仮面の姫
後書きに頂き物のイラストが載っています。
小さな庭が、息を潜めていた。小鳥にすら歌うのを禁じて。
咲く花々は空へ向けて色と香りを放つ様に花びらを広げ、咲き乱れていた。
生い茂る蔓草は縦横無尽に庭を覆って緑を滴らせている。
庭ではつい先程、中央の小さな池に浮く一凛の百年花が枯れた。
百年花が枯れるのを、一対の若い男女が見守っていた。
どちらも雄々しく溢れ返る庭の色彩に、透けてしまいそうな程儚げだ。
色あせた花びらが散り、弱々しい小舟の様に水面を彷徨うのを、小鳥たちが愛らしい小さな目玉で見詰めている。
「愛していました」
と、男の方が唇を微かに動かして囁いた。
女は頬の滑らかな曲線の上に雫を伝わせ、頷いた。
花びらの小舟が全て水の中へ溶け沈んだ。
池がボコボコと泡立ち、赤い液体が一筋吹き出し始めた。
赤い液体は、吹きあがりの頂点で散り、まるで一凛の深紅の花のよう。
男女はそれを浴びながら、深紅の花を老人の様な瞳で見上げていた。
はぁ、と、霊的な誰かの満足気な溜め息が木霊した。
木霊の余韻が消えるまでには、二人は真っ赤に染まっていた。
「さよなら」
男がそう言ったので、女はゆっくりと瞬きを一つして裸足の足を一歩踏み出した。
彼女の裸足に草花が絡まると、美しい花束模様の刺繍靴となって煌めいた。
女は庭を出て行った。
あとに残された男の脚が、地面に埋まっていく。そしてそのまま根になり茎になり―――。
庭はこの時を待っていた。
息を潜め、新しい花が咲くのを。
*
さようなら。本当に。辛いけれど。さようなら。
愛しています。覆したいほど。
*
あらゆる長所を持ち合わせた大都の宮殿で、女の重い呻き声が十数時間にわたり響いていた。
宮殿の主は使用人の誰も彼もがバタバタと忙しなく走り回る中、騒がしさから少し離れた礼拝堂で、己の神に祈りを捧げていた。
そして今正に、祈りが届いた。
礼拝堂の大きな両扉が音を上げて開き、使用人頭が顔を涙で濡らして駆け込んで来たのだ。
「お生まれになりました!」
「そうか!」
宮殿の主は祈りを止めて、顔を上げた。
「姫様にございます。おめでとうございます……し、刺繍靴を……刺繍靴を、履いておられます……!!」
絞る様に全てを報告すると、使用人頭は膝から崩れ、床に突っ伏して泣き始めた。
宮殿の主は礼拝堂に祭られた女神像を仰ぎ見て、目を潤ませ声を震わせる。
「そうか……、そうか!!」
「はい、陛下、陛下……!! ……刺繍靴を履いておられます……陛下、陛下……」
「うむ。これで我が国は更に飛躍する事だろう」
宮殿の主は泣き濡れる使用人頭に大きく重く頷き、厳かに雄々しい声で祈りを上げる。
「百花繚乱の主よ、茨の剛腕で我が一族を抱き続け給え……!!」
「百花繚乱の主よ、主よ……!」
使用人頭は主の祈りに呼応して、手を握り合わせ平伏した。
宮殿の外から、刺繍靴の姫の誕生を祝う群集の歓声が聴こえ始めた。
何も知らない群集の起こす、歓声は遠雷に似ていた。
*
刺繍靴の姫は大切に育てられた。
しかし、人の子として大切にされたかと言えばそうでは無かった。
姫は始終長いローブを着せられ、まだ幼い小さな顔に仮面を着けられていた。仮面は彼女の形の良い眉や潤んだ大きな瞳、通った鼻筋、珊瑚色に艶めく愛らしい唇さえも隠し、無表情に金銀宝石を散りばめ冷たくチラチラと光っている。
仮面の後頭部にはカギ穴があった。つまり、自分では取れないのである。
