薫香
「あー、次のバス20分もあとやんかぁ」
煤けたように黒ずんだ時刻表を覗き込んで、彼女は素っ頓狂な声を上げた。現在時刻は21:45、街が寝静まるにはまだまだ早い時間だけれど、各駅電車しか停まらないような駅のロータリーに人影はない。
「終バス間に合っただけ良かったやん」
俺が言えば、彼女は肩をすくめてみせる。赤い水玉のミニワンピースに麦わら帽子、蛍光灯の灯りはスポットライト。一昔前のアイドルみたい、なんて言ったら怒るかなぁ。
隣に本日の戦利品を置いて、彼女は軽やかにベンチに腰掛ける。ねぇ、そこ俺の席じゃないですかなんて、心の中で色とりどりの紙袋に悪態をついてみた。でも実際に押しのけてやるほどの気概もなく、時刻表と肩を組んで彼女の脇に立つ。すると彼女は大きな瞳をくるりと回して、首を傾げる。
「一緒に待っててくれるん?ありがとう」
「どうせつき合わすつもりだったくせに」
彼女が到底自転車に積んで帰れない量の買い物をすることも、そんでもってバス待ちに付き合わされることも、出かける前から大方予想は出来ていた。一年プラスαの付き合いは、彼女が存外わがままで小狡いことを俺にしっかり教えていた。ついでに言えば、それを繕わない彼女の気持ちよさも。
「もうだいぶ涼しなったな」
「そやんなぁ」
夏の終わりの空気からは仄かな秋の匂いがする、夜は特に。日々少しずつ風が乾いていく。空の色が原色から淡くなっていく。気に入っている薄手のTシャツはもうしばらくで戦力外通告かもしれない、彼女の赤いミニワンピも。冬になったら、彼女のお気に入りは白いニットと黒いロングブーツに交代だ。
「涼しいとゆうか、もうさむい!」
ほら、案の定。彼女は自分の腕を抱いて身を震わせた。
「しゃーないなー」
時刻表に絡めていた腕をするりと解く。そのまま彼女の外套代わりに、背中に覆いかぶさってやる。彼女のコーティングしたような茶色の髪の根元の黒がよく見えた。
「あったか」
「そやろ」
腕の中の彼女はころころと笑って、俺の手を弄ぶ。指の関節をとんとんたんたんと軽く叩かれる。人差し指、中指、薬指と順に彼女の指がリズムを乗せる。なんの意味もないその動作に、彼女がまた笑う。俺もつい口の端を緩めた。
「あー、親に連絡せんと」
小さなハンドバックから取り出されたスマホの白い灯りは彼女の顔を照らす。ふと目に入ったロック画面には、笑顔の彼女ともうひとり。よく焼けた肌と意志の強そうな瞳が印象的なそのもうひとりにも良く見覚えがある、高校に入って初めて出来た友達。俺の親友。1年のクラス、出席番号ひとつ前の彼。ついでに言うなら、彼女は出席番号ふたつ前だった。
「相変わらず仲よさそうやな」
茶化すように言えば、彼女はゆるりと破顔した。
「そんなことないわ」
表情と裏腹のその台詞は、甘い響きを隠せていない。
「今日買ったネックレスなー、あいつにあげるん」
「せやろな。君の趣味と違うやん」
頭に浮かべるのは、偽の革紐に金のリングがかかったネックレス。彼女が手にとって数秒固まってからカゴに入れたものだ。
「半年の記念日か」
「そう。よぉ覚えとるね」
今から半年と少し前、季節は桜の蕾に色が灯る頃だ。1年のクラスが終わるその日に、俺の2人の親友は恋人になった。お互いの気持ちに気付いていないのは本人たちだけといった様子で、さんざ周りをやきもきさせた結果だった。俺が最初にパイを投げた。顔面をクリームでどろどろにして2人が笑った。俺も、笑った。
「もう半年も経つんやなぁ」
しみじみ、と吐いた言葉は空気に溶けた。
「そやねぇ」
彼女も言った。夏の終わりの空気の匂い。湿った土に似ていると思う。
あの日の空気からはもっと違う匂いがした。
