め:迷走する記憶
記憶の中、僕はいつも走っていた。お母さんに手を引っ張られて。
夜に走って移動し、昼に眠る生活。明らかに何かから逃げている。だけど、何から逃げてるのかなんて、とても僕の口からしていい質問じゃない、とは分かってた。
どこに行くの? いつまで走るの? せめてその質問は出来たけど、聞いてもどっちの答えも返ってこなかった。元々お母さんはほとんどしゃべらない。
物心ついた時からそんな記憶しかない。僕の世界に、僕に関わる人間はお母さんただ一人だった。いつでも。
だけど、嫌われてるのかな。僕はいつも不安になる。しゃべらないどころか、僕はお母さんに名前を呼ばれたこともない。
僕は自分のほんとの名前も知らない。ある時の僕たちの名前は『井上雅子・凛』、またある時は『関裕美子・大地』、『橋本美和・翔太』。他にも色んな名前があるけど、紙に書かれたその時々の「設定」の名前以外の呼び方をされたことはないから。
名前どころか、お母さんは声に出して僕に呼びかけたりはしない。とんとん肩を叩くとか、手招きするとか。普段からお母さんは僕に目を合わせてくれないし、何かしゃべるにしても単語だけ、だったりする。
行くよって意味で手首をつかまれる、止まれって意味で肩を押さえられる、お母さんが自分から僕に触るのはそれだけくらい。
僕は、眠っている時たまにうなされて目が覚める。怖い夢だったのか、時々は飛び起きることもあるんだけど、お母さんは僕のそんな気配にも気付きもしない。僕は明るい昼間から寝ぼけた様な自分が恥ずかしくて、回りの人の目がある時なんか恥ずかしくてたまらなくなるんだ。
お母さんに甘えたいな、と思うこともあった。怖い夢から目覚めてしまった後なんか、特に。だから僕は、寝ぼけたフリでこてんとお母さんにもたれてみたりもした。
でも、寝てるはずのお母さんは、もたれていった僕から決まって体を遠ざけた。引っ付いていった僕を、反射的にぎゅうっとしたりはしなかった。一度も、ただの一度も。
……だから、ああお母さんに甘えちゃいけないんだ、この人をお母さんと思っちゃいけないんだ、くらいにまで思いながら、僕は気まずく体を起こして、お母さんから離れるんだ。
顔が似てるかも、ビミョー。僕たちはホントの親子じゃない、とか? お母さんのよそよそしさは、そうじゃないと説明がつかない。
何かの闇のソシキに狙われた僕を、工作員のメンバーがお母さんのフリで守りながら逃げてるんだ。
一番しっくりくるその考えに、僕は納得してあきらめるしかなかった。何も話してもらえないのは、秘密を守るためにお母さん自身がソシキから何も知らされてないから。言いたくても、お母さん自身が何も知らないから何も話せないんだ。
……その空想の設定は、なかなかに都合良く僕を落ち着かせてくれた。
走っている。ずいぶん長い距離、ほとんど休みもせず、お母さんと僕は走り続けている。
暗い夜道は足元も前に見えるはずの周囲の風景もぼんやりかすんでて、方向も分からない中お母さんに引っ張って走らされるだけ、って言うのがどんなに苦痛なことなのか。自分の目で見た道を自分の意思で進む、ってことが精神衛生上どんなに自分を穏やかに保ってくれるものなのか、ってのを僕は身をもって体験してる訳だ。
それに今、信じられないくらい息が上がって苦しいのに、僕はそれをお母さんに伝えられずにいる。いつだってそうだ。一回だって、僕は弱音を吐けずにいる。
自分からお母さんに抗議することは出来ない。冷たく見下ろされたくないから。役立たず、ってため息をつかれたくないから。
お母さんは、大人の女性と子供の持久力は同じだと思ってるのかな。わざとらしくぜえはあしてしんどさをアピールしてるみたいに思われたくなくて、僕が必死にぜえぜえするのをおさえてるの、分からないのかな。分かってるけど、気付かないフリをしてるのかな。
……そういうモヤモヤが言えないのは、僕がほんとにお母さんの子供だって確信がないから。せめて親子なら親子なりの態度、そうでないならお互いの関係性を明らかにする、ってのは最低限のマナーだと思うけどな、お母さん。
