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『婚約破棄された虐げられ令嬢は、氷の公爵家嫡男に溺愛される』

作者: 猫撫子
掲載日:2026/10/21

ベルフォード男爵家の朝は、いつも冷たかった。

「リリアーナ! いつまで寝ているつもりなの!」

階下から響いた怒声に、リリアーナ・ベルフォードはびくりと肩を震わせた。

寝台と呼ぶにはあまりに粗末な、薄い藁を詰めただけのマットレス。窓から吹き込む冷気を防ぐものもなく、彼女は夜明け前から目を覚ましていた。

ただ、起き上がる気力が残っていなかっただけだ。

昨夜は、義妹セシリアの夜会用ドレスを夜通し縫い直していた。少しでも縫い目が歪んでいれば、継母のマルグリットに鞭で打たれる。だから、眠気に耐えながら、何度も何度も針を通した。

「はい、すぐに参ります」

リリアーナは擦り切れた袖を整え、急いで階段を下りた。

食堂では、父のオスカー男爵が新聞を広げ、継母とセシリアが朝食を囲んでいた。

テーブルに並んでいるのは焼きたてのパン、卵料理、果物に温かなスープ。

リリアーナの分だけ、食卓には何もなかった。

「遅いわね。セシリアのドレスを仕上げたからといって、仕事をしなくていいと思っているの?」

マルグリットが冷ややかに言った。

「申し訳ありません、お母様」

「誰がお母様ですって?」

継母の目が細くなる。

「私はあなたの実母ではありません。あなたのような出来損ないを産んだ女と、一緒にしないでちょうだい」

リリアーナは唇を噛んだ。

実母は彼女が五歳のときに亡くなった。父は半年もしないうちにマルグリットを後妻として迎え、その翌年にはセシリアが生まれた。

それからの十年間、リリアーナの居場所は少しずつ家の隅へと追いやられていった。

「ねえ、お父様。今日の夜会、私の髪飾りはどうしましょう?」

セシリアが甘い声を出す。

「宝石商から届いたものがあるだろう」

「でも、あれは去年の流行ですもの。リリアーナが持っている青い宝石の髪飾りが欲しいわ」

リリアーナは思わず顔を上げた。

母の形見だった。

小さな青いサファイアをあしらった、古びた銀細工の髪飾り。母が亡くなる直前、彼女の手を握りながら託してくれた、たったひとつの遺品だった。

「それは……母の形見です」

「何よ、その目は!」

マルグリットがテーブルを叩いた。

「あなたはセシリアに譲るべきでしょう。妹の幸せを願うのが姉の務めよ」

「ですが……」

「リリアーナ」

父の低い声が響いた。

「お前は誰のおかげで生きていられると思っている?」

彼女は口を閉ざした。

「男爵家の娘として食わせてもらっているのだ。お前ひとりに、どれほど金がかかっていると思う。家の役にも立たないのだから、せめて妹の役に立て」

父にとって、彼女は娘ではなかった。

ただの負債だった。

「……かしこまりました」

リリアーナは自室へ戻り、青い髪飾りを持ってきた。

セシリアはそれを受け取ると、陽の光に透かして笑った。

「まあ、きれい! やっぱり私に似合うわ」

その笑顔を見つめながら、リリアーナは心の奥で何かが静かに壊れる音を聞いた。

もう、期待してはいけない。

父に愛されることも。

継母に認められることも。

妹に姉として慕われることも。

そして――婚約者に愛されることも。

彼女は、もうすぐ十九歳になる。

婚約者のアーヴィン・クロフォードは、クロフォード子爵家の嫡男だった。

幼い頃、彼はリリアーナに優しかった。

転んだ彼女に手を差し伸べ、庭の花を摘んでくれたこともある。

その記憶だけを支えに、彼女は今日まで耐えてきた。

しかし、いつからだろう。

彼が自分を見下すようになったのは。

彼の頼みで帳簿を整理し、領地の収支を改善しても、返ってくるのは当然だという顔だけ。

彼が賭博で作った借金を、リリアーナが自分の持ち物を売って返済しても、感謝の言葉ひとつなかった。

それでも彼女は、いつか彼が昔の優しさを取り戻すと信じていた。

その期待が、どれほど愚かなものだったのか。

彼女はまだ知らなかった。

*

その日の午後、リリアーナはクロフォード子爵家を訪れた。

アーヴィンから、至急相談したいことがあると手紙が届いたのだ。

案内された応接室に入ると、彼はソファに腰掛け、葡萄酒を飲んでいた。

「遅かったな」

「申し訳ありません。屋敷の仕事が立て込んでいて……」

「そんなことはどうでもいい。これを見ろ」

彼が差し出したのは、分厚い帳簿だった。

「先月の収支報告だ。数字が合わない」

リリアーナは帳簿を受け取った。

数ページ目をめくっただけで、彼女の眉が動いた。

「アーヴィン様、この支出ですが……」

「何だ?」

「こちらの取引先は、半年前に廃業しています。なのに、毎月同じ金額が支払われています。それに、こちらの借入金も……」

「だから何だと言うんだ?」

彼の声が険しくなった。

「私が聞きたいのは、どうすれば帳尻が合うかということだ。お前は余計なことを考えず、数字だけ整えればいい」

リリアーナは息を呑んだ。

これは単なる帳簿の間違いではない。

存在しない取引先への送金。架空の経費。使途不明の資金。

誰かが意図的に金を抜き取っている。

「アーヴィン様。これを正しく処理するには、元の伝票と領収書を確認する必要があります」

「必要ない」

「ですが、もし不正な支出であれば、後々大きな問題に……」

「黙れ!」

彼はグラスをテーブルに叩きつけた。

「婚約者のくせに、僕を疑うのか?」

「そのようなつもりでは……」

「お前は本当に可愛げがないな。セシリアなら、こんな面倒なことは言わない」

また、セシリア。

最近のアーヴィンは、何かにつけて義妹の名前を口にするようになっていた。

「……承知しました。確認できる範囲で整理いたします」

「最初からそう言えばいいんだ」

彼は満足そうに笑った。

リリアーナは帳簿を抱え、頭を下げた。

そのとき、彼女は気づかなかった。

アーヴィンの机の引き出しに、彼女が幼い頃から大切に保管していた母の手紙が入っていることに。

そして、その手紙を彼がすでに読んでいたことにも。

彼女の母は、ただの男爵夫人ではなかった。

かつて王都の名門商会で財務を担当し、王国の経済顧問からも一目置かれていた女性だったのだ。

その知識と才能は、娘へと受け継がれていた。

だが、リリアーナ自身はまだ、自分の価値を知らなかった。


王都の春を祝う大夜会。

王宮の大広間には、数百本もの蝋燭が輝き、貴族たちの華やかな衣装が色とりどりに揺れていた。