とにかく春というのはそこら中に花が咲いているもんだから、往々にして甘い匂いに満ちている。でもそうだな、きっとあの日の香りは桜のそれだ。
「バス、まだかなぁ」
向かいのビルにはまだ人がいるようで、黒い長方形から所々切り取ったみたいに窓が明るい。一人でこの駅を使うのは決まって雨の日だから、乾いたロータリーは物珍しく感じる。
彼女が軽く身をよじらせた。振り向いた彼女と視線がかち合う。猫みたいな大きな目。パッチリした二重にくるんと上向きの睫毛。彼女が瞬きをすると星が弾けそうに思えた。つい、逸らす。見つめ合っていたのは本当に数秒のことで、彼女は俺の背後の駅の時計を確認して「あと5分くらいやな」と言った。その手の中にある小さな電子端末が時計代わりになることを知らないわけでもないくせに、今のは絶対わざとだ。
2人で遊ぶことを彼に隠すようになったのはいつ頃からだろう。彼と彼女が恋人同士になったあの日のことは隅々まですっかり覚えてるのに、自分と彼女のことは存外曖昧だ。ただなんとなくそっと家を出て、そっと彼女とあって、囁きあうように会話をするような休日がいつの頃からか始まっていた。
断じて浮気じゃない、と、思ってる。
抱きしめるのも、可愛いと思うのも、友達同士だってする。から。
「そろそろさよならやね」
ただ敢えて。すっかり変わってしまったことも、1つだけ挙げられる。
スッと五臓六腑が落下していくような感覚と同時に、そう思う。彼女が発したその台詞が、心臓の管に冷水を流し込む。そうだ、前はこんなことなかったんだから。俺の腕にコテンと首をもたげる彼女は、それに気づいているのかな、気づいていないのかな。
「うん、"また"、やな」
震えないように唇を噛みながら絞り出す。馬鹿みたいだと思う、こんな小さなことにこんなに怯えてる自分は、滑稽だと思う。
彼女と彼が付き合ったって、俺は笑って2人と一緒に居る。日常は緩やかで、穏やかに過ぎていく。きっとそれは3人で「友達」だったときとおんなじだ。でもそう、すっかり変わってしまったのは、
「さよなら」って言葉が怖くなったってことだ。
あの日から少し経って、昇降口で靴を取り出そうとしていたとき。横をすり抜ける彼女に手を振りながら、その言葉が口から出なかった。音の出し方を喉が忘れてしまったみたいで、吸った息は意味を持つことなく吐き出された。彼女は気づいたかな、気づかなかったかな。きっと気づかなかったんだろうな、だって彼女は当たり前のようにその言葉を俺に告げるから。
『さよなら』
彼女はそう言う。あんまりあっさり。
だから、俺はこう返す。
『またね』
明日も明後日も、ねえ、変わってしまわないでって。
「あ、バスきよった」
彼女が道路の向こうに微かな灯りを捕らえた。信号待ちに詰まっているらしい。少しして、信号の色が青くなる。それを合図に鉄塊の波はずるずる動き出して、ひときわ大きなそれもこちらへと向かってくる。円形のロータリーに入ってきたバスが、ゆっくりと目の前に止まる。
「待っとってくれてありがとう」
彼女がするりと俺の腕を解いた。あ、と小さな声が口から漏れた。彼女はたくさんの紙袋を器用にまとめて、両手に抱える。立ち上がった瞬間、スカートがひらりと揺れる。
ぷしゅーと間抜けな音を立ててバスの扉が開いた。中途半端な時間のバスにはちらほらと人が乗っているだけで、空っぽの車内がよく見えた。彼女が、振り返る。手を伸ばせばすぐに、また抱きしめてしまえる距離だ。薄紅色の唇が優しい声でその響きを紡ぐ。
「さよなら。」
どくんと、耳の奥で音がする。鼓動が途端加速する。喉の奥に何かつっかえている。さっき落下した五臓六腑に今度は尽く穴をあけたみたいだった、その穴から空気がひゅうひゅう漏れていく。あぁばか、ばか。逃げるな酸素。