それが言えたら、楽なのにな……。と、僕は最近強く思う。結構、僕のストレスもきわどいとこまできてるのかも知れない。
最近、お母さんは前まで使ってたファミレスやカラオケに寄らなくなった。代わって昼に休むのはどこかの団地の中の公園とか、建物の蔭とか。
お母さんの眠りは以前より浅くなって、ピリピリした緊張もひどくなってる。 それに加えて、ちゃんと体を伸ばせなかったり常に隠れた状況だったり、って言うのは、こっちはこっちで肉体的にきつかった。
――僕たちは何から逃げてるの? もう今ならさすがに、それを聞いてみてもいいかも知れない。走り過ぎて酸欠になってるのか、段々ぼうっとする意識の中、僕はそう思っていた。
突然ぐいっと強く手を引かれて、僕ははっとした。止まるのかと思ったら、お母さんはどうやら回れ右をして今走って来た方向に戻っている様だった。走る速度がまた上がる。
苦しいよ、お母さん。とっさに声に出しかけた。もう僕走れそうにないよ……。
ようやく僕の心の声が届いてくれたんだろうか。ぴたっとお母さんの足が止まって、ようく目をこらしたら、目の前にグレーのコンクリートが広がって見えて、それはこの先が行き止まりだと言うことらしかった。
……助かった……。僕は体が求めるままに上半身を折り曲げて、ぜえっ、ぜえっ、と大きな息をした。
今度もまた引き返すんだろうけど、その前に……。少しだけ、休憩、してくれないかな……。期待しながら顔を上げて。
びくっと僕は驚いた。驚いて、よろけて転びそうになった。がしっとお母さんが僕の背中を支えてくれた。
……だけど、その手は震えてた。僕の背中から肩にかかったお母さんの手には、ものすごい力が入ってた。それが、震えていた。
お母さんがそんな風に動揺した感じなんて初めてで、僕は思わず後ろを振り返りそうになったけど、でも目の前に唐突に現れたその人から目は離せなかった。
「見・付・け・た・ぞ」
――暗がりの中で、男の人はゆっくりそう言った。心底楽しそうな、からかう口調の声。だけど冷たい声……。
どうして、行き止まりの道の前に、その人はいつ、どうやって現れたのか。にやっと笑った口元の残忍さ。
まともな相手じゃない、思考の半分がそう強く警告する中、もう半分の思考は僕を相手に近付けたがっていた。何で、戸惑う僕を押し止めたのはそしてお母さんの緊張した腕で――
――強く肩をぐるりと回されて僕の体は男の人に背を向ける形になった、そのまま関節が外れるんじゃないかという強さでお母さんは僕の手首をつかみ、走り出した。
鬼気迫る威圧に、男の人が追いかけて来ているかどうか気になりながらも振り向けないまんま、僕自身も必死に走っていた。
肺が破れる、と思った。喉がちぎれる、とも思った。
苦しい。もう走れない! 僕の体はさすがにもう限界で、僕は勢いの衰える気配のないお母さんの手から振り払う様に自分の手をもぎ離して、その場で足を止めた。瞬間膝下からがくがくした僕の足は立った姿勢を維持出来なくて、僕はべちゃっとそのまま地面に転がった。
数歩行った先のお母さんがやっと足を止めて、こっちを振り向いて、肩で息をしながらゆっくり僕の方に戻って来た。
「……ごめんね。大丈夫?」
心配する声で謝られて、だけどそれがやけに他人行儀なのに僕は気付いていた。一度上げた顔を、はあはあぜいぜいと荒い息がつらいってフリで、僕は下に伏せた。
……何だか、顔を見たくなかった。何となく、今は。
僕の背中をゆっくりさすってくれるお母さんの手も、どこかぎこちない様に感じられた。
さっきの男の人に対する説明も当然ないまんま、また僕はお母さんに手首を引かれて歩いている。
お母さんの情緒不安定な感じが、つかまれた指越しに僕に伝わっていた。とんでもなく頼りない指先。
――白々と、空が明けてきた。もう、じきに休める。
僕は空だけを見て歩いていた。
それからいくつ夜がやってきても、お母さんはもう走らなくなっていた。ゆっくりゆっくり休みながら、少しの距離を歩くだけ。
何でだろう。もうあの男の人に見付かったから、どこに行ってもムダってこと? どうあがいてもムダってこと?
