静城結子 - 1
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静城結子がこの世に生を受けたとき、彼女は既に孤独だった。
物心のついたときから家族はおらず、いつの間にか自分の帰る場所になっていた養護施設でも、親しい者はいなかった。
結子が分かっていたことは二つだけ。一つは空腹を満たしさえすれば生きていけるということ。もう一つは自分の名前が「静城結子」だということ。
朝、養護施設で出された乾いたパンを無理矢理胃に押し込み、学校へ行く支度を整える。他の子供たちは何やら談笑に花を咲かせているが、意味のある会話には思えなかった。
学校は大嫌いだったが、知識は身に付く。いずれ何かの役に立つだろうと、結子は懸命に授業へ取り組んだ。だが、そんな彼女の努力を嘲笑うかのように、厄介事はいつも向こうからやってくる。
休み時間、次の授業の予習をしていた結子の後頭部に何かがぶつかった。振り向くと、足元に紙飛行機が落ちている。
「うわっ、オヤナシに当たった!」
「きったね! おいオヤナシ、責任持ってそれ自分で捨てろよな!」
紙飛行機が飛んできたであろう方向に目を向けると、同級生の男子たちが癇に障る声でそう罵ってきた。
これは一度や二度のことではない。彼らは結子が養護施設の子供であることを知り、事あるごとに「オヤナシ」と呼びちょっかいをかけてくる。初めのうちは無視を決め込んでいれば飽きるだろうと思って放置していたが、どうやらそううまくはいかないようだった。
こういうことは、暇で頭の弱い人間のやることだ。頭の弱い人間に新しくものを教えるのは難しく、面倒だ。どうしたものか──と、結子は考えた。
「無視してんじゃねーよ!」
無表情で自分たちを見つめる結子に腹が立ったのか、しびれを切らした男子の一人が結子に近付いてくる。そして、こちらを突き飛ばそうと少年が手を伸ばしてくるが、結子はその手首をしっかりと掴み返した。「えっ」と驚きの声が上がる。
「やめて、殺すよ」
普段と変わらぬ声色で結子がそう口にする。手首を握られたままの男子は、言われたことをよく理解していない様子だ。
「は?」
「私の邪魔するなってこと」
「意味わかんねーんだよ!」
少年は力任せに結子の腕を振り払おうとしたが、接着剤でも付いているかのように、結子の手は少年から離れない。この年齢の結子は力がなければ生き残れないことも知っていた。
「もう邪魔しないって約束するなら離す」
「うっせぇ! 離せ!」
その言葉を聞いた瞬間、結子は少年の手を掴んだまま口で机の上の鉛筆を咥えた。そして、少年が状況を理解するよりも早く、咥えた「それ」で少年の目を貫こうとしたが──
「何をやっとる馬鹿者!」
いつの間にか教室へ来ていた中年の教員が、怒号によって結子の動きを止める。
「静城! お前は普段から勉強熱心でとても感心していたというのに、今何をしようとしていた!」
「いつもいつも嫌がらせをしてくる彼に、やめてほしいと伝えて──」
「いいから手を離せ! こっちに来い!」
教員は結子の言葉に耳を貸さず、乱暴な動きで結子を別室へ連れて行った。
結局、結子に嫌がらせをしていた男子たちにお咎めはなく、結子ただ一人が「問題児」として扱われることになった。バケツも持ったまま立たされたり、廊下の掃除を言いつけられたりと「躾」を施され、その間も結子の言い分が聞き届けられることはなかった。
下校の際、養護施設の施設長が迎えに来ていた。物凄い形相で結子を睨みつけ、それだけで結子は今日の出来事を伝えられたのだなと察した。
「お前のせいで他の子供たちが学校に行けなくなったらどうするんだ!」
帰宅した後、施設長も結子の話を聞くことはなかった。何か言おうとすると怒声によってかき消され、ただ罵声を浴びせられるのみ。管理人室は懲罰房と化していた。
「施設長」
「何だ! まだ話の途中だぞ!」
「なら私はどうすれば良かったんですか」
