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水無月さん家の悪魔事情~メフィストとアッピンの赤い本~

作者: しろた こお

からん。

 店のドアが開き、黒いコートに身を包んだ男が身体を滑らせる様に店内へ足を踏み入れた。

 外は夕暮れの赤に染まっている。

その逆光の中で、男は美しく浮かび上がっていた。

 男は躊躇する事無く店の奥の方のカウンター席に腰を下ろすと、手入れの行き届いたしなやかな指でカウンターを二度程叩いた。

「報告を聞かせてくれるか」

 男は懐から、その姿と変わらない真黒の分厚い革手帳を取り出し予定を確認すると、カウンター内の店主に目線を送った。

手帳からは付箋が所々見られる。

とても細かく整理されたものだとしても、あり過ぎる。

男の仕事に対する几帳面さがうかがえた。

「生憎、貴方様がお喜びになれる様な報せは届いておりませんよ」

 カウンター内の男、『喫茶・シェオル』店主はグラスを磨きながら淡白に応えた。

他に客のいない店内で、キュウ、とグラスを磨く音だけが響く。

決して不快ではない、心地良い音に店主は酔いしれる。

「その様に悠長に構えていては、私の仕事は捗らんのでな」

 男は苛立たしげに手帳を閉じると、懐に仕舞い直して席を立った。

もう此処には用事など無いといった様子だ。

「これだけでしたら、ご用意できますが?」

 店主が取り出したのは、随分と古めかしい羊皮紙を巻いたものだった。

艶のある深紅のリボンで括られている。

 男は忌々しげにそれを引っ手繰ると、リボンを解き中にざっと目を通した。

何か得るところがあったのだろう、紫の瞳が、ほんの一瞬緩やかな光を帯びた。

「これで間違いないのだな?」

「ええ、書いてある通りです。それより一杯如何ですか、御馳走させて頂きますよ?」

 店主がグラスを掲げ微笑むと、男は肩を落とした。

「生憎だが仕事が詰まっている」

 男は、そのまま店を出て夕暮れの逆光の中へとその姿を溶かしていった。

 店主は肩を竦め、慣れているといった様に苦笑いを漏らした。

男の去った店内は、先程と何も変わらずに、あるべき時間を紡いでいる。

「急がば回れって、言いますよ?フェレス様」

 店主の呟きは、誰の耳に拾われる事無く、グラスの中に封じ込められた。

「――例の物が紛失してから、七百年か」

 最後に例の物、東方の君主・魔界七十二将の筆頭を務めるバアル所有の魔道書『アッピンの赤い本』の所在の確認がされたのは、今から約七百年前のスコットランドのアーガイル地方。

人間の小僧に出し抜かれて紛失してしまったらしく、以来それは依然として所在が確認できていない。

 この書物には君主バアルの本名、並びに忠誠を誓った悪魔達の名が記されている。

書物に記載された名を正しく発音すれば、その名の悪魔に如何なる命令をも実行させる事が可能になる。

これが万が一他の勢力の手、もしくは人間の手に渡り軽々しく使用されては堪ったものではない。

尤も、人間には正しく発音出来る筈も無いのだが。

捜索の為に地上に足を運んだのは良いものの、如何せん情報が少な過ぎる。

「そもそも最後に私が地上を訪れたのは、十五、六世紀のドイツなのだがな――」

この島国・日本で何を得よというのだろうか――。

 愚痴っていても仕方が無い、と男は頭を振った。

早急に『本』を探さねば。

 コートを翻し、男は裏路地へと足を運んだ。

 黒い長髪に紫色の瞳、長身でほっそりした体。

 少々神経質そうな顔立ち――。

男の名はメフィストフェレス。

 ドイツの魔術師・ファウストと契約し、ゲーテの「ファウスト」にも登場した、ドイツ出身の大悪魔である。


「おや、メフィストは不在ですか?」

 魔界に聳える万魔殿、ルシファーの居城。

荘厳な装飾が施された謁見の間では、魔界の天才科学者、ベルフェゴールが意気揚々と煙の出ている試験管を片手に現れた。

しかし、目当ての人物が居ない事に軽くぼやきがでる。

大抵メフィストはルシファーのチェスに付き合っているか、のんびり紅茶を飲みながら歓談に耽っていたりするのだが、今日はその姿が見えない。

生憎と毎度毎度新薬を開発しては生贄もとい、実験台として抜擢されるメフィストは、現在任務の為地上へ遠征に出向いている。

「メフィストなら、『本』の捜索で日本に赴いているぞ?何か……ああ、それか」

 皇帝・ルシファーが頬杖をつきながら玉座から声をかけると、ベルフェゴールは試験管に蓋をした。

「ええ……残念ですねぇ、せっかく良い物を持ってきたのですが」

 ベルフェゴールは残念そうに試験管をゆらゆらと揺らした。

「べル、それはどの様な作用があるのだ?」

 自分の直属の部下の悲運を哀れみながらも、面白い事には全力のルシファーである。

これまた自身の第三副官であるベルフェゴールの新薬の効能が気になって仕方が無い。

玉座から身を乗り出し、綺麗な笑みを向けてくる。

 その笑みは、嘗て天界で最も美しい天使と謳われただけあって、見る者全てを魅了する程美麗なものであった。

それは、永い事副官を務め、ルシファーと共に在り続けた彼でさえも息を呑む程だ。

「王よ、良くぞ聞いてくれました。今回は中々に自信作で御座います」

 恭しく頭を垂れ跪いていたベルフェゴールは、姿勢を正し試験管を高々と掲げた。

 ベルフェゴール。

 皇帝・ルシファーの第三副官にして発明の神である彼は、新薬や発明をしてはそれを試さずにはいられない。

 新薬を開発、発明等にも精力を注ぎ込む彼は、この時ばかりは世界の頂上に君臨している。

例え皇帝であるルシファーが異論を唱えようとも、彼の理念は揺らぐ事は無い。

それが彼の魅力である事を、ルシファーは誇りに思っていたと同時に、帝国内に自由意志が根付いていることを実感した。

「これは、飲んだ人物同士が入れ替わる事が可能になるのです!」

 チェンジリングの薬品だと、ベルフェゴールは声高らかに告げた。

薬は半透明の紫色で、一部まだ発酵が続いているようにプチプチいっている。

 余程の自信作なのだろうが、前回の自信作は『栄養剤~これで元気になったらいいのに一〇九八』だ。

効能といえば、実験台にされたメフィストの話によると、元気になるのではなく「元気になれたらいいのに」と身体の奥から得体の知れない哀愁漂う声が漏れ出し、一〇九八の痛みが四六時中体内を駆け巡るといった物。

効き目は服用した量によって区々だが、彼の話では二ヶ月近く続いたと言うのだから、拷問以外何ものでもなかった様だ。

 効き目が切れてからは、世の中が輝いて見えたと言うから、強ちネーミングセンスは悪くない。

 そして今回は、まだまともな方の様だ。

他人に迷惑を掛けない程度なら、ある程度は野放しにしているが故か、この分野はある意味無法地帯と化している。

「また面白い物を作ったものだな。メフィストが一時帰還したのなら、早速服用させてみてくれ」

 ルシファーはメフィストの苦渋に満ちた顔を思い浮かべて、喉の奥で低く笑った。

心底面白くて仕方が無いといった感じである。

「では、入れ替わる人物も探しておかなければいけませんね」

 ベルフェゴールは満面の笑みで頷きながら、懐から取り出した研究手帳に、先月人間界に観光で赴いたという将軍サロスが手土産として購入してきた、『四色ボールペン』の緑色で書き込んでいった。

これが最近のお気に入りの様だ。

何とも使い易いとの事で。

「――当たり障りのない人選を期待するぞ」

 流石のルシファーも、入れ替わりの副作用が自分の副官や、将軍クラスの実力者に及んだ万が一の事態を想像し、若干血の気が引いた。

「ええ、御任せ下さい。それに、メフィストもこれなら気に入ってくれると思いますよ」

 試験管をゆらゆら揺らしながら、その液体を翳して目を細めた。

 ルシファーは天井を仰ぎながら、「それはないな」と苦笑した。


 一方の実験台にされる事決定している事を知らぬメフィストは、裏路地から繋がった町外れの一軒家の前で佇んでいた。

 日はとっぷりと沈み、夜の支配が始まったところだ。

「ここ、か」

 懐から取り出したのは、先程、店主から引っ手繰ってきた羊皮紙だった。

そこには、『アッピンの赤い本』の調査状況と、或る日本人の名前が記されてあった。

「手始めに、此処の家主に接触をして此方での生活が困らぬよう、滞在させて貰うとするか」

 情報が正しかったならば、此処の家主、水無月創は帝国と少なからず交流があった悪魔研究家というのだから、手駒にはなるだろう。

使い捨てとは便利なものだ、と鼻で笑うとメフィストは呼び鈴を鳴らした。

「……」

 出る気配が無い。

 メフィストは苛立ちながら、もう一度呼び鈴を鳴らした。

もう一度、もう一度。

 何回繰り返したか数えるのも嫌になってくる程鳴らし続けても、中から誰か出てくる気配が無い。

 そろそろ指も限界だ。

勝手に入ってしまう事は出来ない。

その為には印が必要だ。

悪魔が人間の家を自由に出入りするためには、きちんと契約を立て、其処からのみの出入りを認証する印が必要不可欠なのだが、それがない為、こんな玄関先に立たされている。

「いい加減に……」

 掌に魔力をありったけ注ぎこみ、ドア叩いてやろうかと構えた時だった。

「どちら様、ですか?」

 振向くと、自分の背後に――。

「(……女?)」

 背後に立っていたのは、街を歩いているときに目にした制服を纏った少女だった。

 十人並みといった容姿ではあるが、どこか澄み切った瞳とふわりとした淡い栗色の髪が印象的な少女だ。

そして、何故か庇護欲を酷く掻き立てられる。

 少女は、手に大きなビニール袋を二つ持って、此方を訝しげに見詰めている。

「あの、何かご用ですか?」

 少女は困った顔で、メフィストを伺った。

此処で問答しているのも気が引けるが、家に上げてしまうのも如何かといった感じだ。

「(ここで妙に怖がられたり騒がれたりしては、元も子もないな)」

メフィストは余所行きの顔で少女を見た。

口元に笑みを浮かべ、愛想良く見せようと神経質そうな顔を出来るだけ緩めた。

「失礼、お嬢さん。私は水無月先生の知り合いの者なのだが、先生はご在宅かな?」

「あの、祖父は、二ヶ月前から出張でして――」

 少女は困ったように最後は尻すぼみ気味に声を潜めた。

 メフィストは軽く眩暈を感じた。

あの羊皮紙に書かれた情報は、全く役に立っていない。

メフィストは内心苛立ちながら頭を振ると、出来るだけ穏やかな口調で話し出した。

「申し訳ない、では私の事も知らんだろう?」

 悪魔が気を遣うというのも変な話だが、世渡りの世相術なら人間よりも永く生きている分お手のものだ。

 そしてさらっとウソもつく。

目的の為ならば、聖書でさえ引用するのが悪魔だ。

「すみません」

 少女は申し訳なさそうに軽く頭を垂れた。

 それにしても。

出張に出ているとは、手駒どころか何の役にも立たないではないか。

落胆しながらも、他の滞在先を探すより他無い、と結論を出した。

 しかし、この少女は何故此処に居るのだろうか?

「お嬢さんは、先生と暮らしているのか?」

「はい、両親が出張の間はここで預かってもらっています」

 今の話では、如何やら彼女は祖父の出張中も一人でここに居るらしい。

 先程の別の滞在場所を探すという考えが頭をもたげた。

 羊皮紙に書かれていたのはここだけだ。

 今更別の場所をこれから探すのも手間ではある。

「(これは、チャンスではないか?)」

 魔界の支配者に感謝の念を捧げ、この機を逃してなるものかと、メフィストは少女の肩を押さえた。

「あの、なんですか?」

 少女が逃げようと肩を引くがびくともしない。

メフィストは構う事無く少女の額に人差し指を当てた。

「我は汝の主、我が意に従いこの者を眠らせよ……」

 青白い光が溢れ、少女の額に吸い込まれていったかと思うと、少女はそのまま崩れ落ちた。

 身体を支えてやり、彼女の懐をやや遠慮がちに探る。

 少女の持っていた袋が落ち、困った事に卵が鈍い音と共に破損してしまった。

「これだな」

 懐から探り出した自宅の鍵。

 これで何の苦労もなく家屋に入ることが出来る。

入ったのなら先ず、生活空間の環境整備と夕餉の準備をせねばなるまい。

 メフィストは少女を肩に担ぐと、家の中へと堂々と入っていった。


「これが、年頃の娘の部屋か?」

 少女の部屋と思しき室内に足を踏み入れたメフィストの目に飛び込んできたのは、見るも無残な光景だった。

 生活感も何もあったものではなく、そこいら中に散乱するメモ書き、書籍が無造作に積み上げられた机、埃っぽい空気と使った痕跡の無いベッド。

 流石のメフィストも頭を抱えずにはいられない。

「掃除だな」

 メフィストは少女を一旦、廊下にある備え付けの椅子に下ろすと、コートを脱ぎ、ワイシャツの袖を捲くった。

 右手の中指をくいと動かし、家具一式を移動させる。

散らかっているだけで、汚いわけではなさそうだ。

メフィストが指をバチンと鳴らすと、床に散らばったメモが勝手に一括りになり、積み上げられた書籍も順番どおりに本棚へ収まる。

床や天井の埃を掃いとり、最後に夜ではあるが窓を開け放って空気の入れ替えを図る。

「完璧だ」

 メフィストは自分でも惚れ惚れする出来に、満足気に頷いた。

 先程までは未開の地だった部屋が、多少のアレンジを加え、今は自分好みの部屋になり、輝いてさえ見える。

 しかし、本来これは自分の仕事などではない事に気付くと、激しく後悔の念に駆られた。

自分は魔界でも名を馳せた名門の出の筈なのに、何故人間界で他人の部屋の掃除をして満足そうにしているのか……魔界に帰ってからが怖い。

決して趣味ではないが、掃除は完璧だ。

後は、この娘が目を覚ますのを待ちながら夕餉の仕度をして、今後の事を話してとりあえずは協力を求め、それでなければ一時的にでも協力を求めれば、事なきを得る。

 今日は、ビーフシチューにするか。

 少女の手にしていたビニール袋の中を吟味すれば、そのメニューだったと推測できた。

 無残にも割れてしまった卵は殻を取り除いて、玉子焼きにでもすれば問題はない。

「デザートは無花果のコンポートで決まりだな」

 頭の中では今日の夕餉の完成予想図が出来上がっている。

 メフィストは椅子に座らせたままの少女を担ぎ上げて、掃除したての室内にあるベッドへ寝かせた。

そして、台所に向かうまで廊下などを、ついでといわんばかりに改装をして歩いた。

他の部屋は後日改装するしかない。

夜の支配下になってから随分と経つし、幾ら町外れといえどもご近所さんに迷惑をかけてはいけない。

人間界に潜伏する為には、色々と制約がついてまわるし、モラルや一般常識が身に付いていなければ順応できない。

 人間界に来るまでの間、人間社会のルールというものは学んでくる。

それが任務遂行の為の第一手段なのだ。

 人間社会のルールを学ぶためには、専門機関での講習並びに実地研修が行われる。

講師や監督員は現役を引退した悪魔、つまり人間界で仕事をしていた経験を持つ悪魔達である。

尤も、引退してから時間が経てば経つほど人間社会も変わるため、引退してから間もない悪魔が議会などで選ばれる。

メフィストはその講習や実地研修を終えてから随分年月が経っているが、今回の任務を受けた。

皇帝・ルシファー直属であるため、命が下れば任務をこなす事は今までもあった。

日本に来るのは初めてであるものの、今までの経験は無駄になっていない。

メフィストは目的のキッチンに着くと、意気揚々とエプロン姿になった。


「随分眠ってた気がする――」

 少女は、滅多に使われていない冷たいベッドの上で身体を起こした。

 自分は特売で購入した卵を落とす夢を見た。

散々だ、ツイテない。

「なんか、へんな夢見たなぁ……お祖父ちゃんの部屋が、片付いている?」

 散らかり放題だった祖父の部屋が、見違えるほどに片付いている。

それに、よくよく見ると、何所かしら豪奢になっている気がする。

ほんの僅かだが、間違いなく品が良くなっている。

「改装業者でも、来た?」

 家主がいない間に改装する業者などありはしないが、もしかしたら、出張前に祖父が頼んでいたのかとも思ってしまう。

少女の頭では追いついていくのさえ難しい状況なのは仕方が無い。

 少女はベッドから降りると、警戒しながら部屋出た。

「此処で固まっていても、仕方ないよね」

 と、部屋を出た途端何かにぶち当たった。

自分より大きい何かだとは解るし、何やら温かい。

まるで、誰かにぶつかった感じに似ている。

「目が覚めたかね、お嬢さん」

 ぶつかったのは夢の中で見た男だった。

 姿が少しだけ―エプロンなんかは着けていなかった筈なのだが―違う位なのだが、確かにあの男だ。

 少女は小さく頷いた。

 何故この人が家に上がり込んで―しかもエプロン姿で―いるのだろう。

それ以前に、あれは夢ではなかったのか。

そして、此処は本当に祖父の家なのか。

何故自分はこの時間まで眠りこけていたのか……様々な疑問を飲み込み、少女は口を開いた。

「あの、何が何やら解らないのですが」

 それだけを伝えた。

何も解らない、だから教えてくれと。

 メフィストは顎に手を添えながら、少女を見下ろした。

自分の周りにはいないタイプの、おどおどした表情。

少し腰を引きながら話すのも、目線が定まらないのも、全てが面白い。

「(小動物だ……)」

 メフィストはゆっくり近付くと、右の手を少女に差し出した。

「お喋りなら、食事をしながらだ」

 少女は、おずおずとその手をとった。


「美味しい」

 少女は、メフィスト特製ビーフシチューを口に運ぶと、目を瞬かせた。

自分が作ったもの以外、ここ暫くは口にしていなかった。

 少女の嬉しそうな顔を見ると、メフィストは口元を綻ばせた。

 メフィストはスプーンを口に運びながら、少女と向かい合っている。

邸宅でも、他人とこうして向かい合わせで食事をする事など滅多に無いし、料理を作る事も無いのだから、気紛れとは恐ろしいものだ。

「口に合ったのだったら、良かった」

 これは、本心だ。

 実際、自分でも納得のいく味が出せたかと思うと、心なしか頬は自然に緩む。

それに、この様な少女は魔界には存在しない。

人間が存在しないのだから、当たり前の話ではあるが。

それが酷く新鮮に感じられる。

「あの……」

 少女はスプーンを止めると、メフィストに目を向けながら小さく声を出した。

それは、寧ろ搾り出したという方が自然かもしれない程、小さなものだった。

 メフィストは真直ぐに少女を見据え、二の句を待った。

「おじさんは、祖父の知り合いだと仰いましたよね?」

 少女から見れば、十分『おじさん』に見えるのだが、メフィストは少なからず衝撃を受けた。

 少女の問いに答えない訳にはいかないが、『おじさん』発言も訂正してもらいたい。

メフィストの胸中は、酷く不安定なものになっていた。

「……私の名はメフィストフェレス、おじさんではない」

 メフィストの言葉に、少女は席を立ち、申し訳ないといった感じに深々と頭を下げた。

「ごめんなさい、私……えと、メフィストフェレスさん?」

 ここまでさせるつもりなど毛頭なかったメフィストは、片手で制し、頭を上げるよう促した。

少女に頭を下げさせても、何にもならない。

「謝っていただかなくとも良い。私の事は、メフィストと呼んでもらって構わない」

 極力、優しく声をかける。

 正直なところ、自分でもこんな穏やかな声が出るとは思っていなかった。

 メフィストが苛立っていないと知ると、少女は安心したように席に座りなおした。

そして、少しだけ微笑を浮かべた。

「メフィストさんですね。私、創の孫で、水無月薫です。よろしくお願いします」

 薫はまた深々と頭を下げる。

 先程から、頭を下げすぎのような気がするが……そういえば、「日本人は腰が低い」と先日、観光で日本を訪れた将軍が言っていたか。

 メフィストは口の端を引き上げて苦笑いを漏らした。

「こちらこそ。よろしく頼む、薫」

 薫には話さねばならない事が沢山ある。

聞く耳を持ってくれている事を願おう。

「まずは、最初の質問だが、私は薫の祖父とは、実際に知り合いだったのではなく、間接的に知っている程度だ」

 自分は直接契約を交わした訳ではないし、顔も見たことは無い。

「嘘、ですか?」

 先程は知人だと言っていた。

 嘘を吐いて家に上がり込み、一体何をしようとしているのだろうか、と。

 薫の頭の中では、何もかもが真白になっていく。

「嘘ではないが、結果的に偽りになってしまった」

「どういうことでしょうか、メフィストさん?」

 よく考えてみたのなら、何の脈略も無く家に見知らぬ男が来て、然も当然の如く夕飯を作り、向き合って男の作った料理を食べているのだ。

 警察にでも、連絡した方が良いのかもしれない。

 薫が天井を仰いだ、次の瞬間。

「警察に連絡しようなんて、思うだけ無駄だ」

 メフィストは手にしたスプーンを薫に突き付けた。

「何故、解ったのか気になっているな」

 薫ががぎくりと身を固くすると、メフィストは勝ち誇ったように口の端を上げた。

「言い忘れていたが、私は悪魔だ。私は人間の思考と同じ速さで動く事が出来るし、考えている事もお見通しだ。メフィストフェレスと言えば、それなりに名は売れていると思っていたのだが、私の思い違いの様だな」

「本物の、悪魔ですか?」

 薫は目を大きく見開き、驚きを隠そうともしない。

 そんな素直な薫を面白く思いながらもメフィストは続けた。

「勿論。信じるかどうかは任せるが、薫の考えを見抜いたのも勘定に入れて考えてくれる事を期待しておこう。薫の意識を奪いこの家に入り、さらには短時間であの散らかり放題だった部屋を掃除かつ整頓し、この夕食を作り上げたスピードも考慮して欲しいものだな」

 あの部屋の散らかり具合を思い出し、メフィストは「あれが年頃の娘の部屋?」と最後に付け足した。

 薫は真っ赤になり手を振った。

「あの部屋だったら私の部屋じゃありません!祖父の部屋です!」

「……なんだと?」

「私の部屋は二階です……というか、そんなに散らかしてそうにみえますか?」

 薫は少し不機嫌そうに頬を膨らませた。

 そんな仕草もメフィストから見れば可愛いもので、ちっとも怖くはない。

「いや、散らかしてそうには見えないが……すまん」

 てっきり薫の部屋だと思っていたが、と心で呟きながらも謝る。

「別に良いですけど――信じたとして、メフィストさんは何をしにここへ?」

 薫は小首を傾げながら、メフィストを見つめた。

 創が何をしてメフィストの知るところに至ったのか、薫には理解が届かない。

「本題だな。ある書物の捜索に駆りだされたのだ。薫の祖父のことはその道の研究者でだったからな、話を聞いた事がある程度だ」

 祖父がそんな研究を? 