そのお蔭でたっぷりとした豪華な食事も、仮面を外せる自室で毎日毎食一人で取るのだった。
六歳の頃に一度、皆と食事をしたいと父に願った事がある。
願いは意外にも受け入れられ、幼い姫は胸を高鳴らせて食堂へ向かった。
この晩餐は、母親と兄弟たちとの初体面でもあった。
皆席についていた。
姫の鼓動は爆発しそうだった。
仮面越しに見る母親はとても綺麗な人で、けれど、悲しそうだった。姫はとても嬉しいのに。
仮面越しに見る兄弟は、聞かされていた通り、四つ上の兄と、三つ上の姉と、二つ下の妹。
姫は立派な兄弟たちにお辞儀をしたけれど、兄と姉は顔を寄せあい、羽扇の向こうでクスクス笑った。
妹は姫の仮面に怯え泣き出して、食堂を退席した。それで、母親も付き添って退席してしまった。
長テーブルに用意された彼女の席は、父の隣の上座だった。
しかし、その席は高い天井から黒い幕が降ろされ、囲われていた。
その後のことは、カチャカチャ鳴る食器の音くらしか覚えていない。
その日以来、姫は一言も皆と食事がしたいと言わなくなった。
独りぼっちの仮面の姫は、度々宮殿の庭園に逃げ出し、豊かに生い茂る花樹の隙間を借りて刺繍をする。
庭園の花樹に囲まれていると、固い孤独感が和らぐ気がした。
彼女はサイズの合わない仮面を気にしながら、無心で庭園の風景を布へ縫い付けて行く。
風景の切れ端を沢山作って、寂しい部屋へ庭園を持ち込むのだ。
ここでそうして過ごす時間が、姫の心の癒しだった。
年に見合わない熟練さで姫は針を進める。土台の布に刺繍糸が忙しく模様になって行く。今日は彼女の目の前に群がって、紫色の雲の様に咲いているヴィラの花だ。
熱心に針を進めていると、ふいに手先に影が掛かった。
ハッと見上げると、子供ながらに整った優しい顔の少年が彼女の刺繍を覗き込んでいた。
姫は少年の微笑にホッとして、仮面の下で微笑んだ。
「こんにちわ、ナズナ。午前中に見つかるとは思わなかった」
広大な庭は、隅々まで見て回るのに数時間は掛かる。
誰にも居場所を教えずに庭へ入ってしまえば、運が良ければ昼下がりまでは誰にも見つからずにいられた。けれど、この少年からは長い事隠れられない。
彼は庭師の父にくっついて度々庭園へやって来る子供で、身分は格段に違えど幼馴染の様に姫と仲良くしてくれる少年だった。彼は姫以上に庭園に詳しく、姫を見つけるのが上手かった。
姫が宮殿を抜け出したら彼に頼めばすぐだ、と使用人たちの間では言われているほどだった。
姫はそれが残念で、しかし反面嬉しい。
少年が行儀よく彼女の傍へ両膝をつき、柔らかく微笑み頷いた。
「僕、姫様のいる場所までの道が見えるんですよ」
「い、いやな事言わないで。でも、良いわ。ナズナはわたくしの邪魔をしませんものね?」
ナズナと呼ばれた少年はふんわり笑う。深い鳶色の瞳の中に、無表情の仮面が映っていた。
「はい。しません。午後のお茶までは、ですよ、姫様」
彼に微笑み掛けられると、少女の胸の奥に暖かいものがポッと灯る。彼から滲み出る優しい空気が、少し泣いてしまいたいくらいの甘い安心感を彼女に与えていた。
「姫様、今日はヴィラですか」
「そうなの。ヴィラは仲良く集まって、でもおしとやかで素敵だと思うわ……どうかしら」
「とても綺麗です。姫様は風景を切り取って刺繍するのが本当にお上手ですね」
手渡された刺繍を眺めてナズナが感嘆の声を漏らした。
