本当の気持ち
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私はずっと廻のことを守っていると思っていた。そう思い込むことで自尊心を保っていた。
変化はあったのだ。私はそれに気が付かないようにしていただけで、廻はここ数週間で大きく変わっていた。以前はしなかった何かを憂いている表情。私を見るときの温かく穏やかな目。内気だった頃には見せなかった明るく前向きな態度。私はそれに違和感を覚えていたはずなのに、現状が変わることを恐れて、無意識にそれについて深く考えなかった。
頼りになるお姉ちゃんでいたかったんだ。
愚かだ。反吐が出るほどの愚劣。何がお姉ちゃんだ。下らない。こんな器が小さくて無知で妹一人守れない小娘が、一体何を守れるというのか。
もう廻は体感で何十年も生きている。向こうの方が年上だ。では私は何だ。私の存在意義とは何だ。
もう何も分からない。きっと何もしない方が良い。それが一番良い。
部屋に入ってきた鈴花は、まずドアのすぐ横で丸くなっている私を見つけた。私は顔を見られたくなかったからシーツで体を覆っていた。
「綴ちゃん?」
鈴花が友達として私の名を呼ぶ。私は応えない。応えてもその先がない。
しばらく沈黙していると、鈴花がテーブルに置かれた廻の絵本に気が付いたようだ。ぱらぱらと絵本をめくる音がする。
「え……」
続く動揺の声。手記に気が付いたのだろう。それを読めば鈴花も理解するはずだ。歪められていた現実と、隠されていた真実。それを知ったうえで、私たちには何もできないということを。
全て思い出した。母のことも、廻が海外になんていないことも、静城がいなくなっていることも。そうだ、あの日私の部屋に五和理己が現れて、為す術もなく私は記憶を書き換えられた。全ては父の思うがままだったのだ。そして今も、また五和理己が現れるのではないかという恐怖に私は縛られている。
何度かページがめくられる音が続いた後、鈴花が絵本をテーブルに置く音が聞こえた。
「読んだ? じゃあ早く辞表を出して家に帰りなさい。貴女も巻き込まれるかもしれないから」
鈴花は一度、私と父の会話を聞き、父に反抗的な態度を取ったことがある。加えて、静城のことも忘れているとなると、彼女も同じように記憶を書き換えられていると考えて良い。つまり、鈴花にも危険が及ぶ可能性がある。そんなことはあってはならない。鈴花は正式な使用人ではないのだから。
いや、そもそも、もう私以外の人間にこれ以上危険な目には遭って欲しくない。
私がそんなことを考えている間、鈴花からの返事はなかった。もしかしたら、あまりの衝撃に何もできなくなっているのかもしれない。それを思うと、混乱しているのが私だけではないという事実に少し気分が落ち着いた。
つくづく自分は小さい人間だと、同時に嫌悪感も覚えるが。
私はシーツで体を覆ったままゆっくりと立ち上がり、絵本に視線を落とす鈴花の背中に近付いた。
「鈴花。家に帰りなさい。それで、ここで見聞きしたことは全部忘れて、今までの生活に戻りなさい。私を助けたいって言ってくれて嬉しかったわ。でももう、どうしようもないことだから。貴女は何も考えなくて――」
「前にもね」
普段と変わらぬ温かい鈴花の声が、掠れ気味で弱々しい私の声を遮った。
「源氏さんたちに同じことを言われたのを思い出したよ。こんなことに巻き込んで申し訳ない。辞めたかったら辞めて良いって。そのときの私はどうして良いか分かんなくてさ、ちゃんとお返事ができなかったけど」
鈴花はそっと廻の絵本に触れた。
「でもね、今なら胸を張って言えるよ。私辞めない。だっておかしいもん。皆良い人たちばっかりなのに、辛い思いばっかりしてる。廻ちゃんも、綴ちゃんも、静城さんも源氏さんも。そんなの駄目だよ」
「……おかしいとか駄目とか、そういうことじゃなくて。どうしようもないの」
「そういうことだよ」
鈴花が振り向いた。私はシーツを深く被って顔を隠してしまう。
「綴ちゃん。怒っても良いから聞いてね」
不意に手を握られ、体が強張る。私は思わず鈴花から更に顔を背けた。