 薫は目をぱちくりさせた。

「これは余談だが、君の祖父、創殿は出張という事だが、恐らくその関係だろう。ちなみに、悪魔と契約しているという話は聞いた事がない」

「よかったぁ……その書物って、どんなものなんですか?」

 薫は、祖父が悪魔との契約をしていなかったと安心したように質問を投げかけてくる。

「『アッピンの赤い本』といってな、魔界七十二将軍の筆頭、バアル様の所有されていた本だ」

「特別な本なんですか?」

「まぁな。その本には閣下の部下の名前が全て記されている。これが悪用されると由々しき事態になる」

「それで、メフィストさんはそれを探しに日本に来た、ということですか?」

「そういう事だ」

 薫が矢継ぎ早に質問を投げかけると、メフィストは全てに答える。

薫がメフィストをうかがうと、メフィストは立ち上がり、薫の頭を撫でてやった。

「水無月氏に此処に滞在させてもらえるように頼みに来たのだが、出張中だとは知らなかった。それに孫がいるとも報告書には記載されていなかったからな。驚いた」

 薫は少し気を赦したのか、頭を撫でる手を気持ち良さそうに受けている。

ここ暫くは、祖父が居ない寂しさが募っていたのだろう。

「じゃあ、メフィストさんの部屋も準備しなきゃですね?」

 薫が笑みを浮かべると、メフィストは怪訝そうな顔で薫を見る。

何か理解の出来ないものに行く手を阻まれた、その様な違和感が見て取れる。

「何を、言っている?」

「メフィストさんは、此処に滞在なさるのでしょう?」

「当初はその心算だった。しかし、薫は――」

 メフィストは上半身を強張らせた。

 魔力で操る事もできるが、その僅かな時間でその考えも消え失せた。

 薫には嘘を吐きたくない気持ちが湧いてきた。

そして、逆にあっさり告げられると、こちらが困惑してしまうものだ。

何かあるのではないかと。

「怖いのではないか?」

少々間誤付きながらも告げると、薫は目を閉じて考える素振りを見せた。

「確かに、得体の知れないモノだったら怖いかもしれませんけどね。意思の疎通も出来るみたいですし、食文化にも大きな違いはなさそうですから」

 不思議な事に言葉は通じるし、嗜好も極端に違うわけではない。

薫の中では、そこだけがクリア出来ていたならば、然して問題は無いようだ。

 しかし、メフィストの心配の種はそこではない。

「(妙な噂でも立ったらどうするつもりだ)」

人間社会のご近所の情報網を侮ってはいけない。

「しかし、なぁ」

 年頃の娘。 

 しかも、祖父の出張中に男を連れ込んだと噂でもされてしまったのなら、彼女の評判も落ちるのだ。

「メフィストさん、此処を出られたら行く所はお決まりですか?」

 痛いところを突かれた。

 確かに羊皮紙に記された名は、この日本では『水無月 創』のみ。

故に水無月家以外の候補は無いのだ。

 仮に国外に協力を求めたところで、態々行ったり来たりを繰り返すのも面倒な話だ。

 今回の任務は、日本に拠点を置いて行うものである。

「日本国内のリストには、現時点で水無月創の名しかないのだが……」

 メフィストの切れの悪い言葉に、薫は軽く微笑んだ。

 自然な微笑みといえば良いのだろうか。

柔らかく、ふわふわした感じの笑みが浮かぶ。

「決まりですね」

「そうは言っても、薫に迷惑をかける事になるぞ?」

「先程、私は記憶もなく貴方が家にいたのですが?」

尚も食い下がろうとするメフィストに、薫はやれやれと首を振った。

「そ、それはだな……」

「それに、家の中も色々して下さったみたいですし。此処に留まる心算で、だったんじゃなかったんですか?」

 薫はそこまで言うと、残りのビーフシチューに手を付け始めた。

冷めてしまってはいるが、味は変わらず美味の様だ。

気付けばそれを綺麗に平らげ、デザートの無花果のコンポートもあっさり胃に納めてしまったところだった。

「それは、そうなのだが」

 尚も食い下がるメフィストに、薫は軽く微笑んだ。

「ご馳走様でした、美味しかったですよ。それと、私はメフィストさんが此処に留まる事に反対はしていませんから。お休みなさい」

 何事も無かったかのように空き皿を手にリビングを後にする薫をメフィストは軽く手を振り、無言で見送っていた。

 人間の小娘に振り回されようとしている。

しかし、不思議と悪くない。

「ヤキが回ったか」

 メフィストは額に手を当て、自嘲めいた笑みを浮かべて薫の去った席に目を落とした。

 最初は無断で押し入った形だが、それは玄関の前での問答が手間だったからだ。

 それが、いざ「どうぞ」と言われるとこう構えてしまうのは自分だけだろうか。


昨晩は色々あった。

 祖父の知り合いの知り合いというか間接的に知っている男が訪れて、自分は悪魔だと話していた。

 此処に滞在する心算だったが、女がいるとは聞いていなかったから、別の宿泊先を探すしかないとかなんとか。

「少し、遅いかな?」

 薫はさっさと着替えを済ませ部屋を出ると、洗面所で身支度を整えた。

 何も変わらない。

 日常が一番だ、イレギュラーな事態は御免被りたい。

「朝は、何にしようか」

 朝はその日の全てが決まる。

朝食もまた然り。

 薫は小走りで階段を下り、朝食作りへと向かった。

瞬時に頭の中では、朝食と昼食用の弁当のおかずがピックアップされて、きちんと映像化している。

 朝食は昨日の残りがあれば万々歳だし―あの悪魔が残して行ってくれていればの話だが―昨日特売で買ってきたものもある。

昼食は俵型のおにぎりと、ポテトサラダ、冷凍の唐揚、などと考えながら、薫は漸く台所へ到着した。

「ああ、おはよう」

 そこには、昨日『此処には滞在する事はできない』と言っていた張本人が居た。

しかも、似合っていた昨夜のエプロン姿ではなく割烹着姿で。

一晩のうちに『日本のお母さん』的要素をふんだんに盛り込んだ割烹着姿に真白な三角巾が朝日に照らし出されて、ムカつく位に眩しい。

「――おはようございます」

 薫は顔が引き攣るのを感じながらも、挨拶だけはした。

正直なところ、ドラマ以外で割烹着姿で朝食を準備しているのは、見た事が無かったのだ。

 しかも相手は生粋の悪魔。

 更に、見てくれだけならば完全無欠の紳士なのだ。

「座っていろ、持って行く」

 銀色のお玉が、朝日を反射してキラキラしている。

 何かが根本的に間違っている気がしないでもないが、薫は言われるままリビングへ向かった。

 落ち着かない。 

 テレビを点ければ、丁度星占いのランキングが行われていた。

特に信じる訳ではないが、見ていて飽きないのは事実だ。

自分の星座の順位がどこなのか、興味はある。

「蟹座は、十位か」

 下には下が居る。

 そう思えれば簡単なのだが、ここが難しいところだ。

 微妙に落ち込むが、気にしても仕方がない。

世の中に、一体どれ程の蟹座がいるというのだろうか。

「待たせたな。何だ、星占いか?」

 盆の上に朝食を乗せて持ってきたメフィストは、テレビに気を持っていかれながらも、薫の前に盆の上から自信作の『日本の朝食』を並べていった。

献立は葱と豆腐の味噌汁に、鮭の切り身、ほうれん草のお浸し、白米。

そして昨日無残にも潰れた卵で作った玉子焼き。

朝から随分と張り切って作ったものだ。

「美味しそう。ありがとうございます、メフィストさん」

 朝っぱらからこれだけの料理を作る悪魔は、そうそう居ないだろう。

 薫は素直に礼を述べれば、メフィストは少しだけ照れくさそうに「まぁな」とだけ答えた。

「いただきます……あ、美味しい」

「それは何よりだ――それで?薫は、気にするのか?」

 味噌汁に口を付ければ、「ああ、朝だな」と勝手に思ってしまう身体に哀しくなりながらも、メフィストの言葉の真意を伺う。

 小首を傾げれば、メフィストは親指でテレビを指した。

「星占いですか?」

 聞くと彼は、二回頷いた。

「気にするというか、多少は引っかかりますよ」

 苦笑してお浸しに箸を伸ばす。

 本当に美味しい。

 薫は幸せな朝の一時を堪能しながら、この悪魔の手料理に感激していた。

「そうか、任せろ」

 メフィストはさっと立ち上がると盆を叩き、身を翻して目の前で――。

「消えちゃった?」

 薫の箸からは、ほうれん草がテーブルに音を立てて滑り落ちていた。

 本当に悪魔だったのだと、妙な感心をしながらもティッシュを探してテーブルを拭こうと顔を上げると、消えたはずのメフィストがそこに立っている。

「戻った」

「お帰りなさい」

 つい、条件反射で口から出てしまう。

 昨日の今日で、随分と順応している自分に気付きながら、薫はメフィストを見上げた。

「蟹座は、本日第一位だ」

 得意満面のメフィストの手には、新聞らしき物が引っ提げられている。

 全く見た事のない字とも記号ともとれるものが羅列している。

 如何やら、魔界まで取って返してそれを土産にして来たらしい。

「これは魔界で発行されている『魔界経済新聞』だ。これによると、蟹座は堂々の第一位だ。占術のプロフェッショナルであらせられる大公・ヴァッサゴ様が、きちんと占った結果だ」

 手の甲で新聞を叩きながら、メフィストは揚々と言葉を続ける。

「こんなのは所詮人間の星見だ。気にするな」

 メフィストはテレビを指差して鼻で笑った。

 気に病んでいたつもりは無いのだけれど、という言葉を薫はそっと飲み込んだ。

自分が落ち込んでいると感じたのだろう。

態々故郷の新聞を持って来て。

 マメな悪魔だ。

「ありがとうございます。魔界にもあるのかぁ」

 まじまじと覗き込んでいると、メフィストは苦笑しながら残ったままの朝食を指差した。

「食べてしまえ。読んでやるから」

 薫の斜め前に座ったメフィストは、新聞を広げ、指を沿わせながら蟹座の運勢を、その良く通る声で読み上げていった。

「今日の蟹座は絶好調。何をしても良い方向に転ぶはず。金運はマモン氏のお墨付き、何事も当たって砕けろ!ラッキーアイテムは魔界銀製細工職人の携帯ストラップ……だそうだ」