彼女に悟られないように、と思った。落ち着かないといけないと思って、深呼吸をした。
それが間違いだった。
ちょうどバスの扉のほうを向いた彼女の髪が、鼻先を掠めた。その香りがもろに鼻腔をくすぐった。むせ返るような甘い香りがした。あの日の香りだ、あの、桜の。
思って、そこからは一瞬だった。
彼女が階段に足をかけようとしたところで、その右腕を捕まえる。細い手首はあんまり強く掴むと折れてしまいそうだったけど、いっそ折れてしまえとさえ思った。息が苦しい。彼女のさよならの反響と桜の香りで、脳幹が痺れている。彼女がなにか言った気がするけども聞こえなかった。酷い心拍音が鼓膜の役割をすっかり奪い去っていたから。
引き寄せる。
彼女の小さな薄紅色を、自分のそれに重ね合わせる。
瞬間痺れも心拍音もすっかり治ってしまった。静かに冷めていく熱が、いや、冷めていくのとは違うな。ただ合わせた唇に熱が収束していくから、きっと他のところが冷えていっているだけだった。
(あぁ、理性が飛ぶって本当にあるんやな)
胸の内で唱えた言葉は、率直な感想だ。なぜか周りの音はよく聞こえて、景色もよく見えた。数少ない乗客と運転手がえらく迷惑そうな顔をしている。バスのエンジン音が空気を震わせている。彼女は目を見開いている。
「...っ」
どのくらい経ったのかわからない。本当に数秒だった気もするけど、お互いの肺が空っぽになるくらい長々とそうしていたような気もする。ただようやく離した唇からは、淡々と熱が逃げていく。
「え、いま、」
彼女は頬を紅潮させて、肩を上下させていた。秋の始まりの風は冷たい。
「ごめん」
唇から刻々と熱は奪われて、そうすると、もう思考と認識の温度が引いていく。
「..ごめん」
視界の端が涙に溶けた。あぁこのまま、さっきのように、もっかい思考まで溶けちゃえばいい。そう上手くいかないこともわかってて、勢いよく目を擦る。顔を上げれば、しびれを切らした運転手が俺と彼女の間の扉を閉めてしまったところだった。
彼女の表情。眉を下げて、困ったように、あぁでも狡い。今更そんな、驚いたみたいな表情するのはきっと狡い。でもお願いだから、そんな顔しないで、いつもみたいな顔をして。
なんにも気にせず、さよならって言って。
「...あ」
手を振って、言おうとして、気がついた。言おうとした、「またね」って。でも喉は、今度はその発声まで忘れてしまったって管を閉じる。またね、のまた、が来るとき、そこに今までと同じものはもう無いってわかっていた。必死に築いていた「変わらない」は、ついさっきの一瞬で完全に崩れてしまった。
「..あ、」
バスはひとつエンジンをいななかせて、いよいよタイヤを回しだす。路面を滑るように遠ざかる。彼女はまだ、こちらを見ていた。けれどもその表情は暗くてもう見えない。
「さ、よ、」
ああダメだ、馬鹿じゃないのか。またねって言える関係を壊したのは自分の癖に、此の期に及んでまだ言えない。彼女のみえない表情が遠ざかる。ああねえ、どんな顔してるの。まだ困っ顔してるの。それなら、ねえ、それはだめだ。きっとこんな表情してる俺が言えたことではないんだけど。
さよならとも、またねとも言えない俺のことを、
「どうかあなたは笑って」
遠ざかったバスはもう通りに消えていた。そこにはまた車の流れがまるでいつもと同じに出来ていて、信号はまた青になる。向かいのビルの電気はまだ消えないし、バスのロータリーは相も変わらず乾いてる。
嗚呼、でも、嫌だな。
日常の瓦解する音がする。
友人の実体験を脚色したもの。
読んでくれた子に「きみは恋愛もの向いてないな」と言われた作品、感情の機微が見えにくいらしい