「私、まだここに来て全然経ってないけど、それでも今の状況は間違ってるって思う。あんなに優しい廻ちゃんが変な実験に巻き込まれて、誰よりも廻ちゃんのことを大事に想ってる綴ちゃんがこんなに落ち込んでる。どうしようもないとか、何もできないとか、そうじゃない。間違ってるんだよ、今の状況は」
鈴花の声からは強い意思を感じる。
私が取ろうとしている心の距離をどんどん詰めてくる。
それが今の私にとっては、苛立ちの燃料にしかならなかった。
「……何、間違ってるから何?」
私は鈴花の手を振り解き、シーツを放り捨てた。
「じゃあどうするの? 町に出て私の妹を助けてくださいって言って回る? 使用人全員で父を押さえつけて言うことを聞かせる!? 無駄よ、何をしようとしても無駄なの! 今までだって全部あの人が先回りして私がやろうとしたことなんて何一つ上手くいかなかった! そもそも使用人なんてね、私より父の言うことが絶対なんだから最初から頼りになんてならないの! 何が綴様よ、月之世聡の娘だからそう呼ばれてるだけ! 誰も助けてくれない! 私がいる意味なんてない!」
鈴花から目を背けたまま、抱えていた負の感情をどんどん吐き出してしまう。誰にもぶつけられなかった怒りが、あろうことか初めて出来た友人に向けられている。鈴花は関係ないのに。何も悪くないのに。
「お母様がいなくなったときだってそう! いつの間にか私たちは記憶を奪われて何もできなかった! 何かしようとするとすぐに父に邪魔される! なら最初から何もしない方が良いの! このやり取りだって明日には忘れているかもしれない! 超能力なんて馬鹿馬鹿しいものの所為で! だからもう帰って! 私はもう何も考えたくないの!!」
あの日、母は「構ってちゃんをとっちめてくる」と言って家から姿を消した。結局母は帰らず、私は泣きやまない廻を懸命に慰めながら母を待っていたものの、気付いたときには何もかも忘れていた。母がいなくなった次の日から、私たちは今のような生活に戻っていたのだ。きっと、ずっとそうやって真実から遠ざけられてきたのだろう。
喉が痛くなる程に、私は今までの鬱憤を吐き続けた。鈴花がどんな顔をしているのかは分からない。だがここまで一方的な感情をぶつけられて平気な人間はいない。きっと私に呆れて出ていくだろう。それで良い。妹を助けられず、友にも見限られる。茶番のような人生を送ってきた私に相応しい結末だ。
一秒、二秒、三秒。
秒針の音だけが部屋に響いている。
どうして、出て行かない。
四秒、五秒、六秒……早く。もう良いでしょう。
私はもう独りになりたいのに。
それから十秒近く経っても、鈴花は声一つ出さなかった。私は沈黙に耐えきれず顔を恐る恐る上げてしまう。
「どうしたの。まだ溜まってることあるんじゃない? ほら、全部出しちゃおうよ」
――そこには、怒りなど微塵も感じさせない、温和な表情をした鈴花の顔があった。
私の手に、更に強く力が籠る。
「……何その顔。何なの、何が言いたいの。私みたいな人間には何を言われても平気ってわけ? 良いわよね貴女は気楽で。家の重責もないしあんな素敵な両親に恵まれて。自由気ままに生きられるんだもの。私の気持ちなんて到底分からないでしょうね」
先程まで見られなかった鈴花の顔を正面から見据えて、私は内側から湧き出る汚い感情を次々にぶつける。
「あはは……まぁ、確かに恵まれてるかもしれないね」
そんな私とは裏腹に、鈴花は困ったように笑った。その仕草が更に私の怒りを煽る。
「はぁ? 何よそれ。さっきから私に言われ放題なのにへらへら笑って。ふざけてるの? こんなに好き勝手言われてるんだから貴女も少しは怒ってみなさいよ」
「怒るわけないよ」
鈴花は笑うのを止めた。その真っ直ぐな瞳に、止め処なく溢れ出ていた私の言葉はそこで詰まってしまう。
「綴ちゃんが、やっと正直な気持ちを出せてるんだから。ずーっと思ってたんだよ。無理してるんだろうなって。でも今、こうやって誰にも言えなかったこと、ぜーんぶ私にぶつけてくれてる。やっと本音でお話してくれたんだもん。怒るわけない」
