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ツキノセ  作者:
52/65

実験 - 3

ご閲覧ありがとうございます。


 男が泡を吹いて倒れている。その目は虚ろで、目の前のものを認識できている様子はない。

 言葉を発しようとしているが、既にその声は何か意味のある言葉を紡ぐことはできないようだ。

 男を一人の少女が見下ろしている。その表情に憐れみや怒りといった感情はなく、ただ興味がなさそうに男を見下ろしていた。

「五和」

 五和と呼ばれた少女の後方、強化ガラスで隔たれた部屋から男の冷たい声がした。自分の名前を呼ばれ、少女――五和理己は苦笑しながら振り返った。

「あー、はい?」

「その男にはまだ何の変化も見受けられないが」

「あー……えー、もう駄目になっちまいましたね」

 頭を掻きながら笑う理己に、冷たい声の男――聡は何も応えない。代わりに手元の機械を数回触ると、理己がいる部屋の床の一部が開いた。それは丁度男が伏していたところで、男は一瞬にして暗闇に飲み込まれた。

 聡が理己に、こちらへ戻ってくるように促した。理己はへらへらと笑いながら聡のもとへ歩いて行く。

「それで五和理世のつもりか」

 冷淡な声が理己に向けられる。

「えっ?」

「被検体はすぐに壊す。振る舞いはみっともない。頭も悪い。お前はあの日から五和理世のように振る舞っているが、まるで別人だ。芝居をうっているのなら今すぐに止めろ。お前があの愚図な妹のままだというなら、私もそれに合わせて計画を練る」

 聡は何かの資料に目を通しながら、理己に視線すら向けることなく、淡々とそう言い放った。

「えーっと……そう言われてもですねぇ、確かにこの体は理己のもんっすけど、もうそんな感覚はないんすよ。どっちかっつーと理世だと思って振る舞ってはいるんすけどねー」

「理世は飄々とした人間だったが、奴は相応の知性を持ったうえで、あえてあのような振る舞いをしていた。お前のはただ頭が悪いだけの人間がするそれだ。五和理世を真似ているだけにしか見えん」

「やー、そう言われても」

 ぼさぼさの長髪を揺らしながら理己は締まりのない顔でにやけている。聡は横目で彼女を見ると、何かを諦めたかのように息を吐き、手元の資料を置いた。

「計画を変更する」

「え、まじすか」

 聡は椅子に深く掛け直し、心底見下した表情で理己を見た。

「このまま被験者を増やし続けても良い結果は得られないと判断した。よって祈を回復させる方法は別に探す。万が一お前が成長することも見越して実験は引き続き行うが、頻度は減ると思え」

 聡の妻である祈の名前が出たとき、理己の表情が少しだけ変わった。

「祈さん、治んないんすか?」

「今の実験を続けていても無理だと言っただけだ。理世が健在だったなら別だが」

 聡はそう言うと理己から目を逸らし、デスクの上の資料を纏めて立ち上がった。理己は笑っていなかった。

「以前、屋敷の人間全員の記憶を書き換えたことを覚えているな」

「あ、ああー、すげー大変でしたよあれ」

 不慮の事故で祈と理世が意識不明になって間もなく、理己は姉と同じような力を使えるようになっていた。

 その力で、月之世家に関わる人間の「祈に関する記憶」を書き換えた。具体的には、「月之世祈は廻を産んだ際に他界した」という記憶を植え付けたのだ。

 その結果、綴と廻が一日放心状態になるという記憶操作の副作用が出たが、聡が上手く皆を言いくるめ、大きな問題にはならなかった。

「お前のこれからの役目は記憶の書き換え、認識の操作が主になるだろう。あのときの感覚を思い出しておけ」

 聡はそう告げると、理己の返事を待たずに部屋を後にした。無機質な自動ドアの音が二回して、部屋に静寂が訪れる。

「はー、人使いの荒ぇーこと」

 理己はわざとらしく顔をにやけさせ、だらしなく頭を掻いた。

 そして、ふらふらと歩き始め、そのまま聡と同じように部屋を後にした。


 ある日のことだった。

 その日は、いつものように強制労働施設の債務者やホームレス、暴力団関係の下っ端など、社会から姿を消しても大事にならない人間を使って実験をしていた。

 薄汚れた中年の男を椅子に拘束し、強制的に目を開けさせ、ドラッグを打ったあとに形容しがたい映像を延々と見せつける。精神に異常が見られた段階で、理己の能力による幻覚と幻聴で追い打ちを掛けていく。ここまでは決まった流れだった。