 何やら色々理解しがたいが、メフィストは良かれと思ってした事なのだろう。

薫はただ頷くだけしかできなかった。

「良かったな。マモン様のお墨付きだ、きっと上手く行くだろう」

 良い事があるぞ、と笑みを浮かべるメフィスト。

「ヴァッサゴ様とかマモン様とか分からないんですけど」

 メフィストは笑みを浮かべたまま満足そうに頷いた。

「そうか、薫は悪魔に疎いのだったな」

 普通の女子高生は詳しくないですよ、と薫は心で呟いた。

「ヴァッサゴ様は魔界の七十二将軍のお一人で占術を得意とされている方だ。マモン様は金銭や富を司っておられる方で、万魔殿の建設も手がけたお方だ」

 魔界の説明をされてもついていけないでいると、メフィストは「まぁ、詳しくはその内な」と言って新聞を畳んだ。

「そうだ、ストラップは持っていないだろう?これを使うが良い」

 メフィストが胸ポケットを漁り差し出したのは、話の流れでは『魔界銀製細工職人の携帯ストラップ』なのだろう。

シンプルだが、素人目にも貴重品だと解る。

高そうだ。

メフィストはそのストラップを、ポンと薫の手に乗せた。

「そんなに高価な物ではない、安心しろ。プレゼントだと思え」

「貰って、良いんですか?」

 薫は信じられないといった様子で、ストラップを手に乗せたまま固まった。

 メフィストは「ああ」、と軽く頷き席を立った。

「さて、弁当は何が良い?」

 作る気なのだろうか。

 薫が躊躇していると、メフィストは口の端を引き上げてシニカルな笑みを浮かべた。

その表情の似合う事といったらない。

「これから世話になるのだからな、これ位はしてやれん事もない」

 メフィストの中で、結論は出た様だ。

 これからは、一人ではない。

薫は、それだけで嬉しかった。

「はい、お願いしますね」

「任せろ」

 薫の頭を軽く叩くように撫でるメフィストの手に、暫く感じる事のなかった安らぎの断片を感じる様に、薫は嬉しそうに目を閉じた。

その矢先。

「おむすびは沢庵と一緒に、笹に包めば良いのだな?」

「……はい?」 

間違った知識を発動させる悪魔に、正確な知識を授けるまでは、時間がかかりそうだ。

 薫は軽い眩暈を感じながらも、鮭を口に入れた。

 流石にそれを教室で食べる勇気は無い。

「将軍が日本人は『笹に包んだ握り飯を食べている』と言っていたのだ」

 この知識を与えた人物も、どこか間違っているらしい。


「ふぅ」

 薫を送り出してから、漸く一息つける。

 結局、弁当は『笹で包んだおむすび』ではなく、普通の弁当になった。

台所の棚に納められていた『今日のお弁当』という本を参考にして作り上げたのだが、この腕に掛かれば何とも簡単であった。

 まるで主夫の様な働き振りを発揮した悪魔・メフィストフェレスは、早速自らの任務の為に行動を開始すべく、準備を始める。

 用意するものは然程ない。

 愛用の革手帳と財布、百円均一で購入した五本セットの内二本のボールペン、昨日手渡された羊皮紙。

それと愛用の黒いコート。

これだけあれば、大抵は困らない。

 何か必要になったのなら、力で取り寄せる事もできるし、部下に持ってこさせる手もある。

「本屋にも行かなければ」

 料理のレパートリーを増やしたいのもあるが、カロリー計算も怠ってはならない。

その為の本を購入したい。

 すっかり人間社会に馴染み始めている自分に、哀しい笑みを浮かべると、メフィストはコートを羽織って玄関へと向かった。

 鍵は、玄関から横に入った中庭にある枯れた鉢植えの下に忍ばせる。

 古典的な方法だが、薫が早く帰ってくる事を前提にした場合の対策として、今朝緊急的に決めた事だった。

「行くか」

 颯爽と歩き出すメフィストの、真っ黒い姿と朝の町並みは、酷くアンバランスだった。


 開店時間ではないが現れた客に、店主は目を見開いた。

 昨日、散々苛立ちながら帰っていった男が、店内に現れたからだ。

「いらっしゃいませ?」

 疑問符を浮かべながら様子を伺うと、メフィストは肩眉をくいと上げて店主を見据えた。

 そして、無言のままカウンターに蝋印の捺された深紅の封筒を投げてよこした。

店主は違和感を覚えながらも、その封筒を手に取り、中を確認させてもらう事にした。

 嫌な予感がする。

 店主は震える指先で蝋印を剥がし、封筒の中を引っ張り出した。

「これは?」

 出てきたのは『魔界専用小切手』だった。

 メフィストは面倒臭そうに、鋭い一瞥を食らわせた。

「好きな金額を書け」

 横柄な物言いに一瞬唖然としながらも、自分よりは遥かに格の高いメフィストに反抗する気はしないが、眉を顰めたまま首を振る。

「理解しかねますよ、フェレス様?」

 肩を落としながら溜息を溢せば、メフィストの容赦無用の鋭い一撃が炸裂する。

愛用の分厚い革手帳の角が、見事に米神に突き刺さる。

 痛いと訴えたところで、メフィストはお構い無しに顎で「早くしろ」と急かす。

 店主は涙を浮かべながら、渋々小切手に金額を書き込んだ。

全く身に覚えは無いが、くれると言うのだから貰っておこう。

そう結論付けた様だ。

 書き込まれた金額は、メフィストにとっては痛くも痒くもない金額だった。

「これだけで、良いのだな?」

 さっと小切手を引っ手繰ると、メフィストはそれを封筒にしまい、蝋印を指で一撫でしてくっ付けた。

「何の事か解りませんが?」

 店主が食い下がろうとすると、メフィストは席を立ち出口に向かって行く。

 つくづくこの方とは相性が悪い。

 店主が嘆いていると、メフィストは振向かずに答えた。

「昨日の情報は、中々に有意義なものだったからな。感謝する」

 そういい残して、メフィストはさっさと店を出て行ってしまった。

 取り残された店主は間を置いて、豪快な笑い声を立てた。

「はは、ご褒美って訳ですか。相変らずですね」

 店主は笑いの余韻に浸りながらも、次に実家に帰った時には臨時収入が振り込まれていることを考えると、また違った笑みが浮かんでくるのを感じた。

 さて、もう二時間したら店を開けなければ。

 店主はモップを手に備え付けのレコードをかけ、軽快なステップでカウンターを飛び越えた。


「欲が無いな」

 メフィストは、店主の書き込んだ金額を思い出して苦笑した。

 現在は、古書専門店を虱潰しに当たっている。

どれも貴重ではあるが、自分の求める物ではない。

 この様な、人間が経営する書店に『例の本』があるはず無い、と言い切れないのが哀しいところだ。

 もしかしたら、万が一ということもある。

 一軒一軒、足で探す。

 天気が良い所為か、コートは脱がざるを得なくなり、持って来た事を少し後悔し始めた。

 次の店に行く為、足を踏み出そうとした時に目に飛び込んできたのは、帰りにでも購入しようと思っていた料理関連の本だった。

定価で購入するより、ここで手に入れてしまえば、余計な労力を使わなくても済む。

 メフィストは足取りも軽く、本を手にレジへと向かった。

 頭の中は、すっかり今晩の献立に切り替わってしまっていた。


「(誰かの作ったお弁当なんて久しぶりだなぁ)」

 薫は、教室の自分の席で今朝メフィストに渡された弁当箱を見つめていた。

 結局は朝の残りの玉子焼きとポテトサラダ、生姜焼きに俵型のおにぎりにおさまった。

「かーおる、何嬉しそうにしてるの?」

 友人の南涼子が正面の席に陣取り、嬉しそうな薫の頬をむにっと摘んだ。

「なんかいい事あった?」

 噂話や恋話が大好きな涼子だが、のんびり気味の薫との相性が良い。

 友人をやって暫くになるが、中々楽しくやっている。

「うん、まぁね」

 薫が曖昧に微笑むと涼子は「ふーん?」と言いながら、薫の持っていた弁当箱に目をつけた。

「今日のお弁当、好物ばっかりとか?」

「そんなとこかな」

「いつも一緒に食べてるけど、いつもは好物入れてないの?」

 涼子は軽く伸びをしながら薫の弁当箱を突付いた。

「ちょっと特別。あとは内緒」

「なにそれ、気になるよ!」

 涼子に誤魔化すように笑みを向けると、涼子は少し膨れて見せた。

「あ、気になるといえばね」

 何かを思い出したように涼子は机に手を突き、身を乗り出して薫に耳打ちした。

「今日から世界史の新野先生に代わって、新しい先生くるらしいよ?」

「新野先生もう産休だっけ?」

 新野仁美は薫の通う緑風高校の世界史教師だ。

 三十代半ばの教師で、男子生徒からの人気が高い。

「そう。なんでも男の子だって話」

「涼子よく知ってるね」

 薫が感心したように頷くと、涼子はまたしても耳打ちしてきた。

「それで、代わりに来る教師がなんとイケメンらしいよ?」

 涼子は嬉しそうに天井を仰いだ。

「独身だったらアタックしちゃおうかな」

「まだ見てもいないよ?」

 薫が怪訝そうに問えば、涼子は「あーぁ」と肩を落とした。

「薫ちゃんにはまだ早いかなぁ?」

「なんか失礼だよ、それ」

 薫が呆れると涼子は笑いながら生徒手帳を取り出した。

 涼子の情報は全て生徒手帳に記されているのだが、如何せん情報量が多すぎてルーズリーフに書き込んだものを挟んでいる。

 薫の生徒手帳とは厚さが圧倒的だった。

「何でも外国出身らしいよ?」

「本当、涼子の情報収集能力には感心するよ」

「まぁね」

 涼子はにっこり微笑むと生徒手帳を捲りながら続けた。

「年齢は三十二歳、独身。身長一八〇センチ、好きな音楽は宗教音楽だって」

「どこで仕入れるの、そんな事」

 薫は驚きながらも涼子の話に耳を傾けた。

 涼子が尚も続けようとすると、ホームルームを告げるチャイムが薫と涼子の間を裂いた。

「ホームルーム始めるぞ~」

 担任の間延びした声と共に教室のドアが開いた。

 入ってきたのは担任と、身長が一八〇もあろうかという金髪碧眼の美青年だった。

「お前ら全員いるな?早速だが、一時間目から産休の新野先生の代わりに世界史を担当してくださるミカエリス・ナハト先生だ。先生、お願いします」

 担任が促すと、ナハトは一歩前に出て綺麗な笑みを浮かべた。

「今日から皆さんと一緒に過ごす事になりました、ミカエリス・ナハトです。どうぞ仲良くして下さいね」

 一部の女子からは歓喜の悲鳴が発せられた。

 にっこり微笑んだナハトは、薫を目に留めると一瞬目を見開き、またもとの笑顔に戻った。

「(なんだろう……なんかザワザワする)」

 薫は携帯にぶら下げていたメフィストが渡したストラップを握り締めた。

「では、授業を始めましょうか」

 薫が動揺しているとホームルームは終わり、一時間目の世界史が始まるところだった。

 ナハトは教科書を教卓に置きながら、出席簿を眺め、席を一つずつ指差していった。

「今日は皆さんに自己紹介をしてもらおうと思います。一日でも早く皆さんの事を覚えられるように頑張りますね」

 ナハトは完璧な笑顔のままで、出席番号順に名前を読み上げた。


「やっぱりイケメンだったね!」

 休み時間になり、涼子が興奮気味に薫の机を叩いた。

「そう思わない?」

「そうだね、綺麗な人だったね」

 薫があの動揺を誤魔化すように笑った。

「(あのザワザワした感じ、なんだったんだろう)」

 自己紹介の時も、他の生徒と変わらない質問をされた。

 趣味や特技、好きな科目。

「薫?どうしたの、なんか変だよ?」

「ううん、大丈夫だよ……」

「なら良いけど、無理しちゃダメだからね?」

「うん、ありがとう涼子」

 薫が微笑むと、教室のドアが開き、ナハトが顔を出した。

「すみませんが、世界史係の水無月さん、来てもらえますか?」

 ナハトは薫を真っ直ぐ見据えると、綺麗な笑みで手招きした。

「はい!」

 薫は緊張しながら涼子に断り、ナハトの元へと走り寄った。

「なんでしょうか?」

 薫がナハトを見上げると、ナハトは少し困ったように微笑んだ。

「すみませんね。実は来週使うプリントを資料室に忘れてしまったので、取りに来てもらえますか?」

ついでに配って来週までに出来上がらせて頂きたいんです、とナハトは付け加えた。

「はい、分かりました」

 薫は頷き、ナハトの後に付いて資料室へと向った。


「迷うな」

 水無月家へ住み着いてから、メフィストは探索を終えると夕食の買出しをするのが日課になっていた。

 水無月家の近所にある大手スーパーマーケットの生鮮コーナーを過ぎた、調味料のコーナーのど真ん中で、黒尽くめの紳士は腕を組み、真剣に商品と睨み合っていた。

 献立は決まっている。

 肉じゃがと茶碗蒸し、だ。

 また可笑しな知識を付けて来たのか、日本の夕食の定番だと勘違いをしている。

しかしながら腕は確かなのだから、殊更厄介なのだろう。

「こっちの出汁醤油にすべきか、それとも……」

 出汁醤油の違いで、その頭を悩ませているらしい。

 値段が百円近く違うのだ、これは悩む。

それに、水無月家の拘りがあるかもしれない。

味が変わったと文句を垂れられては、此方の沽券に関わる。

薫もそこまで追求はしないとは思うのだが、『食への拘りを捨てる事は、即ち死』だと豪語していた王がいた。それを考えると寒気がするのも事実。

 本格的に主夫へ転向しようとしているメフィストを止められる者は、生憎と此処には居なかった。

 材料は既に籠に入っているのだが、ここに思わぬ伏兵が潜んでいた。

まさか出汁醤油で足止めを食らうことになろうとは。

 メフィストが顔を引き攣らせて限界を迎えようとしていると、何者かが籠に安い方の出汁醤油を入れた。

 手が出た方に目をやると、そこには薫がにこにこしながら立っていた。

 メフィストは数回瞬きしてから、搾り出す様にやっと声に出した。

「か、薫?」

「はい、私ですよ?」

 薫は制服姿。

学校の帰りに立ち寄った、そんなところなのだろう。

 メフィストは出汁醤油と薫を交互に見遣った。

「これで良いのか?」

 出汁醤油で悩む悪魔も珍しいと、薫は目を細めた。

自分よりも遥かに年長者なはずなのに、どこか世間知らず―人間界出身ではないから、当然といえば当然なのだが―なところが何とも微笑ましく思えてしまう。

「ええ。家で使っているのは、こっちですから」

「そうか」

 メフィストがカートを押し始めた。

 これで悪戦苦闘した買い物は、無事に終了した様だ。

「それにしても、真直ぐ帰らなかったのか?」

 レジに並びながら、隣の薫を伺えば、薫は疑問符を浮かべて此方を見上げている。

「何か買いに来たのか、と思ったのだが?」

 問いを変えれば、薫は「あ」と、思い出した様に駆けていってしまった。

 どうかしたのだろうか?

 年頃の娘の考えは、解らない。

「慌しい娘だな」

 前には、主婦と思われる人間が二、三人並んでいる。

 量が量だけに、順番はまだ回ってこないと思われるのだが、薫は何所に行ってしまったのか?

「すみません、いきなり」

 程なくして戻ってきた薫の手には、割引シールが張られている牛乳、特価販売の箱ティッシュセットが引っ提げられている。

「これ、広告で見て」

 少し誇らしげに告げる薫の手からそれらを預かると、メフィストは同じ籠に入れた。

 これが同僚や部下であったのなら、漏れる事無く辛辣な言葉を浴びせていたのだが、薫は限りなく嬉しそうなので、毒気を抜かれてしまう。

「あの?」

 戸惑う薫に軽く笑みを浮かべると、メフィストは財布の中身を確認した。

「会計は一緒だ。女子供に支払いをさせる程、私は落ちぶれていない」

 妙なところで男前だなぁ、と不思議がっている薫をよそに、メフィストは見積もり計算で本日の出費に思いを馳せていた。

その姿が恐ろしいくらい様になっている。

「はい、ありがとうございます」

 そうだ、と薫は声を上げた。

「なんだ?」

 メフィストが問えば、薫は照れたように笑った。

「星占い当たりましたね」

 メフィストは苦笑しつつ、「良かったな」と声をかけ、薫の素直さに若干不安を抱いた。

 それから暫くして、会計を済ませ荷物を詰めていると、如何も視線を感じる。

 てっきり自分と薫のカップリングが可笑しいのかと、首を傾げた。

確かに傍から見れば、父親まではいかないにしても歳の離れた二人連れ。

 しかも買い込んでいるのは生活用品と食材、これから導き出される推論は……。

「矢張り、薫には迷惑をかける」

「何がですか?」

 視線の先には、さっきまで前に並んでいた主婦のグループが、此方を見て何やら話している。

目配せで薫に知らせると、メフィストは肩を落とした。

 すると薫は肩を揺らして、必死に笑いを堪えていた。

「メフィストさんみたいな美形さんは、この辺にはいませんからね。それで、ですよ」

 薫曰く、メフィストが美形なのだと。

それで、注目されているのだと言う。

 眉根を寄せて薫を見下ろすと、薫は困ったように笑っていた。

「なるほど、美的感覚は日本も魔界も変わらないのだな」

 納得するメフィストを、呆然と見上げる薫。

自信を持っても不思議ではない容貌なのだが、ここまで開き直られると驚きを通り越して、思考を一時停止させて落ち着くのを待つしかない。

 実際のところ、本当に美形だと思うのだから、仕方が無いといえば仕方が無いのかもしれないが。

「冗談だ」

 メフィストはにっと、口の端を引き上げた。

 まただ。

 ペースを乱されてしまっている。

「でも、本当に綺麗ですよね。メフィストさん」

 女の自分から見ても、悔しく思うこと事態可笑しいくらい『綺麗』だと思う。

次元が違うというのが正しいのかもしれない。

「元は天使だからな。魔界の者の容姿は皆美しいぞ?」

 そう言われてみればそうなのだが、人間の一少女には理解が及ばない。

「でも、本とかで見ると結構な姿じゃないですか?」

 素朴な疑問を投げかけると、メフィストは顔をしかめた。

「そういった本などが出回っているが、基本人間とそれほど変わらん。私も人間と変わらない姿だろう?」

「そうですね」

「人間の想像力には感服する」

会計を済ませ荷物を詰め終えると、メフィストは箱ティッシュだけを薫に差し出した。

自らの手には肉じゃがと茶碗蒸しの材料が入った袋、出汁醤油と牛乳が入った袋が提げられている。

「これを持ってくれ」

 薫が受け取るのを確認すると、メフィストは歩き出した。

「あの、そっちも持ちますよ?」

 薫が駆け寄ると、メフィストはさっと手を引っ込めた。

歩調を乱す事無く、調度三歩先を行く。

「薫。こういう場合、荷物持ちは男にさせるものだ」

 夕日を背に受けながら、メフィストは綺麗に笑って見せた。


「待たせたな」

 夕飯の準備も滞りなく終わり、薫がリビングに顔を出した時には、既にテーブルの上には肉じゃがと、茶碗蒸し、小松菜のお浸し、白米と今朝作った味噌汁が鎮座していた。

 手伝いを申し出たのだが、「宿題があるのだろう」と、勉学を優先させるよう釘を刺されていた。

勤勉な悪魔だ。

「美味しそうですね、相変らず」

 目の前の器用な悪魔は、「当然だ」といわんばかりに腕を組んで深く頷いている。

「では、食べるか」

「はい」

 二人で向かい合い、手を合わせて「いただきます」と言ってから箸を手にする。

メフィストの箸運びは見事なもので、彼は箸の使い方を僅かな時間でマスターした事になる。

本当に器用だ。

「本当に美味しいですね、メフィストさんの作る料理は」

 薫が褒めれば、メフィストの表情も自然と柔らかくなる。

無自覚のようだが。

「口に合ったのなら何よりだ」

 しっとり味の凍み込んだじゃがいもを味わいながら、和洋中向かう所敵無しの悪魔のテクニックに感心してしまう。

「弁当は美味かったか?」

 箸を動かしながらも、メフィストは弁当の感想が聞きたくて仕方が無いといった感じで、そわそわしている。

本格的に主夫に目覚めてしまったのか。

「はい、とっても美味しかったですよ?私、あんなに美味しいのは初めてで」

 薫が嬉しそうに感想を語れば、メフィストは箸を休め、話に聞き入っている。

自分の料理を褒めてくれる、自分の料理を必要としてくれる。

それだけでも。

「(嬉しいものだな)」

 メフィストは自嘲気味に微笑むと、箸を再起動させた。

「魔界でも、料理を?」

「しない」

 薫は一瞬呆気に取られていたが、直ぐに興味津々といった面持ちで身を乗り出してきた。

「料理上手ですよね?」

「しないのであって、出来ないのではないからな」

 そういうものかと首を傾げれば、メフィストは得意気に言った。

「マニュアルがあるのだ、不味くなる方が難しいだろう」

 世の料理下手な人間を一気に敵に回すような発言をさらっとして、メフィストは涼しい顔で茶碗蒸しに手を付けている。

「それは、そうですけど」

 歯切れが悪い薫に、メフィストは茶碗蒸しを堪能しながら声をかけた。

「薫の食す物は全て私が作る。他者に任せる気は無い」

「は?」

 薫が固まっていると、メフィストは「如何した?」と怪訝そうな顔をした。

 それはこれからもずっと、という意味なのか。

それはそれで困るのだろうが、薫は曖昧に頷くだけに留めておいた。

それでは此処に滞在している本来の目的と、大きくかけ離れてしまっているのではないだろうかという思いはしまい込んで。

 それでも、その様子を満足そうに受け止めたメフィストは、何時の間にか食べ終えたらしく、食器を下げに席を立った。

「ところで、メフィストさんのお仕事の方は如何でした?」

 必死に話題を逸らさせた薫の努力は、見事に実を結ぶ。

「うん?日本は狭いからな、そう時間もかからないと思っていたが、今日は空振りだ」

焦っている様子も無く、メフィストは淡々と状況を話してくれた。

ある程度の事前調査で、目処を付けているらしく残った古書店や蔵を虱潰しに探して行くしかないのだという。

「ある程度、目処は付いていると?」

「ああ、七百年近くエージェントを派遣して探し回っているのだが、中々な」

「そうですか。それって『書物』でしたよね、確か」

「ああ。紛失したのはスコットランドなのだが、そこでは見付からなかったのだ。だから、各国に足を延ばさなければならないのだ」

 厄介な事だ。

 メフィストの溜息に、薫は「大変ですね」とねぎらいの言葉を掛けた。

「それはそうと、薫はどうだったのだ?」

「何がですか?」

 メフィストはまた席に着くと手を組んで薫の食の進み具合を観察しながら問う。

 薫が頭に「?」を浮かべているのを知りながらメフィストは続けた。

「学校だ。何かあったか?」

「特に何も……ああ、産休の代わりの先生が来ました。ナハト先生っていう外国の先生です」

「ナハト?」

 メフィストは一瞬目を見開いたが、薫は全く気付く事無く話を進めた。

「はい。ミカエリス・ナハト先生っていって、金髪碧眼で、男性でしたけど綺麗な先生でしたよ」

「――何もなかったんだろうな?」

「?はい」

「なら良い……だが、あまり関わらない方がいいだろう」

「どうしてですか?」

「人違いであるとは思うが、聞いた事がある名だ。気を付けておいて損はない」

 薫が戸惑いながら頷くと、メフィストはさっさと話を打ち切った。

 気にしながらも食事を終え、食器を下げながらココアの缶に手を伸ばした。

「あ、ココア。如何ですか?」

「私は紅茶にしよう。ココアは甘すぎる」

 拒絶ではなく、お互いに好きな方を選択する。

メフィストの舌には、人間界の市販のココアは甘くて飲めたものではない様だ。

 昨日会った悪魔と馴染んでいるのは如何なものと思うが、薫は良い経験だと思う事にしてココアと紅茶を淹れた。

愛用のマグカップを手に、傍らで紅茶に拘りを持つ悪魔の様子を伺う。

「ココアが好きならば、今度『魔界産』のココアを飲ませてやろう」

「魔界産?」

「公爵・ストラス様がお好きでな、よくご注文なさっていた」

 懐かしむような口ぶりで、メフィストは紅茶の準備をしていった。

「早く帰りたいですよね」

 薫はにこにことしながら、ココアに口を付けた。

魔界では帰りを待っている者もいるのだろう、家族であったり友人であったり。

 それを思うと、任務の早期終了を願わずにはいられない。

 しかし、当のメフィストはというと。

「確かに早急に任務を終了はさせたいが、帰りたいのとは違う」

「帰りたく、ないんですか?」

 驚いて顔を上げると、メフィストは苦虫を噛み潰したような心底嫌そうな、忌々しさ全開の表情を浮かべてカップを握り締めている。

「帰ったら、不在中に開発された新薬の実験台にされるのは、まず間違いない」

「新薬?実験台?メフィストさんが、ですか?」

 真青な顔で力なく、こくこくと首を動かすだけのメフィストの目尻に浮かんだ涙を見、薫はそっとティッシュを渡した。

それくらいしか、今の自分にはできないと。

 この表情を見ただけでも、彼が普段、どの様に実験台にされているか創造に乏しくない。

「すまない、大丈夫だ」

 肩を震わせているメフィストは、真の恐怖を感じたのだろう。

 悪魔家業も大変ですね。

 薫が呟くと、メフィストは天井を仰ぎながら生暖かく微笑んだ。

「これも中間管理職の運命だ」

 哀愁漂う彼の一言は、何よりも重く感じられた。

 名は有名な彼だが、実のところは将軍クラスではないらしく、上司には逆らえない性をお持ちのようだ。

「でも、実験台って危なくないですか?」

 薫が問えば、メフィストは薫の両肩を、がしっと掴み、顔を限界ぎりぎりまで近付けて堰を切ったように話し始めた。

「そうだ、危険極まりない!それなのに毎度毎度、新薬を開発させては私の身体を弄ぶかの如く、好き勝手に使うのだ!何時ぞやは『元気の出る栄養剤だ』と渡された薬は得体の知れない声が身体の内部から響くし、激痛が二ヶ月近く続いたのだ……その前は」

 こんなに饒舌なメフィストは、見たことが無かった。

相当酷い目に逢わされているのだろう、可愛そうに。

 薫は同情の目を向けながらも、観念してメフィストの肩を撫でてやっていた。

「酷かったのは『関節痛がなくなる』と言って飲まされた薬だ。あれは酷かった、関節痛が無くなったのではない、関節がなくなったのだ!お陰で階段を上るのも一苦労だ、這って進まなければならなかった……術を使えば如何って事はないが、いらん体力を消耗するのは確かだ。考えてもみろ、本来一定の方向に曲がるべき箇所が可笑しな方向に曲がるのだ!まるで壊れた人形だ。これ以上の苦痛があるか?」

 本当に酷い目に逢っていた様だ。

これは薫も想像してみたが、酷いものなのだろう。

生活ができなくなってしまうのだから。

 綺麗な髪を振り乱さん勢いで捲し立てるメフィストに、薫は困惑し始めた。

このままでは、今夜はずっとこの調子で付き合う事になりそうだと。

 案の定、一晩の内に愚痴が底をつく事はなかった。


 翌朝。

すっかり語りつくして満足気なメフィストの横には、睡眠不足と精神的疲労の痕跡を色濃く残した薫が転がっていた。

 顔色は決して良くは無い。

「薫、朝だぞ?眠いのか?」

 正直、徹夜で愚痴をこぼす方もそれなりに体力やら何やらを使ってはいると思うが、薫には少々きつかったと思われる。

 メフィストの問いかけにも、「あー」とか「うー」しか答える事ができない位に、薫の脳は休息を求めていた。

 何所の世界に女子高生を捕まえて、徹夜で上司の愚痴に付き合わせる悪魔がいるかと、薫は頭痛を堪えながらソファーから身体を起こした。

 幸い、今日は土曜。

 学校は休みだから良いとしても、やらなければならない事が沢山ある。

「今日は改装、並びに清掃をしようと考えている。本当ならば此処に来た翌日するつもりだったのだが、買い物や料理本読破で豪く時間を食ってしまったのでな」

 それにして、料理本を読破したのか……薫の頭の中で、受験勉強をしている様な姿が浮かんでは消えた。

 メフィストは割烹着姿に着替えると、薫の手にモップと雑巾、水の入ったバケツを握らせた。

手伝わせる気がダイレクトに感じられる。

 せめて少しくらい眠らせてくれても良いだろう。

 薫の無言の抗議も虚しく、メフィストは意気揚々と家具の移動に励んでいた。

 メフィストの家具の移動を目の当たりにした薫は、息を呑んだ。

 生まれて初めて家具が勝手に移動するのを、この目で見たのだ。

「凄い!魔法ですか?」

「魔法か。このような使い方もあるが、大抵の事はこれ一本で事足りる」

 メフィストは右の人差し指を、軽く左右に振って見せた。

 凄いなぁ、と相変らず歓心の目を向ける薫。

その薫の姿が、メフィストにとっては珍しいものであった。

魔界ではありきたりに使われる能力であるし、使えない者の方が極稀なのだから。

「他にも、色々できるんですか?」

 嬉しそうに尋ねると、メフィストは苦笑しながらも頷いてみせた。

「人間界では重宝される力だろうな。まぁ尤も、万能という訳ではないが」

「そうなんですか?」

 薫が小首を傾げると、メフィストは小さく頭を振った。

「万能ならば、『本』は見付かっている」

 掃除の手を休めずに、メフィストは窓を開け放ち、カーテンを一括りにしてカーテンレールから外すと、洗濯場まで移動させた。

 それもそうだと納得したところで、薫も掃除に参戦すべく腕を捲くり雑巾を濡らし、高い所から手を付けようと踏み台を探して、廊下へと足を運んだ。

「無いなぁ」

 手頃な高さの踏み台は無く、ダンボール程度しか置いていない。

 崩れて落ちたら、痛いよね?

