後始末
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男は元警察官だった。世を正す為、己の正義を貫く為にその道を選んだ。だが警察とは、自分の理想とする存在とはかけ離れたものであると、後に彼は知る。
中でも自身の成績に繋がらない事柄に対する彼らの無関心さは、男にとって許せない怠惰だった。
夜中に公園でたむろする中高生、安全運転を心がけるドライバーを煽り、事故の原因を増やす中年、騒音で近隣住民の生活を妨害する若者。これらを警察が取り締まることはない。事件が起きなければ取るに足らないことだと一蹴する。通報があったとしても、パトカーで軽いドライブをして終わりである。
男が警察官を辞めるのにそう長い時間は掛からなかった。そして、世にはびこる愚者共を正すにはどうすれば良いかを必死に考えた。考えたが、理想だけを掲げて生きてきた男に具体案は思い浮かばなかった。
そんな彼を救ったのが月之世聡だった。聡は男の正義感を理解し、尊重した。共に世を正すと共感してくれた。それだけで、男が聡の手足として動くには十分な理由となった。
聡の人体実験について、彼は当然意義を唱えた。すると聡は、
「これはリサイクルだよ。君がどうしようもない程憎んでいる社会の癌たち――それらの中にはどう工夫を施しても改善の余地のない者がいる。腐敗しているからだ。そういった者は早々に間引き、再利用可能な状態にする必要がある。これは再教育を試みるより断然効率的なのだ。仮に再教育をしようした場合、腐敗した人間に構っている間に、救いを求めている人間がまた一人、世界の闇に飲まれてしまうかもしれない。それが私には耐えられないんだよ。もちろんこれは許されないことだ。世界が正しき方向へ向かい始めた暁には、君の手で私を裁いて欲しい」
そう熱く語った。いずれ自分が裁かれることも覚悟して世を正そうとする聡に、男は心の底から感動した。彼の中で、聡は神に等しい存在となった。
「くそっ、くそっ! 逃した!! 小娘風情がっ!!」
男は白百合が逃げていった方向を睨みつけながら怒りを吐き捨てる。足元の砂利を力任せに掴み、あらぬ方向へ撒き散らした。だが、それで男の怒りが収まることはない。
「おい! 貴様何をしていた!」
少し離れた場所で尻餅をついたまま立ち上がらないパーカー男を、無理矢理立ち上がらせ、怒鳴りつける。
「なっ、何かって、できるわけねえだろ? あんな逞しい姉さんたちだなんて思ってなかったんだからよ」
「貴様はそんなだからホームレスなんだ!」
言い訳をするパーカー男を力任せに地面へ叩きつけた。情けない悲鳴が、男の苛立ちを更に加速させる。
「なんということだ……あのお方の最初の命令を、俺はっ……!」
「お、おい、あれ!」
「うるさい少し黙っていろ!」
「違うって後ろ後ろ! ひぃぃ!」
パーカー男が情けない声を出してその場を離れる。その様子に苛立ちを覚えながらも、彼は後ろを振り返った。
そこには、猛スピードでこちらへ向かってくる一台の車があった。
「な――!?」
男は反射的に横へ飛び、車を避ける。咄嗟の行動だった為、受け身が上手くとれず、体勢を整えるのに少し時間を要した。
その僅かな時間が、命取りになるとも知らずに。
男がこちらへ向かってきた車へと再び視線を向けようとした瞬間、彼の顎に強い衝撃が走る。
「ぐぉ――」
まるで鈍器で殴られたかのような痛みに、男の視界が揺らぐ。倒れそうになるのを必死に堪えていたところで、今度は脛に激痛が走った。
「ぎぃっ!」
奇妙な声を上げながら膝をつく。痛みを堪えながら何とか状況を理解しようと顔を上げたところで、彼の右腕から鈍い嫌な音がした。
「え……あ、がああぁ――!」
男が絶叫する。自分の右腕がおかしな方向へ曲がっているのを見て、恐怖の声を上げる。そこでようやく、彼は自分に襲いかかってきたものの正体を理解した。