リリアーナは、母の形見の髪飾りを失った頭に、何も飾らずに立っていた。

身に着けているのは、数年前に仕立てた古いドレス。

本来なら、婚約者の隣で入場するはずだった。

しかし、アーヴィンは彼女を迎えに来なかった。

それどころか、彼は大広間の中央で、セシリアの腰を抱いていた。

妹は新しい髪飾りを身につけ、輝くばかりの笑顔を振りまいている。

リリアーナは足を止めた。

嫌な予感が、胸の奥を締めつける。

「皆様、少しお時間をいただきたい!」

アーヴィンの声が広間に響いた。

音楽が止まり、貴族たちの視線が集まる。

「本日は、皆様にご報告があります」

彼はセシリアの手を取り、堂々と宣言した。

「私は、リリアーナ・ベルフォード嬢との婚約を破棄いたします!」

一瞬、広間が静まり返った。

それから、ざわめきが波のように広がった。

リリアーナは息をすることさえ忘れた。

「アーヴィン様……?」

「聞こえなかったのか?」

彼は嘲るように笑った。

「お前との婚約は、今日限りで終わりだ」

「理由を……お聞かせいただけますか」

声が震えた。

アーヴィンは肩をすくめた。

「理由? そんなもの、いくらでもある。陰気で、地味で、愛想がない。男爵家の娘らしく、礼儀だけは身についているが、それだけだ」

周囲から小さな笑い声が漏れた。

「それに、お前には華がない。僕の隣に立つにはふさわしくないんだ」

セシリアが彼の腕に頬を寄せた。

「お姉様、ごめんなさい。でも、私たち、愛し合ってしまったの」

その言葉を聞いた瞬間、リリアーナの中で何かが凍りついた。

彼女が夜通し働いている間。

彼女が家族の借金を返すために宝石を売っている間。

彼女がアーヴィンの不正を隠すために帳簿と向き合っている間。

二人は、こうして愛を育んでいたのだろうか。

「……そうですか」

リリアーナは小さく答えた。

「それだけですか?」

アーヴィンが顔をしかめた。

「何?」

「私との婚約を破棄する理由は、それだけですか、とお聞きしたのです」

彼は一瞬、言葉を失った。

彼女が泣き崩れるとでも思っていたのだろう。

「そうだ。何か文句があるのか?」

リリアーナは彼を見つめた。

不思議なことに、涙は出なかった。

胸は痛い。

けれど、それ以上に、何かがすっと消えていく感覚があった。

長い間、自分を縛りつけていた鎖が、音もなく外れていく。

「いいえ。ございません」

彼女は静かに頭を下げた。

「今までお世話になりました、アーヴィン様」

そして、踵を返そうとした。

「待て!」

アーヴィンが声を荒らげた。

「お前、まさかそのまま帰るつもりか? 僕に恥をかかせておいて、謝罪もなしか!」

リリアーナは振り返った。

「謝罪、ですか?」

「そうだ! お前のような女と婚約していたこと自体が、僕にとっては損失なんだぞ!」

「……そうですね」

彼女は微笑んだ。

今まで一度も見せたことのない、静かな笑みだった。

「私も、ようやく損失から解放されたようです」

その言葉に、アーヴィンの顔が赤くなった。

「貴様!」

彼が腕を振り上げた、その瞬間。

「その手を下ろせ」

低く、冷ややかな声が響いた。

広間の入口に、一人の青年が立っていた。

黒髪に、夜空を思わせる濃紺の瞳。

仕立てのよい黒い礼服に、王家から授けられた銀の紋章。

ヴァレンシュタイン公爵家の嫡男、レオンハルト・ヴァレンシュタイン。

王太子に次ぐほどの権勢を持ち、若くして国王の側近を務める人物だった。

彼の登場に、貴族たちは一斉に頭を下げた。

「で、ですが、ヴァレンシュタイン卿。これは我が家の婚約問題で……」

アーヴィンが慌てて言い訳を始める。

レオンハルトは一瞥すら与えなかった。

彼の視線は、リリアーナだけに向けられていた。

「ベルフォード嬢」

「……はい」

「少し、お時間をいただけますか」

「私に、ですか?」

「ええ。ぜひともお話ししたいことがあります」

周囲が息を呑んだ。

公爵家の嫡男が、男爵令嬢に自ら声をかける。

それだけでも異例だった。

しかも彼は、リリアーナが差し出した手を取るように、そっと腕を差し出した。

「よろしければ、私と一曲踊っていただけませんか」

リリアーナは目を見開いた。

「ですが、私は……」

「君がよろしければ、それで十分です」

彼の瞳には、憐れみも、嘲りもなかった。

ただ、彼女自身の答えを待つ誠実さがあった。

リリアーナは、震える指先を彼の腕に添えた。

「……喜んで」

音楽が再び奏でられる。

レオンハルトは、彼女を優しくエスコートした。

その背中を見送りながら、アーヴィンは唇を噛みしめていた。

「何だというんだ、あの女……」

彼は知らなかった。

自分が捨てた令嬢が、どれほどの価値を持つ人間だったのか。

そして、これから何を失うことになるのか。

*

「先ほどは、ありがとうございました」

ダンスが終わると、リリアーナは静かに礼を述べた。

「礼を言う必要はありません」

レオンハルトは答えた。

「私は、君に踊っていただきたかった。それだけです」

「どうして……私に?」

彼は少し考えてから、言った。

「以前、王宮の財務局に匿名で提出された報告書を覚えていますか」

リリアーナの目が大きくなった。

「王立鉱山の収益改善案……?」

「ええ。あれは実に見事でした。従来の会計処理の欠陥を指摘し、流通費の無駄を削減する方法まで示していた」

「……あれは、ただ気になったことを書いただけです」

「ただ気になったこと、ですか」

レオンハルトは微笑んだ。

「その報告書のおかげで、王国は数万枚の金貨に相当する損失を防げました。財務局は今も、提出者を探しています」

リリアーナは俯いた。

まさか、あの報告書がそれほどの影響を与えていたとは思わなかった。

母の残した書物を読み、帳簿を分析し、気づいたことをまとめただけだったのだ。

「なぜ、名前を記さなかったのですか?」

「……私の意見など、誰も聞いてくださらないと思っていましたから」

その言葉に、レオンハルトの表情が変わった。

「誰も、ですか」

「はい」

彼女はそれ以上、語らなかった。

語れば、涙がこぼれてしまいそうだった。

レオンハルトは、しばらく彼女を見つめていた。

そして、静かに言った。

「君は、自分が思っている以上に価値のある人だ」

その言葉は、リリアーナの胸に深く染み込んだ。

生まれて初めてだった。

誰かが、彼女の働きや成果を、彼女自身の価値として認めてくれたのは。

「……ありがとうございます」

彼女は、今度こそ涙をこぼした。