「い、糸をね、糸を……」
少女は褒められて声を上ずらせ、そうなってしまった事を恥じて尻すぼみに言葉を止めた。
感情を乗せて喋り過ぎるのは、女として恥ずかしい事なのだと生まれた時から教えられていた。
だったらきっと、堰を切ったように喋ってしまいそうになるのは抑えなくてはいけない。
でも、途中で押し黙ってしまうのは、自分が上手く説明が出来ない拙い子供みたいで結局バツが悪い。
刺繍で頑張ったところ、工夫したところを説明する為に糸の束を持ちあげた両手を、彼女はそっと膝の上に降ろした。
急に黙ったりして、変に思われるに違いない。でも良い。ナズナは庭師の子供で、私はこの国の皇女なんだもの。彼女はそんな事を思った。
もしもわたくしを笑ったら――――
一瞬、考えて彼女はすぐに止めた。
居た堪れなさに憤り、被害妄想で八つ当たりめいた意地悪を考えたけれど、彼には頭の中でさえ手出しできない。
ナズナはわたくしにこの場所をくれる。心がホッとする居場所を皆に告げ口したりしないし、他の子供達の様に仮面を不気味がったり、ヘタにへりくだったりベタベタしない。
ナズナとお喋りをしていると、わたくしはわたくしになれる。
仮面の下で瞳を揺らしていると、ナズナが彼女の膝の上の糸束の幾つかを手に取って(『失礼』と言うのを忘れなかった)しげしげと眺めながら言った。
「質感の違う糸を使ったんですね。花びらの優しい光沢の部分……」
彼女は救われた気分で小さく何度も頷いた。
「そうなの」
「当たりました? ええと、それから……」
なぞなぞに挑戦する様なナズナに、彼女は微笑む。彼にその微笑みは見えないけれど。
彼は彼女の代弁を担ったりしない。そうではなくて、彼女と同じものを見ようと目線を揃えてくれる。彼女はそれが嬉しい。
「紫でも、沢山の紫色を使ったんですね」
「うん。使ったの……沢山」
「姫様は凄いです」
熱っぽく尊敬を込めてそういうナズナに、彼女は向き直った。
「……あのね」
「はい?」
「わたくしを姫様って呼ばないでほしいの」
「え、どうしてですか?」
「ここでこうしている時は、お友達でいたいの」
「でも」
「呼んで」
迷いを見せるナズナに、自分の真剣な瞳を見せる事が出来れば良いのに。
彼女は、ふと息を吐いて、そっとナズナの手を取った。
庭師である父親を継ぐ為のナズナの手は、子供ながらにがっしりしている。それでいて繊細だ。
この手はいずれ、この庭園の花樹を隅々まで知り尽くし、巧みに従える手になる。なんて素敵な手なんだろう、と彼女は思う。
キュッと握ると、彼の手は少し汗ばんでいた。
「ナズナ、暑いの?」
太陽が真上に来ていた。だから、彼女は純粋にそう尋ねた。
ナズナは彼にしては珍しくニヤッと笑い、微かに首を横に振ると、唇を動かした。
「フ」
彼が年の割に、大人びたかすれ声を出した時、正午を知らせる鐘が鳴り響いた。
鐘は五重の音色を辺り一帯に響かせて、ゆっくりと鳴り続ける。
けれど、彼女はその荘厳な音が聴こえなかった。
ナズナの唇の動きしか、聴いていなかったのだ。
『リー』
『ジ』
『ア』
『ありがとう』『うれしい』と彼女は返す事が出来ない。言葉にしたくない。仮面なんかどうしてつけなくてはいけないのだろう。喜びを無言で表す方法は?
仕方がないので、フリージアは小さく『はい』と、囁いた。
鐘の音の余韻が消えて行く。この時間を連れて。