 薫はダンボールの前を横切り、物置として使っていた一室の扉に手を掛けた。

此処は創が愛用している本や研究メモ、骨董品などが所狭しと押し込まれている。

「埃っぽい」

 薫は口元を覆いながら足を進めた。

 大きな荷物には真白なシーツがかけられている。

 触って危険と言うものは無いとは思いつつ、薫は慎重に踏み台を探して回った――と、手頃な高さの踏み台が部屋の奥の窓辺に置いてある。

 確認してみるが、どこも痛んではいないようだ。

「ん?」

 横の方に目を向けると、何やら羊皮紙に包まれた物が床に落ちているのが目に入った。麻紐で厳重に縛られたそれを拾い上げ、薫はこつこつと叩いてみた。

 音からして、本か何かなのだろう。

 紐を解いてみると、中から出てきたのは薄汚れた本――の残骸らしきものだった。

 表紙は赤黒く、金文字で書かれていたのだろうか。

剥がれて読めなくなってしまっているが、高価な本だったのは伺える。

 古くなったそれは、薫の手の中でばらばらになって宙に舞った。

「ああ、待って」

 必死に掴もうとすれば、手は空を切る。

「薫、何を騒いでいる?」

 戻ってこない薫の後から、メフィストが部屋に足を踏み入れる。

「土台は見付かったのか?」 

 一人でうろうろしている薫を背後から肩を掴み、動きを止めさせる。

「メフィストさん?」

「戻りが遅かったからな。何をしている?」

 足元に散乱した紙を薫が指し示すと、メフィストは薫を支える手を離し、その場に蹲って紙を集めだした。

 必死な面持ちで、物凄い勢いで。

 薫が呆気に取られているのもお構い無しに、メフィストは全て拾い終えると身体を起こした。

 立ち上がった時に腰を軽く叩いていたが……。

「これは?」

「え、そこにあったので……何か、解ります?」

 薫の返答を聞くと、メフィストはそのまま思案気な顔で紙をぱらぱらと捲って内容を確認していた。

「薫、これだ」

「はい?」

 メフィストは集めた紙を手の甲で叩くと、紙は元の順に並び、羊皮紙に包まれ、解いた麻紐で再び括られた。

「例の『本』だ」


 結局。

 あの後、掃除の続行は断念せざるをえなくなった。

 メフィストは薫を引き摺ってリビングへ連れて行くと、身支度を整えさせて、自らも割烹着ではなく愛用のスーツに身を包んだ。

 薫は何も口を挟めないまま、呆然とメフィストのなすがままにされていた。

「さあ、急ぐぞ。報告に戻らねばならない」

 如何やら一旦帝国へ帰還してから、本調査に当たる心算のようだ。

「私は行く必要ないですよね?」

 メフィストの報告に戻る帝国とは、すなわち『魔界』。

 人間が行って良い場所ではないはずであるし、戻れる保障もない。

 薫が尻込みをしてしまうのも、当然と言えば当然だ。

「何を言っているか、理解しかねる」

 聞く耳を持たずに、メフィストはさっさと薫を肩に担ぎ上げると、壁に立てかけていたステッキで床を三度叩いた。

「門よ……開け」

 喉の奥から湧き上がる声に、薫は身を震わせた。

 床に青白く魔方陣が浮かび上がる。

いつの間にこの様な陣を引いたのだろうか。

 聞きたい事は多々あるが、薫は肩に担がれている為、声を出すのが少し辛い。

黙っている方が無難だろう。

 ぼんやりと浮かび上がる青白い光に包まれた円陣の中に、メフィストは薫を担いだまま一歩踏み出した。

 死にはしないだろう。

 陣に入る直前、メフィストの声が耳に届いた。

 推測で物事を口にしないで欲しかった。

 薫の声無き叫びは、光と共に消えた。


「しっかりしろ、薫」

 胃にずしりと重いものを抱えながら、薫は揺り起こされた。

 頭は持ち上げるのさえ億劫になるくらいに鈍痛が続いているし、胃は重い。

身体全体が機能していない感じだ。

 ぐるぐるした意識の中で、メフィストが心配そうに顔を覗き込んでいるのが見えた。

「あれ?」

「全く――大丈夫か?」

 薫の乱れた髪を軽く梳いて直してから、メフィストは手を添えて背中を擦った。

 薫が目を向ければ、見た事も無い部屋の中央のソファーに横になっているのが解った。

「此処、何所ですか?」

 縋る様にメフィストを見れば、にやりと笑みを浮かべている。

「此処は私の部屋だ、魔界のな」

 調度品はどれも、高級感溢れるものばかりだ。

 壁には恐らく魔界の画家が描いたのであろう、風景画が掛かっている。

 全体的には藍色を基調とした、映画で見たような『貴族らしい』部屋だ。

「物色しても、特に何も無いぞ?」

 くくっ、と喉の奥で笑うメフィストに、薫は慌てて首を振った。

「すみません、こういう部屋って見た事なくて」

「構わないが、人間が触れたら危険な物もあるからな。気を付けろよ?」

 そんな物がある所に連れてこないで下さい。

 薫が心で涙を流していると、部屋の外がやけに騒がしく感じられた。

「何か、騒がしくないですか?」

「ああ。恐らく『狂気の科学者』様が実験台を捜し求めて、使用人を追い掛け回しているのだろう……」

「昨日、言っていた『元気の出る栄養剤』と『関節痛がなくなる薬』の方ですか?」

「ああ。あの方には近付くなよ?変な物を飲まされたら即、吐き出せ。解ったな?」

「でも此処は、メフィストさんの私邸では?」

「そうだが?」

「なら如何して、その方が使用人を追い掛け回しているのでしょうね?」

 メフィストは真青になりながら部屋の中を見回して、何もない事を確認している。

 今までの会話が聞かれていたら一大事、といったところだろう。

「は。あの方もこの部屋に私達が居るとは、思わぬようだな」

 安心しきったメフィストが言い終わると、私室の扉が物凄い勢いで開かれた。

 入り口に立っていたのは、白衣に眼鏡をかけた男だった。

 男は薄茶色の髪を靡かせながら足取りも軽く部屋へ滑り込むと、メフィストの肩に腕を回してにこにこと笑みを浮かべた。

「そんなに気に入ってくれていたとはな、私は嬉しいぞ?」

 男は随分前から話を聞いていたのだろう、言葉の端々に怒りが篭っている。

「そうか、関節痛が酷くなったのか。だが安心して良いぞ?私の作る薬品の効能はお前が身を以て知っているはずだからな。新しいのを作ってやろう」

 にこにこと、物凄く嬉しそうな顔で話し続けている白衣の似合う男だが、眼鏡の奥の目は笑っていなかった。

これ以上ないくらいに怒りが感じられる。

「べ、ベルフェゴール様!」

 メフィストは声の持ち主を直視する事ができないまま、声を震わせていた。

そして、背後から伝わってくるどす黒いオーラを肌で感じる結果と相成った。

 対して、ベルフェゴールと呼ばれた男は満足そうに「ふん」と鼻を鳴らしてから、漸くメフィストを解放してやった。

「あ、あの、これは」

 通常のメフィストからは窺い知れぬ口調になったのを、薫は不思議そうに眺めていた。

勿論、助けたいのは山々なのだが、下手に手を出して進んでメフィストの立場を悪くするのも問題だった。

 まあ、仕方ないか。

「ごゆっくり」

 と、火の粉の飛び掛らない無難な挨拶をするのも忘れずに。

 ベルフェゴールは「ありがとう」と手をひらひらと振って、極上の笑みを浮かべていた。

その後ろの方でメフィストの断末魔の悲鳴が聞こえたが、『厄介事には関わらない方が賢明だ』という祖父の言葉を思い出しながら、薫はメフィストの私室を後にした。

 尤も、何所か行けるはずもないので、部屋から少し離れた場所で壁に寄りかかり、突き当たりの窓の外を見ているに留めておいた。

 窓の外は夜が広がっていた。

 遠くにぼんやりと金色に輝く城が見える。

「あれが万魔殿とかいうのかな」

「そうだ」

 窓に張り付くように外を見ていると、影が薫の横に現れた。

「あれが万魔殿だ――お前、人間か?」

 見上げるほどの長身の赤髪の男がそこにいた。

 男はかっちりと軍服に身を包み、サングラス越しに薫を見下ろしている。

「あの、私……」

 薫がまごついていると、男は軽く舌打ちした。

「あの辛気臭い野郎が帰ってきたっていうから見にきたら――任務を放り出して小娘同伴とはな」

 皮肉めいた笑みを浮かべる男に、薫はビクついていた。

「あの、メフィストさんなら中にいますけど……」

 根が小心者の薫はなんとかそれだけを呟くと、男は腕を伸ばして薫の頭に乗せた。

 そしてぐりぐりと乱暴に撫でると、少年のような笑みを浮かべた。

「悪いな、人間の娘なんてここ何百年も見てなかったからな。やっぱり面白い――怖がらせちまったか?」

 先程とは打って変わった口調に薫が戸惑っていると、男はサングラスを外し、それを胸ポケットへと収めた。

「ま、あの辛気臭い野郎に一言言ってやる心算だったが、ベルフェゴール様が来てるならまた今度にするか。嬢ちゃん、名前は?」

「えと、薫です」

 薫は戸惑いながら頭を下げると、男は嬉しそうに笑った。

「カオルか。おれはサザーランドだ。よろしくな」

「よろしくお願いします!」

 薫は勢いよく頭を下げた。

「ははっ、元気が良いな。メフィストの野郎が連れてきたって事は、カオルは日本とかいう国から来たんだろう?」

「はい、そうですけど」

 サザーランドは考え込むようにして天井を見上げた。

 薫が首を傾げていると、思い出したように話し出した。

「日本には強いサムライってのがいるんだろう?」

 薫は一瞬頭が真っ白になった。

 悪魔の間では日本の歴史が更新されていないのか、と疑問が浮かぶ。

「昔はいましたが、今はいないんです」

「そうなのか?俺も一度は日本に行ってみたいと思ってるんだが、中々仕事も詰まってて行く機会がな……なぁ、日本人ってのは皆カオルみたいに面白いのか?」

「面白い、ですか?」

「ああ、カオルは面白そうだ」

「初めて言われましたけど」

「そうなのか?自分では分からないのかもな」

 サザーランドはまた薫の頭を撫でると踵を返した。

 手を振りながら去り際に、「メフィストの野郎に、よろしく言ってたって伝えてくれ」と言って廊下の向こうに消えた。


「もう良いよ」

 部屋を後にしてから十分しない内に、ベルフェゴールが真白になったメフィストを引き摺りながら姿を現した。

「すまないね、驚かせただろう?」

 颯爽と手を上げながらベルフェゴールは、薫を手招きで部屋へ呼び入れると、そのままソファーに薫を座らせ、自分は向かい合わせるように腰を下ろした。

メフィストは端の方へ放られてしまって、哀しげな声が聞こえるのだが、薫には救ってやる力がない。

「私はベルフェゴール。メフィストに実験薬を持ってきたのだが、彼は貯蔵用も試したいらしくてね。協力的な仲間を持てて、私は幸せ者だ」

 陽気に笑うベルフェゴールの向こうで、メフィストが逃げる準備に勤しみ始めていた。

ここで逃げなければいつ逃げるというのだ! と、目が物語っている。

「逃げ腰か、お前らしくもない」

目もくれずにベルフェゴールは言い放った。

後ろに目があるのか、それとも感じる事ができるのか。

メフィストは大袈裟なくらいに肩を震えさせている。

薫が疑問を抱いていると、ベルフェゴールはにこにこと解説をし始めた。

「ああ、この『スケルトン・アイ』を服用すれば、物質的な障害など意味を成さないのだ。諜報活動には最適だ。現在特価売却中なのだが、如何かな?」

緑色の小瓶を差し出すベルフェゴールに気圧されながらも、薫は首を振って応えた。

 それを見て、この上なく残念そうなベルフェゴールの後ろでは、逃げ場を失ったメフィストが両手を握り合わせながら此方を伺っていた。

「それで、まだ何か?」

 冷や汗が出ている。

 もう懲り懲りだ、と声が震えている。

「ん?そうだったな、お前に会いに来たのだ」

 さらりと言った割には、目が笑っていない。

 ベルフェゴールは懐から手帳を取り出すと、愛用のボールペンで何やら書き込んで言った。

紙の上を走る音が妙に心地良い。

「しかし、貴方様直々に?」

「不服か?」

 勢い良く首を横に振るメフィスト。

首がもげてしまうのではないかと不安になるが、今は口出しをして良い時なのだろうか?

「あの、ベルフェゴール様?」

 薫が恐る恐る口を開くと、ベルフェゴールは一瞬呆気に取られた表情を浮かべたが、瞬時に極上の笑みを浮かべて薫の手を取った。

「ああ、ベルで構わないよ?同僚や上司は皆そう呼ぶから」

 気さくな悪魔だ。

 メフィストとは大分違う。

「では、ベル様?お話の邪魔になるようでしたら、私は下がりますよ?」

 薫が伺うと、ベルフェゴールはにこやかに答えた。

「様、もいらんよ。ここにいなさい。どうせ無理矢理連れてこられたのだろう?だったら君は遠慮などせぬ事だ――と」

「申し送れました、水無月薫です」

 薫は頷きながら挨拶を済ませると、ベルフェゴールは「カオル、薫?」と首を傾げながら発音して確かめていた。

素朴な仕草が結構可愛いと思ってしまう。

「ベルフェゴール様、本当に如何なさったので?」

 痺れを切らしたメフィストが割って入れば、ベルフェゴールの眉間に皺が寄る。

邪魔をされた事に腹を立てているようだ。

「――お前に新薬を投与しようと思ってなぁ、嬉しかろう?」

 にやり。

 効果音が付きそうなほど凶悪な笑みを浮かべながら、ベルフェゴールはメフィストに紫の小瓶を翳して見せた。

 中の液体はゼリー状なようで、揺らす度にワンテンポ遅れて動く。

 ひぃ、と空気が漏れるような音がして、メフィストはまた白くなってしまった。

本当に頭が上がらないらしい。

「それって、今のメフィストさんの任務に支障ありませんか?」

 薫の言葉に、ベルフェゴールの動きが止まる。

何を言っているのかを理解しようとしているらしい。

「メフィストさんは、お仕事で戻られたようなので……」

 仕事ができないのは、困ります。

 薫が不安そうにしていれば、ベルフェゴールは面白いものを見付けた子供の様に、にっこり微笑んだ。

「大丈夫だよ、メフィストは頑張り屋さんだからね。そうだ、彼が仕事をしている間は私の所に居ると良い」

「駄目ですよ」

 ベルフェゴールの言葉を遮るのは、メフィストだ。

 この男、つくづく上司の話を遮るのが得意と見える。

「何故だ?お前は仕事をしていれば良かろう。その間、薫は暇を持て余してしまうだろう。私の所で過ごしていれば良いとは思わないか?」

「楽しいぞ」と自信満々に頷くベルフェゴールの向かいで、薫は疑問符を浮かべていた。

 悪魔はお人好しなのか、と。

「報告で来ただけですからね。終わり次第帰ります」

 メフィストはそう言い切ると、薫の腕を掴んで立ち上がらせた。

「メフィストさん?」

「失礼します」とベルフェゴールに軽く頭を下げ、メフィストに引き摺られて行く薫を見送りながら、ベルフェゴールは頭を掻いた。

「苛め過ぎたか?」

 くつくつ、と笑っていると、ポケットから電子音が鳴り響いた。

 如何やら、友人がまた面白いものを手に入れたようだ。

「全く、からかい甲斐のある男だ」

 白衣のポケットに手を突っ込んだまま部屋を出ると、ベルフェゴールはメフィスト達が向かった方とは反対方向に足を向けた。


「あの、報告だけですか?」

「ああ」

 先程からメフィストに腕を引かれ歩いているが、身長差を考えれば正直辛い。

歩幅は違うのにも拘らず、歩調を緩める気配はない。

次いで、腕の付け根が痛い。

 話しかけても、さっきからこの流れが続いている。

「そういえば、さっきササーランドさん、て方が来てよろしく言ってくれって言ってました」

 薫が話をすると、メフィストは足を止め、ぎょっとした。

「サザーランドが来ていたのか?」

「はい、少しの間でしたけど……お仲間なんですよね」

 メフィストは険しい表情になると薫の腕を引いた。

「何もされてないな?」

「?はい」

「なら良い――行くぞ」

 仲が悪いのかな、と薫が首を捻ると、メフィストは先程よりも速い歩調で歩き始めた。

「あの、メフィストさん?説明してくれなくちゃ解りませんよ?」

 薫はつんのめりそうになりながらも、必死にメフィストの歩調についていく。

「ならば理解しろ。私の上司に先の『本』の報告をする。薫には証言を頼みたい、だから連れて来た」

 薫は不満そうな溜息を零した。

「それに、向こうに置いてきたら危険だ」

「何がです?危険なんてありませんよ」

 可笑しそうに笑う薫の腕を引き寄せ、そのまま腕の中に抱き込めると、メフィストは声量を抑え、囁くように話しかけた。

「この『本』を狙う勢力は、この魔界内外に存在する。これが水無月家から出たとなれば、他の情報網に引っ掛からないとも限らない」

 薫は真っ赤になりながらも、メフィストの腕の中で首を上下に振るしか出来ない。

「私の居ない所で、何かあっては困る」

 心底心配な様子のメフィストと、真っ赤な顔で抱きしめられている薫。

この姿は偶々通りかかった執事に目撃される事となるが、自分の主は今まで女性を連れて来た事は無かった為、これでメフィスト家も安泰だと、訳の解らない事を言いながら見なかった事にして、何処かへ行ってしまった。

