三引くニ、足す一
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自分の弱さは人に見せてはいけない。悟らせてはいけない。
だが人の弱さは暴き、晒し、利用せよ。
それが父の――月之世聡の思想だった。
母がいなくなって何年か経った頃、私は父に連れられ、とある医療機器メーカーの会長の誕生祭に出席したことがある。
そこには私と同じような"跡継ぎ"がたくさんいた。父曰く、次期社長、次期当主の顔をお互いに知らしめる意味があるらしい。とは言っても所詮は子供。誕生祭が始まれば、子供たちは別室でまとめて待機させられる。私はそこで地位を確立せよと父に命じられた。
最初は意味が分からなかったが、別室に集まった子供たちのやり取りを見て、私はすぐに父の言葉の意味を理解した。
「ねぇ、何か臭くない?」
絢爛豪華な家具が揃えられた広めの休憩室。そこで唐突にショートカットの女が棘のある声でそう言った。あれは確か、父よりは劣るものの、そこそこ名のある投資家の娘だったか。歳は私と同じ――九歳か十歳あたりに見える。
「ほんとだぁ。ここにはとーっても高貴な人しか入れないのに、おかしいねぇ?」
ショートカットの女の側にいた、ツインテールの女が鼻にかかった声で賛同する。取り巻きのようにも見えることから、ショートカットの方とは普段から付き合いがあるのだろう。
「どこから臭ってくるのかしら?」
ショートカットがわざとらしく大きめの声を出しながら、一人の少年のもとへと歩いていく。
「もしかしてぇ、コレじゃない?」
「えっ……」
ショートカットが少年の服を親指と人差し指で摘まんだ。少年の顔は既に動揺と困惑に染まっている。
「ほんとだくっさーい! やっぱり漬物なんて作ってるトコの子供だから臭いが染み付いてんじゃないのぉー?」
「ちゃんとお風呂入りなさいよねー!」
ショートカットとツインテールのコンビが、何とも耳障りな声で少年を侮辱する。そういえば、誕生祭が始まる前の挨拶の際に、会場の隅で隠れるように佇んでいた少年がいた。彼は漬物を製造している会社の子だったらしい。
「お、お風呂、毎日入ってるよ」
「は? 訊いてないんだけど」
「え……」
あのショートカットがどういう意図で少年を虐めているのかは分からないが、父はこの展開を予想していたのだろう。その上で私に「地位を確立しなさい」と言ってきた。つまり、あの性悪コンビを黙らせろということかもしれない。
一人用のソファーに座っていた私はおもむろに席を立ち、そのまま部屋の隅にいる彼女らに近付いていく。見てみぬふりをしていた他の六人程度の子供たちが横目で様子を伺っているのが分かった。
「あ、え?」
困惑する少年に構わず、私は少年の服の袖を自分の鼻に近づけた。
「この香り、以前うちでも使用していた洗剤の匂いと同じ。こういう場に相応しいと言えるよう、身なりに気を遣うのは当然のことよね」
「あ、うん……お父さんが、いつものより良いの使ってくれたんだ」
少年の表情が明るくなる。当たり前だが彼から漬物の匂いなどはまったくしなかった。
「ちょっとー、誰なの貴女」
「勝手に入ってこないでほしーんですけどぉ」
三人に割って入るような形になったので、当然性悪コンビからのブーイングが発生する。私は少年から手を離し、二人の方へ振り返った。
「申し遅れました。私は月之世綴。あなたたちの会話が聞こえてきてね。彼が本当にそんな臭いを放っているのか気になって」
「つきのせぇ?」
「聞いたことないけど、私たちが誰か知っててそんな失礼な態度取ってるの?」
二人が薄ら笑いを浮かべて私を見る。この後はどうやって泣かせてやろうか――そんなことを考えている顔だ。