勝負をあきらめたみたいなそんなお母さんの態度は、まるで今まで逃げてた全てを否定してるみたいで、僕は何だか無性に腹がたっていた。
……いや、多分、今の自分達はもう既にあの男の人の手の平の上で泳がされてるだけ、ってのを僕も分かってて、だけどそれを自覚したくなくて、イライラをお母さんにぶつけてるだけなんだろう。逃げられない、それを四六時中思いながら、その内現れるだろう男の人に怯える不安を、お母さんへの不満に置き換えてるだけなんだ。
弱いのは、僕も同じ……。
この逃避行が確実に終わりに近付いてるのだけは、分かっている。その時に自分は生きているのか、お母さんは生きているのか、そればかりを僕は考えている。
死ぬんなら、真実を知りたいと僕は思う。次の瞬間突然あの男の人に蜂の巣に撃たれてもおかしくない今、タイミングなんて測ってはいられない。
昼の陽射しで温もったベンチに腰かけたお母さんの横には座らず、僕は立ったまんま、意を決して口を開いた。
「あのさ……あの男の人、誰?」
お母さんは、きたか、って顔で笑った。観念したみたいな顔で。笑ったんだ。
だから、僕はお母さんの口が開いたのを、答えが得られるんだと思って見ていた。
お母さんは笑ってたんだ。
いつも抱いてるかばんをいつもどおりに抱いてるお母さんの手が上がって、それが一瞬遅かったと僕は何でか気付いた。気付いた瞬間、体が勝手に動いてた。
本能の警鐘。
僕は素早く上半身を左に倒した。体が真っ二つに折れるかも、ってくらいに倒した。
今僕の体があった場所を、勢いのある風が通り抜けて――風は「ズドン」って音を立てて、僕の後ろの木の幹に突き刺さった。お母さんの構えた銃から放たれた弾丸として。
笑ってた口を今度は閉じて、お母さんは目を細めて立ち上がった。僕も体を起こして立って、まっすぐに銃口を僕に向けてくるお母さんを見つめていた。
……悲しみ。僕が感じたのはそれだけ。僕の手を引いて、記憶の限り僕と生死を共にしてたはずのお母さんが、最後は何も言わずに僕を不意討ちに殺そうとした。その事実。
「……ごめんなさいね」
小さく呟かれたお母さんの、乾いた声。銃口はぶれることなく僕を狙ったまんま。
ぼやっと景色がかすんで見えた。お母さんは、また笑った、みたいに見えた――
パァン、と銃が音を立てた。よけることを放棄した僕はきたるべき衝撃に備えて身を固くした。
――衝撃は、横からやって来た。僕は動いていないのに僕の体は大きく左後ろに飛んで、木の幹の蔭になった場所にふわりという感じに僕の体は下ろされた。
僕は、抱えた僕の体を下ろした男の人を見上げていた。気配もなく突然現れたその人を。
何でか、なつかしい香りがする男の人が、僕に目線を落とした。ほんとにほんの一瞬。にこっ、と男の人は笑って……
また空気も動かさない様な静かな動きで、男の人は僕から離れた。目で追うことも出来ないくらい。
だけど、読みどおりに男の人は今度はお母さんの前にすっと立った。パンパン、と何回か発砲の音がして、それは冷静さを欠いたお母さんがやみくもな方向に銃を撃ったからで、でも男の人はためらいもなくその銃口先をがつっとつかんだ。ひるんだお母さんがその状態で引き金を引いた一発が男の人の頬をかすめたらしいけど、男の人は動じなかった。息を呑んだお母さんの手から銃をもぎ取るみたいにして、その銃を男の人はどこか自分の腰の後ろにしまって……。
にこり、とそちらにも優しく笑いかけて、男の人はおもむろにお母さんの手をつかみ、くるりと歩き出した。