私は言葉を失った。私はこれまで廻のことで頭がいっぱいで、鈴花に何を思われているかなんて考えもしなかった。自分でも彼女の前で強がっているなんて自覚したことはなかった。
「いや……私、は」
「誰かに助けて欲しいけど、誰にも頼れなくて、でも不安でしょうがなくて、必死に強くあろうとしてたんだよね。初めて会ったときから思ってたんだよ。なんて寂しそうな顔をする人だろうって」
心の奥底に沈めていた正直な気持ちが、鈴花によって掬い上げられる。駄目だ。そんなことをしたら。今だって怒りで何とか自分を保っていたのに、そんな優しさに満ちた顔で私を見ないで欲しい。
何か反論したいのに、上手く声が出ない。でも無理に話そうとすると、押し留めていたものが全て零れてしまいそうになる。
「ね、もう無理するの止めよ。どうにもならないとか誰にも頼れないとか考えるのやめてさ。正直な気持ち全部出しちゃって良いと思うよ」
鈴花が私に歩み寄ってくる。私は距離を取ろうとしたが、体が動かなかった。さっきはあんなに強く手を振り解いたのに、今は鈴花を拒絶できなかった。
鈴花の温かい体が私を優しく包み込む。今の私に鈴花を振り解くだけの力はなく、そのまま鈴花に体を預けてしまった。
「思ってること、全部聞かせて欲しいな」
駄目だ、そんなの駄目なのに。
「……ほんとは、ほんとは誰かに助けて欲しい。みんなで私たちを助けて欲しい。お母様も廻もいないのなんてやだ。みんな一緒がいい」
「うん」
「父が憎い。私から全部奪っていくあいつが嫌い。みんなであいつをやっつけて欲しい。超能力とか知らない。あいつをやっつけてまたみんなで幸せに暮らしたい」
「うん」
「廻を守れない私なんていても意味ないって思った。でも……こんなだめなお姉ちゃんだけど、また廻とお話したい。お姉ちゃんって言って欲しい。廻の声が聴きたい」
「うん」
ずっとずっと出さないようにしてきた、私の弱い部分が全部出てくる。考えないように押し込めていた正直な気持ちは、一度開けてしまうともう自分で止めることはできなかった。
鈴花の服は私が握っている所為で皺になり、肩は私の涙の所為で濡れてしまっている。
「それだけなのに……何で、何でそんなことも叶わないの。もうやだ、月之世家の責任とかどうでも良い。廻に会いたい。お母様に会いたいよぉ……」
それが、偽りのない私の本当の気持ち。今の私は月之世家の次期当主でもなく、妹を守る姉でもなく、ただ一人の小娘として鈴花に泣き付いていた。
母とはぐれた子供のように、ただひたすらに救いを求めながら泣きじゃくる一人の小娘だった。
嗚咽を繰り返す私を抱きながら、鈴花はその温かい手で私の背をさする。
「ごめんなさい。ごめんなさい……鈴花に酷いこと言っちゃった。羨ましくて、あんなに幸せそうにしてる鈴花が羨ましくて……」
「気にしてないよ」
私の嘆きも、怒りも、悲しみも、鈴花は何一つ否定することなく聞いてくれた。蔑みもせず困惑も動揺もせず、ただただ感情を吐露する私を抱き締めてくれていた。
それからも、私はしばらく泣きじゃくりながら鈴花の腕の中にいた。もう全て出し切ってしまったのに、涙だけが止まらない。呆れるくらい泣いたというのに、どうしてか涙を止めることができない。
それでも先程よりは落ち着いてきた為、こうして慰められているのが何だかとても恥ずかしくなってきた。
「鈴花……もう、大丈夫」
「ほんとに?」
「うん」
「まだ我慢してることない?」
「うん……全部出た」
未だ涙声の私だが、鈴花は私の意思を確認するとそっと体を離し、鼻をすすりながら俯いている私の顔を覗き込んだ。私は顔を逸らしたかったが、彼女はもう私の醜い部分を全部知ってしまっている。今更だ。
鈴花は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった私の顔を見ると、ちょっとだけ可笑しそうに、けれど柔らかく微笑んで言った。
「とりあえず、ティッシュ持ってくるね?」
「……うぅ」
恥ずかしさで死んでしまいそうだった。