「漬物の匂いなんてしなかったけど」
「は?」
「漬物の匂い。彼からは洗濯された衣類の匂いしかしなかったけど。どうしてあんな嘘を吐いたの?」
自己紹介をした声の調子のまま、私は彼女らの先程の発言について言及した。二人はお互いに顔を見合わせると、可笑しくてたまらないという様子で吹き出した。
「あんたねぇ、知らないの? そいつはくっさいくっさい漬物作ってるボロ屋の一人息子なの。どーゆー間違いでパーティに呼ばれたのか知らないけど、身の程知らずがくっさい臭い撒き散らしてるから私たちが教えてあげてたんだってば」
「ええ、だから漬物のにおいなんてしなかったのにどうしてそんな嘘を吐いたのかを聞きたかったんだけど。それに漬物を作っている家の子だからといって、四六時中漬物の匂いが付いているとは普通は考えないでしょう」
「はぁー、あんた馬鹿なのぉ? 言われなきゃ分かんない? あんたの鼻がおかしくなってるから分かんないのそれはぁ。ねぇ、こんな失礼な態度取ってどうなるか分かってんのぉ?」
子供ながらに醜悪な笑みを浮かべ、二人は私に食って掛かる。最早まともな議論を交わすつもりはないように見える。
余裕を主張する為か、そもそもの癖なのか、ツインテールの方は指で自分の髪を弄っていた。品がないと両親から指摘されることはなかったのだろうか。
私が呆れる一方で、背後から狼狽える少年の声が聞こえた。標的は私になったのだから離れれば良いものを。
「私の嗅覚が異常なの? 貴女たちではなく?」
「はぁ!?」
「もういーよ、りあな」
りあなと呼ばれたツインテール女が顔をしかめたが、ショートカットの制止によってそれ以上何かを言ってくることはなかった。やはりこちらの方は取り巻きのようだ。
「後悔させてやるから」
そう言ってショートカットは意地の悪い笑みを浮かべた後、突然その場で尻餅をついた。
「きゃあああっ!」
突然の悲鳴に、私たちのやり取りに興味を無くしかけていた子供たち全員の視線が集まる。静まり返った部屋の中、数秒の間を置いてショートカットが嗚咽を漏らし始めた。
「酷い、なんでそんなことするのぉ……私なんにもしてないのに、痛いよぉ」
「れいなぁ、大丈夫ぅ!?」
りあながわざとらしく大声を上げて、尻餅をついたれいなに駆け寄る。どうやら私が突き飛ばしたことになっているようだ。
私は泣き声をあげるれいなに歩み寄り、手を差し伸べた。
「大丈夫?」
「はぁ!? 突き飛ばしといて何考えてんのあんたぁ! 信じらんないんですけど!」
だが私の気遣いは、りあなの大声と共に拒絶されてしまった。
周りの子供の一人が「ついてないなぁ」と呟く声が聞こえ、その直後、大きな足音がこちらに向かってきているのが分かった。
「どうしたんだ!」
四十代程度の小太りの男性が、大きな声をあげて部屋へ入ってきた。そして、泣き崩れるれいなを目にした瞬間、男の強面が更に険しくなりこちらにずかずかと歩み寄ってくる。
「どうしたんだ麗那! 誰にやられたんだ!」
「おじさまぁ、この子が急にれいなを突き飛ばしたのぉ」
「何だとおおお!?」
男がすごい形相でこちらを睨みつけてくる中、少し遅れて他の大人たちも部屋に入ってきた。その中には私の父もおり、男は私から父に視線を移す。
「月之世さん! 貴方の娘さんが私の娘を突き飛ばしたそうじゃあないか! 一体どういうことなのかねこれは!」
少女二人とは比較にもならない大声だ。部屋全体にびりびりと響き渡るその声に子供たちは萎縮し、大人たちも少し動揺している。場の空気を男が支配しようとしている中、私の父は普段と変わらない澄ました顔で口を開いた。
