落ちない赤と失望の白
まだ薄暗い早朝、暑さに寝返りをうって目を覚ますと、額から汗が転がって行くのを感じた。
身体中が汗で湿っていた。
衣服も寝具も気持ちが悪かったが、頭の重さと揺れる平衡感覚がまともに回復していたので、身体は楽だった。
動ける自由に何となく身を起こそうとして、フリージアはギクリと固まった。
薄暗いランプの灯りに照らされて、直ぐ傍で鋭い双眸がフリージアを見ていた。
フリージアはヨロヨロと身を起こし、少しでもその双眸から離れようと試みた。
彼女から視線をピッタリと外さないで、双眸は眠たそうに細まる。
「……良い薬だったみたいだな」
「あの……」
「なんだよ、俺だってベッドで寝たい」
そう言ってシルバは欠伸をすると、フリージアの隣に面倒臭そうにむくりと起き上がり首を支えて頭を回した。
「あー、せま……あのデッカイオバサンとオッサン二人でいつもどうやって寝てるんだ……」
どうやら寝かせてもらっているベッドは、家主夫婦のダブルベッドらしい。
確かにシルバの言う通り小さい気がしたが、それはフリージアが皇女で、立派なベッドに寝ていたからだ。シルバもきっとそういう感覚なのだろう。
フリージアは誰かと一緒に眠った事が無かったので、自分以外の動きでベッドが揺れる事に戸惑った。
「ちょっと医者とおかみ起こして来るけど大人しくしてろよ。逃げてもすぐに捕まえるし、そのあとアイツを半殺しにしてやるからな」
シルバはそう言い残してフリージアを震え上がらせてから、部屋を出て行った。
フリージアはポカンとして、自分以外が乱したかけ布を見る。
自分の真横に彼が眠っていたかと思うと、よくも寝ていられたものだ、とフリージアは熱でかく汗とは別種の汗をかいた。
それにしても、一体どういう神経をしているのか、とも思う。
そして、自分が怖くないのか、とも。
今、彼の言うフリージアの魔性の力は封じられているという。けれど、それでも気味が悪くないのだろうか?
それほど力を封じている何者かを信頼しているのだろうか。
フリージアはどうしてだかポツンと「羨ましい」と思った。
そうして物思いをしているあっと言う間に、シルバはおかみと医者を連れて来た。
おかみは湯を沸かす様医者に命じられ眠たそうに台所へ行き、医者は微笑んでフリージアのベッドに寄って来ると彼女の額に手を当てた。
「大分下がったね。明かるくしても平気かな?」
「はい」
聞いていたシルバがカーテンを開けた。まだ外は薄暗かったけれど、幾分かは光が入って部屋の中が明るくなった。
医者はありがとう、と言って、フリージアに尋ねる。
「気分はどうですか」
「悪くないです」
「うん、また夕に飲んだ薬を飲もうね。坊ちゃん、私もまた頂いた方がいい?」
かなりの度胸があるのか、医者がそんな風に冗談めかして言ったので、フリージアはギクリとする。
心臓に悪い老人だ。
シルバは「勿体ねぇからもう飲むな」と欠伸混じりに返した。
医者は「ふふ」と笑って、フリージアの首筋をグッと揉んだ。そうされると、張りっぱなしの首の筋肉が気持ち良かった。
「汗をたくさんかいたね。きっともうすぐにでも良くなる。このままだと身体が冷えるから、薬を飲んで湯あみをなさると良いよ。……髪も、おかみに手伝ってもらって綺麗になさると良い」
「湯あみは俺がやる」
医者の言葉に、シルバが割り込んだ。
「しかし、いくら兄妹といっても……」
「髪を濯いだら、おかみが腰抜かしちまう」
シルバが小声で言う通り、真っ赤な湯が流れ落ちる事だろう。
フリージアは、あの人の良さそうなおかみが悲鳴をあげる所を想像してしまい、気が滅入った。
