Midnight Sheep
夏の東京は、暑い。
そうでなくても日射がきつく、近年の異常気象で絶対的な温度も上昇気味。その上、多大な交通量の道路や冷暖房設備を大量に抱えたビル街の放つ熱気は凄まじく、しかもそれがアスファルトやコンクリートに覆われた地表の上を、行き着く先の無い死神となって這いずり廻る。
さらに追い討ちをかけるのが、太平洋側特有の雨天の多さだった。降り注いだ雨によってじっとりと湿り気を帯びた空気の暑苦しさは尋常なものではない。しかも彼らは日没後になっても決して衰えず、昼間に蓄えた熱気をこれでもかというほど振り撒くのだった。
一日のツケは夜間に襲ってくる。蒸し暑い夜を寝る時は、冷房を持っている者も決して油断できない。ましてや冷房を使えない身であっては、夏の東京とは冗談抜きに、地獄の顕現した世界なのだ。
その日も、眠れない夜だった。
コチ、
コチ、
コチ、
コチ。
規則正しい時の流れを示す目覚まし時計の音。ベッドに潜り込んでから、早くも時計の長針が一周するくらいの時間は経過しているであろう。
寝苦しい。暑苦しい。湿度が高い所為か、それとも換気が足りないのか。部屋の空気が幾分か重たくなって、じんわりと身体を上から押してくるような感覚だった。
……電気の消えた闇の中で、青年は起き上がった。
青年はまだ、この何とも言えぬ暑さに慣れていなかった。この春に東北から出てきたばかりだった青年は、東京でのアパート暮しにやっとこさ落ち着きを見出せるようになってきた程度なのだった。ウォーターフロントの情景が目に映え、一発で気に入り借りることを決めた、JR越中島駅最寄りのこのアパートの部屋も、今は眼前に横たわる巨大な運河が放つ熱に融かされ、隅っこの方から歪んでいきそうな感じさえある。
熱でうなされているのだと青年は断定した。駄目だ、埒が明かない。明日は早いから、きちんと寝なければいけないのに。こういう時に限って目はすっかり冴え、嫌というほど視界が良いのだ。聞こえてくる音と言えば部屋の隅で静かに回る安物の扇風機の回転音だけ、その余韻の隙間に広がる静寂はあまりに深すぎて、耳を傾けているとキーンと何かが反響しそうだった。
青年は窓を開けた。点滅する赤や白の光が、遥かな頭上にいくつも不規則に並んでいる。昼間見るのと何ら変わりのない、ただ只管に静けさだけの漂う運河の不気味な黒い水面が、青年にはたまらなく不快だった。しかし丑三つ時を過ぎた今、灯の落ちきった新都心の夜景に、彼を楽しませてくれるような要素はない。
もっとも青年には、川面に煌めく無限の街灯りもまた、不快感の対象であった。くたくたになって帰って来て窓を開けるたび、青年はいつもあのぎらぎらとした耀きたちが百目の如くに監視しているように思えてならないのだ。都会的な東京の景色は、青年を不必要に焦らせ、過剰に気疲れさせる。
施錠確認したっけな、と青年は呟く。天を照らす月の光が、あの底無し淵のような運河の水面でゆらゆらと揺れて輝いていた。
「そうだ」
青年は、誰にともなく、言った。
「──ひつじでも、数えてみるか」
窓を閉めた青年は仰向けになり、目を強引に閉じた。
そうして表情だけで天井を睨んだ。
眠れない時はどうする。そんな問いかけをなされた時、日本人ならば恐らく八割ほどが即答するであろう。そう、それは脳裡に柵を飛び越すひつじを思い浮かべ、眠りに落ちるまで数え続けるというやり方だ。
それで素直に眠れると信じていた時期が、青年にも存在した。ノスタルジックな感慨に浸りつつ、青年は小さく口を開く。
「ひつじが一ぴき」
「ひつじが二ひき」
「ひつじが三びき」
唱え始めた時、見えるセカイが確かに、ぐらりと不安定になった。
頭の奥がぼんやりとしてきたようだ。これなら、眠れそうな気がする。青年は自信を持った。青年の他に誰もいない夜半の自室に、青年の声は反響を伴ってひどく変わった声に聞こえた。ぴちょん、と何処かで水音が跳ねた。
子守唄ともとれるようなこの至極簡単な動作に、なぜ万民を納得させるだけの催眠効果があるのか、青年は段々と理解し始めた。幼かった頃、よく母親が寝かしつけるために歌ってくれていたのを、ぼんやりと思い出すのだ。あゝ、この行為は遠ざかるひつじを追って、混沌の海に埋没してゆく夢の世界へと青年を導いてくれるのだ。優しく、そっと。