レオンハルトは何も言わず、彼女が落ち着くまで傍らに立っていた。

急かさず、慰めを押しつけず、ただそこにいてくれた。

その優しさが、彼女には何よりも温かかった。


夜会から三日後。

ベルフォード男爵家に、一通の封書が届けられた。

封蝋には、王国でも名高いヴァレンシュタイン公爵家の紋章が刻まれていた。

「何だと……?」

オスカー男爵は、手紙を読んで目を剥いた。

「リリアーナを、公爵邸に招待したいだと?」

マルグリットが顔をしかめた。

「そんなはずありませんわ。何かの間違いでは?」

「間違いではない。正式な招待状だ」

父は手紙を握りしめた。

そして、すぐにリリアーナを呼びつけた。

「お前、ヴァレンシュタイン公爵家と何をした?」

「何もしておりません。ただ、先日の夜会で、レオンハルト様と少しお話ししただけです」

「少し話しただけで、公爵家から招待状が届くものか!」

父の怒鳴り声が屋敷に響く。

「何か隠しているのだろう。公爵家に取り入って、我が家を出し抜こうとしているのか?」

リリアーナは首を横に振った。

「そのようなつもりはございません」

「ならば、なぜだ!」

彼女は答えられなかった。

父に説明しても、信じてもらえるとは思えなかったからだ。

すると、セシリアが横から口を挟んだ。

「お父様、きっとお姉様が公爵様を誘惑したのですわ」

「セシリア!」

リリアーナは思わず声を上げた。

「私は、そのようなことは……」

「だって、そうでなければ説明がつかないじゃない!」

セシリアは涙ぐんだふりをした。

「私がアーヴィン様と結ばれたことを恨んで、もっと身分の高い方に近づこうとしたのよ!」

「いい加減にしなさい!」

マルグリットがリリアーナの頬を打った。

乾いた音が響く。

「あなたは、どこまで恥知らずなの!」

リリアーナはよろめいた。

頬が熱い。

けれど、以前のように謝罪する気にはなれなかった。

彼女は頬を押さえ、静かに言った。

「……公爵家からの招待を受けてもよろしいでしょうか」

「何ですって?」

「正式な招待状です。お断りすれば、かえって公爵家に失礼になるかと存じます」

父は何か言い返そうとしたが、言葉を飲み込んだ。

公爵家の招待を拒むことは、男爵家にとって得策ではない。

「……行ってこい」

父は苦々しく言った。

「ただし、余計なことをするな。公爵家に気に入られたとしても、お前がベルフォード家の娘であることを忘れるなよ」

リリアーナは頭を下げた。

しかし、その心はもう、屋敷の中にはなかった。

*

ヴァレンシュタイン公爵邸は、王宮にも引けを取らない壮麗な建物だった。

広大な庭園には季節の花が咲き、磨き上げられた廊下には柔らかな陽光が差し込んでいる。

リリアーナは、案内された応接室で、レオンハルトと向かい合った。

「突然のお招きで、申し訳ありません」

彼はそう言って微笑んだ。

「ですが、どうしても君に会いたかったのです」

リリアーナの頬が赤くなる。

「私に、何かご用件が……?」

「あります。まずは、こちらをご覧ください」

彼が差し出したのは、数枚の書類だった。

そこには、ベルフォード男爵家とクロフォード子爵家の財務資料が並んでいた。

リリアーナは、書類に目を落とした瞬間、息を呑んだ。

「これは……」

「君が整理していた帳簿の写しを、正規の手続きを経て確認しました。いくつか、奇妙な点が見つかりましてね」

レオンハルトは淡々と説明した。

ベルフォード男爵家では、領地の税収が年々減少しているにもかかわらず、当主夫妻の生活費は増え続けていた。

一方、クロフォード子爵家では、実体のない取引先に多額の資金が流れていた。

しかも、その資金の一部は、ベルフォード男爵家の借金返済に使われている。

「両家の間で、不自然な資金の移動があるのです」

リリアーナは唇を引き結んだ。

思い当たる節があった。

父が彼女に帳簿の整理を命じるたび、説明のつかない支出が見つかった。アーヴィンの帳簿にも、同じ取引先の名前が何度も現れていた。

けれど、彼女は証拠がないため、踏み込めなかった。

「君は、何かご存じですか?」

リリアーナは迷った。

家族の不正を告げれば、実家はどうなるのだろう。

それでも、嘘をつくことはできなかった。

「……私は、帳簿に不自然な点があることには気づいておりました。ただ、詳細を確認することは許されず……」

「そうですか」

レオンハルトは頷いた。

「君を責めているのではありません。むしろ、これほどの異常に気づきながら、記録を残していたことに感心しています」

「記録……?」

「君が整理した帳簿の控えです。君の手元にも残っているのではありませんか?」

リリアーナは目を見開いた。

あった。

自分の部屋の床板の下に、これまで確認した帳簿の写しと、支出の不一致を記録したノートが保管してある。

いつか自分が責任を押しつけられたときのために、密かに残していたものだ。

「……ございます」

レオンハルトの目が鋭くなった。

「それを、私に見せていただけますか」

リリアーナは小さく頷いた。

「はい。ただし、ひとつお願いがございます」

「何でしょう」

彼女は、まっすぐに彼を見つめた。

「私の家族であっても、不正があれば正しく裁いてください。私の証言だけで罰するのではなく、きちんと調査をしていただきたいのです」

レオンハルトは、わずかに目を見開いた。

虐げられてきた令嬢が、家族を罰するためではなく、正しい裁きを求めている。

そこにあるのは、復讐心だけではなかった。

彼女自身の誠実さだった。

「約束します」

彼は力強く答えた。

「証拠に基づいて調査し、罪がある者には相応の責任を取らせます。君が誰かを憎んでいるかどうかは、関係ありません」

リリアーナは、胸の奥が熱くなるのを感じた。

この人なら、信じてもいいのかもしれない。

「……ありがとうございます、レオンハルト様」

彼は微笑んだ。

「それと、もうひとつ」

「はい?」

「できれば、私のことはレオンと呼んでいただけませんか」

「えっ……?」

「君と、もっと親しくなりたいのです」

彼は少しだけ、照れたように視線を逸らした。

その仕草に、リリアーナの心臓が大きく跳ねた。

彼女は生まれて初めて、自分が誰かに必要とされる喜びを知り始めていた。


公爵家で過ごす時間は、リリアーナにとって夢のようだった。

客人として迎えられた彼女には、専属の侍女がつき、温かな食事が用意された。

何より驚いたのは、誰も彼女を怒鳴りつけなかったことだった。

「お嬢様、こちらのドレスはいかがでしょう」

侍女のエマが、柔らかな薄青色のドレスを見せてくれた。

