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ツキノセ  作者:
37/65

少女の記憶

ご閲覧ありがとうございます。

 理己が覚えている最初の記憶は、白に囲まれた狭い世界だった。

 白い服の自分、自分と同じ白い服の子供たち、同じ白でも、自分とは違う白い服の大人。

 そこは毎日が平和だった。ご飯は美味しくて、遊ぶものもいっぱいあった。でも、引っ込み思案な理己は、毎日を同じ部屋の中で、音楽を聴いたり絵本を読んだりして過ごしていた。

 ある日、大人たちが子供を連れて行くのが見えた。理己はあの子供がどこに行くのかを姉に訊いたが、姉は答えなかった。その子供は帰ってこなかった。


 その日から日常は一転した。別の部屋に連れて行かれ、腕に痛いものを打たれた。死にたくなかったら我慢しろと言われた。姉も自分と同じことをして耐えたという。理己は姉を見習って耐えた。

 ある日の夜、姉は泣いていた。なんだか難しいことを言っていて理己には理解できなかったが、姉が泣いていると自分も悲しくなり、一緒に泣いた。


 白い服の子供たちは日に日に減っていった。皆がどこに行ったのかは誰も教えてくれなかった。

 その日は痛いことは何もなかった。ただよく分からない形のものを触るだけで終わりだった。きらきら光って綺麗だな、と理己は思った。

 その日も姉は泣いていた。白い服の大人たちは大騒ぎをしていた。皆の様子がいつもよりおかしくて理己はそれがとても怖かった。


 たくさんの白い服の大人たちが真っ赤になって倒れていた。

 嫌な臭い。嫌な声。大人たちの体から、零れている、赤い、紅い、その、中身が――。

 理己は怖くなって姉を探した。白い服の子供たちは誰もいなかった。

 たくさんの赤い大人たちが倒れている中心に姉はいた。

 姉は笑っていたけれど、まったく楽しそうには見えなかった。

 姉はまた、よく分からないことをたくさん言っていた。今度からはおねぇと呼ぶのは駄目だと言われた。悲しかったが、おにぃなら呼んで良いと言われたのでそうすることにした。


 姉に付いていくと、とても目がちかちかする場所に出た。天井が青かった。いろんな色がある場所で、とても広かった。

 理己がこれからどうするの、と姉に訊くと、「ほご」をしてくれる場所に行くと言っていた。よく分からないので、理己は結局姉に付いていくしかなかった。


 あの青い天井は「そら」というらしい。そら。空。空を飛んで安全な場所に行く、と姉は言った。なんだか楽しそうだなぁと理己はわくわくしていた。

 それからしばらく経って、理己は空を飛んだ。大きな機械に乗ることになって少し怖かった。ごうごうと大きな音が常にしていて不安だったが、姉が手を握ってくれていたのが心強かった。


 子供がたくさんいるところに着いた。姉が大人と話をしている。大人たちは優しい顔で「今まで大変だったね」と言って理己を抱き締めた。白い服の大人とは別の生き物に見えた。

 そこの子供たちは元気いっぱいだった。前にいたところではほとんどしゃべることがなかった理己は、どうやって皆と接して良いか分からなかった。恥ずかしくて姉に相談することもできず、理己は常に姉の後ろに隠れながら生活していた。でも、痛いことや怖いことは何もなくて平和だった。


 それからしばらくして、嫌な顔の大人が理己たちのもとへ来た。姉は怖い顔をしていて、理己はあの日の嫌な臭いのことを思い出した。

 理己たちはその大人に付いていくことになった。周りの子供たちと馴染めなかったので名残惜しさはなかったが、あの白い部屋みたいな場所に行くのは嫌だな、と思っていた。


 連れて行かれた場所は、あのときと同じ、白い部屋だった。理己は怖くなって泣いた。泣き止むまで姉がずっと抱き締めてくれていた。

 それから何日か経ったが、痛いことは何も起きず、毎日姉と一緒に過ごすだけで他には何もなかった。知らない子供たちもいなかった。青い空を見られないのは少し残念だったが、姉と二人きりの世界はとても居心地が良かった。


 ある日、着ていた服が小さくなっていることに理己は気付いた、姉は理己が大きくなったのだと教えてくれた。新しい服を買うと言われたが、理己は姉が最初にプレゼントしてくれたこの服が気に入っていたので、少しきつくてもお気に入りのこの服を着続けることを選んだ。姉は困ったような、でも少し嬉しそうに笑っていた。

 服が破けてしまった。折角姉が用意してくれたお気に入りの服だったのに、と理己は悲しくなったが、姉が着ていた服をお下がりでくれたのでそれを着ることにした。大好きな姉に包まれているようで安心できた。


 それからも平和な日々は続いたが、姉がときどき疲れた顔をしていることが増えた。そういえば、姉は出掛けることが多い。何をしているのかは教えてくれなかったが、きっと大変なことをしているに違いない。理己は手伝いを申し出たが、やんわりと断られてしまった。


 ある日、またおねぇと呼んで良い、と姉が言ってくれた。そのときの姉は前よりも疲れた顔をしていた。理己はそれが心配だったが、前のように呼べることがとても嬉しかったので、それ以外のことはあまり深く考えていなかった。



 ある日のこと、いつも夜には部屋に帰ってくる姉がその日はまったく帰ってくる様子がなかった。理己は心配になって探しに行きたかったが、何があってもこの部屋から出てはいけないと姉に言われていたので、どうして良いか分からなくなっていた。

 それから十分、三十分、一時間。理己はこのまま姉が帰ってこなかったらと思うと、いても立ってもいられなくなった。外は危険だと言われたが、このまま姉に会えない方がずっと嫌だった。理己は意を決して部屋を出た。



