優しさの対象外
ふわりふわりと宙に浮いている様な気がして、フリージアは目を覚ます。
誰かの顎が見えた。男だ―――。彼の首筋で踊る銀色の髪の向こうに、月が浮かんでいる。
月は大きな赤い星と、強く光る青い星を傍に従えて静かに冷たく暗闇の中照っていた。
頭を預けている場所が、シルバの胸の中だと気付くとフリージアは妙に安心した。
―――そうだわ。全部夢だったんだわ。
一緒に踊った曲が、頭の中で湾曲しながら響いた。
半月型に笑う薄い唇。そこから覗く、フリージアよりもずっと頑丈そうな尖った歯。
喉から漏れる低い笑い声が、耳元でくすぐったかった。
頼もしい腕が、フリージアを支え、導き……彼女を優しく揺すぶる。今みたいに。
―――ステップを踏まなくては。教えて頂いた通りに。
もう一度あの時からの、夢を。
どういう風にしたら、良かったかしら?
身体が重たい。
きっと軽やかにステップが踏めない。
でも、怒らないで。怒らないで。
お父様が観ているの。
このまま離さないでください。
あの部屋へ、わたくしをやらないで!!
夢現の中で焚き上がる、明るいダンスフロアの向こうに『あの部屋』が扉を大きく開けて待っている。
暗い室内からは荒い息遣いが漏れ出ていて、フリージアは身体を震わせた。
部屋の奥で、父王が彼女の名を呼んでいる。
首だけになって、それでも尚、叫んでいる。
『どうか私と共に、百年を!!』
*
悲鳴を上げて目を開けると、目を見開いたシルバがフリージアを見下ろしていた。
「うっお、ビビった……」
何もかも夢だった事に、フリージアは深く息を吐く。額の汗が首筋に流れて気持ちが悪い。
けれども、横になっている場所は今までの床板よりもずっと心地が良かった。
フリージアは粗末だけれどマットのあるベッドに寝かされていた。
ここは何処だろう、と、目だけでぼんやりと見える範囲を見渡すと、古びて染みだらけの天井が見える。それから、自分が寝かされているベッドの横に窓がある。閉じられたカーテンの隙間から、静かな明かりが光っていた。
「そんだけデッケー声でるんなら、とっとと連れていきゃ良かったぜ」
殺風景な視界に、シルバの顔が覗いた。
この場とそぐわない華がある彼は、旅の間に薄汚れているにも関わらずあまりこの部屋に馴染んでいなかった。多分、シルバはいくら質素なものに紛れようとしても目立ってしまう類の人間だ。
人の目を惹きつける。
それを自覚した事はあるのだろうか? 無いのだろうか?
あったとしたら、どう思っているのだろう。
―――その上で、百花繚乱の主を憎むのか。
「ここは……?」
「民家」
「ナ、ナズナは……」
「馬車で待機」
シルバが素っ気なく答えた矢先に、ドアが開き、誰かが部屋へ入って来る気配がした。
「どうなさいました?」
人の良さそうなしゃがれ声の主は年配の女の様だ。なんとなくホッとする。
「熱にうなされただけだ」
シルバがフリージアの代わりに答えた。
女の声は安堵の祈り文句を発し、
「良かった。お目覚めですか。今水を……」
「医者はまだか」
「まだですよぅ、旦那。隣の村から引っ張り出してくンですっから」
「はぁ~」
木の軋む音がする。
なんとか顔をそちらへ向けると、粗末な木の椅子にシルバが立膝をして座り、片手で顔を覆っていた。
目の端にはドアの向こうへ消えるスカートが見えた。何処かへ向かっていく足音と交代に、小さな足音がバラバラと向かって来る。
「コラ! 行ったらダメ!」
女の怒鳴り声よりも早く、三人の子供たちが部屋を覗き込んだ。
フリージアは瞬きして、咄嗟に子供達を怖がらせてしまう、と、仮面を気にした。
大抵、子供は彼女の仮面を見て泣くのだ。
けれど、今はもう―――。
「おい、入って来るな」
シルバが部屋に入ろうとした子供達を止めた。
子供たちは言う事を聞いて踏み出しかけた足を止め、シルバを見る。
「病気なの?」
「そうだ。うつるといけねぇから、あっち行ってな」
「お兄ちゃんはうつらないの?」
「ああ。俺は強いからな」
シルバが自分やナズナへするのとは全く違う、優しい口調で子供達へ返事をするので、フリージアは驚いた。それから、チクンと傷付いた。
「ホラ、アンタ達! お外で遊んで来なさい!」
女が水差しと木の器を乗せた盆を持って、部屋へやって来た。
太い腕に、くたりとした布を引っかけている。
