抗う者たち - 1
ご閲覧ありがとうございます。
変わらない日常というのは尊いものだ。
退屈だと思うこともあるだろう。劇的な刺激を求めることもあるだろう。
それでも帰る場所は、自分が最終的に落ち着く場所は、いつまでも変わらないものであって欲しい、と私は思う。
だから、些細な違和感があっても気付かないようにしてしまうのかもしれない。
皆と過ごしてきた場所だから。自分が育った場所だから。
現実から目を背けることが如何に危険なことか承知のうえで、偽りの安寧に身を委ねたくなるときもある。
でも、そうした結果何年間も道化のように踊らされ続けてきた人間を、私は知っている。
だから、辛くとも現実と向き合わなければならない。
「こうして先生の授業を受けたのは、とても久しぶりな気がします」
私は座ったまま机の筆記用具を片付けながら、教材を鞄に仕舞う柿崎先生に向けてそう言った。窓からは少し傾き始めた太陽光が差し、それはあと二、三時間もすれば部屋を赤く染めるだろう。いつもの授業終わりの光景だ。
「そうだねえ。最近、いろいろ忙しいんだって?」
「ええ、まあ」
柿崎先生はいつもと変わらぬ、穏やかな老人のように微笑んで私を気遣った。人を安心させる彼の笑顔に、私もつい表情が穏やかになる。
「こんな立派な家の娘さんだし、僕には考えも及ばない悩みもあるんだろうけど、あまり気負いすぎてもいけないよ」
どこか寂しそうな、いや、それどころか悲痛にも聞こえる柿崎先生の声に、私は思わず彼の顔を見たまま固まる。
「って、僕が心配するようなことじゃなかったねえ」
はは、と苦笑する柿崎先生。
今の言葉は、果たして私に向けたものだったのか。それとも──。
「先生」
「ん?」
私は立ち上がり、窓の側へ行く。
「数年前、廻が父からの評価を得られず落ち込んでいた時期がありましたよね」
「ああ……あったね」
窓から庭園を見下ろす。いつ見ても手入れが行き届いていて、使用人たちの努力の跡がうかがえる。
「当時の私には何もできませんでしたが、先生があの子に優しくしてくれていたことを使用人たちから聞いていました」
私は振り返って、頭を下げた。
「ありがとうございます」
「ど、どうしたんだい、いきなり。私は教師として当然の振る舞いをしただけだよ」
「それが得難きことなのです。私たちの家庭教師が貴方で本当に良かった」
「綴さん……」
私の言葉を聞いた柿崎先生は、とても複雑な表情をしていた。嬉しいような、悲しいような、やるせないような、一言では表現できない、そんな顔だ。
「ありがとう、私も君たちの先生をやれたこと、光栄だったよ」
それでも柿崎先生は、何とか笑顔を作って私にそう言った。いつもの穏やかな微笑みとは、当然違う。
「でも、どうして急にそんなことを。お別れの挨拶みたいじゃないか」
苦笑する柿崎先生に、私は笑わずに返す。
「ええ、もしかしたら、今日でお別れかもしれません」
「え──」
彼は目を見開いたまま固まった。困惑よりも、驚愕という表現が正しい表情だ。
「私が多忙だ、という話を先程しましたね。その多忙な毎日に、明日決着をつけようと思っています。それが失敗すれば、先生との再会は難しいかもしれません。明日は土曜日。次に授業があるのは月曜日ですから」
私は具体的な内容には一切触れずにそう伝えたが、柿崎先生は私の言いたいことを理解してくれているようだ。先程から彼の表情に混乱は一切ない。だが、とても追い詰められた表情をしている。
「それは──それは、もしかして」
やっとの思いで、というように先生が声を発した。その声は少し震えている。
「君のお父上に、関係していることかい?」
そうであってほしくない、という顔だった。
ここで私が否定すれば、きっと彼はとても安心した表情をするだろう。心からの安堵を見せるだろう。
そうして、またいつもの日常に逆戻り。
偽りの安寧で、私は緩やかに滅びるのだろう。
そんなのはもう御免だ。
「その通りです」
柿崎先生の目を正面から見据え、私ははっきりと肯定した。
部屋に静寂が訪れる。秒針だけが規則正しく音を立てる中、私は柿崎先生が次の言葉を発するまで、ずっと彼の目を見ていた。
絶望とも言える彼の表情から、目を離さなかった。
「そう、か。それは、大変だね」
やっと発せられた柿崎先生の声は、掠れていた。空っぽで、意味を持たない言葉だった。
