世界は幾度も繰り返す
『我思う、ゆえに我あり』――ルネ・デカルト著「方法序説」より
何度聞き、そして何度頭に思い浮かべた言葉だったか。
己の目にする全てが、己の触れる全てが、果たして本当にそこに存在しているのか……幾度となく考えた。
普通の人ならば深くは考えないのだろう。
――もしかしたら自分以外の全ては幻かもしれない。でも、気にしたところで仕方がない。
そういってすぐに思考を停止。別の思考へと移行するのだろう。
しかし俺は人と違った。違ってしまった。
我思う、ゆえに我あり。
この言葉を知り、この考えに触れて、俺は深く深く思いを巡らせた。
深く深く深く。
考え、悩み、想像し、夢想し、真実を求めた。
誰も知らぬ答えを。
誰も見られぬ現実を。
誰も辿り着けぬ真理を。
追求し、追究した。
そして――遂に出逢った。
――この世の真理、そして真実に。
そこでやっと思い知った。
俺は愚かだった。惨めだった、と。
何故、求めてしまったのか。
何故、望んでしまったのか。
後悔先に立たず。
悍ましいまでの苦痛を伴い、己の身に刻まれた。
真実など知ってしまえば何てことはない。
全ては虚無に還った。
ただ、それだけ。
元々目にしていた景色は、耳にしていた声は、音は、その尽くが無であった。
真実は己のみ。
それ以外、何も……何も無かった。
我思う、ゆえに我あり。
だが、それだけ。
たった、それだけ。
真実は空しく、真理は虚しい。
色は白とも黒ともつかず、
音は発狂しそうなほどになく、
人はおろか、動植物もいない。
叫び回る俺を気に掛ける存在はなく、
咎める者もまた皆無であり、
血反吐を吐いて泣き喚く俺に手を差し伸べる者も、
そしてただの一瞥をくれる者も、また皆無である。
俺が存在するのは自明。
しかし他の全ては虚偽。
真理を知ってしまえば、望むのは一つだった。
それは他者の存在。
他者とは人であり、鳥であり、草であり、果実であり、犬であり、熊であり、空気であり、騒音であり、音楽であり……しかし全てが贋物であった。
だから創り始めた。
幸い時間だけは掃いて棄てるほどにあった。
いや、時間と言う概念は無かったが、創ってしまえば何と言うことはない。
世界を創り、
空気で覆い、
植物を植え、
動物を生み出し、
人を形作る。
数千、数億の時を経て、俺は創る。
ひたすら創り続けた。
そして俺は再び気付いた。
「ああ……」
遅すぎる真実に。
――全ては自ら創り上げたものだったという事実に。
道行く人も、
空を飛び交う鳥も、
風に揺られる花も……全ては偽り。全てが幻。
何と空しく悲しいことか。
ここには嘆く俺に手を差し伸べる者も、冷ややかな視線を向ける者も――あれだけ望んだ他者が、居るというのに。
はじめから、あらゆるものの始まりから。
何もかもが偽りだった。
それを知った俺は思い知る。
己の無力を。
他者の無意味さを。
そして俺は埋没するのだろう。
己の創り出した世界へと。
そして俺は忘れていくのだろう。
己の創り出した真実を。
そして俺は求めるのだろう。
己の忘れ去った真理を。
こうして――
――世界は繰り返されるのだ。
思い付きで何となく書きました(2回目)。