「止めろ」

 男が半狂乱になっていたところで、聡から制止の命令が出た。理己は能力を使うのを一旦止め、強化ガラスの向こうにいる聡へ振り返る。

「どしたんすか」

「階段だ」

「はい?」

「終わりのない階段をイメージしろ。上も下も暗く、自分が今どこにいるのか、どのくらいの高さを歩いているのかも分からない、そんな階段だ」

 言われるがままに、理己は聡に言われたものを頭の中に作り出す。

「今、お前が想像した世界にその男の精神を放り込め。お前が理世と同じ力を使えるならできるはずだ」

 理己は傍らで涎やら涙を流しながら呻き声を上げる男を見た。そして目を閉じ、脳内に作り上げた空間に目の前の男が現れるのを想像する。

 その瞬間、男が奇妙な声を上げた。戸惑っているように聞こえる。

「あ、あぇあ、お、ここぉ、どこ、だぁ」

 虚ろな目で男は狼狽えている。

「そこに幻聴を足せ。湿った足音や粘り気のある音が好ましい」

 脳内の映像を崩さないようにしながら、理己は言われた通りにした。

 すると、男は何かに怯えるように体を痙攣させ、恐怖に染まった声を上げ始める。

「あ、ああ? ひぃ、いいい、ぃぃいい」

 男が暴れ始めた。だがその抵抗は虚しく、頑強な拘束具はその程度の力ではびくともしない。

 理己は脳内のイメージを必死に維持している。かつてない集中力を強いられる為、無意識に手に力が篭もった。

 そんな状態が数十秒続いた後、聡が次の指示を出す。

「今想像している空間を無音にしろ。自分の足音も階下からの音も一切聞こえない無音だ」

 理己は言われた通りに、脳内の映像を構築し直す。額に汗が浮かび、手には更に力が篭り、頭の血管が切れそうになる。

 男は静かになった。息を切らしているが、先程の半狂乱ぶりから見ると随分と落ち着いている。その様子から、理己は能力を上手く使えていることを確認する。

「しばらくそのままだ。……肩の力を抜け。今想像するべきものは無限に続く無音の階段だけだ」

 理己は呼吸が止まっていたことに気付き、ゆっくりと深呼吸をする。熱くなっていた頭が徐々に冷えていくのが分かった。

 それから数分後、落ち着きを取り戻していた男の呼吸が荒くなり始める。理己は何か失敗したのかと不安になるが、聡は何も言ってこない。

「ああー!! ああああー!!」

 男が急に叫び始めた。体を暴れさせ、幻聴が聞こえていたときよりも動揺しているのが分かる。理己は驚いたが、その叫び声に気を取られないように意識を集中させ直す。

「あああああ!! あっ!!! あああーっ!!!」

 何かに怯えて叫んでいるようには聞こえない。その割にははっきりとした声の出し方だからだ。相変わらず体を暴れさせているが、その様子は何かに抵抗しているのではなく、"わざと大きな音を立てようとしている"ように見えた。

「今だ、無音状態を解除しろ」

 聡の指示に従う。今までよりもスムーズに脳内の空間を改変できた。

「はぁ!? ああ、あ、あああ!! ハッ、ハハッハハハ!!」

 全力で叫び声を上げていた男が、今度は嬉しそうに笑っている。大きな声を出し、体を動かし、自分から鳴る音を聞く度に喜んでいた。

「男の心臓を抉り取れ。独りでに男の心臓が飛び出すイメージだ」

 理己の体が強張った。今までとは違う、とても攻撃的な命令だったからだ。

 理己は深呼吸をして自分を落ち着けると、これまでと同じように脳内の空間で聡の命令を実行した。

「ぎっ!」

 男が奇妙な声を出した。体を痙攣させ、鼻や目から血を流し始める。

「あ、ぁ……お、おで、の……」

 男は体を前へと動かそうとした。掠れた声を出しながら、そこにあるはずもない飛び出た自分の心臓を取り戻そうと藻掻いている。だが、その意志が報われることはなく、男はその場で蠢くことしかできない。

 しばらくして男が血を吐いた。そして、それを最後に男は動かなくなった。

 数秒の沈黙の後、聡が諦めたように口を開いた。

「失敗だ。戻ってこい五和」

 その声で、理己もようやく現実の世界に意識を戻した。これまでの実験終了後とは違い、体が酷く重い。目眩もして、喉も乾いている。理己は転ばないように注意しながら聡のもとまで戻った。