「ええ、大変です。とても。ですからどうか、私の勝利の祈って頂けると幸いです」
「ああ……そうだね」
掠れた声が再び返ってくる。抜け殻のようになった柿崎先生に、私はもう一度頭を下げた。
「では、また次の授業で」
そして、そのまま彼の横を通り過ぎ、部屋を出ようとする。
カチン、という音がした。私がドアノブに手を掛けた音ではない。その音は、私の真後ろから聞こえた。
私はゆっくりと振り返る。
そこには、私に拳銃を向ける柿崎先生の姿があった。
「すまない、すまない。綴さん」
なんて不自然な光景だろう、などと、他人事のような感想を私は持っていた。
あの穏やかで人を殴ったことなどなさそうな柿崎先生が、私に銃を向けている。それも、銃を向けられているのは彼の方なんじゃないかと思うほど、悲痛な表情で。
「何故、謝られるのですか」
「わた、ぼ、僕は……家族を、守らなきゃいけない。その為にき、君を、君に銃を向けて、君を止めなきゃいけない。そう、命じられているんだ。こ、こんな幼い子に、じ、銃を向けて、脅さなきゃならないんだ」
泣きそうな声で、柿崎先生はそう言った。手は震え、奥歯はカチカチと音を鳴らしている。誰がどう見ても、彼は怯えていた。
「娘が私の研究を阻もうとしたとき、この銃で娘を止めてください。冷静な判断を期待していますよ、柿崎先生」
「えっ!?」
私の言葉を聞いて、銃を構えたまま柿崎先生が驚愕の声を上げた。
「父にそう言われましたか」
彼は一瞬パニックを起こしかけたようだが、目の前にいるのが私だと再認識したのか、我を取り戻した。
「そ、そうだ。そうしないと、妻が、娘が、か、家族が危ない」
「そうですか……」
私は目を閉じ、ふぅ、と息を吐いた。
「石住井に食事を届けていたのは、貴方ですか。柿崎先生」
思いもよらぬ問い掛けだったのか、柿崎先生は少しの間硬直していたが、言葉を理解したあとはすぐに応えてくれた。
「あ、ああ。それも月之世さんに命じられたよ。よく分かったね」
「父の性格上、どうせ月之世家に関わりのある人間を使ってほくそ笑んでいるのだろうと思っておりましたので。そして、食事を届けられるほど時間に空きがあるのは先生だけだという考えに至りました」
朝、屋敷へ出勤する前に食事を届け、昼は私も食事を取るのでその合間に。夜はもう授業がないので当然時間に空きはある。
単純すぎる考えだと思いはしたが、どうやら当たっていたようだ。
「……すごい、な。やはり君は、月之世さんのご息女なんだね。でも――」
柿崎先生は拳銃を握り直した。
「き、君には、ここで止まってもらう」
「止まってもらう、ですか」
私は一歩、柿崎先生に近付いた。
「な、何をしてるんだ! ほ、本当にう、う、撃ってしまうぞ!」
「どこをです?」
「そ、それは、」
「足ですか、腕ですか。それとも心臓か頭ですか」
「し──!?」
私の言葉を聞いて、柿崎先生の顔は青ざめた。
「まさか足や腕程度で私が諦めるとでも? 妹の安全が掛かっているんです。そんなところを撃たれたくらいでは止まりませんよ」
私はまた一歩柿崎先生へ歩み寄る。
「廻さんの安全……? あ、や、止めろ! 来るんじゃない本当に撃たれてしまうぞ! 撃たれるんだぞ!」
そういえば、この人はまだ廻が留学していると思っているのだったか。
「どうぞ、私を本気で止めたいのならばそのように。心臓か頭を撃ってください」
「何てことを言うんだ君は!!」
柿崎先生は聞いたこともないような大声を出す。銃を向けられているのは私なのに、まるで彼のほうがこれから命を奪われるかのようだ。
「早く撃たないと、私の手がその拳銃を取り上げますよ」
もう腕の届く距離に私が来てしまったのを見て、柿崎先生は息を呑んだ。そして、荒く息を吐きながら、私の頭に照準を定める。
「う、撃つ。撃つぞ。僕は家族を守る。そ、その為なら、君みたいな幼い少女のい、命だって」
震える声で、自分に言い聞かせるように彼はそう口にした。
腕を恐怖で震わせ、泣きそうな顔で、銃を構える。
引き金に、指を掛けた。
「……綴さん。許してくれなんて言わない。どうか恨んでくれ。僕が地獄へ落ちるように、祈っていてくれ」
そして、消え入りそうなか細い声で、そんなことを口にした。
それを聞いた瞬間、私は反射的に彼の手首を掴み、強引に自分の胸へ銃を突きつける。「ひっ」という情けない声がした。