「それは私の娘が一番知っているはずです。綴、説明してあげなさい」
男とは対象的な、柔らかく落ち着いた声。私は父の言う通りに状況の説明をした。
「はい。突然麗那さんがこの子のことを漬物臭いと非難し始めたので、実際ににおいを確認してみたのです。ですがそのような臭いは一切しなかったので、どのような意図で麗那さんがこの子にそんなことを仰ったのかを尋ねました」
私は父と同じように落ち着いた口調で今までのことを説明する。りあなが歯を食いしばり、物凄い形相でこちらを見つめていた。
「ですが麗那さんには取り合ってもらえず……どうしたものかと思っていたら、突然麗那さんがその場に崩れ落ちてしまったのです。手を差し伸べたのですが、りあなさんに振り払われてしまって……」
「嘘だ! れいなを突き飛ばしておいてどうしてそんな嘘つくのぉ!」
「何っ、嘘なのかね! 何ということだ月之世さん貴方の娘は麗那に危害を加えた挙句嘘まで吐くそうじゃないか一体どういう教育をしているのかねッ!! これは由々しき問題ですぞッ!!」
「先程からりあなさんは私が麗那さんを突き飛ばしたと仰られるのですが、それは私には不可能なのです」
私はこの場にいる全員の視線を集める中、静かに自分の服の袖を捲った。それを見た瞬間、勢いに乗っていたりあなの顔が青ざめる。
「今朝、家の階段で躓いてしまって。今の私は腕に大きな力を入れることはできません。何をどうしても麗那さんを突き飛ばすことはできないのです」
真っ白な包帯で肌が隠れた私の両腕を見た瞬間から、それまで私に向けられていた疑惑の視線が別のものに移っていく。
「……い、いや、いやいやいやいや。待て。待て待て待ちたまえ。見ろ諸君。なら私の娘はどうしてこのような状態になっているのだ! その包帯だって本当に怪我をしているのか怪し――」
「じ、自分で転んだんだよ」
「んんっ!?」
か細い声で抗議の声をあげたのは、ずっと私の後ろにいた少年だった。
「そ、そこの女の子が僕を臭いって言って、お風呂に入ってないって言って、でもそしたら、この女の子が助けてくれたんだ。臭くなんかないって。そしたら、いきなりそっちの子が『後悔させてやる』って言って自分で転んだんだよ」
相当な勇気を振り絞ったのだろう。少年の拳は小さく震えていた。だがしっかりと自分の意見を述べたその姿は、先程のいじめられていた様とは打って変わって見える。
「こ、この貧乏人――」
「僕も見てましたよ」
血相を変えた男の暴言を、今度は別の少年が遮った。先程「ついてないなぁ」と呟いていた子だ。
「その二人、綴さんに酷い言い掛かりを付けていました。それはもう大きな声で嗅覚がおかしいだの馬鹿だの。そして綴さんが自分の言うことを聞かないとなると、自分から地べたに倒れ込んで根も葉もないことを大きな声で喚く喚く。見ていられませんでした」
「な、ちょっと明彦あんた――」
「璃愛菜。お前らの負けだよ」
明彦と呼ばれた少年が一瞥しただけで、璃愛菜は先程までの喧しさが嘘のように大人しくなった。その瞬間、延々と聞こえていた麗那の泣き声も止み、部屋に静寂が訪れる。
数秒の沈黙を破ったのは、私の父だった。
「志之助君に言い掛かりをつけ、それを指摘した娘にも心無い言葉を浴びせ、挙句には虚言と芝居で周りの目を誤魔化し綴を貶めようとするとは……嘆かわしいことだ。我喜屋さん。お子さんに充分な愛情は注いでおられるのですか」
「わっ、私の娘は芝居などしていない! 皆が口裏を合わせているだけだ! 貶めようとしているのはそちらではないのか! ええ!?」
泰然たる態度を取る父に、麗那の父、我喜屋は怒りを露わにして反論する。だが、我喜屋の言葉に流される者は誰一人として存在しなかった。