「気を付けます」

「そうしてくれ」

 先程とは打って変わって、メフィストは薫の歩調に合わせて歩いて行く。

ちゃんと後ろに薫が付いて来ている事を確かめながら。


「日本にか――」

 万魔殿に赴いたメフィストと薫の前には、玉座で報告に耳を傾ける皇帝・ルシファーの姿があった。

 報告も気になるが、メフィストの横の薫が今は気に掛かっているようだった。

興味深そうに笑みを浮かべながら、薫の一挙一動に目を見張る。

目が合って微笑めば、面白いくらい慌てて頭を下げる。

「ええ。これは彼女の家の物置から発見されました。現在本物かどうか確認中です」

 メフィストは目配せして、薫を前に押し出す。

証言をしろという事らしい。

「水無月の、家だな」

 ルシファーの声が伝わっているのか不思議なくらい、柔らかくて穏やかに耳に響く。

 ふわふわした気分になりそうなのを振り払い、薫はされるままに前に出た。

「はい。物置の隅にありました」

 ルシファーは頬杖を付きながら頷き、楽しそうに眺めてくる。

「薫だったな?君の祖父殿が入手したと思われるこの本。まぁ本物かどうかはさて置き、見た事はあるか?」

 ルシファーの言葉に、薫は首を緩く左右に振った。

見た事は無い、と。

「そうか。メフィスト、結果が照るまで時間が掛かると思うが、頼んだぞ?」

 ルシファーの言葉を受けたメフィストは、ゆったりと跪いて「御意」と答えた。

「薫、遠い所ご苦労。帰りは十分に気を付けるのだぞ?」

「はい」

「それと、薫。こちらに来なさい」

 本来の報告も適当に切り上げ、ルシファーは薫を呼び寄せる。

 楽しそうにしている限り、薫を如何こうしようという訳では無さそうだ。

 薫も「はぁ」と生返事をしながらも、メフィストを伺う。

メフィストは「仕方ない」といった表情で頷いた。

薫は戸惑いながらも、招かれるままルシファーの元へ歩み寄って行く。

魔界の帝王に生返事というのも危険極まるが、ルシファーは全く気にしていないようだ。

「さて、薫?メフィストの報告も終わった。君とはここでお別れだな」

 ルシファーは薫の頭を軽く撫で、子供に言い聞かせるかのように話し始めた。

「その前に、これを飲んで欲しいのだ。なに、ただのゼリーだと思えばどうという事はない」

 差し出されたのは銀色の小瓶に入った、ゼリー状の物を取り出して薫に突き付けた。

 ルシファーに目を向ければ、「飲め」と言う。

「何ですか、これ?」

「――……大丈夫だ」

 答えるまで時間はかかったが、とりあえずは大丈夫らしい。

ここで断って機嫌を損ねるのも、危険だと判断し、薫は小瓶を受け取った。

 向こうでメフィストが「止めろ!」と叫んでいたが、薫は小瓶に口を付けた。

「あれ」

 目の前が真っ暗になって、それから薫は大きく揺れ、倒れた。


目が覚めた。

 目の前が真っ暗になってから、倒れて、それからどうなったのだろう。

薫はまだしばしばする目を擦りながら、辺りを見回した。

 自分の家のようだが、立ち上がってみると随分視界が高い気がする。

「帰ってきた?」

 自分に言い聞かせるように声に出してみるが、恐ろしい考えが脳裏によぎる。

 今の声は、低すぎないかと。

 視界が高い、声が低い。

「ああ、目が覚めたか?」

 自分より高い声がする方に目を向ければ、そこには。

「私?」

 姿身で見ているかのように、もう一人の自分がそこに立っている。

 今までずっと一緒だったのだ、解らないはずは無い。

瓜二つ、ではなく自分自身がそこにいるのだ。

「はぁ、困った事になった」

 目の前の薫は、大きな溜息を吐いてソファーに腰を下ろして足を組んだ。

手の指も組み合わせ、気だるげな表情だ。

「鏡を見ろ、状況が解る」

 自分からの指図を受けるのは初めてだが、従うより他はないのかと、大人しく洗面所へ足を運んで鏡を覗き込んだ。

 そこに映っていたのは、紛れも無く、メフィストだった。

「ななな、なんですかこれ!」

「理解したか?」

 後ろには付いて来たのだろう、薫の姿をした目フィストがひょっこり顔を出した。

「私が薫と入れ替わった。ベルフェゴール様が作った『チェンジリング』の試作品らしい」

「さっき飲んだアレ、ですか?」

 メフィストは頷くと、今は自分の身体になっている薫の肩を回した。

 薫は真っ青になり、その場にへなへなと座り込んだ。

 薫の姿のメフィストは呆れたように説明をした。

 話ではベルフェゴールの新薬をメフィスト単体に飲ませようとしてもしくじる可能性が大きい為、入れ替わらざるをえない人物に先に飲ませてしまえば良い、という結果から薫が抜擢されたらしい。

「飲んだ者同士が入れ替わるらしいからな。他の者と入れ替われても困るだろうという事で私も飲んだ訳だ……不本意だがな」

 メフィストは溜息をついて肩を落とした。

「止めろと言ったのに」

「すいません」

 メフィストは頭を掻きながら薫の横に並んで、入れ替わってしまった身体を交互に見やった。

呆れてはいるが、怒ってはいない様子なので薫は胸を撫で下ろした。

「もしかして、ずっとこのままなんですか?」

 半分泣き出しそうにしている薫の頭を撫でて落ち着かせようとしたが、身長差があったため届かず微妙な空気が流れた。

「……いや、元に戻る薬は最優先で作って頂いているからな。不便だろうが、我慢してくれ」

 自分に見上げられるのも滅多に無い機会だろう。

 薫は軽く頷いて見せた。

「メフィストさんには、ご迷惑をかけます」

「気にするな」

 ベルフェゴールが薬を作って持ってくるまで、このままかと思うと色々不便だが、これはこれで楽しいではないか。

 メフィストは心の中で苦笑すると、薫に手を差し出した。

「ほら、買出しだ」

 メフィストの手の感じは、メフィストのままだった。

「今日は何にします?」

 手を握り返して並んで歩けば、何となくいつもの感じにおさまる。

 メフィストは口の端を引き上げて笑みを作ると、手を強く握った。

「今日はおでんだ、手伝ってくれるな」

「はい、勿論ですよ」

 夕日が差し込む廊下を、少女の姿をした悪魔と、悪魔の姿をした少女は手を繋いだまま、買出しへと向かった。


二時間も経たないうちに薬は完成し、無事メフィストの元へと届けられた。

 もっともベルフェゴール自身が届けにきたので、現在水無月家には人間一人に対し、悪魔が二人と不思議な構造になっている。

「それにしても、薬が間に合って良かった」

 ベルフェゴールはソファーで寛ぎながら薫を見つめた。

「薫の中身がメフィストだと、どうにも調子が狂う。チェンジリングの商品化は見送りだな」

 残念そうに肩を竦めるベルフェゴールに薫は紅茶を出しながら、「すみません」と頭を下げた。

「いや、気にする事はない。だが、また薬が出来たら試させてもらいたいものだな」

 にっこりと微笑まれ、薫は困ったようにメフィストをみやる。

 メフィストは同じく困ったような顔で首を振った。

「しかし、閣下。そろそろお戻りにならないといけないのではないですか?」

「そんなに早く帰って欲しいのか?」

「いえ、そういう訳では!」

 ベルフェゴールは、むっとしてメフィストを睨み付けた。

 メフィストはというと必死に首を振っている。

「今回はちょっとな」

「なんですか?」

 ふとベルフェゴールは視線を落とすと、メフィストに向かいに座るように促した。

「薫、少しメフィストと話したい。席を外してもらえるか?」

 ベルフェゴールは躊躇しながらも言葉を続けた。

「はい、何かあったら呼んでください」

 薫は頭をちょこん、と下げると自室へ向った。

 ベルフェゴールはその後姿を見送ると、ゆったりと口を開いた。

「結論から言うなら例の『本』だが、あれは複製だと判明した」

「複製……出回っていたのですか?」

 メフィストはソファーに沈むように体を預け、こめかみを揉みながら嘆息した。

「少なくともここ七百年の間に何冊か出回っていたのだろう。尤も、複製が何冊あるかは分かっていないが」

 眼鏡を白衣の裾で拭きながら、歯切れ悪そうにベルフェゴールは続けた。

「まぁ、予想はしていたが……」 

「では引き続き『本』の捜索に、ということでしょうか?」

 メフィストは手帳に今の事を書き込みがなら、ベルフェゴールの言葉を待った。

 ベルフェゴールはそのまま眼鏡を掛け直すと、今度はサイドの髪の毛を指でくるくると巻きつけたり、毛先を見ては枝毛を探しているようなそぶりを見せた。

「ああ。日本へのエージェントはお前だけだからな、時間も掛かるかもしれんが、何とか踏ん張ってくれとの陛下よりのお言葉だ」

「それは勿論です。が、閣下、少々気になることがございまして……」

 メフィストは体を乗り出し、小声で話した。

 内密な話だった。

 だからこそ、薫には席を外してもらったのは好都合だ。

「なんだ」

 いぶかしむ様にベルフェゴールは毛先を弄るのを止めた。

 メフィストは一拍置くと、咽喉の奥に詰まった言葉を吐き出した。

「薫の通う学校ですが、教師として来たとか……それが聞き覚えのある名でして――」

「誰だ」

 ベルフェゴールの瞳が一瞬ぎらついた。

 不安要素は排除せねばならない、そう声に出しそうな眼差しだ。

「ミカエリス・ナハトです――万が一に備え、しばらく薫は魔界に身を置くのが得策かと思い、ご相談を」

 ミカエリスと聞くと、ベルフェゴールは顔を引き攣らせた。

 メフィストとは居心地が悪そうに立ち上がると、窓に手を付き、空を見上げた。

薄らと月が昇り始め、淡い光は街を覆っている。

その光が、故郷の魔界を思い出させた。

その背中にベルフェゴールの声が届く。

「本人だとしたら厄介な事だが……まぁ、魔界に身を置くとして、お前の邸宅に置く心算か?」

 メフィストは振り向きながら答えた。

 薫を魔界で保護する、無論許可も必要だが、今は自分の不安が的中しない事を祈るしかなかった。

「あそこならば幾らか融通もききますし、薫も気兼ねなく過ごせるのでは、と思いまして」

「――私の邸宅でも良いのだが?」

 ベルフェゴールは、にやり、と音がしそうな笑みを浮かべる。

 メフィストは勢いよくベルフェゴールを見た。

「また実験でもする気ですか!」

「はっはっは、薫はいい実験台になってくれそうだ」

「いけません!」

 メフィストで遊んだベルフェゴールは軽く手を振り「そんな事はしない」と付け加えた。

 ベルフェゴールの冗談は冗談に聞こえない。

「お願いしますよ、まったく……」

 メフィストは頭を垂れた。

 その姿に内心苦笑しながら、ベルフェゴールは玩具を手に入れたように笑って見せた。

「お前に貸しを作るのも面白いな」

「閣下……」

「冗談だ。ミカエリスか……本人でない事を願うしかないな」

やはりベルフェゴールの冗談は冗談に聞こえなかった。


「薫、入るぞ?」

 ベルフェゴールが帰った後、メフィストはすぐ薫の部屋を訪れた。

 薫の部屋に入るのは、初めてだった。

 最初は祖父の部屋と薫の部屋を間違え、年頃の娘の部屋とは思えなかったが。

 薫の部屋は、予想していた通り必要な物だけがある、簡素な部屋だった。

 ベッドサイドには読みかけと思える文庫本が何冊か積み上げられていた。

「どうした」

 薫は本棚の前で本を並び替えていた。

 その背表紙を見ると、推理小説が多いよう見受けられた。

「閣下はお帰りになられた。薫によろしく、と仰っていたぞ」

「そうですか……あの、メフィストさん」

「なんだ?」

「ちょっと、相談したい事があって――」

 薫は本棚に残りの本を押し込むと、メフィストに近付いてくる。

 この娘はどうにも警戒心が足りない、とメフィストは軽く眩暈を感じた。

「言ってみろ」

 動揺しないよう装いながら、メフィストは手近にあった椅子に腰を下ろした。

「はい、あのナハト先生の事なんですけど」

 ナハト。

 その言葉に一瞬体を硬くした。

 それでも先を続けるよう促す。

「どうした?」

「何かあった訳じゃないんですけど、ナハト先生と話してると、こう、ザワザワするんです」

 薫は胸の辺りを手で押さえながら言葉を探すようにメフィストを見つめた。

 間違っても恋という可能性はない。

 薫はそういったところが鈍感としかいえない。

 普通異性と一つ屋根の下に暮らすとなれば、少しくらい、そう、ほんの少しくらい動揺が見えてもいいはずだ。

 この短い期間でも、人間と関わり、長い年月を生きてきたメィストには分かった。

 薫にはそういった感情に疎い。

 しかし、今の言葉で自分の抱いていた不安が現実味を帯びてきた。

 ミカエリス・ナハト。

 その名の持ち主が危惧している人物である可能性が高くなってきた。

「――その事か……薫、お前にはしばらく魔界に行ってもらいたい」

 溜息混じりにベルフェゴールの前で述べた決意を口にした。

「え、何でですか?私、何かしちゃいましたか?」

 案の定、薫はわたわたと慌てて手を振った。

 まさか魔界へ行け、など言われるとも思っていなかっただろう。

 その慌てっぷりに若干驚いた。

「(この娘でも慌てるのか……)」

 少々的外れな事を思いながらメフィストは続けた。

「そうではない、落ち着け。ベルフェゴール様とも話したのだが、ミカエリス・ナハトが私たちの知っている人物なら、薫の身に危険が及ぶかもしれぬ、と判断した」

 自分でも知らず知らずに声が硬くなっている。

 警戒しているからこそだ、とメフィストは結論付けた。

「ナハト先生って、一体なんなんですか?」

「一体と言われてもな……私の知っている者なら薫には危険なのだ。言う事を聞いてくれ、決して悪いようにはしない、誓おう」

 椅子から立ち上げると、メフィストは未だ慌てている薫を見下ろし、ゆっくり肩に手を置いた。

 そこから、じんわりと薫の体温を感じる。

「(平熱は三十五度、といったところか)」

 またしても的外れな事を考えている。

 メフィストは軽く頭を振った。

 薫といると調子が狂う、と。

 その行動にも鈍感な薫が気付くはずもない。

 薫はメフィストの手をちら、と見ると、また目線をメフィストへと戻した。

「――どれ位、魔界に居ればいいんですか?」

 声が震えているのは仕方ない。

 いきなり「魔界へ行ってなさい」と言われれば震えてしまうだろう。

 メフィストは出来るだけ安心させるような声のトーンを心がけながら、薫の肩に置いた手を頭へと移動させた。

 そのことにも薫が反応を示す事はなかった。

 少々残念な気もしたが、メフィストは薫の髪の感触を楽しむ。

「危険がない、と判断できるまでだ」

「その判断はメフィストさんがするんですか?」

「ああ」

 薫の瞳に、一瞬安堵の色が浮かんだ。

「なら、お願いします」

 薫の信頼しきった瞳を見届けると、ようやくメフィスト自身安堵の溜息が漏れた。

 実際のところ、「行きたくない」と言われるのが厄介だったのだが、薫はどういう訳か他人の提示した案に従うのが苦ではないようだった。

 メフィストは薫の頭を軽く叩くように撫でると、部屋を見渡しながら言った。

「私の邸宅で過ごしてもらおうと思っている。まぁ、この部屋とはデザインが違って慣れるまで時間が掛かるかもしれんが我慢してくれ。家の者には言っておくし、ベルフェゴール様も様子を見に来てくれると言っている、安心していい」

「はい」

 薫はゆっくり頷いた。


月曜、帰り際になり、薫は涼子に今後の予定を話しておこうと口を開いた。

「じゃぁ、ゴールデンウィークは旅行?」

「うん、そんなに遠くじゃないけど」

「いいなぁ、私もどっか旅行行きたい!」

 ゴールデンウィークは旅行に行く。

 それは、メフィストがさらっと口にした嘘だった。

「気を付けてね?」

 涼子は心配性という訳ではなかったが、薫の友人だけあって、薫の少々的外れなところを心配していた。

「うん、ありがとう」

 素直に礼を言うと、涼子はからからと笑った。

「お土産期待してるね!」

「それはちょっと……(魔界のお土産ってどんなだろう?)」

 薫が冷や汗を流していると、教室のドアが開き、ナハトが顔を出した。

 いっせいに女子の黄色い悲鳴が上がる。

「相変わらずのイケメンだよね、ナハト先生」

「う、うん」

 涼子が頬杖を付きながらナハトを見る。

 その視線に気付く事もなくナハトは薫を見付けると、ゆっくり手招きした。

すぐ席を立ち、涼子に「じゃあねまたね」と声をかけてその背中を追いかける。

 薫が目の前まで来ると、ナハトは声を潜めた。 

「水無月さん、連休中の課題のプリントを渡したいので、資料室まで来てもらえますか?」

「あ、はい」

 メフィストは気を付けろと言っていたが、どこが危険なのかも分からない。

 見る限りではおっとりした日本語の堪能な白人男性だ。

 そんな事をぼんやり考えながら着いて行くと、準備室はすぐだった。

「さぁ、入って?」

 ナハトに促され、先に準備室に足を踏み入れる。

「失礼します」

 準備室は整理整頓され、どこに何があるのかが一目で分かるようになっていた。

「先生、プリントってどこでしょうか?」

 奥の棚の前まで来て、薫はナハトを振り返り、見上げた。

 青い瞳が一瞬鋭さを増した。

「そんなに急がなくても良いよ」

「先生?」

 ナハトは後ろ手に準備室の鍵を閉めると、一歩ずつ薫に近付いてきた。

 ゆっくりした足取りだが、大股で圧迫感を感じる。

「ふふっ」

 ナハトは面白そうに声を漏らすと、棚の前で薫を追い詰めた。

 薫の顔の両側に手を付き、逃げられないようにして。

「あの、どうしたんですか?」

 幾ら鈍感な薫でも、この状況が普通でない事ぐらい把握できた。

 ナハトを見上げながらも、この腕の中から抜け出そうと必死に考える。

 そんな薫の事など構わず、ナハトはゆっくりと口を開いた。

「君からは悪魔特有の波動が感じられる」

 薫は一瞬ぎくりと身を硬くし、ナハトの瞳を見つめた。

 脳内ではメフィストの言っていた「『本』を狙う勢力が内外に存在する」という言葉が、ぐるぐると巡っている。

 薫が混乱しているのも構わずに、ナハトは続けた。

「知っているよ、君の事……悪魔はね、悪魔の事には敏感なんだよ」

 にっこりと、綺麗な笑みを浮かべるナハト。

 初めて会った時よりも、どこか楽しそうだった。

「何のこと、ですか?」

 咽喉の奥が引き攣っているのを感じながらも、薫は声に出した。

 その必死な表情にナハトは咽喉を鳴らして笑った。

「くく、日本のエージェントなら……メフィストといったところかな?」

 薫はナハトに初めて恐怖を感じた。

 ナハトが手を薫の目の前にかざすと、薫の意識はそこで途切れた。


「遅い」

 メフィストは水無月邸のリビングで腕を組み、行ったり来たりしながら苛々した口調で呟いた。

 リビングのソファーでは、薫に会いに来たサザーランドがその様子を見守っている。

「カオルか?いい子だよな、素直だし」

 友人の珍しい姿を見ながらも、暢気に冷め切った珈琲を口にする。

 やはり珈琲は淹れたてが一番だと思いながら。

 そんなサザーランドの態度が気に入らないのか、メフィストは苛立たしげに視線をよこした。

「仕事に戻れ」

 薫に対するそれとは正反対の強い口調でさっさと仕事に戻るよう促す。

 サザーランドは、そんなことはお構い無しに珈琲を飲み干すとソファーから立ち上がり、軽く伸びをして窓辺に凭れ掛った。

 そして、懐から羊皮紙を一枚メフィストに突きつけた。

「休暇だ」

 そこには「特別休暇を許可する」とだけ書かれていた。

「上が休暇を出してくれたからな。折角カオルを見に来たのに、辛気臭いお前しかいないなんてなぁ」

 メフィストをからかうように羊皮紙をひらひらさせ、その出方を見る。

「黙れ」

 今のメフィストにとっては、その行動すらも苛立ちの対象となるようだった。

 その剣幕にサザーランドは肩を竦めた。

「怒るなよ……それにしても、こんな時間までカオルは帰ってこないのか?」

 窓の外に目を向ければ、とっくに街は暗闇を纏い始めていた。

 街の明かりがちらほら見えるが、高校生である薫はとっくに家にいる時間だった。 

「遅くなる時は連絡を入れるように言っている。携帯も繋がらん。それに、薫が夕食まで戻らないのは……」

 メフィストは懐中時計と、リビングに掛かっている古びた時計を見比べた。

 どちらも同じ、午後八時を指していた。

 サザーランドは薫の帰ってくる基準が夕飯という事に、若干哀れみを感じた。

 華の女子高生。

 少しは友達と遊んだりする事もあるだろうに。

「基準はそこか、カオルも可哀そうに……」

 サザーランドの哀れみに構う事無く、メフィストは窓の外に目を向け、軽く舌打ちをしてコートを手に取った。

 探しに行く、と行動が物語っている。

「サザーランド、留守を任せてもいいか?」

 コートをしっかり羽織ると、玄関の鍵をサザーランドに投げた。

 サザーランドはそれをしっかり受け取ると、懐にしまい、壁から背を離した。

「なら俺も行った方がいいだろう。カオルにはまた会いたいと思っていたしな」

 サザーランドが面白そうにサングラスを押し上げると、メフィストは苦虫を噛んだ様な表情を見せた。

「妙な気は起こすなよ?」

「何の事だ――それにしても、お前にとってカオルってなんなんだ?」

 玄関に向いながら、メフィストを横目で見やる。

 友人、というか悪友として長年つるんではきたが、一人の人間に固執する姿は珍しかった。

「なんだ、いきなり」

 いつもより眉間の皺が増えているが、サザーランドは気にもとめない。

 慣れている、といった顔で懐から先程受け取った鍵を出し、指先でくるくると回し、メフィストに放り投げると、メフィストはそれをキャッチしながら「急に投げるな」とサザーランドを睨み付けた。