怯えきった彼の瞳を、私は睨みつける。
「恨んでくれだと? 落ちぶれるのもいい加減にしなさい。私は絶対に貴方を恨んだりしない。むしろ貴方の妻と娘が救われたのだと心から喜んで死んでやる」
手のひらが痛くなるほど彼の手首を握り締めながら、私は続ける。
「私に恨まれることで救われようとするな。貴方は卑怯だ。貴方の身勝手な罪悪感に私を巻き込もうとするんじゃない! 撃つなら家族のことを想いながら撃て!」
私は叫んだ。彼の葛藤、罪悪感、焦燥、恐怖、あらゆる感情を砕くがごとく、吼えた。
だが、彼は引き金を引くことなく、力なくそこに崩れ落ちた。拳銃は彼の手を離れ、床へ落ちる。
糸の切れた人形のようにうなだれる柿崎先生に、既に私を止められるほどの気配はなかった。
「ぼ、僕は……家族を、守らないといけないのに。僕は、何も、何もできないのか。君を殺す覚悟も、家族を守る力も、僕にはないのか」
覇気のない声で、彼は自分の無力さを嘆いた。
そんな彼に私は、残酷に、簡潔に現実を突きつける。
「そうですね、貴方は父へ逆らうこともできず、私を殺すという選択肢も取ることができなかった」
柿崎先生は両手で顔を覆い、呻く。
私は一度目を閉じ、深呼吸をした。そして再び目を開け、うなだれる柿崎先生と同じ目線になるように膝をついた。
「なら、これからどうしますか」
「……僕には、もう分からない」
「先生。顔を上げてください」
私の声を聞いて、彼は顔をあげ、未だ絶望の表情で私を見る。
私は彼が聞き逃さないよう、ゆっくりと、力強い声を意識しながら言った。
「選択肢は一つ。月之世聡を屈服させるしかありません」
柿崎先生の目が僅かに見開かれる。
「月之世、さんを」
「そうです。家族を守り、かつ私も殺さないというのであれば、そうする他ありません。父と戦うのです。貴方を脅し、非人道的な命令を下したあの男と」
柿崎先生の目をしっかり見ながら、私はそう告げる。
だが、彼の表情は再び恐怖に染まってしまう。
「つ、月之世さんと戦う? そんな、無理だ。私も一緒に破滅するだけだ」
「このままでも同じことでしょう。戦わず破滅するか、戦って破滅するかの違いです」
「そんな──」
「なら私を殺せますか?」
彼は言葉を失った。そうだ。彼がここで何を言っても、私を殺せない以上全ての言葉は無力だ。だからこの人は、私に反論することはできない。
「僕は、どうしたら良いんだ」
ようやく、待っていた言葉が出てきた。
「簡単なことです。先生は今まで通り過ごしていてください」
「え……?」
「先程も言いましたが、先生は廻に優しくしてくださいました。私にはその恩を返す必要があります」
柿崎先生は困惑を露わにする。無理もないだろう。
私は部屋の隅にあるクローゼットの方に向かって声を掛けた。
「源次、もう大丈夫よ」
するとクローゼットが内側から開き、中から源次が姿を現した。
「す、須藤さん!?」
「最後の科目の前、休憩を挟みましたよね。そのときに源次を呼び、潜んでもらっていたのです」
「そ、そうだったのか……」
源次は規則正しい動きで私のもとまで歩いてくる。
「心配を掛けたわね。物音一つ立てずに待機してくれていて本当にありがとう」
源次はすかさず頭を下げる。
「勿体なきお言葉。……ですが、正直に申し上げますと、内心穏やかではいられませんでした」
「そうよね、辛抱強く待っていてくれてありがとう。でも、貴方の出番がなくて良かった」
「ど、どういうことだい?」
事情を把握できない柿崎先生がそう訊いてきた。
源次がこちらを見てきたので、私は頷きで返す。
「柿崎先生が発砲した際は、私が先生を取り押さえるよう命を受けておりましたので」
「僕が撃った場合って……そんなの、手遅れじゃないか」
そう言った柿崎先生に対し、私は衣服のボタンをいくつか外し、少しずらして内側を見せた。
「それ、もしかして」
「ええ、防弾ベストです。お気付きになられないか心配でしたが、流石は最新型。薄いから上に服を着ても目立ちませんね」
「……予想、していたのか。僕が拳銃を持っているって」
「可能性があるのなら、手は打っておく。それが私の行き着いた考えでしたので」
実際、これからあの男と対立するのであれば、慎重すぎるくらいが丁度良いだろう。知識も頭脳も経験も劣っている私は、とにかく物事を慎重に見ていくしかない。