ある者は呆れたように息を吐き、ある者は我喜屋に対する嫌悪感を露にし、ある者はこの空間に対する興味すら失っている。初めは場を支配しかけていた我喜屋の言葉には、最早欠片の影響力も残っていなかった。
「我喜屋殿、河野殿」
厳かな声と共に、一人の年配の男性が前に出た。今回の誕生祭の主役である秋宮会長だ。
杖をつきながらもただならぬ風格を纏う会長は、静かに、されど一切の反論を許さないといった空気で言葉を紡いだ。
「今夜はもうお引き取り願おう。貴方には家族との団欒の時間が足りぬと見える。ご息女が人の上に立つ立派な跡取りとなるようしっかり教育してあげなさい」
会長のその言葉がどういう意味を持つのか。それを察した我喜屋と、璃愛菜の父である河野の表情は見る見る青ざめていく。
「いえ、会長、あの、ですがですね、次の研究開発に至ってのお話をこれから――」
「そうですとも。それに璃愛菜は麗那ちゃんを助けようとしただけであって――」
「私に二度同じことを言わせるつもりか、下郎共」
「ヒッ」
会長の眼光に射抜かれた我喜屋と河野から、それ以上言葉が出て来ることはなかった。
「いやあ、本当に助かりました。ほれ、志之助」
「あ、ありがとうございました。月之世さん」
誕生祭が終了し、各々が帰る支度を整えていた頃。
麗那と璃愛菜に言い掛かりをつけられていた志之助君は、父である蔵石氏と共に私たち親子にお礼を言いに来た。
蔵石氏は古くから親しまれてきた様々な種類の伝統ある漬物を製造しており、その味は高級料亭でも出される程。そして、その料亭にて秋宮会長は蔵石氏の漬物を大層気に入り、自分の誕生祭に蔵石親子を招待したとのことだった。
「私は娘の正義感を後押ししただけのこと。それに、あのような理不尽極まる攻撃は許されるべきではありませんよ。頭をお上げください」
父は終始にこやかに蔵石親子に接していた。このときの私はまだ父の非道さを知らず、本当に志之助君を助けるために行動を起こしたのだと思っていた。
誕生祭の帰り道、父は車の中で少し眠たくなっていた私に語り掛ける。
「もうそれは外して構わないよ」
そう言われ、私は存在そのものを忘れかけていた両腕の包帯を外す。
「お父様は、あのようなことが起こると予想して私にこれを?」
「確信を得ていたわけではないよ。ただ、我喜屋家が今回の誕生祭に出席するなら何かあるだろうとは思っていた。彼らが事あるごとに周りに因縁をつけるのは知っていたからね」
「もし、我喜屋麗那が突き飛ばされたフリ以外の方法で私を貶めようとしたら……とは、お考えにならなかったのですか?」
「そこは重要ではないんだよ。あの場において、あの娘二人が感情を露わにし、綴を言い負かせられなかった時点で、我喜屋家が場を支配できないことは明白だった。その包帯は念には念を、という奴だ」
このときの私は、「じゃあ私があの二人に言いくるめられないことは信じてくれていたんだ」なんてことを考え、一人で喜んでいた。私はそれを顔に出さないようにして父に尋ねる。
「感情を露わにしたことが駄目だったのですか?」
「そうだ。口論や討論では冷静さを欠いた方が不利になる。感情は人間の弱点だ。場を支配する者は、常に状況を俯瞰で観ているものなんだよ。覚えておきなさい。社会において優位に立つ人間は感情を周りに悟らせない者だと」
確かに麗那と璃愛菜の二人は、私が割って入ったことで不快感を露わにしていたし、最初は小さかったそれも苛立ちによってどんどん増していっているように見えた。
「あの父親はどうなのでしょう。大袈裟に声を張ることで流れを自分に持っていこうとしてるように見えました。実際、我喜屋の大声によってあの場にいた者の何人かはその迫力に飲まれかかっていたように見えます。あれは感情とは違うものなのでしょうか」