「見ていて飽きないし、まぁ小動物みたいで面白いけど……陛下直轄のお前ほどの奴が固執してるなんてなぁ」

 玄関をくぐりながらコートの襟を立てる。

 夜ともなればまだまだ寒さが残っているようだ。

 天気予報では、今日は夜から雨といっていたが、その気配も感じられた。

「そういう訳ではない」

「じゃぁどういう訳だ?」

 施錠し、メフィストの答えを待つ。

 メフィストは当然というように答えた。

「――薫を守れるのは私しかいない。それだけだ」


 薫は目を覚ました。

 電気もついていない室内は、月明かりでぼんやりとだが自分と、もう一人人物がいるのが分かった。

 先程までの記憶を手繰り寄せて、薫は結論を出した。

「――先生、これって一体?」

 体を起こそうとしたが、手足はロープで縛られていて、上手く身動きが取れない。

「お目覚めかな?」

ナハトは機嫌良さそうに椅子に座っていた。

薫は床の上である。

自然と見下ろされる体勢になっている。

「これ、解いてください!」

 身動ぎしながら抗議の声をあげた。

 動く度にロープが食い込んで痛みが走る。

 ナハトは椅子から立ち上がると、ゆっくりと薫の前まで歩いてきて腰を屈めた。

「ダメ。君は警戒心があるんだかないんだか分からないね。初めて会った時、お守りが警告を出していたのに」

「……なんのことですか?」

 薫が睨みつけると、ナハトは「怖い怖い」と笑みを深くし、薫の電源の切れた携帯を摘んで見せた。

 そこには、メフィストからもらった純銀製の魔界のストラップがぶら下がっていた。

 ナハトがそれを指で弾くと、ちりん、と可愛らしい音が響いた。

「君の持っていたこのストラップ、魔界のお守りみたいなものなんだよ。私も昔持っていたんだ」

「(あれが……?)」

 ナハトは懐かしむようにストラップを握り締めた。

 薫は結論を出した。

 こうして拘束されているという事は、危害を与える心算はない。

 薫は緊張で震える口をなんとか引き締め、口を開いた。

「昔持っていたって、どういうことですか?」

 ナハトは一瞬目を見開いたものの、別段何もないといった感じで首を振った。

「察しぐらい付くだろう?」

 先程「悪魔は悪魔の事に敏感」と言っていた。

 ならばナハトは……。

「悪、魔……なんですか」

 薫の瞳に見る見る緊張が走る。

「よく出来ました、水無月さん」

 ナハトはくすくす笑いながら薫の頭を撫でた。

 薫は心の中で混乱していた。

 今まで出会った悪魔は皆良くしてくれた。

 実験台にされた事もあったが、そんなに酷いものではなかった。

 だが、今目の前にいるナハトは違う。

 必要があれば、こうして拘束する。

 メフィストの言葉が身に染みてきた。

 やっぱり気を付けるんだった、と。

「ところで、例の『本』が君の家から発見されたんだろう?」

「知りません!これ、解いて下さい!」

 薫は頭を振りながらこの状況から逃れようと必死になった。

 相手は悪魔。

 それもメフィストを呼び捨てに出来るような相手だ。

 相手が悪魔では、心の内などとっくに見透かされているに違いなかった。

「嘘吐きは嫌いだよ」

「――っ」

 ナハトが口を開くと同時にロープが肌に食い込んだ。

 薫は小さく悲鳴を上げ、その痛みに耐えようと必死になった。

「事実と異なる事を話せば余計に締まるんだよ、その縄はね」

 得意げに笑い、ナハトは腰を上げて窓の側によると、そこから空を見上げた。

 金の髪が月光に照らされ、とても神秘的な輝きを放っている。

 不覚にも一瞬綺麗だと感じてしまった。

 薫はそんな的外れな自分を情けなく思いながら、どうしてこんなことに巻き込まれたのかを聞くことにした。

「だったら、もう知ってるって事じゃないですか……私にこんなことして、どうするつもりですか」

 事実と異なる事を言えば締まる縄だ。

 ナハトにとってはそれだけで答えは得られる。

 こうして口を割らせる必要がない。

 薫は内心どうしたものかと、普段使わない頭をフル回転させた。

「退屈しのぎ」

「は?」

「聞こえなかったかい?退屈しのぎだよ。そのために私はあの『本』を探していたんだけどね」

 そんな薫に来た返事は何とも期待はずれな答えだった。

 ここまでしておいて嘘を言う必要もないはずだ。

 それなのに、今この男はなんと言ったか。

「退屈しのぎって……どういう事ですか?」

「意味が分からない、といった顔だね」

ナハトは再び椅子に腰を下ろすと、大仰に両手を広げた。

 まるでこれから舞台が始まるといったように。

「例の『本』には魔界のバアル将軍本人の名前、それと彼に忠誠を誓った配下の名前が全て記されている。それが七百年前、人間の手に渡ってしまった。勿論あらゆる手を尽くして捜索されたが見付からなかった。それで帝国としてはエージェントを全世界に向けて派遣し、その捜索に当てている――メフィストから聞いているんだろう?」

 ナハトの説明は以前メフィストから聞いていた通りだった。

 そこまで大切な『本』を探している勢力は内外にいるのだ。

「……先生も、そのエージェントなんですか?」

 恐る恐るナハトを見上げると、ナハトは一瞬目を丸くした。

「私が?はははっ」

 椅子に仰け反りながら大声で笑うナハト。

 いつもの柔らかい笑いでないだけに、薫の肩はびくりと震えた。

 一頻り笑ったナハトは、目尻に溜まった涙を指先で拭った。

「君は面白い事を言うね。言っただろう、退屈しのぎだって」


「やはり携帯は繋がらん」

 夜の街の空を飛翔する二人。

 メフィストもサザーランドも飛翔術は得意だった。

 姿を消し、学校まで行く事も出来たが、夜といってもまだ八時だ。

 誰かに見られるリスクは避けたかった。

 メフィストは「役に立たん」と携帯の電源を落としてしまった。

「心当たりはないのか?」

 夜風を受けながらサザーランドは、少し先を行くメフィストの背に話しかけた。

「薫と生活してまだ間もないのだ、そう易々と薫の嗜好を理解できていると思うか?」

「――ったく。これだけ気配を探っても感知すら出来ない。何とかならないのか?」

 上空から魔力を使い薫の居場所を探知する。

 そうするものの、全く薫の気配は感知できなかった。

 メフィストの探知魔力、サザーランドの探知魔力をもってしても薫の行方は分からない。

「魔力を以ってしても感知できないとなると……考えたくもないが」

 メフィストが足を止め、空中に佇んだ。

 それに伴い、サザーランドも足を止めた。

「……不安が的中したか」

 メフィストは顎に手を当て、眼下の街を見下ろした。

 そこは人気のない路地の上だった。

 メフィストはそのまま下降を始めた。

 サザーランドもその後を追い、考え込んでいる友人に声をかけた。

「なんだ、不安って!」

 すとん。

 路地に着地すると、メフィストは壁にもたれ、少し目線を泳がせた。

 すぐに追いついたサザーランドに説明しようとしているようだが、自分自身まだまとまっていないのだろう。

 メフィストはまとまってから話す、という性格だった。

 サザーランドにとっては、それがもどかしい。

「薫の学校にミカエリス・ナハトと名乗る教師が赴任してきたらしい」

「ミカエリスだと?」

 ようやく口を開いたメフィストの言葉に、サザーランドは声を大にして叫んだ。

 まるで「冗談だろう!」と言っているようだった。

「ああ、ただの偶然だと思いたかったが……」

 メフィストは踵を返し、路地から出るために大通りを目指した。

 大通りを抜ければ、薫の通う高校がすぐ見えるはずだ。

 その背中をサザーランドが追う。

「しかし、意図が分からん。下手に乗り込めば何が起こるかも分からん」

 足早に歩きながらも、まだ踏ん切りが付いていないようだった。

「だからって、もしカオルが手に落ちてたらどうするつもりだ!」

 サザーランドはメフィストの前に回り込むと、胸倉を掴み上げた。

 メフィストはその手を掴むと、サザーランドを睨みつけた。

「言うな!私とて性格は知っている……このまま手を拱いているつもりも毛頭ない!」

 声を大にして大通りで言い争う二人を、通行人たちは何事だとみやるが、我関せずと足早に横を通り過ぎていった。

 メフィストの眼光の鋭さに、サザーランドは安心したように掴んでいた腕を下ろした。

「じゃあ、行くんだな?」

「ああ」

 二人は足並みも揃えず、大通りを駆け出した。


 準備室では、薫が囚われのままナハトと対峙していた。

 何を考えようとも、悪魔であるナハトには筒抜けなようだ。

 薫は、ナハトの真意を問うことに決めた。

「ナハト先生は悪魔で、『本』を退屈しのぎに探している、ということですか」

「そうだよ、理解できたみたいだね?」

 にっこり、と音でもつきそうな笑みを浮かべるナハト。

 薫はその笑みを見るだけで背筋が凍る思いがした。

「私の本当の名は――ベリアル」

 ナハト、否ベリアルは長い足を組みながら、両手を突き合わせ薫を見下ろしている。

「皇帝・ルシファーに次いで美しいとされた、上級悪魔だよ」

 誇らしげに自らの正体を明かしたベリアル。

 ルシファーも美しかったが、ベリアルの美しさも引けをとらない。

 悪魔はどうしてこうも美しい者が多いのか。

 薫は自分の置かれた立場も一瞬忘れ、そんなことをぼんやりと思ってしまった。

「君の思考を読んでいるが……中々緊張感がないね」

 ベリアルは若干呆れたような口調で言うと、「ああ」と納得したように手を打った。

「メフィストと一緒に生活しているからかな?」

「知ってたんですか……」

 薫が不満そうにベリアルを睨む。

 緊張感がないと言われ、少なからず気分を害した。

 そんな薫の視線も気にせず、ベリアルは少し汚れた準備室の天井を見上げた。

「まさかあのメフィストが人間の小娘と同棲とは、ちょっと驚いたけどね」

「すみませんね、小娘で……」

 薫が不貞腐れると、ベリアルは「そういうところが緊張感がないんだよ」と笑った。

 視線を薫に戻すと、ベリアルは手首を捻り、空間からトランプに似たカードを六枚取り出した。

「これは魔界のカードだよ。ゲームなどに使うんだ」

 その内の一枚を抜き取ると、それを薫に見えるように目の前に差し出した。

 そこにはアルファベットに似た文字で『B』と書かれていた。

「これは私のカードという印。残り五枚が賭けに参加した者たちのカードということだよ」

「賭け?」

「私はね、例の『本』を手に入れ、賭けに勝つつもりだった」

 ベリアルはカードを指で弾き、また空間の中へ消してしまった。

 まるでカードマジックを間近で見ているような気分だ。

 薫の頭に、一つの疑問が生まれた。

 ベリアルは「つもりだった」と言う。

 賭けは負けたのだろうか。

 なら、こうして拘束する意味が理解できない。

「ナハト……ベリアルさんは、賭けに負けたんですか?」

 ベリアルは「まさか!」と笑った。

「賭けは無効だよ。メフィストが先に見付けたとなったが、『本』は複製だった」

「複製、ですか?」

 あの『本』が複製?

「ああ。だから賭けは無効」

 薫は眩暈がした。

 メフィストがこれで魔界へ帰れる、仕事も楽になると思っていたのに。

「聞いてなかったかい?」

 その姿を面白そうにベリアルは眺めた。

 渦中の人物であるかのように扱われていたのが、実は蚊帳の外だという事にショックを受けている、そんな風にベリアルの目には映った。

「まぁ、発覚したのも先日だからね。聞かされていなくても当然かもしれない」

 薫は深呼吸をすると、ベリアルへ視線を戻した。

「でも、賭けって……そんな理由で?」

 薫が問うと、ベリアルは表情を曇らせた。

「そんな理由、か」

 碧い瞳が一瞬揺れる。

 理解などできぬ、と言っているようだった。

「確かに君からしたらそんな理由、だろうね」

 一瞬の事だったのだろう。

ベリアルの瞳には揺らぎなどは、もう残っていなかった。

 そこにあるのは、揺らぎとは無縁の凛とした瞳だった。

「けれど、私たち悪魔は長い時間の中で生きている。永遠に等しい時間だ。その中では退屈しのぎは必要不可欠なんだよ」

 両手を広げ、首を振る。

 溜息がベリアルの口から零れた。

「長生きするのも、これで結構大変なんだよ?」とおどけた口調で薫を見やる。

 薫はベリアルの真意が全く理解できなかった。

「でも、私を拘束する理由はないですよね?」

 体を体育座りの体勢にすると、薫は少しずつベリアルから距離を取った。

 真意が見えない。

 今言っている事も、どこまでが真実でどこまでが虚構なのか。

「君も大概に頭が働かないね。私は魔界の私の取り巻き連中と、賭けをしたが『本』は複製だった。だから賭けも無効」

 薫が距離を取るにつれ、ベリアルは椅子から立ち上がり、ゆっくりと間合いを詰めていく。

 その動きは、薫を精神的に追い詰めていく。

 自然と薫の声も震えを帯びていく。

「だから、賭けも終ってるんですから……」

 泣き出したい。

 助けを大声で求めたい。

 しかし、現実は咽喉と口が言う事をきかない。

 ロープも食い込んでいる。

 薫は泣き出したいのを堪えるだけで、精一杯だった。

 薫の背中が準備室に設置されているロッカーにぶつかった。

 もう行き止まりだ、と薫の頭に誰かの声が響いた。

「賭けは終ったよ?でも、言っただろう、退屈しのぎだって」

 ベリアルはそれ以上追い詰める事はせず、その場に留まり薫を見下ろした。

 薫の姿は、ベリアルにとって、この上なく面白く見えているに違いなかった。

「ただのゲームさ。それでも何かあった方がメフィストも必死になるだろう?」

 さぁ、泣けばいい。

 そして助けを請うてみろ。

 ベリアルの瞳がそう物語る。

 しかし、薫は唇をぎゅ、と噛締め、ベリアルを瞳に涙を湛えながら見つめた。

「メフィストさんは、来ませんよ」

 やっとのことで口にした言葉は、薫自身をさらに追い詰めた。

 メフィストがくる事などない。

「どうして?」

「私はただの同居人で、メフィストさんはお仕事がありますし、私が居なくなったところで、別に……」

 そこまで言うと、薫は顔を伏せた。

 泣くもんか、絶対泣かない。

 自分は囚われのお姫様なんかじゃない、自分の事は自分で守るんだ。

 薫は自分に言い聞かせると、ベリアルを仰ぎ見た。

 ばああああああん!

 その瞬間、準備室のドアが蹴破られた。

「寂しい事を言うな!」

 月明かりに照らされ、埃が舞う中には、血相を変えたメフィストが立っていた。

 

