び込んで来て、フリージアは椅子から飛び上がりそうに驚いて、医者の手を振り払った。
シルバは足音を立てて老人へ駆け寄ると、彼の襟首をむんずと掴んだ。
「お湯を持って来るんじゃなかったのかよ……! 遅いと思ったらおかみにやらせてるし」
「すまないすまない。ドアが開いていてね。チラッと覗いたらお嬢様があんまりお綺麗だったから」
「ジジイのクセに」
ふん、とシルバが言うと、医者もふん、と言ってフリージアに目を細める。その目は多分、かつて失った娘を見ている。濁った哀愁が零れ落ちそうで落ちない。
濁ったまま、悲しみを零れ落とす事の出来ないまま、死ぬほど悔しい無力を背負って、医者はささやかな夢を見続ける。
「ジジイだって、夢みるんですよ」