「やだー」
「おじょうさま、みるー」
「駄目! お嬢様は今から汗を拭くから」
言いながら、女はフリージアの傍に寄って来て、彼女と目が合うと微笑んだ。どっしりとした大きな女で、吊り上がった濃い眉が頼もしい印象だった。
シルバが立ち上がって、ベッド脇の場所を開けた。
「医者は」
「まだですってば……夕にはきっと」
「はぁ~……自分で行きゃ良かったぜ」
シルバが悪態を吐くと、女がカラカラ笑って木の器に水を灌ぐ。
「医者なんてそうそうどの村にもいませんよ。早めにベッドに寝かせて差し上げれて良かったじゃないですか」
「……村長はアンタらに幾ら保証した? 満足いく額だったか?」
シルバが声を落として言った。その声には温かみと気遣う様子が混じっていた。
女は「率直なお方だねえ」と、器の水に浸した布を絞りながら彼の方へ顔を向ける。
「このホクホク顔が見えませんか? 乳牛を一頭よこしてもらえます」
「牛かぁ」
「乳を売れます。頑張れば末の子まで塾に行かせれますよ」
「……そうか」
「旦那はお若いけど偉い人なんでしょう? これから、うちの子のどれかが勉強して万が一出世したら、よろしくお願いしますね」
「おぅ、覚えとく」
シルバは頷いて、まだ部屋を覗き込んでいる子供たちの傍へ行くと「がんばれ」と頭を撫でた。
子供たちは嬉しそうな声を上げて、彼の腕に絡みつく。
「兄ちゃんあそぼー」
「コラ!」
「良い。これから着替えだろう。妹をよろしく頼む」
濡れた布で顔を拭いて貰いながら二人の会話を聞いていたフリージアは、一旦子供を待たせて近づいて来るシルバをぼんやり見詰めた。
ここまでの道中でナズナを相手に火を吹く獣の様だった男と、今のシルバが同一人物だとは受け入れ難い。「これも夢の続きなのかしら?」と、思っていると、シルバが寝ている彼女に覆いかぶさるようにして頬を寄せた。
「!?」
「長旅をさせて悪かったな、医者が来るまで休めヘリアンサス」
驚いて微かに動こうとするフリージアに、シルバは肩を擦る様に見せかけてグッと押さえ付けて来た。
シルバはフリージアの頬にキスをして、吐息に紛らわす様に囁いた。
『余計な事言ったらコロス』
惜しむふりをしながら身体を起こすシルバの顔は、フリージアにしか見えない。
世話を焼いてくれる女にも、子供達にも、優しくフリージアに接する彼の背中しか見えていないのだ。
彼は冷酷な微笑を彼女に向けて、無言で唇を『な』『ず』『な』と、動かし、自分の首に親指を添えて鋭く横に動かした。
―――余計な事してみろ、お前も野郎もブッ殺す。
「じゃあな、ヘリアンサス」
そう言って、シルバはくるりとフリージアに背を向けた。
子供たちが彼に駆け寄って、服を引っ張る。
「あそぼー!」
「おう」
「兄ちゃん、なんで目が赤いの」
「知らねぇ。兄ちゃん、顔洗いてぇな。水場教えてくれ。水遊びしようぜ」
「いーよー!」
そんな風に喋りながら、子供に手を引かれてシルバは部屋を出て行った。
残されたフリージアは、青い顔で天井を見ていた。
女が笑顔でフリージアに
「良いお兄様ですねぇ、お嬢様」
と、言った。
「さあ、身体も拭きますね。あら、男物を着て……女の子の長旅は大変ですねぇ」
フリージアはされるがままになって、黙っていた。
どうせ熱のせいで会話なんかまともに出来そうにない。
*
女はフリージアの身体を拭いて、用意してくれた服に着替えさせてくれた。
それだけでフリージアは見違える程美しい少女に変わった。
「あのお兄様だものねぇ」
女は満足気にフリージアを見る。
そして髪に手を伸ばす。
「髪も洗ってしまいたいねぇ。きっと気持ちいいですよ。こんなに汚れてしまって何が付いてるんです?」
父の血です。
そう答えようとして、フリージアは口を噤んだ。
シルバの冷たい冷笑が、頭の中を過ぎって消えたのだ。
ちょうどその時、カーテン越しの窓の向こうで、子供達とシルバの笑い声が聴こえて来た。
「あら、良く遊んでいること! 本当に良いお兄様ですね」
―――あなたは、子供と一緒に笑う人なのね。お世話になる方への、お礼が満足なものか心配をする人なのね。それなのに、わたくしには……。わたくしは、そうして頂ける人間じゃ、ないのですね……。
心が傷ついて、泣き出しそうだった。
でもきっと、泣く資格も無いのだろう。