「私には、少し華やかすぎるのでは……」

「そんなことはございません。とてもお似合いになると思います」

エマはにこやかに笑った。

「それに、レオンハルト様がご用意くださったものですから」

リリアーナは顔を赤くした。

「レオンハルト様が……?」

「はい。お嬢様が着心地のよいものを、と何度も仕立屋にお伝えになっていましたよ」

リリアーナは、ドレスの生地にそっと触れた。

これまで彼女が着てきた服は、いつも誰かのお下がりだった。

自分のために選ばれたものなど、ひとつもなかった。

その事実が、今になって胸に迫った。

「……私、こんなに親切にしていただいたことがなくて」

エマは何も言わず、彼女の手を握った。

「これからは、たくさん甘えてくださいませ」

その言葉に、リリアーナはとうとう泣いてしまった。

涙が止まらなかった。

悲しいからではない。

自分が大切にされてもいい人間なのだと、ようやく思えたからだった。

*

数日後、レオンハルトはリリアーナを公爵家の書庫へ案内した。

天井まで届く書棚には、歴史書や経済学の書物、外国の商業記録が並んでいる。

「好きなだけ読んでください」

彼は言った。

「君が必要とする本は、すべて取り寄せましょう」

「よろしいのですか?」

「もちろんです。君の知識を深めることは、王国にとっても有益でしょうから」

リリアーナは嬉しそうに頷いた。

彼女は書物に夢中になった。

領地経営、貿易、税制改革。

幼い頃から母に教えられ、独学で身につけた知識が、新しい学問と結びついていく。

気づけば、窓の外は夕焼けに染まっていた。

「……もう、こんな時間」

慌てて本を閉じると、書庫の入口にレオンハルトが立っていた。

「楽しめましたか?」

「はい。こんなに素晴らしい書庫があるなんて……。一日中ここにいても飽きません」

彼は満足そうに微笑んだ。

「それはよかった」

そして、彼女の手元に視線を落とした。

「君は本当に、学ぶことが好きなのですね」

「はい。母が、教えてくれたのです。知識は誰にも奪えない財産だと」

「素晴らしいお母様だったのでしょうね」

「……はい」

リリアーナは微笑んだ。

「私のことを、誰よりも信じてくれた人でした」

その言葉を口にした瞬間、亡き母の面影が胸に浮かんだ。

母が生きていたら、今の自分をどう思うだろう。

少しは、誇りに思ってくれるだろうか。

「レオンハルト様」

「レオン、と」

「あ……レオン様」

「それで結構です」

彼は楽しそうに笑った。

「どうしました?」

「私、これからは……自分のために生きてもいいのでしょうか」

問いかけた声は、自分でも驚くほど小さかった。

レオンハルトは、しばらく黙っていた。

やがて彼は、彼女の前に膝をつき、目線を合わせた。

「もちろんです」

彼の声は、どこまでも優しかった。

「君は誰かの役に立たなければ存在してはいけない人間ではありません。何も成し遂げていない日であっても、君には幸せになる権利がある」

リリアーナの瞳が揺れた。

「……本当に?」

「本当です」

彼は、彼女の手をそっと握った。

「私は、君が何かをしてくれるから大切にしたいのではありません。君という人を、もっと知りたいのです」

リリアーナは顔を伏せた。

頬が熱い。

胸の奥が、温かい。

今まで誰も教えてくれなかったことを、彼は当たり前のように伝えてくれる。

愛されるために、尽くし続ける必要はないのだと。

「……ありがとうございます」

彼女は小さく笑った。

その笑顔を見て、レオンハルトは心の中で決意した。

この人を、二度と孤独にはさせない。

*

その夜、レオンハルトは父であるヴァレンシュタイン公爵に呼び出された。

「お前が男爵令嬢を屋敷に招いたそうだな」

公爵は書類から目を上げた。

「はい」

「どういうつもりだ?」

「彼女には優れた才能があります。それに、誠実な人です」

「それは、財務局に提出された報告書の件か?」

「ご存じでしたか」

「国王陛下から聞いた。あの報告書の提出者が、ベルフォード男爵家の娘かもしれないとな」

公爵は腕を組んだ。

「だが、それだけではないのだろう?」

レオンハルトは、少しだけ表情を和らげた。

「……はい」

「惚れたか」

あまりにも直球な問いに、レオンハルトは珍しく言葉に詰まった。

公爵は、ふっと笑った。

「お前がそんな顔をするのは初めて見た」

「父上」

「よいではないか。身分だけで人の価値は決まらん。むしろ、あの娘のような人間こそ、公爵家に必要なのかもしれん」

レオンハルトは深く頭を下げた。

「ありがとうございます」

「ただし、ひとつだけ忘れるな」

公爵の目が鋭くなる。

「彼女を救うことと、彼女の人生を支配することは違う。彼女自身が望む道を選べるようにしろ」

「……はい」

レオンハルトは、その言葉を胸に刻んだ。

彼が望むのは、彼女を自分の所有物にすることではない。

彼女が自由に生き、その隣に自分を選んでくれることだった。


一方、ベルフォード男爵家では、異変が起きていた。

リリアーナが屋敷を離れてから、わずか一週間。

領地から届く報告書の処理が滞り、使用人たちへの給与支払いが遅れ始めた。

これまで彼女が密かに行っていた仕事が、誰にもできなかったのである。

「おい、税収の報告書はどうなっている!」

オスカー男爵が執事を怒鳴りつけた。

「も、申し訳ございません。当主様。リリアーナ様が管理されていた帳簿の整理方法が分からず……」

「そんなもの、誰でもできるだろう!」

「ですが、領地ごとの収支を統合し、支出の重複を除く作業は、かなり専門的でして……」

「言い訳をするな!」

男爵は机を叩いた。

これまで父は、リリアーナが何をしているのか理解しようともしなかった。

帳簿を渡せば、数字が整って戻ってくる。

領地の収支を問えば、問題点と改善案が提出される。

彼は、それが当たり前だと思っていた。

娘が眠る時間を削り、何度も計算をやり直していたことなど、考えたこともなかった。

「仕方ないわね」

マルグリットが口を挟んだ。

「リリアーナを呼び戻しましょう。あの子も、いつまでも公爵家に居候しているわけにはいかないでしょう」

「そうだな。あいつには、まだやるべき仕事がある」

父はすぐに手紙を書かせた。

しかし、返ってきたのは、丁寧だが明確な断りの返事だった。

――現在、私は公爵家のご厚意により学びの機会をいただいております。ご依頼の件につきましては、正式な業務契約と報酬、責任の所在を明らかにしていただいたうえで、検討させていただきます。