「おや、噂をすればメフィストじゃないか!」

ベリアルは嬉しそうに目を見開いた。

どうやら、ドアを蹴破って入ってきたメフィストに驚いたようだ。

メフィストはずかずかと準備室に押し入ると、ベリアルに近付いた。

薫は嬉しさと感動と驚きで泣き出しそうになるのを堪え、メフィストを見上げた。

「メフィストさん!」

 その姿を横目で確認し、メフィストはベリアルに対峙した。

「薫、大事無いか」

 いつもの低い声は、更に低くなり、硬さを増していた。

 薫は一呼吸吐き、しっかりとした口調で頷いた。

「……っはい、大丈夫です」

 一歩遅れ、息を切らしたサザーランドも準備室に駆け込んできた。

 その姿にベリアルは珍しいといった表情を浮かべた。

「サザーランドも一緒か、勤勉なお前が一緒とは驚いたよ」

 サザーランドは一瞬縛られた薫に気付くと、躊躇しながら、ベリアルと対峙するメフィストの背後に移動した。

「勤勉かどうかは分かりませんが、成り行きでこうなりましてね」

 サザーランドはベリアルを警戒しながら答えた。 

「ベリアル将軍、これは一体どういうことでしょう」

メフィストは薫を見やり、指で指し示しながら、ベリアルに答えを求めた。

いくらドアを蹴破ったとはいえ、相手は自分より階級の上の上級悪魔である。

下手に刺激して事態を悪化させたくはなかった。

ベリアルはメフィストに向き直ると、腕を組んで尊大に答えた。

「今この娘にも言っていたのだがね、退屈しのぎだよ」

 メフィストは予想していたのだろう。

 軽く溜息を吐くと、頭を振った。

「退屈しのぎで人間を拘束など――困ります」

 メフィストはベリアルの前に傅くと、恭しく頭を垂れた。

「薫の解放を……お願い致します」

「……メフィストさん」

 薫はメフィストがどれだけ自分のためを思っているのかを知り、先程抱いた感情がどれほどメフィストを傷付けたかを悔やんだ。

 囚われのお姫様じゃないけれど、こうして助けに来てくれる心強い味方がいる。

「はは、メフィストは相変わらず真面目だなぁ……だが」

 ベリアルは軽く苦笑を漏らすと、手の平を天井に掲げた。

 すると、一瞬青白い光が走り、そこには魔方陣が浮き上がった。

 魔方陣からは小さな雷が、ぱりぱりと音を立てながら放たれている。

「ゲームはまだまだこれからだ……出でよ、我が忠実なる僕、ヴォルフ!」

 ベリアルが魔方陣に向かい、声高に召喚の言葉を投げかける。

 その言葉を受け、魔方陣は一気に中央が膨らみ、そこから三メートルはあろう銀の毛並みを持つ、口から炎を吐き出す狼が現れた。

「がぁあああああ!」

 狼はメフィストの前に下り立つと、その口から吐き出される炎と共に、凶悪な雄叫びを放った。

 メフィストは飛び退り体勢を立て直すと、コートでその炎を薙ぎ払う。

「力づく、ですか」

 メフィストは冷や汗を手の甲で拭った。

 同時にサザーランドは横に跳び、薫の隣まで来ると膝を折り、薫を抱き上げようと手を伸ばした。

「カオル、大丈夫か?」

「――、大丈夫です」

「なら良かった、よく頑張ったな」

 にっ、と笑みを浮かべサザーランドは薫を抱き上げた。

 一瞬にして視界が高くなり、薫は身を強張らせた。

 今動かれたら間違いなく落ちる。

 サザーランドがそんな事をするはずもないのだが、両手両足の自由を奪われているのだから仕方なかった。

 そんなやり取りは視界に入っていないのか、ベリアルは狼をメフィストに目標に狙わせていた。

「さぁ、存分に楽しませてくれ!」

 ベリアルは両手を広げ、狼をけしかける。

 メフィストはそれをことごとくコートの裾で払い、炎をかわしていく。

 一旦窓際に身を移したメフィストは、サザーランドが薫を抱き上げるの確認し、出口を指し示した。

「サザーランド、薫を連れて行け!」

 尚も炎を払い、身をかわしながらメフィストは大声で叫んだ。

「おい!」

 その目は「早くしろ!」と言っていた。

 サザーランドは食い下がろうとするが、メフィストはそれには耳を貸さず、指を鳴らし空間からレイピアを取り出すと、それを構え、狼へと向っていった。

「いざ!」

 メフィストが狼に向うと同時に、ベリアルは狼の横の椅子に座り、この戦いという名のショーを見物することに決めた。

「そんなにあの娘が大切なのか?」

 余裕のある口調でベリアルは、狼と炎と刃を交わらせるメフィストへ声をかける。

 メフィストは爪をレイピアで跳ね除け、間合いを取りながらベリアルへも意識を集中させねばならなかった。

「……、当然です」

 レイピアでは、この巨大な狼の攻撃をかわすのが精一杯だとメフィストは判断した。

 心なしか息もあがってきた。

 交わしきれなかった攻撃の跡が体に刻まれていく。

 牙や爪でかすった程度だが、地味な痛みが体を襲う。

 デスクワークばかりだった所為なのか、こうした戦闘には元から向いていないのか、とどうでも良い事が頭を過ぎる。

 それでも、薫は大切かと聞かれれば肯定するしかなかった。

「っ、畜生……」

 その様子を目にしながらも逃げ出さなければならない。

 サザーランドは舌打ちをし、薫を抱き直すと蹴破られた準備室のドアへ急いだ。

 しかし、一瞬にして行く手を光の壁に遮られた。

 サザーランドは薫を降ろし、持っていたナイフで手足のロープを切り、自分の背に庇うようにして光の壁と対峙した。

「カオル、離れるなよ?」

 サザーランドの緊張した声に、薫は頷き、制服の裾を握り締めた。

 その背後では、メフィストと狼の攻防が続いている。

 今しかチャンスはない、とサザーランドは薫に耳打ちした。

 サザーランドは軍服の下から大振りの剣を出現させると、「はぁ!」と光の壁を切りつけた。

 光の壁はそれを弾き、サザーランドは大きく跳ね飛ばされ、床に叩きつけられた。

 それでも、すぐさま立ち上がり、薫を守るように光の壁に剣を突きつけるサザーランド。

 メフィストは炎を吐く巨大な狼と戦い、サザーランドは得体の知れない光の壁と対峙している。

その声、音に、薫は体が動かなくなっていくように感じた。

 人間ではありえない光景だった。

「サザーランドまでこの娘のために動くとは……思わなかったよ」

ベリアルが此方を見ながら微笑んだ。

「こいつは面白いんで、特別ですよ」

「ふうん?」

 サザーランドは薫を後ろに隠しながらベリアルを正面から見据えた。

 ベリアルはその視線をかわすと、後ろにいる薫へと語りかけた。

「怖いだろうねぇ、水無月さん?」

 その瞳は笑っていた。

 そう、微笑んでいるのではなく、嘲るように。

「君を助けようとしているのは、人間じゃないんだよ?」

 ベリアルは薫の心の均衡を崩そうとしていた。

 助けに来たのは悪魔で、こんな化け物染みた力を持っているのだと。

 サザーランドは「耳を貸すな!」と声を荒げた。

 薫の心に、一瞬揺らぎが生じる。

 しかし、それでも。

「私を大切に思ってくれてる方たちです」

 薫は凛とした瞳でベリアルを見詰めた。

「(そうだ。メフィストさんも、サザーランドさんも、こうして戦いながら守ってくれている。人間とか、悪魔とかじゃなくて、自分の意思で戦ってくれている)」

 薫の中で、何かが吹っ切れた瞬間だった。

 ベリアルは瞬きをすると、腹を抱えて笑いだした。

「はははは!なるほど、確かに面白い娘だ!」

 薫は内心「そこまで面白おかしい人間じゃない」と反発していた。

 しかし口を開ける雰囲気でもなかったため、大人しくサザーランドの背後から出ることはしなかった。

「だが、先程も言ったようにゲームはこれからなんだよ」

 ベリアルはにやりと笑みを浮かべた。

 その瞬間、光の壁からは無数の光の玉が飛び出し、サザーランドの体に狙いを付けぶつかっては燃え上がった。

「くそっ!」

 サザーランドはその光の玉を避ける事が出来ずにいた。

 薫が背後にいる。

 自分が動けば薫がこの炎にやられる。

 光を剣で薙ぎ払いながら、避け切れなかった光に身を焼かれる。

 それでも、メフィストから薫を託された。

 その責務を果たそうと、サザーランドは必死に耐えた。

「やれやれ、これでは一方的だな」

 ベリアルがつまらなそうに呟く。

 頬杖をつき、メフィストとサザーランドを交互に見ると、欠伸を噛み殺した。

「つまらん……そうだ」

 ベリアルは何か思いついたように顔を上げた。

「暫くこの娘は預からせてもらうよ?」

 そう言うが速いか、ベリアルはサザーランドの前に立っていた。

 サザーランドは一瞬怯み、薫を後方へ押しやった。

 折角助け出せそうなのだ、それをここで無駄にする事は出来ない。

 サザーランドが剣を構える。

 しかし、その切っ先はベリアルの人差し指で弾かれた。

 剣は宙を描くと、音を立てて床に突き刺さった。

「ベリアル将軍……っ!」

 丸腰になったサザーランドが拳を向けると、ベリアルはそれさえも片手で払い除けた。

「副官風情が、私に敵うものか」

 サザーランドは派手な音を立て、準備室の資料棚へ体を叩きつけられた。

「ぐあああ!」

 資料棚のガラスが割れ、サザーランドの体へ落ちていく。

「サザーランドさん!」

薫はサザーランドに走り寄ろうとした所を、ベリアルに腕を引かれた。

「っ!」

「君にはもう少し付き合ってもらうよ、水無月さん?」

 ベリアルは狼を呼び寄せると、もとの魔法陣の中へと狼は姿を消した。

 メフィストはその場に崩れ落ち、サザーランドは口から血を流してガラスの中に沈んでいる。

 ベリアルはそんな二人を交互に見ると、薫を抱きしめ窓から身を投じた。

「言っただろう、ゲームは始まったばかりだ」

 月明かりが差し込む準備室に、ベリアルの声だけが響いた。


「すまなかった……」

 ガラスを払いながらサザーランドは立ち上がり、崩れ落ちたメフィストへと手を差し出した。

 託されたのに、守りきれなかった。

 そんな声にならない声がメフィストには聞こえたような気がした。

 メフィストはその手を取り立ち上がると、ぼろぼろになったコートを脱ぎ捨てた。

「いや、お前も無事で良かった――流石に炎に包まれた時は肝を冷やした」

 サザーランドは口元に流れる血を軍服で拭い、それを見ると舌打ちをした。

 自分の血を見たのは久し振りだと思いながら頭を振った。

「あれは見せ掛けがほとんどだった、ベリアル将軍が本気で俺たちを潰しにかかっていれば、こんなものでは済まなかった」

「……ああ」

 軍服のいたる所にできた焦げ跡を目で追う。

 ベリアルの本気の炎を以ってすれば、ここにいる二人に重症を負わせる事など簡単なのだ。

 それでも、この程度で済んだ。

 それには理由があるはずだ。

「ベリアル将軍はゲームと言っていたが」

 メフィストは顎に手を当て、壊れきった準備室を見回した。

 戦いの痕跡がいたる所に見える。

 もちろん蹴破ったドアも先の戦闘で粉々だった。

「で、カオルはどうする?」

 サザーランドが床に突き刺さった剣を抜くと、床の一部が砕けた。

 それだけ強い力で吹っ飛ばされたのだ。

「どうするとは?」

 メフィストがサザーランドを睨みつける。

 暗に「薫を助けないつもりか」と言っているようにサザーランドには見えた。

 面倒な奴だと思いながら両手を振って「そうじゃなく」と前置きをする。

「楽しんでいるだけだろう……」

 今のところ薫に危害を加えている訳でもなさそうだ、とサザーランドが付け足すと、メフィストは腕を組み、薫とベリアルが身を投じた窓を見据えた。

「だが連れ去って良い理由にはならん」

 きっぱりそう告げる。

「それはそうだが……」

 サザーランドが言いよどむと、メフィストはサザーランドの足の甲を思い切り踏み付けた。

「っだぁああ!何すんだよ!」

 無防備なそこを思い切り踏み付けられ、サザーランドは悲鳴を上げた。

 地味に痛い場所である。

 片方の足で飛び跳ねながら踏まれた方を庇う。

 そんなサザーランドをメフィストは鼻で笑うと、手にしていたレイピアをサザーランドへ突きつけた。

「非協力的だ」

「痛っ、そうじゃねぇだろ!俺だって心配してる!」

 サザーランドは噛み付くように声を荒げる。

 踏み付けられた上に、レイピアまで突きつけられる。

 協力的なはずだが、今の発言はメフィストにはそうは映っていないようだ。

「じゃなきゃ、あそこまで戦わん!」

 サザーランドが食い下がると、メフィストはレイピアを下ろし、自嘲地味に口を開いた。

「すまん……八つ当たりだ」

 項垂れるメフィストに、サザーランドは面倒臭そうに頭を掻いて、メフィストの肩に腕を回した。

「八つ当たりぐらいどうって事ない――カオルを助けるんだろう?」

 メフィストを窺えば、困ったように溜息を吐いた。

「そうだ」

 言ってしまえばメフィストは薫を助け出せなくて気が立っている、といったところだ。

 そのとばっちりがサザーランドという友人に来ているのだが、そんなメフィストを見る事もなかったからか、サザーランドは「仕方ない」と腹を決めた。

「行き先は、ベリアル将軍の居城、てか?」

 魔界でベリアルが力を振るえるのは、自ら統治する領土内だけである。

 魔界の中枢はルシファーの威光がある。

 ルシファーと謁見済みの薫が、見付からないはずはない。

「そうだろうな」

 メフィストは頷くと指を鳴らし、空間から新たなコートを取り出し、それに腕を通した。

 サザーランドは床に座り込み、剣を傍らに置き、その姿を眺めた。

 真面目で仕事の事しか頭にないような奴だったのに、と感慨に耽りながら。

「しっかし、あの一瞬で結界を張って戦闘に持ち込むとは、相変わらず抜け目がないな」

 準備室を見渡せば、準備室内は戦闘の傷跡が刻まれているが、廊下には一切被害がなかった。

 メフィストがドアを蹴破った瞬間から結界を張り巡らせ、被害を最小限にした結果だ。

 徐々にではあるが、準備室内の戦闘に傷跡も、修復されている。

「抜け目がなかったのならば薫も連れ去られずに済んだ」

 メフィストは修復されていく空間を見つめながらも、どこか納得できない表情を浮かべていた。

 その表情にサザーランドは「相変わらず辛気臭い奴だな」と笑みを零した。

「だから、それはベリアル将軍の方が上手だって話だろう。落ち込むなよ、面倒臭い」

「悪かったな」

 憎まれ口が叩ければ十分だ、とサザーランドは笑った。

 辛気臭いし面倒臭い、それでも友人をやっている以上慣れたものだった。

 サザーランドは「よっ」と腰を上げると、剣を軍服の下にしまった。

 軽く伸びをしてメフィストを見やる。

「とりあえずは、一旦引き上げるか」

 まずは作戦の立て直しだ、と思っていたのだが、メフィストは首を振った。

「そんな時間はない。すぐ魔界へ向う」

 メフィストの答えに、サザーランドは訳が分からないと言ったように口を開いた。

「お前、治療が先だろう!」

 サザーランドも怪我を負っているものの、サザーランドにしてみれば先程踏まれた足の方がよっぽど痛い。

 軍人であるサザーランドにとっては自己治癒能力でカバーできるが、デスクワークが本業のメフィストにとってはあの凶暴な牙や爪から受けた傷とて、治療が必要だった。

 それでもメフィストは首を縦に振る事はなかった。

「薫が最優先事項だ」

 あくまでメフィストにとって目的は薫なのだ。

「しょうがねぇな、ったく」


二人は空間転移を使い、魔界郊外にあるベリアルの居城の前までやって来た。

ベリアルの居城は万魔殿とまではいかないが、月明かりと黄金の光を混ぜたような光に包まれた城だった。

「相変わらずだな、ここは」

城の門には、ベリアルが愛して止まないバラがこれでもかと咲き誇っている。

そのバラの門の前で、メフィストとサザーランドは足を止めていた。

「退屈しのぎなら、このバラの手入れでもして下されば良いものを……」

 サザーランドが若干呆れながらバラに触れようとした。

 その瞬間、バラからは紫色の煙が放たれた。

「うわ!」

 サザーランドが手を引っ込めると、メフィストは事も無げに言った。

「ここにあるのは、全てベルフェゴール様の温室出身のバラたちだ」

「――触らん」

 メフィストの言葉を受けて、サザーランドはバラと距離を置いた。

 何かあってからでは遅いのだ。

 城の最上階を見上げながら、サザーランドは溜息を吐いた。 

「でも援軍ぐらい連れてこいよな」

 その言葉を背に受けながら、メフィストは門に手をかけた。

「無理だ。ベリアル将軍が退屈しのぎと言った以上、ベリアル将軍にとってはゲームでしかない」

 メフィストが慎重に門を開くと、サザーランドがその後に続く。

 バラの茎や葉を忌々しそうに避けながら、サザーランドはついていく。

「話してケリが着くとも思えんが?」

 メフィストは振り向きもせずサザーランドへ答える。

「ベリアル将軍の意図が分からん。何故、薫を連れ去れば面白みがある?」

 ステッキで伸びてくる茎を叩き落しながら、メフィストは疑問を口にする。

 薫を連れ去る意味が全く理解できていないのだ。

「お前……(気付いてないのか?)」

 それに気付いているのは、どうやらベリアルと、友人のサザーランドだけだった。

城の前までやっとの思いで辿り着くと、メフィストはドアを叩いた。

返事はない。

そこでメフィストは「失礼致します」と言い、城内へと足を進めた。

入ってすぐにホールが広がり、階段が両サイドへと伸びている。

その中央階段にベリアルが立っていた。

「よく来たな」

 ホールにベリアルの声が響き渡る。

 その姿はナハトと名乗っていた時の服ではなく、帝国軍の将軍服に身を包んでいた。

 七十二将軍の内の一人であるベリアル。

 その姿は、皇帝ルシファーに次いで美しいとされている通りだった。

 メフィストはステッキを握り締め、跪いた。

「ベリアル将軍、お戯れが過ぎます」

 サザーランドは自分の仕える将軍にしか跪かないと決めている。

 だが、薫の身には替えられない。

 サザーランドは方膝をつき、剣を床に置いた。

 これで駄目なら――。

「戯れ、か。言っても分からないよ、お前たちには……」

 ベリアルが頭を振った。

 それでもメフィストは引く訳には行かなかった。

「薫はどこですか」

 自然と声が強くなる。

 そんなメフィストを楽しそうに見下ろし、ベリアルは腕を組んで階段を下りてきた。

「さぁ、どこかな?」

 含みのある笑みを浮かべ、ベリアルはメフィストたちの目の前まで来た。

「ベリアル将軍――」

 メフィストに若干の苛立ちが見える。

 そもそも、メフィストはベリアルとは立場が違う。

 相手は七十二将軍の一人で、メフィストは皇帝直轄の部下である。

 お互いにどうこう干渉できる立場にないのだ。

 こういった事がなければ、ろくに話す機会もなかっただろう。

「あの娘はお前にとってなんだ?」

「そのような事はどうでも――」

 メフィストは顔を上げずに答えた。

 しかし、ベリアルはそんな事では納得しないようだった。

「よくない。聞かせたら居場所ぐらい教えてやらなくもない」

 メフィストはステッキを握る手に力が入るのを感じた。

「(緊張している――この私が?)」

 微かに顔を上げ、凛とした口調で言い切った。

「同居人です」

 サザーランドが後ろで「はぁ?」と言っているのが聞こえる。

 ベリアルは面白くなさそうにメフィストのステッキを足先で突付いた。

 握りの部分についた飾りが、ちゃりちゃりと音を立てる。

「ただの同居人に魔界産の守護ストラップや弁当など与えるのか、お前は?」

「――薫は、どこですか?」

 メフィストは、今度はしっかりとベリアルを見据えた。


「開かない!」

 ベリアルの居城内の応接室で、薫は何個もあるドアを片っ端から開けようと試みていた。

 しかし、どのドアも鍵が掛かっていて、外へは出られそうにもなかった。

 薫はその場に座り込んだ。

 絨毯がふかふかしていて、どことなく安心感がある。

「もう、どうしたら良いのかな……ベリアルさんも戻ってこないし――はぁ、お腹空いた……」

 夕食を食べる前に囚われ、そのままだった。

 薫は三食食べねばならない健康優良児である。

 こんな時でもお腹は空く、と相も変わらない緊張感のなさに自分が情けなくなった。

「君、だぁれ?お腹空いてるの?」

「――っ!」

 誰もいないと思っていた部屋の隅から、少年の声が響いた。

 柱の影から出てきたのは、十歳前後の、中世の貴族が着ていそうな服を着て、王冠を被った美少年だった。

 金色の髪は短く切り揃えられていて、紫の瞳が印象的な少年だ。

 少年は薫に天使のように微笑みかけた。

「ビックリさせちゃった?」

 小首を傾げながら薫に近付き、手を差し出した。

 薫が戸惑いながら手を取ると、少年とは思えないような力で立たされた。

「えぇと、少し……」

 薫が立ち上がると、少年はちょうど胸くらいまでの身長だった。

 その身長差でも、何故か少年の方が格が上のような気がしてならなかった。

 少年は反対側に首を傾けた。

「ごめんね?で、お腹空いてるの?」

 先程の独り言を丸々聞かれていと思い、薫は顔が一気に赤くなるのを感じた。

 根が素直な薫である。

 こういった時でもそれは顔を出してくる。

「え、はい……(うわぁああ、恥ずかしい!)」

 きっと今、人生でも数えられるくらい恥ずかしい経験をしている。

 薫はそう思うと、更に恥ずかしさで真っ赤になった。