されるがままのお母さんを引っ張った男の人が、木の幹を回り込んで蔭にいた僕の前にやって来た。呆然としたお母さんと僕を引き合わせる様に自分は体を引いた男の人は、くすりと笑って告げた。
「最後位、思いをぶつけ合ってはどうかね?」
柔らかさに、ごまかされそうになっていた――僕ははっと顔を動かして、風の様に姿を消していった男の人をたどろうとしていた。
優しさはウソ、助けてくれたのは偽り――。震えが止まらなくなるほどの凶暴な残忍性。
僕は息をまともに吐けずにいた。あの男からお母さんは僕を逃がしてくれていた、逃げていなければ――きっと僕は今まで生きてはいなかった。
あいつは、面白がってる。今のこの状況を。お母さんが僕を連れて逃げてた今までの状況を。全部見て、楽しんでたんだ。
そして、今も、楽しんでる。あいつは見てる……どこかで。
僕にはもう分かっていた。
お母さんと僕に語らいの場を提供したフリで、あいつは――お母さんと僕を殺し合わせるつもりなんだ……!
気付いてしまった衝撃に僕はがたがた震えて、お母さんと離れなきゃと思って、それを何てお母さんに伝えればいいのか分からなくて、震える手をお母さんに伸ばした。お母さんは――どこまで分かってんだろう、僕が震えてるのをどうカン違いしたんだろう、ごめんねとか言いながら僕の体を抱きしめてきた。
違う、何だか僕は焦ってお母さんから離れようとするのに、――ほんとにどこまで分かってないんだろう、お母さんは離すまいと僕の体をぎゅうっと強く抱いて……。
「……ごめんなさい。あんたが嫌がるのも当然ね。今更……って思ってるでしょうね。でもね、私、本当にあんたを」
そこでお母さんは体を離して、きりっとした顔で僕を見た。
「自分の子供だと思ってたのよ」
――私、本当にあんたをあの人から逃がしてあげたかったの。
――あの人はあんたの実のお父さんよ。でも、あの人研究熱心な科学者だから……あんたの事、息子である以前に実験材料としてしか見てなかったの。あんたのお母様が病気で亡くなってしまってから、その歯止めが一気に利かなくなってしまったの。
――私、あんたが可哀想で……気付いたら連れて逃げてた。
――でも後悔してない。私はあんたを精一杯守ったつもりよ。
涙声で一気に語るお母さんの言葉を――ああそうだ、「お母さん」じゃないんだ。ただの「お父さん」と「職場が同じなだけの研究員さん」なんだ。案外、僕の考えてた設定って、外れでもなかったんだね。
自分をほめつつ、目の前で白々しく語る女の人を、僕は冷めきって見つめてた。「お母さん」であろうと繕う顔を今さらにじませた、ちぐはぐな言葉と態度を結びつけられない人。
取って付けた優しさがふわふわ浮いて、今にもどっかに飛んで行っちゃいそう……。
――毎日毎日、まだ歩けもしない位幼いあんたを実験台にくくり付けて、あの人あんたがどんなに嫌がって泣き喚いて痛がってもやめなかった。私達周りの研究員がどんなに注意してもね。言っても無理だし、でももう見てられなかった。私が逃がしてやるしかないって思ったの。
――今からあの人があんたと私をどう処遇するか分からないけど、私あんたを全力で守るつもりよ。悪いのは私なんだから、あんたに手は出させない。例えあの人と刺し違えてでも――
「最後に僕を殺そうとしたくせに?」
あんまりもう偽善めいたその人のセリフを聞きたくなくて、僕は冷静にその人の言葉をさえぎった。さあ、どんな反論をするんだろう。
「あれは――違うわ、あんたが避けてくれるのが分かってた。あんたはいつも隠れて、って言った時あんな風に身を隠すから。私の合図が分かったんでしょう? あれは、あの人をおびき出す為の芝居よ」