「何だ、これは!」

オスカー男爵は手紙を床に叩きつけた。

「自分の父親に向かって、業務契約だと? 恩知らずめ!」

マルグリットも顔を真っ赤にした。

「公爵家に入って、すっかり偉くなったつもりなのね!」

だが、二人は気づいていなかった。

リリアーナが初めて、自分の労働に値段をつけたことに。

これまで無償で差し出していたものを、もう当然のようには渡さないと決めたことに。

そして、その決断が、彼らの破滅の始まりだったことに。

*

クロフォード子爵家でも、事態は悪化していた。

アーヴィンは、リリアーナがいなくなって初めて、自分の生活がどれほど彼女に支えられていたのかを知った。

帳簿は乱れ、領地の収支は把握できず、借金の返済計画も立てられない。

そればかりか、彼が遊興費として流用した金額を示す記録が、次々と見つかり始めた。

「どういうことだ! 何でこんなに金が足りない!」

アーヴィンは帳簿を投げ捨てた。

「リリアーナなら、こんなことには……」

そこまで口にして、彼は自分の言葉に気づいた。

リリアーナなら。

そうだ。彼女なら、何とかしてくれた。

どんなに無理な要求をしても、どんなに理不尽な仕打ちをしても、最後には必ず帳尻を合わせてくれた。

自分が失敗すれば、その後始末をしてくれた。

借金を作れば、返済方法を考えてくれた。

彼女がいる限り、自分は何をしても大丈夫なのだと思っていた。

「……くそっ!」

アーヴィンは拳を握った。

彼女を取り戻さなければ。

そう思った瞬間、扉が開いた。

「アーヴィン様!」

セシリアが駆け込んできた。

「大変ですわ! お父様から手紙が……」

彼女が差し出した手紙には、クロフォード子爵家とベルフォード男爵家の資金のやり取りについて、王宮から調査が入るという知らせが記されていた。

アーヴィンの顔から血の気が引いた。

「な、何だと……?」

彼は手紙を握りつぶした。

「誰が密告した!」

セシリアは首を横に振る。

「分かりませんわ……でも、もしかして、お姉様が……」

二人は顔を見合わせた。

あの女だ。

あの女が、自分たちに復讐しようとしている。

そう考えることでしか、彼らは現実を受け入れられなかった。

自分たちの行いが、罪として裁かれる。

その当たり前の事実から、目を背けていたのだ。


王都に、ある噂が広がり始めた。

ヴァレンシュタイン公爵家が、男爵令嬢リリアーナを厚遇している。

彼女は公爵家の書庫に通い、財務に関する助言を行い、王宮の役人たちとも面会しているという。

そして、レオンハルトが彼女を特別な相手として扱っているらしい、と。

噂を聞いたアーヴィンは、激しく動揺した。

「嘘だろう……」

彼は、リリアーナのことをよく知っているつもりだった。

地味で、口数が少なく、いつも自分の後ろをついてくる女。

華やかな舞踏会では壁際に立ち、誰かに話しかけられれば、緊張して言葉を詰まらせる。

そんな女が、公爵家の嫡男に気に入られるはずがない。

だが、噂は日に日に大きくなった。

そして一か月後、王宮で開かれる慈善舞踏会に、リリアーナが出席するという知らせが届いた。

「行くぞ」

アーヴィンはセシリアに告げた。

「え?」

「リリアーナに会いに行く」

「でも、あの人、私たちを恨んでいるかもしれませんわ」

「だからこそだ。あいつは僕の婚約者だった。少しくらい話を聞く義務がある」

本当は違った。

彼は、自分が捨てた女が本当に幸せになったのか、確かめずにはいられなかったのだ。

*

舞踏会の夜。

大広間の扉が開き、リリアーナが姿を現した。

淡い銀青色のドレス。

首元には、小さな真珠のネックレス。

髪には、青い宝石を模した繊細な銀細工が飾られていた。

それは、母の形見を失った彼女のために、レオンハルトが職人に依頼して作らせたものだった。

華美ではない。

けれど、彼女の白い肌と澄んだ瞳を、驚くほど美しく引き立てていた。

「……あれが、リリアーナ?」

アーヴィンは呆然と呟いた。

以前の彼女とは、何もかもが違って見えた。

顔立ちが変わったわけではない。

彼女自身は、同じ人間だ。

ただ、背筋を伸ばし、堂々と歩いている。

誰かの顔色を窺うことなく、自分の意思で微笑んでいる。

その姿が、彼には眩しかった。

レオンハルトが彼女の隣に立ち、耳元で何かを囁く。

リリアーナは嬉しそうに笑った。

アーヴィンの胸に、どす黒い感情が広がった。

なぜだ。

なぜ、あの女が。

なぜ、自分ではなく、あの女が選ばれるのだ。

彼は衝動的に歩み寄った。

「リリアーナ!」

彼女は振り返った。

一瞬だけ、驚いた表情を浮かべる。

けれど、すぐに穏やかな顔に戻った。

「アーヴィン様。お久しぶりです」

「お前……本当に変わったな」

「そうでしょうか」

「僕のことを、覚えているだろう?」

「もちろんです。以前、婚約していた方ですから」

その言葉が、アーヴィンの胸に突き刺さった。

以前。

彼女は、過去のこととして語ったのだ。

「リリアーナ、僕たちは誤解していたんだ」

彼は声を潜めた。

「君との婚約を破棄したのは、少し感情的になっていたからで……」

「そうですか」

「君も、あのときは傷ついただろう。だから、もう一度話し合おう。僕たちは長い付き合いだったじゃないか」

リリアーナは、静かに彼を見つめた。

かつてなら、彼の言葉を信じていたかもしれない。

少しでも優しくされれば、また期待してしまったかもしれない。

けれど、今は違う。

「アーヴィン様」

彼女は穏やかな声で言った。

「私は、あの夜に婚約が終わったことを、残念には思っておりません」

「何だと?」

「むしろ、感謝しております」

アーヴィンは言葉を失った。

「あなたが婚約を破棄してくださったから、私はようやく、自分の人生を生き始めることができました」

彼女は微笑んだ。

「ですから、どうかご心配なく。私は幸せです」

アーヴィンの顔が歪んだ。

「……お前は、僕を見返すために、公爵家に取り入ったんだろう!」

その声に、周囲の貴族たちが振り返った。

「違います」

リリアーナは即座に答えた。

「私は、誰かを見返すために生きているのではありません」

「ならば、なぜ……!」

「アーヴィン」

低い声が割って入った。

レオンハルトだった。

「彼女が君との婚約を終えたことは、君自身が選んだことだ。今さら撤回を迫る権利はない」

「し、しかし……!」

「それに、君は彼女を『価値がない』と言ったそうだな」

レオンハルトの瞳が冷たくなる。

「その判断がどれほど間違っていたのか、いずれ思い知ることになるだろう」

アーヴィンは唇を震わせた。

反論できなかった。

レオンハルトはリリアーナの手を取り、優しく微笑んだ。

「行きましょうか」

「はい」

二人は並んで歩き出した。

アーヴィンは、その背中を見つめることしかできなかった。

自分が捨てた女が、自分の知らない場所で、こんなにも輝いている。

その事実が、何よりも彼の自尊心を傷つけた。


翌週、王宮から正式な調査命令が下された。

対象は、ベルフォード男爵家とクロフォード子爵家。

長年にわたり、両家の間で不自然な資金移動が行われていた疑いがあるためだ。

調査官たちは両家の帳簿を押収し、取引記録を確認した。

そして、次々と証拠が見つかった。

存在しない商会への送金。

領地税の一部を私的な遊興費に流用した記録。

架空の借金を計上し、返済を装って資金を移動させた証拠。

さらに、クロフォード子爵家の帳簿には、アーヴィンが賭博の借金を返すため、領地の収益を不正に引き出した記録まで残されていた。

「これは何かの間違いだ!」

アーヴィンは調査官の前で叫んだ。

「私は帳簿の管理などしていない! リリアーナがやっていたのだ!」

調査官は冷静に答えた。

「ベルフォード嬢が管理していた期間の帳簿には、彼女の記録と署名が残されています。しかし、不正な送金が行われた日付と、実際に資金を動かした人物の記録は一致していません」