姿を目で追えない程の俊敏さ。弾丸のような一撃。それらは全て、目の前で自分を見下ろしている大男――須藤源次から放たれたものだった。
「誰の命令で動いているのか五秒以内に答えなさい。次は足です」
源次は鋭い眼光をこちらへ向け、威圧感のある低い声で脅してくる。丁寧な口調だが、その声からは少しの慈悲も感じられない。
「はぁっ、はぁっ、お、俺は月之世聡に仕える使者だ! あの方に代わって貴様らを断罪しに来た!」
「旦那様の、ですか」
男の返答を聞いて、老いた執事は何かを考え込むように目を細める。その反応を見て、足が折られずに済むと理解し男は安堵する。
「貴様、須藤源次だな。月之世さんが最も有能な使用人だと仰っていたが、俺にはそうは見えん。貴様も怠惰を貪る有象無象の――」
「どのような命令を受けてきたか五秒以内に答えなさい」
「は――な、貴様、この老いぼれが何を優位に立った気になって――」
鈍い音と共に、右足の膝に想像を絶する痛みが走った。目を見開き、その場でのたうち回りながら男は絶叫する。
「返答に遅れる度に別の骨を砕きます」
「私の下僕たちに君の正義を見せつけてやれと言われたんだ! 貴様らは月之世さんの道を阻む邪魔者だと認識していたから大人しくさせてやろうと思った! 貴様は月之世さんに長く仕えていながらその偉大さを理解していない一番の愚か者だ!」
痛みを誤魔化すように男が怒鳴り散らす。その姿は癇癪を起こす子供のようだった。
膝を押さえ、荒い息を吐きながらこちらを睨む男を見下ろし、源次は憐れむように静かな声で言った。
「傀儡、いや、犠牲者か」
男が目を見開き、硬直する。源次はその反応を予想していたのか何も言わない。
「犠牲者、だと? 撤回しろ老いぼれ。俺はあの方の意思を汲んで行動している謂わば代行者だぞ。そのような侮辱は断じて許さん……!」
憎悪に満ちた男の声を無視して、源次は用意していた紐を取り出し、男を拘束しようとする。
「な……何だ、よせ、止めろ何をする気だ!」
「救急車を呼びます。大人しくしていなさい」
「情けをかけるつもりか! 余計なお世話だ離せ! 離せ死に損ないがぁっ!」
駄々をこねる子供のように暴れようとする男を押さえつけながら、源次は男の両手を後ろへ回し手際良く縛り付ける。骨折した痛みもあって男は叫び声を上げるが、源次がそれを気にする様子はない。
男の両手をしっかりと拘束すると、源次はすぐさまその場を離れようとする。その際、彼は初めて普段の穏やかな口調で男に言葉を掛けた。
「悪漢と身構えていましたが、純粋な若者であったとは。これからは自分の考えで生きることです」
そう言い残して立ち去ろうとする源次を、男は凄まじい形相で睨みつけ、吠える。
「出来損ないの従者が偉そうなことをほざくな! 主のお考えこそが自分の考えだろうがッ!」
男の罵声を受け、源次は静かに振り返る。そして、揺らぐことのない強い意思を持った目で彼の言葉に応えた。
「では貴方は、月之世聡という人間の言葉や考えにどのような意図があるのか、それが何をもたらすのか、そしてそれを受けて自分は何を思ったか、考えたことはありますか」
淀みのない声。力強い瞳。それを向けられた男は反射的に口を開く。だが、その口から言葉が出ることはなかった。
源次は再び男に背を向け歩き出す。
「……ぁ」
男の声がした。源次は振り返らない。
「あ、ああ、い、痛い、痛い痛い痛い」
だが、その発せられた言葉から異常を察知し、源次はすぐに男の方を向く。
彼は充血した焦点の合わない目で、足元のコンクリートに頭を打ち付けていた。
「痛い痛い痛いいだいいだいイダイイダイイダイ」
「っ――何を!?」
源次は慌てて男の体を押さえつけ、その異常な行動を止めさせようとする。だが、男の体は源次の力を持ってしても制御することができず、彼は一心不乱に頭を振り続ける。