「確かにあれは我喜屋の特技ではあるが、あのように勢いだけで場を支配しようとする手法は手軽なだけに脆い。逆に言えば、あの程度で流される者なら、再度こちら側に引き込むことも容易ということだ」
我喜屋はあの少女二人をここぞとばかりに擁護してこちらを批判してきたが、それは私と志之助君の状況説明、そして明彦と呼ばれた少年の一言によってまったく力を持たないものとなった。子供数人によってあっさりと覆される我喜屋の主張は、なるほど"脆い"という言葉が相応しい。
「やはりお父様はすごいです……ですが私は、結果的に言い負かされなかったものの、志之助君と明彦君が味方につかなければどうなっていたか分かりません。あれでは地位を確立したとは……」
一番望ましい結果としては、大人たちが入ってきた段階で、既に麗那には一切の反論の余地も与えない状況を作ることだったのではと考えてしまう。
「いいや、それは違う」
少し表情が暗くなった私を、父は優しく笑って諭す。
「あそこで少年二人が、綴を助けるために思わず口を開いた。その時点で綴の地位は確立されていたんだよ。何も落ち込むことはない。周りの人間を引き込むことこそが重要なんだ」
場を支配するうえで重要なのは、一人で優位に立つことではなく、周りの人間が自分を助けてしまうような状況を作ること。それこそが社会で生き残る為に必要な能力なのだと父は言った。
感情を表に出さず、周りの人間を利用し、常に優位な状況を作る。
私の父はそんな難しいことをずっとやってきて今の地位を築いている。それを思うと、当時の私は月之世聡の娘であることをとても誇りに思っていた。
この男の所為で、母が意識不明の重体になったことも知らずに。
「落ち着いた?」
私がティッシュで鼻水やら涙やらを拭いている間、鈴花はずっと体育座りの私の背中を撫でていた。それが妙に心地良くて、私は昔のことを思い出しながら徐々に落ち着きを取り戻していた。
「うん」
返事をしたが鼻声だった。もう構うものか。
「私ね、今はもう父のことなんて嫌いなのに、律儀に父の教えを守っていたの。感情を出してはならない。周りの人間を利用しろって。でも父への不信感でそれが変にこじれて、自分の弱さから目を背けて、ただ周りへの愛想だけは良い人間になってしまった」
故に、周りの人間を信用することもできずに、自分の負の感情を押し留めて行き詰まってしまった。幼少期に父の教えを道標に生きてきた小娘が、今になって父に反抗しようとしてもできるわけがないのだ。
だから、取るべき行動が分からなくなって、自分の殻に閉じこもった。
「どうしたら良いのかな」
それは今も変わらない。自分がどうしようもなく脆い人間であることは分かった。そのうえで助けが欲しくて堪らないと思っていることも自覚した。でも、それを理解しても次にするべき行動が分からない。
散々鈴花に怒鳴った挙句、どうしたら良いのか訊くなんて都合が良すぎる。良すぎるが、もう自分の感情を偽っても仕方ないから話すしかない。
「うーん、そうだねぇ……」
私の隣で正座をしている鈴花が唸る。「知らない」と言われなかったことにほっとしている自分がいた。
「今私に言ったようなことを、もういっそ皆に話してみるとか」
「えっ」
「きっと皆、綴ちゃんがここまで助けを欲しがってるって知らないんじゃないかな。そもそも使用人の人たちは廻ちゃんのことも祈さんのことも忘れてるだろうし」
「ま、待って。そんな急な、しかも廻のことも話すって、それってつまり超能力のことも?」