施設長の顔がますます赤くなっていく。茹でられたタコのようだ、と結子は思った。
「そんなことも分からないのか! だからお前はいじめられるんだ! いい加減にしろ!」
ついに怒りの頂点に達した施設長は、体罰を下そうと結子の体を取り押さえようとする。
なんだ、やっぱりそうなんじゃないか。養護施設の子たちは「優しいおじさんだ」と言っていたけど、何のことはない。皆同じだ。自分の許容範囲を超えたことが起こると、もっとも楽な手段──暴力に頼ろうとする。
私だって、そうだ。
結子はこちらに掴みかかる施設長の腕を逃れ、その手に思い切り噛み付いた。
「がぁ!」と醜い悲鳴が聞こえ、結子は追い打ちを掛けるように噛む力を強くする。
「ぎゃあああッ、ぎいいっ!!」
骨が砕ける音と共に、施設長は潰れた動物のような声を上げる。それと同時に大きく腕を振ったせいで、結子は思い切り突き飛ばされ壁に叩きつけられた。
咳き込みながら体を起こす結子を、鬼のような形相の施設長が見下ろしている。その気迫だけで殺されるのではないかと思うほどだ。
「許さん、許さんぞこのドブガキ」
翌日、結子は学校に行かなかった。寝ている間に知らない場所へ連れて行かれたからだ。狭く、窓もない薄汚れた一室。昨日、養護施設の管理人室が懲罰房のようだと結子は思ったが、こちらの方が断然それに近い。
どうしたものかと結子が部屋を見渡していると、入り口の鍵が外れ、二人の男が入ってきた。結子が声を掛けるよりも早く、男の一人が彼女を蹴り飛ばす。
重い痛みが腹部を襲い、結子は床を転げて壁に叩きつけられる。息ができなくなった。
「何でここに連れてこられたか分かるか?」
もう一人の男が屈んで声を掛けてくる。呼吸がうまくできないせいで、返答をしようしても声が出ない。
「あの養護施設はな、戦争が終わる前はお前みたいな問題児をこうやって躾けて兵士にする為の施設だったんだよ。戦争が終わっちまったから仕方なく養護施設になったんだ、そうしねぇと潰れちまうからな」
髪を掴まれ、無理矢理起こされる。今度は床に思い切り叩きつけられた。今の衝撃で鼻血が出たのが分かる。
背中を踏まれた。嘔吐したかのような声が結子から漏れるが、気にする者は誰もいない。
「俺たちが今やってるこれは、そのときの名残みたいなもんだ。『殺せ』と言われなかっただけ幸運だぞお前。いや、あの鬼教官のことだから、殺すより長時間痛めつけた方が効くと思ったんだろうなぁ」
あの施設長が本当は何者だったのか、この男たちは一体誰なのか、自分はどうなるのか、何も分からない。分からないまま、体はぼろぼろになっていく。吐いても、声を上げても、血を出しても、暴力の嵐が止まる様子は一切ない。
体中に鋭い痛みが走る中、結子は考えた。自分はどうすれば良かったのだろう。自分の邪魔をする者たち一人一人に、嫌がらせをやめてほしいと懇願すれば良かったのか。それとも、甘んじて嫌がらせを受け続ければ良かったのか。
違う、と心の中で否定する。そんな生き方をするくらいなら、ここで死んだほうがマシだ。本当は二人とも殺してしまうのが一番良いが、それは無理そうだ。
もういい、更に恨みを買って殺されてしまおう──そう結子が思った直後、部屋に一人の老人が入ってきて、低く鋭い声で言った。
「まぁだこったらことやってんのかお前ら」
部屋の空気が凍りつく。それまで結子をボロ雑巾のように扱っていた大柄の男二人が、その老人を目にした瞬間動きを止め、汗をかき始める。
古びた和服に、首の後ろで縛った長い白髪頭。その貫禄から、ただの老人でないことは子供の結子でも分かる。
「なん、何で」
「戦争が終わってちったぁ変わってんでないかと思ったが、なーんも変わっちゃいねぇ。こんなちっけぇ子供に二人がかりでよ」
「あんた戦争で死んだんでねぇのか!」
「馬鹿お前どこのどいつがそんな嘘こきやがったんだ。おい早く出てけ」
老人が顎で男二人の退室を促す。男たちは互いに顔を見合わせるが、部屋を出ていく気配はない。