「そ、それは……!」

「また、ベルフォード嬢は以前から複数の不審な取引について、指摘する書面を残しています」

調査官は一枚の紙を示した。

そこには、リリアーナの筆跡で、具体的な取引先と金額、疑わしい点が詳細に記されていた。

「彼女は不正を隠すどころか、発見し、記録していました」

アーヴィンは顔を真っ青にした。

彼女は知っていたのだ。

いや、知っていたうえで、黙っていたわけではなかった。

自分が無視していただけだった。

「……あの女が」

彼は歯を食いしばった。

「僕を陥れるために、わざと……!」

「発言にはお気をつけください」

調査官の声が厳しくなった。

「証拠はすべて、帳簿と送金記録、関係者の証言によって確認されています」

アーヴィンは、もう何も言えなかった。

*

ベルフォード男爵家でも、同じように調査が進んでいた。

オスカー男爵は、領地税の一部を長年にわたり私的な支出に回していた。

マルグリットは、リリアーナの母が遺した財産を、自分とセシリアのために使い込んでいた。

そして、セシリアが身につけていた宝石の多くも、実は母の遺産を売却して購入されたものだった。

「そんなはずありません!」

セシリアは叫んだ。

「私は何も知りませんわ! お母様が、私にくださったものです!」

しかし、証拠は明確だった。

宝石商の記録。

遺産管理の書類。

そして、マルグリット自身が署名した売却証明書。

彼女たちは、リリアーナから奪ったものを、自分たちの当然の権利だと思っていた。

だが、法律は違った。

「リリアーナを呼びなさい!」

オスカー男爵は、調査官の前で怒鳴った。

「娘なら、家族のために証言するはずだ! あいつが説明すれば、すべて誤解だと分かる!」

調査官は冷ややかに答えた。

「ベルフォード嬢は、すでに必要な資料を提出されています。彼女の証言によって、調査が進んでいるのです」

「何だと……?」

「なお、彼女は私的な感情によって処分を求めることはしていません。あくまで、事実関係の確認と法に基づく判断を希望されています」

オスカー男爵は、膝から崩れ落ちた。

自分が娘にしてきたこと。

彼女の知識を利用し、労働を搾取し、尊厳を踏みにじってきたこと。

その娘が、自分を救ってくれると信じていた。

だが、彼女はもう、自分のために生きてはいなかった。

彼女はただ、正しいことを求めていた。

それが、彼らにとって最も恐ろしい現実だった。


調査が進むにつれ、両家は急速に追い詰められていった。

ベルフォード男爵家には多額の追徴金と返済命令が下され、クロフォード子爵家では当主が爵位の監督下に置かれた。

アーヴィンは、領地資産の不正流用と帳簿改ざんへの関与について、厳しい処分を受ける見通しとなった。

その一方で、リリアーナの評判は高まっていた。

彼女が提出した記録は、調査の重要な手がかりとなっただけではない。

王宮の財務局は、彼女の分析力と正確な記録能力を高く評価し、正式に助言を求めるようになったのである。

そんなある日の夕方。

公爵邸に、三人の訪問者が現れた。

オスカー男爵。

マルグリット。

そして、アーヴィンだった。

応接室に通された三人は、以前の華やかさを失っていた。

男爵の服はくたびれ、マルグリットの顔には疲労が刻まれ、アーヴィンは落ち着きなく指先を動かしていた。

リリアーナは、レオンハルトとともに姿を現した。

「お父様……皆様、どうなさいましたか」

オスカー男爵は立ち上がり、彼女の手をつかもうとした。

しかし、その前にレオンハルトが一歩進み出た。

「許可なく触れないでいただきたい」

男爵は慌てて手を引っ込めた。

「も、申し訳ありません。リリアーナ、少し話があるのだ」

「はい。お聞きします」

「お前も知っているだろう。今、我が家は大変なことになっている」

リリアーナは静かに頷いた。

「存じております」

「お前の証言で、誤解を解いてほしいのだ」

彼女は目を伏せた。

「私の証言は、事実に基づいたものです」

「そうではない! 家族ではないか!」

男爵は声を荒らげた。

「お前は私の娘だ! 父親を助けるのが娘の務めだろう!」

その言葉に、リリアーナの胸が痛んだ。

かつてなら、彼女はすぐに謝っていただろう。

父を助けるためなら、どんなことでもしただろう。

けれど、今はもう違う。

「お父様」

彼女は、ゆっくりと顔を上げた。

「私は、これまでずっと、お父様のお役に立とうとしてまいりました」

男爵は黙った。

「領地の帳簿を整理し、借金の返済計画を立て、家の支出を見直しました。アーヴィン様の帳簿も、何度も確認しました」

彼女の声は震えていなかった。

「けれど、私は一度も、お父様から褒めていただいたことがありませんでした」

「それは……」

「失敗すれば叱られ、休めば怠け者と呼ばれ、母の形見まで奪われました。それでも、私は家族だからと、自分に言い聞かせてきました」

マルグリットが顔をしかめた。

「いつまで昔のことを……」

「お母様」

リリアーナは、初めて継母の言葉を遮った。

「私の母の遺産については、正式に調査が行われています。今後は、調査官を通じてお話しください」

マルグリットは口を閉ざした。

リリアーナは父に向き直った。

「私は、皆様を憎んでいるから証言したのではありません。正しいことを、正しいと申し上げただけです」

「ならば、助けてくれ!」

男爵は、ついに頭を下げた。

「頼む。お前がいれば、何とかなるはずだ。お前は頭がいい。公爵家にも気に入られている。お前なら……!」

リリアーナは目を閉じた。

彼は、今も自分を娘として見ていない。

必要だから、呼び戻そうとしているだけなのだ。

「……申し訳ありません」

彼女は静かに告げた。

「私はもう、ベルフォード家の帳簿を管理するつもりはありません」

「リリアーナ!」

「これからは、自分の人生を生きたいのです」

その言葉に、男爵は何も言えなくなった。

アーヴィンが、突然前に出た。

「リリアーナ、僕は……僕は、君に謝りたい」

彼は深く頭を下げた。

「婚約破棄のことも、君を傷つけたことも、すまなかった。僕は愚かだった。君の価値に気づかなかった」