「俺がやる」
シルバが言い切ったところに、おかみが薬湯を持ってやって来た。
彼女はフリージアに「よかったですねぇ。顔色が大分良い」と微笑んで、着替えを差し出した。
「アタシのだけど、間に合わせに着てください。今、これでもかってくらい湯を用意しますからね!」
「あ、ありがとうございます……」
「さっぱりしたら、きっとお腹も減りますよぅ!」
屈託の無いおかみの笑顔に、フリージアの気持ちは固まる。この方に手伝ってもらう訳にはいかない。
お医者様の様に、何かを勘付かせてはいけない。
*
湯あみをする場所は、屋外にあった。木の目隠し柵に囲まれた狭い石畳のスペースに、大きなタライが置かれ、そこに並々湯が注がれた。熱いお湯の、清潔な匂いにフリージアの心が潤った。
ベトベトする服を脱いで、湯桶で掬ったお湯を身体に流すととても気持ちが良かった。
「グズグズすんなよ」
と、湯あみ場の入り口の向こうで、シルバが刺々しい言葉を投げて来るのに「はい」と素直に返事をして、汗を流す。試しに髪を濯いでみると、やはり真っ赤なお湯となって流れ出した。
それは濯いでも濯いでも、赤く、フリージアから流れ落ちてくれない。
彼女の白い身体を、延々と赤いお湯が伝う。
色も温度も、一度死んだ血が生き返ったみたいだ。
――――陛下の、お父様の。
まだ生々しい記憶の中から、豹変した父が狂気の眼差しでフリージアにしがみ付いている。そんな想像に囚われて、フリージアは必死で髪を濯ぐ。
まだ赤い。まだ赤い……。取れない!
手まで真っ赤に染まって――――。
「お湯の追加するぞ」
無遠慮にシルバが浴場へ踏み込んで来た。
両腕に湯の入った桶を持って、彼はちょっと立ち止まる。
フリージアは、これ以上ない程身体を縮めながら、泣いているところだった。
こんな姿で泣いているところを見られるなんて、と消えてしまいたくなる。
けれども、熱いお湯を頭から掛けられて羞恥どころではなくなってしまった。
こんな事をされた事が無いので、フリージアは驚いて咽せ、シルバを見上げた。
シルバは無表情でフリージアを見下ろして、更にもう一杯のお湯を掲げる。
「とろとろするんじゃねぇよ」
「やめて……きゃっ」
容赦なくお湯を浴び、フリージアは顔を覆った。
ガラン、と桶が石畳に転げ落ちる音がして、彼女は身を竦ませる。
――――まだ落ちない。まだ。
縮こまっていると、シルバが彼女の傍らにしゃがみ込んだ。
「お前……」
「……?」
顔を上げ、シルバの方を見ると、彼は苦虫を嚙み潰した表情で彼女へ手を伸ばす。
彼は、怯えて身を固くするフリージアの髪を摘まんだ。
「……??」
フリージアは何をされるのだろうと困惑しジッとしていたが、シルバが何も言わず動きもしなかったので恐る恐る、彼の指に摘ままれた髪を見る。
彼の見るフリージアの髪は、彼の指にほとんど透明な雫を滴らせながら白く輝いていた。
「そうか、あの取れない赤色は幻だったんだ」と、安心した矢先、フリージアはハッとする。
「……あ、あ……」
フリージアの掠れ声を聞いて我に返ったかのよう、にシルバが身じろぎした。
彼は舌打ちをして、摘まんだ髪を投げ捨てる様に手放すと立ち上がる。
「……もうほとんど落ちたな。もう一杯ぶっかけたら着替えろ」
彼はそう言うと、呆然とするフリージアを置いて立ち去った。
残されたフリージアは冷めて朧な湯気の中、ゆっくりと腕を動かし長い髪を束ね取ると、胸の前で両手で抱いた。
震える手の中で、彼女の淡く美しい金色だった髪が、白銀に変色し朝日に冷たく光っていた。