「あんた、まだ自分がここをどうこうできると思ってんのか。現施設長がどれだけ力持ってっか知らねぇだろ? あんたみてぇな老兵はな、もうどこも必要としてねぇんだよ。家で正拳突きでもやってろや」
「何ぃ?」
男は強い言葉を使っているが、その声は震えている。明らかに相手を恐れているにも関わらず見栄を張る男の姿に、地に伏していた結子は疑問を抱いた。
そして、ふと入り口の方を見やると、施設長が金槌を手に老人の背後に立っているのを見つけた。
後ろ! ──そう叫んだつもりだったが、声を出そうとした途端咳き込んでしまい、その叫びは音にはならない。結子の気付きも虚しく、施設長は力任せに手にした金槌を振り下ろした。
結子は目を閉じてしまう。目の前の現実から目を背けてしまったのはこれが初めてだった。名も知らぬ老人が目の前で殺されてしまうのが、まさか自分が殺されることよりも辛いとは本人自身も思ってはいなかった。
風切り音。続く打撃音。それは金槌が人の頭蓋を割る音ではなかった。更に続く打撃音と、床に何かが叩きつけられる音。狭い一室に静寂が訪れた。結子は恐る恐る目を開ける。
「おう、全員くたばった。安心しな」
目の前に、粋な笑みを浮かべる少年のような老人がしゃがみ込んでいた。
そして、彼の足元には先程まで威勢よく振る舞っていた男たちの姿が三つ。
「あ、え──がふっ、ごほっ」
「無理してしゃべんでねぇ。きっと内蔵が傷付いてんだ」
そう言って老人は、軽々と結子の体を持ち上げる。不思議と抵抗する気にはならなかった。
「おいタキ、聞こえてっか。あの孤児院の支援者は月之世家になった。お前らはお役御免だ。ムショできっちり反省してこい」
タキ──施設長がうずくまったまま低く唸る。老人はそんな彼に目もくれず、結子を抱きかかえたまま薄暗い懲罰房を後にした。
翌日、養護施設の職員が総入れ替えになったことを結子は耳にした。あの後、結子はすぐに意識を失い、気が付けば病院で治療を受けていた。嘉山という医者がとても良くしてくれて、一週間も立つ頃には怪我は回復し、結子は再び養護施設に戻ってきていた。
だが、それは帰宅ではない。結子は施設に戻るなり、滅多に話し掛けなかった子供たちに声を掛ける。
「おじいさん? 見たことないよ」
「ううん、知らない」
「名前も知らないんじゃちょっとね」
結子はあの日、自分を救ってくれた老人を探していた。昔話の英雄のように颯爽と現れ、憎き男どもを圧倒したあの男を。
新しい職員にも声を掛けたが、誰も彼のことを知らなかった。職員たちは結子の体調を気にかけ、今後のことを話し合おうと言ってきたが、結子が耳を傾けることはなかった。彼女は施設を飛び出し、あの老人の姿を探す。
だが、勢いに任せて出てきたものの、心当たりなどあるはずもない。道行く人間に尋ねようにも、老人の名前すら分からないのだ。結子は途方にくれる。それと同時に焦りも生まれ始める。あの老人を知ってなお、今までの生活に戻らなければならないのか? ──そう考えるとぞっとした。
「折角元気になったってのになんちゅう顔してんだ」
あてもなく結子が寂れた公園の前を歩いていると、背後から聞き覚えのある声がした。反射的に振り向く。そこには、あの日と変わらぬ薄汚れた和服姿で立つ老人の姿。
「渉、ああいや、何だ。あの孤児院に金を出してる奴から、お前さんが出てったって聞いてな」
老人はゆっくりと結子に歩み寄り、彼女の顔を見つめる。
「なるほどなぁ。あんときゃお前さん、がおってたもんだから気が付かなかったが、こりゃ集団には向いてねえ。たんぱらの顔だ」
「たん……?」
「気が強いってことよ。どんな生き方してきたか話してみな」
「どんな生き方……」
「そうだ。一から聞かしてくれ。ああ、あっこで話すか」
老人は公園の中にベンチを見つけ、腰を下ろす。結子もその隣に腰掛けた。