「私は以前、お前に『理世と同じように被験者に幻覚を見せろ』と言ったが、お前はその命令を実行できていなかった。もっと早くに気が付くべきだったな」

 疲弊した理己を気遣うこともなく、聡はいつものように淡々と語り始める。

「今お前が必死でやったことが、理世がいつもやっていたことだ。被験者を自らが作り出した妄想の世界に放り込み、精神が破壊される寸前まで追い込む。今回重要だったのは、無音状態が解除した直後に心臓を抉り取った部分だ」

 相槌を打つ余裕もなく、理己は聡の言葉に耳を傾ける。

「永遠に続くかと思われた無音状態。それを然るべきタイミングで解除することで、被験者が自分の力で無音状態を打ち破ったと錯覚させる。そして、被験者が万能感に浸っているところで致命傷を与えた。上手くいけば治癒能力、若しくは幻覚に対抗し得る能力が発現するかと予想したが、そう上手くはいかないようだ」

 聡はノートパソコンに手早く何かを打ち込みながら、今回の実験の詳細を語った。理己は半分も理解できなかったが、これまでの自分の能力の使い方が間違っていたことは理解できた。

「凄惨な実験の記憶だけは妹に引き継がなかったのだろうな。迷惑なことだ」

 聡は少し棘のある声でそう呟いた。理己には聡が何を言っているのかが分からず、疲れ切った顔で聡を見ていることしかできない。

「よく聴け五和」

 聡が理己に向き直った。理己の表情が少し引き締まる。

「お前は頭が悪い。これからは独断で行動するな。私の命令をただ忠実に実行しろ。良いな」

「……ういっす」

 今の言葉は理己でも理解できた。だから理己は返事をした。


 それから少し時が過ぎた頃。

 理己はその日、月之世家の屋敷にいた。周囲の人間が自分を認識できないようにしているので、聡以外が理己に気付くことはない。だが、聡の声は皆にも聞こえているので、理己と会話をすると聡が独り言を言っているように聞こえてしまう為、迂闊に会話はできない。

 理己は聡の部屋で、部屋の主が仕事を終わらせるのを待っていた。いつもは研究所で待機を命じられているが、今日は「面白いものを見せてやる」と言われ、こうして聡の側にいることを許されている。

 埃一つないデスク。自分よりも大きな窓。上品な明かりを灯す照明。柔らかい絨毯。どれを取っても、理己には馴染みのないものばかりだ。

 聡の部屋にいると、別の世界に連れて来られたようで理己は落ち着かない。無機質で冷たい研究所の方が、まだ心に安らぎが持てる。

 理己が黙って立っているのに飽きてきた頃、扉からノックの音が聞こえた。

「お仕事中申し訳御座いません。石住井で御座います」

「入りたまえ」

 普段は聞いたことがない聡の穏やかな声に、理己は少し驚いた。

「失礼致します」

 端正な顔立ちの女性が入ってきた。一つ一つの動作は洗練されており、それだけでこの女性が如何に優れた使用人なのかが推測できる。

「どうした」

 柔らかな口調でそう訊く聡に、石住井は視線を落とし、申し訳なさそうな声で応える。

「……無礼な質問を、どうかお許しくださいませ、旦那様」

 石住井はそこで言葉を区切り、顔を上げた。

「奥様は、祈様は、今どちらにいらっしゃるのですか」

 理己は驚愕の声を上げそうになったが、すんでのところで抑えた。自分を周囲の認識から外している為、声を出しても気付かれることはない。だが、祈の名前が出た時点で何か嫌な予感がして、理己は自制した、彼女らしからぬ機転だった。

「彼女は自分の生まれ故郷で今も眠っているよ」

「そのような意味では御座いません」

 既に石住井の瞳からは迷いが消え、その声には強い意思があった。

「一年前、祈様は旦那様をお止めになると仰られ、旦那様のもとへ向かわれました。皆、そのことを忘れていますが、私は覚え……いえ、思い出しました。そして、あの日以来祈様がお戻りになっていないことも」

 石住井は気が付かなかったが、理己はそのとき、聡の口角が一瞬だけ上がったのを見た気がした。

「そうか、そうなのか。石住井。君は思い出してしまったのか」

 だが、聡の声はとても悲しそうで、何かを思い詰めたような表情になっていた。

「なら、君には全てを話さないといけないな」

 石住井は神妙な顔で聡の言葉を待っている。理己はこれから何が起きるのか全く分からず、困惑した表情で二人を見守っていた。

「数年前からだ。私は、とある団体に見張られている。職業上、敵が多いことは承知していたが、その団体のトップは……情けないことに、私では太刀打ちできない。皆に心配を掛けまいと黙っていたのだがね」

「その、団体とは……」

「海外の宗教団体だ。公にはされていないが、その団体の人間が仕切っている大企業も数多くある。どうやら私は、その団体の逆鱗に触れたらしい。彼らがその気になれば、すぐにでも私はこの世から消されてしまうだろう」