あんな現実離れした話を、私から使用人たちに話すだなんて。しかも今の私の気持ちも一緒に聞かせてしまったら、いよいよもって私は呆れられてしまう。
「そんなことして皆辞めていったらどうするの」
「うーん……それなんだけどさ」
鈴花は少し言いにくそうだが、その目に迷いはなかった。私は彼女が何を言うのか不安に思いながら次の言葉を待つ。
「綴ちゃんがこれまでのことと、自分の気持ちを正直に話して、それで呆れて辞めちゃうような使用人さんはさ……きっと、危ないときでも綴ちゃんを助けてくれないような気がするんだよね。だったら、辞めてもらっても良いのかなぁ、って」
「え、ええっ?」
私は困惑するしかなかった。
のんびりしてそうな顔でそんなことを考えていたなんて。
「だって、ここに来て数ヶ月も経ってない私ですら信じられた話だし、綴ちゃんのこと助けたいって思ったんだよ? バイトメイドですらだよ? それなのに私と同じような気持ちにならない正規のメイドさんがいたら、それはもう、ねえ」
へんてこな言葉を使う癖に表情は真面目だった。つまり本気で言っているのだ、このおっとりバイトメイドは。
「もう、ねえじゃなくて! だって貴女は私の友達でもあるし、最近は一緒にいる時間も長くて、その、す、鈴花は人より優しいからそう思ったかもしれないけど。全員が主の娘の為に尽くしてくれるかなんて……」
「えー、私普通だよ」
何なんだその自信は! どうしよう、この子は自分が相当なお人好しだと自覚していない。皆が皆、鈴花のように優しいわけではないのに。一体どうしたら自覚してくれるのか。
「ううん、鈴花は優しすぎる。仮に貴女の言う通り、辞めたい人は辞めれば良いって気持ちで今回のことを全て話しても、私はほぼ全員が呆れて取り合ってくれないと思う」
「じゃあ残った人で今後のことについて話し合おう」
彼女は尚も前向きだった。私が懸念していることを全て何でもないことのように受け止めてしまうので、私はその温度差に言葉を失った。
「あ、いや、でも話すのは綴ちゃんだもんね! ごめんね無責任なこと言って。綴ちゃんが嫌なら駄目だよね」
硬直している私に気が付いたようで、鈴花が慌ててフォローを入れてきた。
実のところ、全力で拒否したいわけではない。このままでは何の進展もないどころか、廻と再び会うことなど到底叶わない。何とかしなくては、という気持ちは復活しているのだが、その方法が全く思い付かないのだ。かと言って、鈴花の提案をそのまま実行する程の度胸は、今の私にはない。
要は、踏ん切りが付かないだけだ。
「嫌……というより、もし話をすることで使用人たちが私の味方をしてくれなくなったら、いよいよ私は孤立してしまう。そうなったらもう、何もできなくなるんじゃないかと思って」
情けないことに、そうやって自分の意見を口にするうちに、私の自信はどんどんなくなっていく。冷静になればなるほど、自分に何かを為すことなどできないと考えてしまう。故に、そんな人間が相談をしたところで付いてきてくれる者などいないと思ってしまうのだ。
「孤立なんか絶対させないよ。私がついてるから。私は何があっても綴ちゃんの味方だからね」
真面目なトーンでそんなことを言う鈴花の顔を、私は思わず凝視した。
多分私は驚いた顔で見つめていたのだろう。数秒の静寂の後、鈴花はまた慌て始める。
「あっ、ご、ごめん! 私だけいてもしょうがないね! ポンコツメイドだもんね!」
突拍子もないことを真顔で言うかと思いきや、またすぐに慌てふためく。
自分に自信があるのかないのかどっちなのやら。
そうだ、ずっとそうだった。
最初に会ったときから、よく知りもしない金持ちの娘に随分と親切な少女だった。