「おびきだす。今、わざわざ、ここに? どうして、そんな必要があったの?」
ぴたりと言葉もまとう空気も止めて、その人は僕をじっと見つめていた。僕の質問から保守の為の駆け引きを考えているのか、僕の真意や持ちゴマを探ろうとしてるのか。
出来れば、この人が豹変するさまなんて見たくない……だけど、僕には真実を知る権利がある。僕は続けた。
「あなたは、僕よりもお父さんの方が大事だよね? 今からもし僕がお父さんに殺されそうになっても、あなたが僕をかばうことはないよね。刺し違える気なんてさらさらないよね」
目を見開いて、その人は僕を食い入る様に見返していた。どうしてそんなひどいことを、みたいな感じに口は動いて、でもぎっと強く口を結んで、その人は僕を睨む様に見た。
「あなたが僕を本当の子供だと思ってくれてたなら、本当にそう努力してくれてたなら、間違ってもお父さんのことを優しく『あの人』なんて言わない。あなたは一言もお父さんを責めることを言ってない。そもそも、あなたは僕を子供扱いすらしていない。お父さんとの取り引きに、僕を利用したいだけ」
……どうして、言いたくない言葉ってこんなにすらすら出ちゃうんだろうね。知りたくないことだって、どうしてこんなにすらすら分かっちゃうんだろう。
ぼろがはがれたその人の顔が、果てしなくゆがんだ。ああきっと、それが本来のこの人の顔なんだろう。利己的で、自己中で、自らの欲望にだけ忠実で。
みにくい顔で、その人は繕いを取り去った様に叫んだ。
「だって結局、どうやってもあんたはあの女の子供じゃないか!!」
かんしゃくみたいに見苦しい姿で。
「私とあの人との子供は死んだ!! 流産したんだ!! あの人それから私によそよそしくなったんだよ!! もう死んでるのに、あの女はもういないのに、イリヤは私を避けた!! あんたに入れ込んで、あんたにしか構わないで――だから、奪って逃げてやったのさ!!」
感情のフタが外れた様に、その人はまくし立て続けた。
「あんたはか弱い子供だから、可哀想な実験犠牲者だから、むしろ連れて逃げてやった私に感謝して欲しい位だよっ。あんたを私の子供だと思おうとしたのは本当さ……でも、駄目だったんだ。あんたの冷たい非難する目、今も私に向けてるその石ころ見るみたいな目、何てあの女に生き写しなんだ! 何度殴りたいのを堪えたか。何度置き去りにしてやろうかと思ったか!!」
……とうとう隠さない本心をさらけ出したその人と僕とのやり取りを、今もお父さんは笑って見てるんだろう。呆れて、バカみたいで、やってられなくて、どうにも胸が冷えきって、僕は何だか笑ってしまった。
心底おかしいから笑っちゃっただけなのに、女の人は僕にバカにされたとカン違いしたのか、憤怒の顔で僕に近付いて、手を伸ばした。僕の首に。
力がこもる。僕の笑いはしめ上げられてひきつれる。それでも抵抗もせずに笑うことを続けようとする僕に、女の人の目にあからさまな殺意がこもった。
……お父さんはこの結末で満足なんだろうか。この女の人も、どうせ後で殺されるんだろうな。僕が死んだ後に。
ぼうっとする。さすがにもう僕は声も出せない。視界もかすむ、もう僕は死ぬ――
し に た い の か
――頭の中に、声が響いた。お父さん、の声、なんだろうか……? 頭の骨をどかして、直接脳みそに語りかけるみたいに、その声は強く内部から響いた。
お ま え は し に た い の か
……お父さん? 戦えと言うの? そりゃ死にたくないよ、死にたい訳ない。だけど……
… … っ