対抗し得る材料はあるが、ここぞというときまでは、非力で無知な娘が自分に歯向かっていると思わせておいた方が良い。
「何というか、やっぱり君は、月之世家の血を引いているんだね。僕はもう、家族のことだけで頭がいっぱいで」
「柿崎先生、先程のお話の続きをしましょう。先生に今まで通りの生活をして頂くにあたって、まずはご家族のことについてなのですが」
そこまで言い、私は源次に目配せをした。
源次は柿崎先生の方を向き、私の言葉を引き継ぐ。
「お二方につきましては、月之世家が責任を持って保護致します。どうかご安心ください」
「え、ほ、保護というのは」
「特別に手配した人員にボディガードをさせております。彼らの守りは、たとえ旦那様であっても崩すことは不可能でしょう」
突然の展開に、柿崎先生は理解が追い付いていないようだ。
それもそうだろう。いきなりこちら側が用意した人間に家族が守られていると言われても、ピンと来ないに決まっている。
源次もそれを理解している為、説明に補足を入れる。
「お嬢様は柿崎先生がどのような選択をなさろうとも、貴方を守ると決めておられたのです。そして、予め前当主である尊様にお願いをし、貴方とそのご家族を守護して頂けるよう手を打たれていたのですよ」
月之世尊──お祖父様は、五和理己に対抗し得る手段を持っている。それについてはいずれ皆に説明をするつもりだが、ここでは控えよう。情報はできるだけ少ない者だけで共有しておきたい。
だが、家族が本当に安全な状況にあるのか、それを確認しないことには柿崎先生も気が気でないだろう。理解はしてくれたようだが、納得している表情ではない。私は源次に目配せをした。
源次は手際良く携帯電話を操作し、柿崎先生へと手渡す。
彼は困惑の表情を浮かべていたが、携帯電話から「もしもし」という声が聞こえたことに気付き、慌てて携帯電話を耳に当てる。
「玲子、玲子かい!?」
柿崎先生は、妻である女性にこれまでのことを話した。そして、向こうも自分たちが安全であることを説明し、彼も状況を把握することができたようだ。
五分ほど通話した後、柿崎先生は安心した顔で源次へ携帯電話を返した。
「ありがとう、本当にありがとう。情けない姿を見せてしまったけど、君を撃つという選択を取らなくて本当に良かった」
「たとえそうしていてもご家族の安全は保証されていたのに、ですか?」
「うん。自分のずるさにも気付けたし、何より綴さんのことは撃ちたくなかったから。これで良かったんだ」
「……そうですか。それなら良かったです」
やはり、柿崎先生は信頼に足る人物だ。
協力を得るためにああして啖呵を切ってしまったが、普段から穏やかで聡明な彼のことは尊敬していたし、何より廻を気遣ってくれていた人物でもある。
そして、やはり教師であるからなのか、私が説明したことをすぐに理解してくれる。年の功、というものなのだろう。
「でも、これじゃ僕は本当に今までの生活に戻るだけだ。月之世さんに対抗する、というのは……?」
「今までの生活に戻る、というのが、既に父への対抗になっているのですよ。父はきっと貴方を見下しています。そんな貴方が父の脅しを意に介さず、今まで通り過ごしていたら?」
「ち、挑発も兼ねているのかいこれは!?」
驚愕の声を上げる柿崎先生を、源次が窘める。
「ご安心ください。柿崎先生含め、ご家族の安全は絶対に保証致します」
「なら、良いんだが……どうしてそんなことを」
「踊らせているはずの人間が、予想外の動きをする。果たしてそれは自棄を起こしたからなのか、それとも何か意味があるのか。まぁ、父ならば当然後者の考えになるでしょう。それで良い。余計なことに思考を割いてくれれば良いのです」
私は五和理己にこの会話を聞かれていることを承知で、そう説明をした。
柿崎先生は思わずといった様子で苦笑する。
「何だか……本当に、僕には考えも及ばないところで頑張っているんだね、綴さんは」
まだそんなに幼いのに──そう言いたげな顔だった。
彼の娘は、確か中学生だったはずだ。自分の娘とさほど年齢の変わらない少女が、年不相応な苦悩を抱え、それに向き合っている。それを目の当たりにし、何か思うことがあるのだろう。
それこそ、私では考えも及ばないことが。
だから私は、柿崎先生のその言葉には敢えて何も返さなかった。