リリアーナは、彼を見つめた。

かつて、何度も聞きたかった言葉だった。

謝ってほしかった。

自分の努力を認めてほしかった。

一度でいいから、対等な人間として向き合ってほしかった。

けれど、その願いはもう過去のものだった。

「謝罪は、お受けいたします」

アーヴィンの顔が明るくなる。

「では……!」

「ですが、婚約をやり直すことはありません」

彼の表情が凍りついた。

「なぜだ! 僕は謝ったんだぞ!」

「謝罪は、過去の行いをなかったことにするものではありません」

リリアーナは、穏やかに続けた。

「私は、もうあなたを愛しておりません」

アーヴィンは唇を震わせた。

「……公爵家の男に、たぶらかされたのか」

「違います」

彼女ははっきりと言った。

「私は、あなたと別れてから、自分自身を取り戻したのです」

そして、彼女は最後に頭を下げた。

「どうか、お帰りください」

三人は、何も言い返せなかった。

レオンハルトは、彼女の隣で静かに立っていた。

彼女の代わりに怒ることも、彼女の答えを覆すこともせず、ただ彼女自身の決断を尊重していた。

それこそが、リリアーナがずっと求めていたものだった。


その後の裁判は、王都中の注目を集めた。

調査の結果、ベルフォード男爵家では、長年にわたり領地税の一部が私的に流用されていたことが判明した。

さらに、リリアーナの母の遺産が不当に処分されていたことも確認された。

オスカー男爵は、財産の返還と追徴金の支払いを命じられ、領地経営の権限を大幅に制限された。

支払いを続けることができなくなった彼は、屋敷の一部と私有地を売却することになった。

男爵家の名声は地に落ち、これまで彼に媚びていた貴族たちは、一人、また一人と距離を置いていった。

マルグリットは、遺産の不正処分について責任を問われ、保有していた宝石や装飾品の一部を返還することになった。

セシリアもまた、母の遺産から購入された品々を手放さざるを得なくなった。

彼女が夜会で自慢していたドレスも、髪飾りも、宝石も。

すべて、かつて姉から奪ったものだった。

「こんなはずじゃなかったのに……!」

セシリアは鏡の前で泣き叫んだ。

「どうして、私がこんな目に遭わなければならないの!」

だが、彼女を慰める者はいなかった。

今まで彼女の周りにいた友人たちは、すでに去っていた。

彼女に価値があったのは、ベルフォード男爵家の財産と、アーヴィンの婚約者という立場があったからだ。

その両方を失った彼女に、手を差し伸べる者はいなかった。

*

クロフォード子爵家の裁きも、厳しいものとなった。

アーヴィンは、領地資金の不正流用に関与したことが認定され、嫡男としての権限を剥奪された。

賭博の借金を返すために使い込んだ金は、彼自身の財産から返済することになった。

父であるクロフォード子爵も、息子の監督責任を問われ、領地の管理について厳しい制約を受けた。

アーヴィンは、以前のように自由に金を使うことも、夜会で華やかな女性たちに囲まれることもできなくなった。

ある日、彼は酒場で昔の知人に出会った。

「おや、アーヴィン殿。最近はお見かけしませんでしたね」

かつて彼を持ち上げていた貴族の息子だった。

「……少し忙しくてな」

「そうですか。ところで、例の件は聞きましたよ。いやあ、まさかあのリリアーナ嬢が、あれほど優秀な方だったとは」

その男は、面白そうに笑った。

「あなたは、もったいないことをしましたね」

アーヴィンは顔を上げた。

「何だと?」

「公爵家の嫡男に選ばれ、王宮の財務局にも認められる女性ですよ。あなたが婚約を続けていれば、今頃は……」

「黙れ!」

アーヴィンは立ち上がった。

周囲の客が一斉に振り返る。

男は肩をすくめた。

「おや、失礼。ですが、あなたが彼女を捨てたのは事実でしょう?」

アーヴィンは、何も言い返せなかった。

男が去ったあと、彼は一人で酒を飲んだ。

脳裏に浮かぶのは、あの夜のリリアーナの姿だった。

自分を見つめ、静かに告げた言葉。

――私は、あなたを愛しておりません。

あのとき、彼女はすでに、自分の手の届かない場所へ行ってしまっていたのだ。

どれだけ後悔しても、もう遅い。

彼女を傷つけたのは自分だった。

彼女を捨てたのも自分だった。

そして、彼女を失ったのも、自分自身だった。

アーヴィンは、酒のグラスを握りしめた。

その手は、かつて彼女の腕をつかもうとしたときよりも、ずっと弱々しく震えていた。


それから半年後。

王宮の財務局に、一人の女性が正式な顧問補佐として迎えられた。

リリアーナ・ベルフォード。

いや、正確には、リリアーナ・ヴァレンシュタイン公爵令嬢となる日を、間近に控えた女性だった。

彼女の提案は、地方領地の会計制度を改善し、税収の透明性を高めるための新たな仕組みづくりに採用された。

それは、かつて彼女が匿名で提出した報告書から始まった仕事だった。

王宮の人々は、彼女の聡明さと誠実さを高く評価した。

そして、何より彼女自身が変わっていた。

以前の彼女は、人に話しかけられるたびに、相手の機嫌を損ねていないか不安になっていた。

今は違う。

自分の意見を述べ、間違いがあれば認め、必要なときには毅然と反論できる。

それでも、彼女の優しさは失われていなかった。

困っている者には手を差し伸べ、努力する者には惜しみなく知識を分け与えた。

彼女は、虐げられた過去を理由に、誰かを虐げる人間にはならなかった。

それが、彼女の選んだ生き方だった。

*

ある春の日。

レオンハルトは、リリアーナを公爵邸の庭園へ誘った。

花壇には白い薔薇が咲き、噴水の水音が穏やかに響いている。

「リリアーナ」

彼は、彼女の前に立った。

「初めて君と踊った夜から、ずっと考えていたことがあります」

彼女は不思議そうに首を傾げた。

「何でしょう?」

レオンハルトは、懐から小さな箱を取り出した。

中には、青いサファイアの指輪が輝いていた。

「君に、私の妻になってほしい」

リリアーナは息を呑んだ。

「レオン様……」