「ひつじが十五」
「ひつじが十六」
「ひつじが十七」
視界はますます揺らぎ、
聴界はますます妙な音を捉え、
青年はそれを、自分が無事に眠気とレム睡眠の世界へと誘われているのだと解釈した。
壁にかかった日めくりカレンダーの端が、風もないのにぱたぱたとはためいている。ドアが開いたようなガチャンという金属音が、何処からか腹に響いた。
眠りの世界は深く、暗く、そして無限の宏大さを併せ持つ。青年は満足しながら、尚も数を数え続けた。そこに意思の力が働いていたのか、青年にはもう分からない。
塗り重ねられた行為は、動作は、そして観念は、人に考えるという事をやめさせる。
「ひつじが百五」
「ひつじが百二十八」
「ひつじが百七十三」
…………。
何処まで数えた時だっただろう。
セカイの揺らぎが一際大きくなったのを、青年は感じ取った。網膜に映る景色が歪みを増し、不可解な光景が次々に流れ出した。夢が、暴れ出したのだ。
ドアがばたんと開いた。地震対策で確りと固定されているワイヤーラックがガタンと大きく震え、そこに引っ掛けられていた時計が落下した。窓も換気扇も開いていない、ここは密室のはずである。
青年は数え続ける。ぶつぶつと、命令者の居なくなったロボットのように。
ギシィ、と床が鳴った。部屋の隅で充電中だったスマホのライトが、ふっと消えた。部屋の空気がほんのりと濁り、不快な生暖かさが流れ込んだ。落下音のような何かが、ばたんと台所の方向で響いた。
青年はじっとして、喚くセカイに身を任せていた。彼の仕事はただ、ひつじを盲目的に数え上げる事だけだった。壊れた機械人形のもとに、真の睡魔はまだ至らない。
「ひつじが二百四」
「ひつじが二百三十六」
「ひつじが────」
歪みがついに視界を越え、聴界を超えた。
ぐにゃりと風景が曲がった。あの真っ暗な運河にスポイトで垂らした絵具のように、天井の蛍光灯が、壁の模様が、窓が、カーテンが、ワイヤーラックが、流体のようにうねうねと曲がりくねった。布が切り裂かれる音に、肉切り包丁を落としたかのような音が重なる。青年の脳裡を、それは確かな波紋を随えて突き抜ける。貫く。
ミシリとベッドが呻いた。ドアがばたんばたんと何度も開閉を繰返した。箪笥の中の衣類がハンガーからばさばさと落下し、錆び付いた何かを引き摺るような不快極まりない音が、青年の部屋を満たした。
青年は窓の外を見た。嗚呼、東京の夜明かりが、
赤い。
紅い。
緋い。
だらり、と窓から緋色の影がぶら下がった。何本も尾ひれを引きながら、影は悠々と窓からの視界を奪う。やがてそれは窓を離れ、青年にぞわりと襲いかかった。
青年に、暇はあったはずだった。
コチ、
コチ、
コチ、
コチ。
床に転がった目覚まし時計が、暢気に唄っている。
部屋は今や、沈黙していた。ドアが独りでに開閉する事もない、モノが勝手に部屋を飛び回る事もない。人肌を傷付けるその沈黙に、部屋の空気は濁りはしたものの、かえってその温度は冷えていた。
青年は真上を向いて、ただ、じっとしていた。
数えるのはもう止めていた。そんな事をしなくても、眠る事は出来る。その事にようやく気づいたからだった。眠りとはすなわち静かである事、流れ行く時のままに身を任せる事であると。
それが証拠には醜悪な外見の睡魔がベッドの横に控え、唾の垂れた口を開けて穏やかに笑っている。その存在をひしひしと感じながら、青年はそっと、目を閉じた。ぐるぐると回転を続けていた彼の視界は、そして聴界は、ようやくゆっくりと閉じられた。もう、朝まで開く事はない。
噫、安寧はこんな近くにあったのだ。
悟りの境地についに至った青年の心は、もはや破れかけていた。
僅かに残った部位をちくりと刺したのは、諦観ではなく、後悔だった。
東京の夜景は、沈黙している。
まるで、そんな程度の事は日常茶飯事だ、とでも鼻で笑いたいかのように。
迷える羔よ、眠り給へ。
安らかに、
永遠に。
……初めて書いてみた「意味怖」ですが、解読するの大して難しくもないですね、これ……。