探すのに必死で気にしていなかったが、今日はとても暑い。七月になったばかりだというのに、日は照り、虫の声もたくさん響いている。結子は額の汗をぬぐって空を見上げた。それから、これまでの自分のことを話し始めた。
「鉛筆でがきんちょの目ん玉を? 見ろ、やっぱりたんぱらだ」
老人は笑って聞いていた。結子がどんな話をしても怒ったり怪訝な顔をすることもなく、気さくな友達であるかのように、結子の話に相槌を打ってくれる。
結子はこれまでの人生で、とびきり長い間声を発していた。自分の話を他人にする気になったことなど一度もなかったが、不思議とこの老人の前では自然に言葉が出てくる。
そして、本当に自分の全てを話した。一体どれだけ長い間しゃべっていたのか、本人も分からない。もう話せることがなくなってから、やっと自分がしゃべり通していたことに気が付いた。
結子が沈黙したことに気付き、老人は一つ息を吐いてから温かな声で言った。
「がむしゃらに、生きてきたんだな」
結子は何も言わない。自分がどういう生き方をしてきたのか、自分でもよく分からなかったからだ。
「大人ってのは本当に大事なことはなんも教えてくれねえもんだ。あれは駄目だこれは駄目だってなことは頼んでもいねえのにべらべら言いやがる。だが正しい道を教えてくれと頼んだところで、今度はそんなことも分からねえかと罵ってくる。だからお前さんみたいに道を違える子供が増えんだ。戦争が終わろうがそれは変わらねえ」
老人は遠くを見ながら、本人らしからぬ老人らしい声でそう言った。結子は彼の顔を見つめる。
「道をたがえる?」
「そうだ。お前さんちょっかいをやめさせる為に、がきんちょを殺そうとしたんだろ。そりゃ間違った方法だ。だがお前さんは、それしか自分を守る方法を知らなかった。だからそれは、生き方を教えてやらなかった大人の責任だ」
結子は懸命に老人の言葉を理解しようとしたが、自分のこれまでの生き方が間違っていたということしか理解できなかった。
それに気付いて、結子は顔を伏せる。周りの人間からどれだけ汚い言葉を浴びせられても心が動くことはなかったが、隣りにいる老人にはっきりと自分の生き方が間違っていたことを指摘され、感じたことのない胸の痛みを覚えた。
急に自分という人間のことが嫌になり、後ろ向きな言葉を口にしようとしたそのとき、老人が大きな手で結子の頭を撫でた。
「よく今まで頑張ったなぁ」
胸の痛みをすっと引かせるような、優しくて温かい声。
その一言だけで、親の温もりを知らなかった結子に、必死に生きることだけを考えてきた結子に、新しい様々な感情が芽生え始める。
結子はもう自分の心が分からなかった。ただ、どうしようもなく溢れてきて、自分では抑えようのないものに結子は困惑していた。
「何だ、お前さん泣いたことなかったのか?」
困惑した表情が顔をぬぐう結子を見て、老人は柔らかく微笑む。
「そりゃ駄目だ。気持ちが落ち着かねえ。涙はだぁーっと出しちまったほうが良い。今までの分ぜーんぶ出しな」
そう言って老人は、隣にいる小さな結子の体を片腕で包み込んだ。とん、とん、と優しく肩を叩く。何もかも、結子がされたことのないことだ。
腕の中で泣きじゃくる結子に、老人は語りかける。
「名前、何ていうんだ」
結子は鼻をすすりながら自分の名前を口にした。
「そうか。ユイ、うちにくるか」
結子は黙って頷いた。老人はその答えを肯定するように、結子の頭を再び優しく撫でた。
「ゲン、何に気ぃ遣ってんのか知らねえが、お前さんも出てきて挨拶しな。新しい家族だ」
老人が唐突に物陰に向かって声を掛けた。何事かと結子は赤い顔のまま、そちらに目を向ける。すると、すぐ近くの木の陰から、学生服を着た自分と同じくらいの背丈の少年が姿を見せた。短く整えられた黒髪に、精悍な顔つき。「誠実」「真面目」などの言葉が似合いそうな少年だった。
「俺の息子だ。仲良くしてやってくれ」
老人がそう紹介すると、少年は結子の方を見て頭を下げた。
「須藤源次といいます。よろしくお願いします」