「――っ! 女の子!?」

 部屋を出ると、途端にたくさんの音が理己の耳に入ってきた。何かがぶつかる音、嫌な人間の声、悲鳴。音の方に目をやると、白くて長い綺麗な髪の女性が驚いた顔で理己を見ていた。そして、慌てて理己の方へ駆け寄り、優しい声で語りかけてきた。

「ここは危ないから、一旦お部屋に戻っておいてくれる?」

「……おねぇ、いない」

 女性は苦い顔をした。直後、少し離れたところから理己のよく知る声が聞こえた。

「駄目だ理己部屋に戻れッ!!!」

 姉の絶叫だった。その言葉の意味よりも、そこに姉がいるのだという事実に理己は因われてしまい、理己は声の方へ進もうとする。

「大丈夫、お姉さんの言うことを聞きましょう」

 女性に体を止められた。嫌だ。こんな知らない人の言うことなんて聞きたくない。理己は手を振り払おうとしたが、子供の力では何の抵抗にもならない。

「あぁぁぁぁあああぁ」

 姉の声が聞こえた場所から、今度は不快な唸り声が聞こえた。

 憎しみも怒りもない。その声には知性というものが宿っておらず、理己はそれが良くないものだと勘付いた。

「おねぇ、おねぇ」

 そんなものと一緒にいるかもしれない姉を思い、理己は必死に姉を呼んだ。

 すると、最初に女性が立っていた場所のすぐ側の曲がり角からある者が姿を現した。

「おね――」

 理己が見たのは、本能のままに周囲を破壊する、人間の姿をした怪物。

 凄まじい足音と唸り声を上げながら白目の男がこちらに走ってくるのが見えたのと、女性が理己を抱えて元の部屋に駆け込むのは同時だった。瞬く間に理己は部屋に戻され、女性が外側から扉を閉める。

「鍵を締めて絶対に出てこないで。貴女のお姉ちゃんがすぐ助けに来るから」

 理己はあの怖い男が姉に何かしたのではないかと不安になり、またすぐに部屋を出ようとしたが、それを聞いて止めた。

 おねぇが助けに来てくれる。じゃあおねぇは大丈夫なんだ――その言葉を信じ、理己は部屋のロックをオンにした。


 その直後、


 聞こえてきたのは、


 何かが何かを殴り倒す音。



「ひ……っ」

 扉のすぐ前から聞こえたその不快な音に、理己は体を縮こまらせる。

 次に聞こえたのは何かが強い力で扉を叩く音。扉を壊さんとするその轟音に、理己は自分の体を抱き締めて耐えることしかできない。

 怖い。嫌だ。痛いのは嫌だ。助けて。助けて。おねぇ――

 心の中で何度も何度も助けを請う。頭の中にまで響く轟音は鳴り止まない。

「ああ、あああ、ああ」

 形容し難い唸り声がすぐ側から聞こえる。あの白目の男が扉を叩いているんだと分かった。理己は耳を塞ぎ、目をぎゅっと閉じてその場にうずくまる。

 おねぇ、おねぇ助けて、助けて――身を焼くような恐怖の中、理己はただそれだけを心の中で繰り返していた。

 音の暴力が、扉越しに理己の心を蝕む。この扉が無くなれば、少女はたちまち壊されてしまうだろう。真っ直ぐに向けられる破壊衝動は、無慈悲に理己の恐怖心を刺激する。

 そうして永遠にも思える恐怖に耐え続けていると、耳障りだった唸り声と轟音がぴたりと止んだ。

 理己は涙目になった顔をゆっくりと上げ、分厚い扉越しに部屋の外の気配を窺う。しばらく待ってみても、物音は何一つ聞こえなかった。

 理己は恐る恐るロックを解除した。何かが扉を開ける様子はない。理己はそのまま扉をゆっくりと開く。

「――っ!!」

 扉の先、理己の足元には先程の男が倒れていた。首から大量の血を流し、口から泡を噴いて絶命している。

 そして、その側には、頭から血を流して倒れている先程の女性と――


 ――全身を真っ赤に染めた姉がいた。


「あ、ああ、おねぇっ、おねぇっ!」

 理己は慌てて姉に駆け寄る。頭、顔、腕、足、出血していない部分を探す方が難しい。凄惨な姉の姿を見た理己はパニックを起こす。

「赤いの、いやだ、動かなくなっちゃう」

「……りこ。りこ、か。よか、った」

 姉は今にも消えそうなか細い声で理己の名前を呼ぶが、うつ伏せのまま動く様子はない。

「おねぇ、いやだ、元気になって」

「……り、こ。おねぇの、お話……聞いて、くれるか」

 姉は血まみれの手で理己の小さな手を握った。ぬるりとした感触と、冷たくなった姉の手を感じ、理己はますます不安な顔になる。

「……お前は、今日から……理世、だ。誰にも負けない……強くて……いつも、余裕で……どんなときも、冷静な……五和理世だ」

「おねぇ、何いってるの?」

「……ごめん、な。ずっと……一緒……に……」

 理己が状況を飲み込めないまま、姉は理己の手を握ったまま動かなくなった。

 こんな光景は前にも――そんなものは見ていない――あの白い大人たちのように――違う、そんなものは知らない。だっておねぇはいつだって――。

「おねぇ……おねぇ? 起きて? おはなしして?」

 理己は姉の体をさする。姉は理己が理解できるまで、いつも何度だってわかりやすくお話をしてくれた。まだ終わってない。まだお話は終わっていない。だからきっと起きてくる。

「おねぇ、おねぇ」

 理己はずっと姉を呼び続けた。

 体が血で汚れることも厭わず、ずっと、ずっと姉が続きを話してくれるのを、そこでいつまでも待ち続けた。


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