「私は、君を守りたいと思っています。けれど、それ以上に、君と同じ未来を歩みたい」

彼は、真剣な眼差しで続けた。

「君が仕事に打ち込む日も、疲れて何もしたくない日も、嬉しい日も、悲しい日も。どんな君であっても、私は君の隣にいたいのです」

リリアーナの目に涙が浮かんだ。

「私は……まだ、完璧な人間ではありません」

「知っています」

「時々、昔のことを思い出して、怖くなることがあります。誰かに嫌われるのが怖くて、何でも引き受けてしまいそうになることも……」

「そのときは、私に話してください」

レオンハルトは微笑んだ。

「一緒に考えましょう。君が自分を犠牲にしなくてもいい方法を」

リリアーナは、涙を拭った。

この人は、彼女に変わることを強制しない。

過去を忘れろとも言わない。

ただ、これからを一緒に歩こうとしてくれる。

「……はい」

彼女は、はっきりと答えた。

「喜んで、お受けいたします」

レオンハルトの顔に、心からの喜びが広がった。

彼は彼女の手に指輪をはめ、そっと額に口づけた。

「ありがとう、リリアーナ」

「こちらこそ……ありがとうございます」

彼女は笑った。

その笑顔は、もう誰かの顔色を窺うためのものではなかった。

ただ、自分が幸せだから、自然にこぼれた笑顔だった。

*

婚約の発表は、王都中を驚かせた。

男爵家出身の令嬢が、公爵家の嫡男と結ばれる。

しかも、彼女は王宮の財務改革に貢献し、国王陛下からも高く評価されている。

誰も、彼女を「価値のない女」と呼ぶことはできなくなった。

そして、ベルフォード男爵家とクロフォード子爵家は、その知らせを聞いて絶望した。

オスカー男爵は、娘に助けを求めようとした。

しかし、リリアーナは、すでに法的な手続きを通じて、母の遺産の返還を受けていた。

彼女は、正当な権利を取り戻しただけで、それ以上の金銭的な援助は行わなかった。

男爵家は、残された領地の管理に苦しみ続けることになった。

クロフォード子爵家でも、アーヴィンは嫡男の地位を失ったままだった。

彼は何度も、リリアーナに手紙を書こうとした。

謝罪の言葉。

後悔の言葉。

もう一度だけ会いたいという願い。

しかし、どれも送ることはできなかった。

彼女が望んでいないと、ようやく理解したからだ。

自分が彼女にしてきたことは、たった一度の謝罪で消えるものではない。

彼女の人生は、もう自分とは関係のないところで続いている。

その事実を、彼は生涯忘れられなかった。

終章 花は誰のために咲く

結婚式の日。

王都の大聖堂は、春の花で飾られていた。

白い花弁が舞い、参列者たちの笑顔が広がる。

リリアーナは、純白のドレスをまとい、祭壇の前に立っていた。

隣には、彼女を誰よりも大切にしてくれた人がいる。

レオンハルト・ヴァレンシュタイン。

初めて会った夜、彼は彼女にこう言った。

――君は、自分が思っている以上に価値のある人だ。

その言葉は、今も彼女の心の中にある。

けれど、今の彼女はもう、誰かに価値を認めてもらうことだけを求めてはいなかった。

自分自身で、自分の価値を知っているからだ。

「リリアーナ」

レオンハルトが、そっと彼女の手を握った。

「幸せですか?」

彼女は微笑んだ。

「はい。とても」

「これからも、そう思ってもらえるように努力します」

「ふふ。私も、あなたを幸せにしたいです」

彼は嬉しそうに笑った。

二人は誓いの言葉を交わし、祝福の鐘が鳴り響く中、夫婦となった。

式のあと、庭園を歩きながら、リリアーナはふと空を見上げた。

青く澄み渡った空。

暖かな春の風。

かつての彼女なら、こんな日が来るとは想像もできなかっただろう。

狭く冷たい部屋で、誰かの機嫌を窺いながら暮らしていた日々。

自分の食事さえ満足に与えられず、母の形見を奪われ、婚約者から嘲笑された夜。

それらは、消えることのない過去だ。

けれど、もう彼女の未来を縛る鎖ではない。

「どうしました?」

レオンハルトが尋ねた。

「少し、昔のことを思い出していました」

「つらいことですか?」

リリアーナは首を横に振った。

「いいえ。今が幸せだと、改めて思ったのです」

彼女は、彼の手を握り返した。

「昔の私は、誰かに愛されるためには、何でも我慢しなければならないと思っていました」

「……」

「でも、今は違います。私は、私のままで幸せになってもいいのだと知りました」

レオンハルトは、彼女の額にそっと口づけた。

「君は、ずっとそのままでよかったのです」

リリアーナは笑った。

庭園の薔薇が、風に揺れている。

誰かのために摘み取られるのではなく。

誰かの飾りになるためでもなく。

ただ、そこに根を張り、自分の季節に花を咲かせる。

それは、彼女自身の姿のようだった。

かつて彼女を虐げた者たちは、今も過去の選択の責任を負っている。

父は失った権力を取り戻せず、継母は不正に得た財産を失い、義妹は虚飾に満ちた暮らしを続けられなくなった。

そしてアーヴィンは、生涯にわたって、自分が捨てたものの価値を思い知らされることになった。

彼らは、リリアーナが自分たちを救ってくれることを最後まで期待していた。

けれど、彼女はもう振り返らなかった。

彼女の人生は、彼らへの復讐のためにあるのではない。

彼らが不幸になることが、彼女の幸せなのでもない。

ただ、自分を傷つける者たちの手を離し、自分を大切にしてくれる人と歩む。

それだけで、十分だった。

「リリアーナ」

「はい?」

「愛しています」

彼女は少し驚き、それから、花が咲くように笑った。


「私も、愛しています。レオン様」

二人は手を取り合い、春の庭園を歩いていった。


その背中に、過去の影はもう届かない。

虐げられた令嬢は、自分の足で幸せをつかんだ。


そして、彼女を捨てた者たちは、二度とその幸せを奪うことができなかった。


――これは、誰かに価値を決められていた少女が、自分自身の人生を取り戻した物語。

そして、彼女を見捨てた者たちが、最後には自分たちの選択に裁かれた物語である。


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