 出鱈目だということは、流石の理己でもすぐに理解した。この男は今、有りもしない出来事をさも真実のように、深刻な顔で語っているのだと。

「私は何とか彼らの機嫌を取ろうとした。私程度どうなろうと構わないが、家族や信頼してくれている使用人の皆だけは何としても危険に晒したくなかった。それを聞いた彼らは……私に、とある要求をした」

 石住井は姿勢を正したまま、聡の作り話を真剣に聞いている。

「……それが、人体実験を利用した超能力の研究だ」

 石住井の表情に動揺が見えた。彼女にとっても、まったく予想できなかった話のようだ。

「馬鹿げている、と思った。だが皆を守るために私は、数多の人間の命を奪ってきた。当然超能力者など生まれるはずもない。恐らく彼らの目的は、不毛な研究に人生を費やす愚かな私を見て悦に入ることだったのだろう。……祈は、馬鹿な私を止めると言っていなかったか?」

 石住井は当時を思い出し、悲痛な表情で言った。

「……はい。悪い当主を、何とかしにいくと」

「はは、悪い当主か。本当にな。本当にどうしようもない当主だ。結局、私は妻と引き換えに平和を取り戻し、それを君にも気付かれてしまうとは」

「引き換えに……?」

「ああ。祈は今、たった一人で孤独と戦っている。彼らはそういうのが好きなんだ。不毛な研究に人生を費やしている私を見て喜んでいたように、今度は祈を、社会と断絶し、何もない場所に監禁して、その姿を見ながら愉悦に浸っている。そのお陰で、私は研究から解放された」

 その言葉を聞いた瞬間、石住井の目の色が変わった。それに気付いた理己は背筋が寒くなるのを感じ、表情を強張らせる。

「祈様を、差し出したのですか」

 石住井の声には明確な怒りが表れていた。本人は何とか声を荒げないように努めているが、今にも聡に掴みかかりそうな気迫があった。

 聡は石住井の怒りを受け止めるように目を閉じ、唇を噛み締めた。

「『貴方がこれからも多くの人間を殺すより、私一人が孤独な思いをするだけで済むならその方がずっと良い』。それが、祈の言い分だった。もちろん私は反対したが、それは間違っていると責められた。『殺人をやらされる人間』から、『殺人を選択する人間』に変わってしまうと」

「そん、な。しかし」

「否定できないだろう。そう、彼女の言う通りなんだ。祈を差し出さないということは、これからも誰かを実験で殺し続けるということ。私はそれを指摘され……何も言えなかった。そして、彼らは私以外の人間から祈に関する記憶を奪った。どういう手段を使ったのかは全く分からない。だが、そうすることで祈はより孤独になり、私は偽りの平和の中で、今までと同じ日常を過ごしながら、罪の意識に苛まれ続ける。全ては彼らの思い通りというわけだ」

 重苦しく告げられた真実に、石住井は何も言うことができなかった。祈の性格ならそう言うだろうということと、聡のそれまでの苦悩を考えると、彼女から掛けられる言葉は何もなかった。

 自分の想像を遥かに超えた真実を目の当たりにし、石住井は言葉を失い、その場に立ち尽くしてしまう。

「そういえば石住井。君は、どうして祈のことを思い出せたんだい」

 聡の言葉で石住井は我に返る。精神に傷を負いながらも穏やかに話そうとする聡の姿に、彼女は心が痛くなった。

「……こちらで御座います」

 そう言って、石住井は一枚のメモを差し出した。随分古いもののようで、紙は色あせ、皺が付いている。

 そこには、軍服を着た猫のキャラクターの絵が描かれていた。

「これは?」

「祈様のオリジナルキャラクターで御座います。いつ頃でしたか、祈様がメモ帳にこちらのキャラクターを描かれていて、私、この絵をとても気に入ってしまったのです。そう致しましたら、祈様がこのメモ帳で良かったらあげる、と仰ってくださいまして……ご存知ありませんでしたか?」