得体の知れない家の使用人なんて、さっさと辞めてしまえば良かったものを。
まったく、この阿實鈴花という人間は、本当に――。
「……くす、ふふ、ふふふ」
急に笑い出した私を見て、鈴花は目を丸くしたまま固まっている。
「ふふふっ、もう、何それ、貴女ね、私がついてるからって、あははっ、ふふふふっ」
「え、え?」
止めようとしても、体の底から笑いがこみ上げてくる。さっきは怒りで今度は笑い。私も大概、忙しない人間だ。
「だ、大丈夫?」
「あはは、ははっ、はー、ふぅー」
ああ、駄目だ、止められない。
私はお腹を抱えて、涙が出るくらい笑った。こんなに笑ったのはいつぶりだろう。
もう息が切れる程に笑った後、私は少しずつ呼吸を整えてから困惑する鈴花を見やった。
「あー、うん、大丈夫大丈夫。あの、あれね。皆に話すわ。今までのこと」
ぱちくり、ぱちくりと、鈴花の目が二回瞬きをする。
ああ、これは何を言われているか理解するのに時間が掛かっている顔だ。
そしてきっと次に来るのは、とんでもなく驚いた声。
「――え、えええっ!? 何何何、今の大笑いで何が起こったの!? あれかい、ヤケクソかい!?」
「ヤケクソじゃないわよ。ちゃんと分かってるから」
「だってすっごい嫌な顔してなかった!?」
「嫌だったけど嫌じゃなくなったの。だって鈴花、何があっても味方でいてくれるんでしょ?」
「いやうんそれはそうだけど」
「じゃあ何とかなるでしょ」
「買い被りすぎでは!?」
さっきまでは真顔でさらっととんでもないことを言っていたくせに、この慌てふためきようは何だ。私が渋っているときは皆に話すことを勧めてきたというのに、いざ話すことを決心したらこんなに大騒ぎして。
「何、頼ったら駄目なの?」
「いやいやそんなことないよ。いっぱい頼ってよ」
「じゃあ良し。私これからいろいろ考えることがあるから、今日はお帰りなさい」
「えーまたそんな急な」
「良いから良いから」
私は立ち上がり、頭まで被っていたシーツを自分のベッドに戻す。座っていたときには気にしていなかった窓の外の景色は、もうすっかり紅に染まっていた。私はそのまま鈴花も立ち上がらせ、退室するように促す。
「ええー、ほんとに大丈夫?」
「大丈夫大丈夫」
「鼻真っ赤だけど」
「それはさっきまで泣いてたから!」
もう、折角私が主導権を握って終わろうとしてたのに、どうしてそこを蒸し返すのだろうこの子は。
鈴花がこれ以上変なことを言わないように、私は強引に鈴花の背中を押して入口まで連れてきた。
終始困惑していた鈴花も、流石にここまでされると諦めがついたのか、「うーん、じゃあ取り敢えず帰るね?」と言ってドアノブに手を掛けた。ぎぃ、とドアノブを回す音がする。
そして、鈴花がこちらから視線を外したのを確認してから、私は彼女の背中に後ろから抱き着いた。
「わ、綴ちゃ――」
「振り向かないで聞いてね。ありがとう鈴花。本当にありがとう。嬉しかった。多分貴女がいなかったら私潰れてた。とっても頼もしかった。まだちょっと自信ないけど、取り敢えず大丈夫だと思う。だから、また明日会いに来て欲しい。一人は心細いから」
はやる鼓動を落ち着かせながら、私は言葉を紡いだ。
もう強がりは言わない。正直に自分の気持ちを伝える。でも、まだ恥ずかしいから、鈴花の背中に言わせてもらった。それくらいなら、許されるだろう。
鈴花は慌てもせず、腕を回している私の手にそっと自分の手を重ね、「うん」とだけ相槌を打った。
「また、明日来るね」
そして、私が腕を緩めるのを確認すると、そう一言だけ言って、私の親友は振り返らずに部屋を出て行った。
私はゆっくりと閉じられた扉を見つめる。
もう、鍵は掛けなかった。