笑った息だけが、頭の中に残った。耳元よりも深い場所から聞こえる声。
「――死にたくないよ!!」
僕は叫んでいた。胸が熱くなる。ひるんだ女の人の手がわずかにゆるむ。
熱い。体が燃えそうだ。僕のどこにそんな熱がひそんでたのか。お腹の真ん中が熱い……許せない、僕の人権なんか無視して僕を連れ回しておいて、僕の主体性をねじ伏せておいて、ジャマになったら殺そうってのか、あの時も、また今度も――
…………
●この人は単に「実験材料にされそうな可哀想な子供」を哀れんだだけで
●その気持ちよりも僕のほんとのお母さんに対する恨みや妬みの方が強くて
●僕に対する疑似的な母性本能のカケラもなくて
●僕を生かしてた理由は「僕を守った」事実をお父さんに見せつけ認めさせたかったからで
●つまり僕に向ける愛情なんかは全然なくて
●この人にとっての僕は単なるお父さんへの取り引き道具でしかなくて
――そんな色々が箇条書きみたいにいっぺんに降ってきて、思考が爆発しそうだった。お腹が熱くて破れそう、何でか叫んでもないのに喉元まで熱い、僕は声をふりしぼった、とっくに手を離して後ずさってる女の人、
……僕は叫んだ、ケモノみたいに吠える声で、焼けそうなお腹から、熱い喉から何かが飛び出したみたいに感じた
僕の記憶は曖昧だ。いつも暗闇にいるみたい。
暗闇ではいつでも走ってたから、こんな風に休むのには違和感があるけど。お父さんが、言ってくれたから。人は本来夜に眠るものだって。
そりゃそうだよね。僕は最近ずっとうとうとした感じにまどろみながら、思う。夜は眠るものだよね。人ならね。
夜に走ってたのは、何でなんだろう。僕の前には、誰かがいた気がするんだけど……。誰なんだろう。僕には思い出せない。
お父さん以外に、僕の世界に僕と関わりを持つ人なんていないのに。変だね。おかしな記憶だ……。
僕は心地よい暗闇に身を委ねる。僕にはお父さんがいる。いつでも側に、大好きなお父さんが。物心ついた時から僕の側にいてくれたお父さんが。
それだけで、僕は安心なんだ。
「しかし、凄まじい威力でしたね~」
「まあ、想定内だ」
「だけど、人間の体から火の玉が形成されて、それが発射されて爆発するなんて」
「科学者達の究極の理想だ……」
「実現出来るなんて……」
「ああ。だがあの力と感情を上手くコントロール出来ねば、武器には成り得ない」
「立派な生物兵器に育てなければ」
「ただの鉄砲玉で終わらせない為にも、ね」
「どうコントロールなさるおつもりで?」
「感情の高ぶりの域値を測り、その数値毎の攻撃パターンを脳のチップに組み込む。本来のヒトの感情を失わない様にな。その加減が難しい」
「ヒトの感情って言うのが、この場合大事ですもんね」
「極限迄『人間』なんだ。相手は最後迄油断する」
「死ぬ瞬間に、気付く訳ですね」
「或いは」
「気付く間もない、かも」
「逃げたあの女みたいに?」
「おい」
「その話題は……」
会話を聞くともなく聞いていた男は、気まずく反らされる視線の中くすりと笑う。
「構わん。続けろ」
ぼそぼそと、今度は研究者達は声をひそめて会話を再開した。するりと、男は立ち上がった。
地下研究室への鍵を手にする。そんな男に、一人が声を掛けた。
「入矢所長。……助手は要りますか?」
振り向かず、男は告げた。
「要らんよ。愛しい息子と語らうだけだ」
そう、男にとっては、遺伝子を分けた可愛い子供なのだ。今は亡き妻が腹を痛めてこの世に産み出してくれた、愛する子供なのだ。
「…… 」
名を呼ぶと、愛しい息子は試験管の海の中で目を開いた。
そして、――笑った。