 少しだけ、聡の表情が変わったような気がしたが、それに気付いたのは理己だけだった。

「ああ……知らなかったよ。可愛いキャラクターだ」

「にゃーむすとろんぐ大佐、という名前だそうですよ」

「はは、祈らしいネーミングセンスだな」

 力なく笑う聡に、石住井も少しだけ表情が柔らかくなる。

「私、このメモを以前使っていた手帳に挟んでおりまして。少し前、偶然その手帳を開いてこのキャラクターを見た瞬間、祈様のことを全て思い出しました」

「そうか、何か切っ掛けがあれば思い出せるのだな」

 少しの間、二人の間に沈黙が生まれる。弱った表情でメモを眺めている聡を見て、石住井は何かを考えていた。

 そして、意を決したように口を開く。

「旦那様」

 力強い声だった。聡は顔を上げる。

「私が、祈様の代わりになることはできませんか」

「……何だって」

「私が祈様の代わりに孤独を味わいます。祈様は、この屋敷になくてはならない存在です。どうか、私と引き換えに祈様を解放するようその団体に掛け合ってくださいませんか」

 石住井は前のめりになり、聡にそう懇願した。

 聡は動揺して、どうしたものかと言葉を選んでいる。

「いや、それは、そんなことは――」

「聡明な旦那様なら、ご理解頂けるかと存じます。祈様よりも、私が犠牲となる方が遥かに傷は浅いはず。私は一介の使用人。代わりはいくらでもおります故」

 何か反論しようとしたが、聡は口を噤んだ。そして、石住井の目を見て、その瞳に宿った強い意思が曲がることはないことを察する。聡は重い表情で立ち上がると、石住井の手を両手で握り締めた。

「分かった。掛け合ってみよう」

「――有難う御座います!」

「だが、代わりはいくらでもいる、なんて言葉は、もう口にしないで欲しい。石住井、君という人間の役目は、君自身にしか務まらないことなんだ。代わりなどいるはずもない」

「……旦那、様」

 悲痛な表情を浮かべる聡に、石住井は自分の発言を悔いた。たとえ一介の使用人であっても、彼にとっては掛け替えのない存在なのだと。その聡の心情を想うと、石住井は胸が温まるのと同時に、どうしようもなく締め付けられる感覚を覚えた。

「では、交渉の結果は後から伝えよう。一先ずは、いつも通りに過ごしていて欲しい」

「畏まりました」

 決意を抱いた表情で、石住井は部屋を後にする。

 彼女の立ち振る舞いは終始毅然としていたが、それを見ていた理己は、反対に酷く混乱した様子を見せていた。聡もそのことには気付いていたはずだが、彼は全く理己を気にしている様子はなかった。

「戻るぞ」

 いつもの聡の冷たい声だった。本当に先程の慈愛に溢れた当主と同一人物なのかと、理己は自分の見ているもののどれが正しいのか分からなくなった。



「あまり面白くはなかったな」

 研究所の一室で、聡がそう呟いた。理己は恐る恐るそれに反応する。

「な、何だったんすか、あれは」

「普段の立ち振る舞いで、石住井が何かを察していたのには気付いていた。だから適当な作り話を吹っ掛けてやった。だが何だあの盲目ぶりは。視野が狭い人間というのは本当に騙されやすいものだな。滑稽、という意味では面白くもあったが、やはりあの程度ではつまらん」

 聡は珍しく機嫌が悪そうに腕を組み、しかめっ面でそう説明した。

 真実を知っている理己ですら、あれこそが自分の知らなかった真相なのではないかと信じかけたが、そのようなことは一切ない。祈が救命装置に繋がれているのを見ていた時点で嘘だと分かるはずなのに。そんなことすら忘れてしまう程に、聡の演技は真に迫っていたのだ。

「あの程度の作り話、祈や理世なら笑い飛ばすレベルだというのに」

「石住井さん、どうなるんすか」

 理己の疑問に、聡はあまり興味がなさそうに応じる。

「奴の家を周囲の認識から外し、そこで何年孤独に耐えられるか試してみるとするか。あまり興味はそそられないがな。どこぞの宗教団体でもあるまいに」

 最後の言葉には酷く嘲笑が込められていた。その薄情ぶりに、善悪の判断がはっきりとしていない理己ですら吐き気を覚える。

「つまらん顔だな」

 心臓を握られたかのような錯覚を覚え、理己は我に返った。今の聡の声は、石住井を嘲笑ったものと同じ声だった。面白くない、退屈なものに向ける嫌悪。理己はすぐに普段のだらしない表情に戻り、わざとらしく笑う。

「いやいや、流石の外道っぷりにちっとばかし面食らっちまいましてね? ウワー、イスイサンカワイソーダナー」

「今更何を言う」

 聡は理己のおどけた態度を一笑に付すと、彼女から視線を外した。そして、どこか遠い所を見る目で、心底つまさなそうな声で呟いた。

「退屈だな。本当に」

 理己は手汗でびっしょりになった手を握り、へらへらと笑いながら聡を見ている。彼女の目に映る月之世家の当主は、まるで玩具を取り上げられて不貞腐れる子供のようだった。





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