 少年はそんな薫を見て、にっこり微笑んだ。

「じゃあこれ、あげる」

 目の前に差し出されたのは、綺麗にラッピングされた箱に入った、デコレーションクッキーだった。

「クッキー?」

 薫がそれを見詰めると、少年は嬉しそうに一つ摘んで、それを口に入れた。

 ぽりぽりと、美味しそうな音がする。

「うん、ボクのお気に入りだから美味しいよ?」

「ありがとうございます」

「いいよ、気にしなくても」

 薫は素直に礼を言い、箱に手を伸ばした。

 その中から、ピンクのクリームでデコレーションがされたクッキーを一つ取る。

 見るからに高級なクッキーに思えた。

「あ、本当だ、美味しい」

 口に入れると、ふわ、と甘さが広がり、そこにベリーの酸味がきいていた。

 薫が嬉しそうに食べていると、少年は安心したように頷いた。

「良かったぁ。でも人間がどうしてここにいるの?」

 少年は本題、とでも言うように真面目な顔になった。

「それは、あの……」

 薫は迷った。

 ここに連れて来られたのはベリアルによってだが、この少年もここにいるという事はベリアルの関係者である可能性がある。

「(言ってもいいのかなぁ)」

 薫が迷っていると、少年は近くにあったソファーに座り、薫にも座るよう促した。

 薫は戸惑いながら少年の向かいに座ると、少年は身を乗り出して薫の瞳を見つめた。

「――なるほどね」

 数秒見つめると、少年は体をソファーに凭れかかった。

「え?」

 薫が不思議に思い声を出すと、少年は事も無げに答えた。

「ベリアルに連れて来られたんでしょ?」

「なんで!」

 薫は立ち上がり、口をぱくぱくと開閉させた。

 少年は困ったように微笑むと、もう一度座るよう促した。

 薫は落ち着こうとしながら、深呼吸をしてもう一度座り直した。

「君の思考を読んだんだよ。簡単だよ?」

 少年は思考を読んだ、と言う。

 ここは魔界で、ベリアルの居城で、関係者かもしれない少年。

思考を読むのは悪魔なら出来るのではないか。

 しかもベリアルを呼び捨てに出来る間柄。

「貴方も、悪魔ですか?」

 薫が薫なりに慎重に問うと、少年は当然と言ったように笑った。

 その笑みは決して邪悪なものではなく、可愛らしいものだけれど。

「そうだよ。ここは魔界だもん、悪魔しかいないよ」

少年はそう言うと更に付け加えた。

「それに、ベリアルの事なら心配しなくても、ボクは今回の事には無関係の立場だから安心して良いよ?」

「そう、なんですか……?」

 薫が言いよどむと、少年は先程とは変わって、むすっとした表情を浮かべた。

「ねぇ、その敬語みたいなのやめてよ」

「え、どうして、ですか?」

 薫が尋ねると、少年はそっぽを向いたまま答えた。

 クッキーに手を伸ばしながら、少年はぽつりと呟いた。

「仲良くなりたいから」

 薫は一瞬何を言われたか分からなかった。

「え?」

 少年は悪魔でありながら、人間と仲良くなりたいと言ったのだ。

 薫が聞き返すと、少年は少しこちらに視線を戻し、甘えるような声で聞いた。

「それじゃダメ?」

 正直、薫は自分より年下のお願いには弱かった。

 この場合少年も悪魔な訳だから、自分よりかなり年齢も上だろうけれど。

 それでも、少年という姿を可愛いと思ってしまうのだった。

「ダメじゃない、ですけど……」

 薫が戸惑うと、少年は薫の隣に移ると、制服の袖を引いた。

「悪魔とは仲良くしたくない?」

 美少年特有の可愛らしさに、計算されたような仕草。

 薫は如何したものかと頭を悩ませた。

 もちろん、悪魔だから仲良くは出来ない、と思っている訳ではないのだが。

「いえ、そういう訳じゃないんですけど……」

「だから、それやめてー」

薫が身を引きながら両手を振ると、少年は薫の決して高くない鼻を摘んだ。

 途端に薫は間抜けな声を出す羽目になった。

「いひゃい!」

 ぐいぐいと少年は遠慮なく摘み上げる。

 薫が涙目で訴えると、最後に力を加えて放した。

「分かった?」

 得意げに踏ん反りがえる少年を、恨めしそうに薫は見詰めながらも、肯定の意を表した。

「は……うん」

「よろしい!」

思わず敬語になりそうになるのを堪え、友人と話すような口調で返事をすると、少年は嬉しそうに満面の笑みを見せた。

少年はソファーから飛び跳ねるように立ち上がると、薫の背後から抱きついた。

薫がわたわたとしていると、少年は薫の頬に自分の頬を寄せ、耳元で囁いた。

「ここから出たい?」

 それは薫にとって願ってもない事だった。

「――っうん!」

 勢いよく返事をすると、少年は「元気だね」と笑った。

 少年は頬を離すと、薫の膝へ、その身軽な体を乗せてきた。

 重くはないのだが、薫にとっては異性とこんなにもくっつくというスキルがほとんどない。

 自然と顔が赤くなる。

 少年はそんなことはお構い無しに、薫の顔を覗きこんだ。

「……名前は?」

 少年の問いに、今まで名乗っていなかった事を思い出した。

 声が小さくなるのを感じながらも薫は名乗った。

「薫だよ、水無月薫」

 名前を告げると、少年は頷いた。

「カオルだね?ボクの事はブブって呼んで」

「ブブ、さん?」

 少年はブブとだけ名乗ると、薫の膝から下り、一番大きな扉の前へと駆けていった。

 そしてドアノブを何回か回し、開かない事を確かめると、空間から可愛らしい鍵の束を取り出し、その中でも一番小さな鍵を鍵穴に差し込んだ。

 すると、かちり、と音がして扉が開いた。

 ブブは開いた扉を背にして可笑しそうに笑う。

「あは!カオルって可笑しな子だね!」

「えぇ?」

 薫はソファーから立ち上がり、疑問を感じながらもブブの開いてくれた扉へと向った。

 ブブは、薫が隣に来ると、その手をしっかりと握って微笑んだ。

「もう友達なんだから、ブブって呼んでよ」


ベリアルの居城では、メフィストとサザーランドが、ベリアルと対峙していた。

「メフィスト、本気を出したらどうなんだ?」

 ベリアルが嘲るように炎を繰り出す。

「本気ですよ、私は!」

ベリアルの放つ紅蓮の炎を、メフィストはレイピアで切り裂き、コートを翻し薙ぎ払う。

「雷帝よ!」

 サザーランドは剣を天井へとかざし、自身の操る雷を剣に漲らせていく。

 剣は白金に輝くと、ばりばりと音を立てた。

「ベリアル将軍、遠慮は致しませんぞ」

 サザーランドは先の戦闘で煮え湯を飲まされたのを思い出し、剣の雷を、大きくベリアル目掛けて放った。

「サザーランドは流石だな、破壊神アラストル様の副官だけはある」

「お褒めに預かり光栄です!」

 しかし、その雷光はベリアルの放った炎へと、一瞬にして飲み込まれていった。

 ベリアルが勝ち誇ったように微笑む。

「(戦闘中に笑みが零れるとは、どれだけ余裕なんだよ!)」

 サザーランドは再び剣に雷を漲らせ始めた。

 斬り付けるためには、まずあの炎を何としなければならない。

 サザーランドは悔しそうに顔をゆがめた。

「だが、私にはまだまだ敵わない」

 次の瞬間、サザーランドはベリアルの放った光の玉に体を吹き飛ばされた。

「ぐ――っ」

 剣は音を立て床を滑り、サザーランドとは反対方向に転がっていった。

「サザーランド……っ!」

 その光景を目の当たりにしたメフィストは、一瞬炎から目を逸らしてしまった。

 と、メフィストのコートへと炎が燃え広がり始めた。

「――っくそ!」

 メフィストが何とかコートを脱ぎ捨てると、床に伏したサザーランドが声も微かに叫んだ。

「バカ野郎!自分の蝿だけ追ってろ……っぐわぁ!」

 立ち上がろうとするサザーランドを、メフィストのもとへと再び吹き飛ばす。

「しっかりしろ!」

 メフィストがサザーランドを抱き起こす。

 サザーランドは脇腹を押さえながら、メフィストの支えで立ち上がると、飛ばされた剣を目で追った。

 もう届く距離ではない。

「さて、そろそろ私の本気でも味わうか?」

 ベリアルが両手を天井へ向けると、紅蓮の炎の玉が形成されていく。

 それは膨張し、オレンジの渦が広がっていく。

「――っ!」

 メフィストはレイピアを構え直し、サザーランドは防御の体勢を取る。

 これ以上はもたない。

 共に覚悟を決めた。

 ベリアルは不敵な笑みを浮かべ、口を開いた。

「ふふ、覚悟……っぐわ!」

 次の瞬間。

 ベリアルの掲げていた炎の玉は霧散し、ベリアルは背後から受けた強風によって床へと叩きつけられた。

 メフィストとサザーランドが呆然としていると、何とも暢気で陽気な少年独特の声がホール内に響き渡った。

「あーぁ、当たっちゃったよ。カオルが押すからだよ?」

「違うよ!私は止めようとしたんだよ?」

 中央階段を仲良さ気に下りてくるのは、まさに捜し求めていた薫と、ブブだった。

 ブブが強風を起こし、ベリアルの炎を目標にしていたのだが、薫が止めようと手を推してしまった事でベリアルに直撃したらしい。

「でも当たっちゃったのはカオルの責任だからね?」

「そんなぁ!」

 そんな事を言い合いながら階段を下りてくる薫とブブ。

 階段の中ほどでブブは立ち止まると、王冠を被り直して階下で負傷したメフィストとサザーランドを漸く視界に映した。

 不満そうに膨れながら、ブブは薫の腰に抱きついた。

 薫はそんなブブの頭を撫でながら、救い出そうと奮闘していた二人の悪魔に驚いていた。

「あれ、メフィストもサザーランドも居るじゃん。なに、まだ手こずってたの?」

「メフィストさん!サザーランドさん!」

 駆け寄る薫の腰に、相変わらずブブは抱きつきながら、メフィストとサザーランドを交互に見やった。

 二人は口を開けたまま、薫の腰に抱きついているブブを見て、声を失った。


「気が付いた、ベリアル?」

「ベルゼブブ様……」

 ホールの中央で、ベリアルは床に伏したまま瞼を開けた。

 そこには皇帝・ルシファーの第二副官であるベルゼブブの姿があった。

 ベリアルは体を起こすと、背中に鈍い痛みを感じ、顔を顰めた。

「直撃だったからね、大丈夫?」

 ベルゼブブはしゃがみこむと、ベリアルの背中をじっと見つめた。

 ベリアルは苦笑すると、「ええ」と答えた。

 視線をめぐらせると、メフィストとサザーランドの前には薫が座り込んで泣いていた。

 二人は困ったように視線を合わせ、「心配ない」と宥めているようだった。

「退屈しのぎも良いけど、ボクの友達を危ない目に合わせちゃダメだよ」

 ベルゼブブはメフィスト達に視線を向け、小声で告げる。

 ベリアルは目を見開き、信じられないといった視線をベルゼブブへと向けた。

「ご友人でしたか?」

 そんなベリアルに構う事無く、ベルゼブブは笑みを浮かべた。

「さっきからだけどね」

 悪戯っ子のように視線を投げてよこすベルゼブブに、ベリアルは居心地の悪さを感じ、軽く息を吐き、顔を伏せた。

 すると、薫がベリアルの元へと走ってくる。

 何事かと顔を上げれば、まだ涙で濡れた顔がそこにあった。

 薫は泣きながら、それでも言葉を紡ごうと必死な様子だった。

「べ、ベリアルさん、すみません!」

 そしてきっちり九十度の礼をし、謝罪の言葉を出した。

 ベリアルにはその意味が分からなかった。

 謝るのは自分のはずではないのか、と。

「えぇと――何故君が謝るのかな?」

 ベリアルが困惑気味に問うと、薫は顔を上げて真っ赤になりながら口を開いた。

「あの……えと、ブブの攻撃が当たったのって、私のせいみたいで……本当にごめんなさい!」

 薫がすまなそうに再び頭を下げると、ベリアルは心底困った声を出した。

「いや、謝らなくても良いのだが……で、ブブとは?」

 薫が口にした名前に、ベリアルはひどく困惑した。

 ベルゼブブをブブと呼べるのは皇帝であるルシファーだけだったはずではないのか。

訝しげに見つめるベリアルに、ベルゼブブは笑みを浮かべた。

「ボクとカオルは友達だもん!」

 えっへん、と胸を張るベルゼブブに、薫は「?」と首をかしげた。

「え、ブブって本当の名前じゃなかったの?」

 薫の問いに、ベルゼブブは人差し指を口に当てた。

「内緒♪」

「え~」

 茶目っ気たっぷりにウインクまでしたベルゼブブに、薫は不満そうな声を漏らす。

 それでもベルゼブブは名前を教えるのを拒んでいた。

「すまなかったね、水無月さん」

 ベリアルは立ち上がると、胸に手を当て、膝を折って頭を下げた。

 その謝罪に薫は慌て、自分もこれ以上ない程頭を下げた。

 この様子を見て笑っていられるのはベルゼブブだけだった。

「いえ……無事でしたから、別に」

 薫が頭を上げながらベリアルを窺うと、ベリアルはもう姿勢を正していた。

 そしてナハトの時と変わらぬ笑みを浮かべた。

 その笑みに薫も安堵の表情で顔を上げる。

 ベリアルはそれを確認すると、腕を組んで薫を見下ろした。

「暗に無事でなかったら、と言っているのかな」

 ベリアルの言葉に、薫は首が吹っ飛んでしまうというくらいに首を横に振った。

「いいいいいいえ!あの、そういう訳では!」

 どもる薫を見ると、ベリアルは苦笑を漏らした。

「ははっ、冗談だよ」

 そう言ってベリアルは薫の頭を軽く撫でた。

 それを甘んじて受けている薫。

 ベリアルは薫に興味が湧いてきた。

 先程まで身柄を拘束されていたのに、今では警戒心を解いている。

 単に抜けているだけなのか、それとも……。

「さぁ、メフィスト達が待っているよ?」

 そう言って薫を促すと、薫は「はい!」と笑顔で頷いた。

 さっと身を翻すと、メフィストとサザーランドの元へと戻っていった。

 その後姿を見つめながら。ベルゼブブは口を開いた。

「ねぇ、ベリアル?」

「なんでしょうか、ベルゼブブ様」

「今回の事は陛下にも報告しておくよ?」

 相変わらず笑みを浮かべたままだが、声が低くなり、オーラが威圧的なものになっている。

 その声に身震いしそうになりながらも、ベリアルはゆっくり頷いた。

「分かっております」

 ベリアルが答えると、ベルゼブブはホールを見回しながら肩を竦めた。

 あちこちに戦闘の傷跡があるものの、修復できないレベルではない。

「まぁ、カオルも無事だったし、被害家屋はベリアルの屋敷だけだから、お咎めはないと思うけど」

 ベルゼブブはそう言ってメフィスト達へ向って歩き出した。

 そして薫の腰に抱きつく。

 薫は頭を撫でながら「可愛いね」と言っているのが聞こえた。

しかし、それ以上にメフィストが奇怪な悲鳴を上げ、必死にベルゼブブに頭を下げているのがベリアルには面白くて仕方なかった。


 あれから数日。

 ゴールデンウィークも終わり、いつのも日常が戻っているはずの水無月邸でサザーランドは珈琲を飲みながら薫の相談に乗っていた。

 どうやら自分は兄貴として見られているようだった。

 まぁ、悪い気はしないのだが。

 そんな薫の相談事は――。

「メフィストの様子がおかしい?」

「はい」

 向かいのソファーで、メフィストが調達してきた「魔界産」のココアを飲みながら、薫は最近のメフィストの相談をサザーランドにしていたのだ。

 サザーランドはカップを置くと、ソファーに両手を広げてふんぞり返った。

「あいつの頭の中はいつでもおかしいと思うが?」

 いつも思っていることを口にしてみる。

 いつだって辛気臭くて仕事中心の生活で、最近になって料理やら洗濯やらにこり始めた友人。

 魔界の自室には薫の写真があるとかないとか。

 なんだか昔を思い出して悲しくなってくるのは、決して気のせいではない。

 サザーランドがそう言うと、薫は困ったように眉を寄せた。

「そういう事じゃなくて……何だか色々上の空みたいで」

「手抜き料理でも出されたか!」

 サザーランドが身を乗り出して楽しげに言う。

 悪魔の手抜き料理とは、いったどんなものなのだろうか。

 そんなサザーランドに、薫は「まさか!」と手を振る。

「いえ、いつも通り美味しいご飯ですけど……なんて言うか」

 もごもごとはっきりしない薫の様子を見て、サザーランドは「ああ」と納得した。

「まぁ今回の事でカオルの事を自分が助けられなかったから……拗ねてるんだろう」

「拗ねてる?」

 薫が首を捻ると、サザーランドは薫に耳打ちするように囁いた。

「そうだ。ああ見えてメフィストの野郎は独占欲の塊みたいなところがあってな……」

 そこまで言うと、サザーランドはいきなり後ろへと引っ張られた。

「何しやがる!」

 抗議の声を上げ、見上げると、そこには額に青筋を浮かべ、サザーランドの襟巻きを引き絞るメフィストが立っていた。

 サザーランドを見下ろし、手にはスーパーの袋がぶら下がっているところから、買い物帰りだと分かった。

 メフィストは苛立たしげに荷物を床に置くと、再びサザーランドの襟巻きを締め上げた。

「ちょっと待てぇ!」

 サザーランドが降参するように手を上げると、メフィストは「ふん」と言い、襟巻きから手を離した。

「誰がヘタレで拗ねている子供だ」

 メフィストはサザーランドを睨みつけた。

 サザーランドは首を撫でながら、軽く咳き込んだ。

「そこまで言ってないだろう」

 サザーランドが弁解すると、メフィストは更に機嫌を悪くしたようだった。

 スーパーの袋を持ち、キッチンへと置いてくると、今度は自分の紅茶を淹れ、薫の隣へと腰を落ち着けた。

「メフィストさん、あの、大丈夫ですか?」

 拗ねている、と聞かされた薫は、心配そうにメフィストを見上げた。

 メフィストは視線を合わせる事無く紅茶を口にする。

 居心地の悪さを感じたのはサザーランドだけのようだ。

 薫が尚も見上げていると、メフィストはカップを置き、薫の方へと体を向けた。

「それはこちらの台詞だ。もう平気か?」

 気遣うように頭を撫でる。

 薫にとって頭を撫でられるのは嫌ではない。

 そのまま状況を受け入れた。

「ええ、それはもう、絶好調ですよ?」

 腕の下からメフィストの瞳を覗き込む。

「なら、良い」

 メフィストは相変わらずの不機嫌顔だが、声のトーンは幾分落ち着いている。

 薫は先程のサザーランドの言葉を思い出した。

 メフィストの口調からも、拗ねているのは事実だろうと結論付けた。

「……メフィストさん」

「なんだ」

 見上げれば、そっと手をどけるメフィスト。

 いつもの変わらないメフィストの顔がそこにある。

 メフィストとサザーランドが来てくれなければ、こんな日常に戻る事も叶わなかっただろう。

「今回の事、本当にありがとうございました」

 座ったまま頭を下げると、メフィストは反対側を向いてしまった。

 サザーランドから見れば、明らかに拗ねている子供だ。

「私は何もしていないだろう」

 小さな声で呟くと、薫は立ち上がりメフィストの正面へ回り込んだ。

 メフィストは、今度はそっぽを向く事もせず薫を見上げている。

 薫は出来るだけ自分の感謝が伝わるように、必死になった。

「そんな事ないです!助けに来てくれました!」

 そんな薫の言葉に、メフィストはまた声のトーンを落とした。

「……だが、結局ブブ様に助けて頂いたようなものだ」

 メフィストがベルゼブブを「ブブ」と呼んでいるのは、ベルゼブブから「カオルには内緒だよ」と釘を刺されていたからだ。

 愛称で呼ばせているベルゼブブが羨ましくもあるのも事実だった。

「それでも、来てくれたのは、嬉しかったです」

 薫がメフィストを真っ直ぐに見つめると、メフィストは息を呑んだ。

 この娘でも、これだけ真剣な眼差しを送るのか、と。

「――、そうか」

 一瞬考えが飛んでいたのを誤魔化すように、メフィストは口を開いた。

「はい」

 薫は、メフィストの言葉に安堵したのか、にっこり微笑んだ。

 そんな二人のやり取りを向い側で見ていたサザーランドは、わざとらしく溜息を吐いた。

「あーぁ、俺だって頑張ったんだけどなぁ」

 拗ねた口調のサザーランドに、薫は慌てて向き直ると頭を下げた。

「も、もちろん!サザーランドさんも、ありがとうございました!」

「随分差がある気がするんだが?」

 サザーランドにとって薫をからかうのも習慣付いてきているようだった。

 薫が困るような台詞を吹っ掛ける。

 予想通り、薫は困ったように弁解を始める。

「そんな事……っうわ!」

 弁解しようとした薫の腕を引き、いつの間にか立ち上がったメフィストは、薫を腕の中へと閉じ込めた。

 薫は真っ赤になりながら逃れようと、メフィストの腕の中でもがいた。

 それでも、メフィストの腕はしっかりと薫を捕らえて離さない。

「差があって当然だろう。薫は私と過ごした時間が多いのだからな」

 メフィストは勝ち誇ったような笑みをサザーランドへ向けた。

 これ以上ないくらい腹の立つ笑みである。

 サザーランドは苛立ちを抑えながらソファーから立ち上がり、薫の頭をぐりぐりと撫で回した。

「いたたた、痛いです!」

 薫が抗議の声を上げると、サザーランドはにやりと笑った。

「時間だけが問題なら、これから仲良くしていこうな、カオル?」

 サザーランドが薫の頬を撫でると、メフィストの米神に青筋が走った。

 メフィストは薫を背後に庇うと、びし! と指を指して玄関へ大声を出した。

「帰れ!」

 今日も水無月家は平和である。


ここまで読んで下さった皆様、ありがとうございます。

急いで書き上げたものでしたので、後半などは急ぎすぎたかなぁ、と振り返ってみたりしています。

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