「あぁぁいだいだいイダイ出て行け出て行け出て行け出て行け」
何度かコンクリートに頭を打ち付けた辺りから、嫌な音が混ざり始めていた。男の頭からは血が流れ、これ以上放っておくと彼が死に絶えることは目に見えていた。
源次は咄嗟に上着を脱ぎ、それを丸めて男が頭を打ち付けている位置に置く。そして、辺りを見渡しながら大声で叫んだ。
「五和理己さん! 聡様! もし何処かで私たちを見ておられるなら、どうかこのようなことはもうお止めください! この青年は未来ある若者です! どうか! どうか御慈悲を!」
人気のない住宅街に、源次の大声が響き渡る。
その瞬間、奇声を上げ続けていた男がぴたりと静かになり、不可解な行動も止まっていた。
安堵する源次だったが、男は焦点の合っていない目のまま、今度はゆらりと首を動かし、側にいた老執事の方を向く。
そして、抑揚のないかすれ声で言った。
「これからあるじにはんきをひるがえそうとするものが、じひをこうのか。げんじ。おまえもぞんがいにおもしろいおとこだな」
源次の全身に寒気が走る。
彼はそこで考えてしまった。この場で起きている凄惨な出来事。自分たちの苦悩、奮闘、決意。それらはすべて、聡にとっては自分の手のひらの上で起きている茶番なのではないか。
自分たちが何をしようとも、全ては聡を楽しませる為のショーでしかないのではないか、と。
「聡、様」
何とか絞り出した声に、男が応えることはなかった。彼はそのまま糸の切れた人形のように倒れ、ぴくりとも動かなくなる。
それを見つめていた源次は数秒経ってやっと我に返り、男に止血を施して辺りの様子を伺った。
もう一人の男の姿がない。車を降りたときから常にもう一人への警戒を払っていたが、あの男は源次の車から逃げた後、こちらへ近付いてくることはなかったようだ。
源次は立ち上がり、懐の携帯電話に向かって――全てを聞いていたであろう綴に向かって話す。
「これより、帰還します」
『分かりました。十分に気を付けて』
綴の声は凛々しかったが、それを聞いた源次は胸を痛めた。
エンジンを掛け、周囲を警戒しながら車を発進させる。
源次は先程の男のことを思い返していた。
彼は強い言葉を使い、常にこちらへ殺意を向けてきたが、その殺意には、圧倒的に"説得力"がなかった。
彼は石住井と星野を撃ち、白百合にも何度も発砲していた為、源次は間違いなく「そういうこと」に慣れている人間なのだろうと考えていた。だからこそ反撃の余地を与えない攻め方をした。
だが、実際に対峙して、その認識は間違っていたことを源次は知った。
――あの男に、殺人の経験はない。
それを確信したのは、男と目が合ったときだ。焦燥、恐怖、やり場のない怒り――彼の目からはそのような感情が読み取れた。殺しを日常的に行っている人間に、あのような目はできない。
源次の手に力がこもる。自分の主は、一体何人もの人間を利用し、使い捨ててきたのか。そして、どれ程の人間が、聡の正体に気付かずにその命を散らしていったのか。それを思うと、彼は冷静な感情を失いそうになる。
深呼吸を一回して、源次は心を落ち着かせる。今思考を向かわせるべきは、これからのことだ。彼はハンドルを握り直した。
そして、住宅街を進み、もうすぐ公道に出るというところで、源次は「それ」を見つけてしまう。
夜の暗闇だというのに、何故そのときばかりは目が利いたのか。「それ」は、車道の端で電柱の陰に隠れるようにしてあった。
首から上を、最早個人の特定が不可能な程に赤黒く染め上げ、電柱やコンクリートにもそれをぶち撒けて死に絶えている人間の姿。
その人間は、薄汚いパーカーを着ていた。
源次は先程の自分の発言がいかに愚かだったかを思い出す。
――自分は何故、あのようなことを言ったのか。月之世聡が、何かに慈悲を向けたことなどただの一度もなかったというのに。




