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旅の終わりを告げる鐘が、遠くで鳴っていた。
北方辺境の村での任務を終え、勇者一行が王都へ戻る道を歩んでいる。
ミナは空を見上げ、どこか落ち着かない様子だった。
「……王都に戻ったら、報告書を書かないといけないんですよね」
「ええ。あなたの“奇跡”についても」
ライルの声は低く静かだった。
村での出来事――ミナが命を削り、子どもたちを救った奇跡。
それは人々の間で“神の御業”として語られ、やがて王都へ伝わった。
「でも、あれは……私、勝手にやっちゃったし」
「問題はそこです」
ライルは眉をひそめ、書簡を取り出した。
封蝋に刻まれた王家の紋章。
それは“勇者召喚担当局”からの召還命令書だった。
――『勇者一行、王都に帰還し詳細な報告を提出せよ』
文面の最後には、こう記されている。
『勇者の奇跡に関し、教会および王政による共同調査を実施する』
「調査……? 私、なんか悪いことしました?」
「いいえ。問題は“功績の扱い”です」
ミナは首を傾げた。
ライルの表情には、深い警戒が浮かんでいた。
「王国は、あなたの奇跡を“神の加護”として公表するつもりでしょう。
だが、それは同時に、あなたの行動を教会の支配下に置くという意味です」
「……え、それって、自由がなくなるってこと?」
「簡単に言えば、はい。あなたの力を国家資産として管理しようとする」
ミナの瞳に、戸惑いと怒りが混じる。
「それ、ひどくないですか? 人助けしただけなのに」
「この国では、“結果”よりも“誰の指示で動いたか”が重要なんです」
ライルの声には苦い響きがあった。
彼は何度もこの理不尽を見てきた。
“善意”が“政治”の道具にされる現場を。
◇◇◇
王都に戻ると、空気が一変していた。
街道沿いには勇者の旗が掲げられ、人々が彼女の名を叫ぶ。
「勇者ミナ様が病を癒された!」
「神の子が再び奇跡を起こされた!」
ミナは苦笑した。
「……なんか、話が大きくなってません?」
「誰かが意図的に広めています」
「誰が?」
「おそらく、教会です」
王城に入ると、使いの神官が二人、すでに待っていた。
彼らは笑みを浮かべながらも、その目は冷たい。
「勇者様。神の奇跡をお示しくださり、感謝いたします」
「え、いえ、そんな……」
「本日、教皇代理がお待ちです。王の御前にて、正式な報告をお願い申し上げます」
ミナは不安そうにライルを見た。
ライルは短く頷いた。
「落ち着いて。言葉を慎重に」
「う、うん……」
◇◇◇
謁見の間。
王と教皇代理が並び座り、左右に重臣と神官たちが並ぶ。
厳粛な空気。
ミナは緊張した面持ちで跪いた。
ライルはその斜め後ろに控える。
王が口を開く。
「勇者よ。北方の民を救ったという“神の奇跡”――実に見事であった」
「は、はい……あの、でもあれは、私が勝手に……」
「謙遜は要らぬ。そなたの力は神より賜りしもの。
ゆえに今後は、その力を“神殿管理下”に置く」
ミナの表情が凍る。
「神殿、管理下……?」
教皇代理エルマンが静かに告げる。
「勇者殿。あなたは神の器です。
その力を正しく導くのが、我々教会の役目です」
ライルの拳が、わずかに震えた。
――やはり、そう来たか。
「陛下、発言を許可いただけますか」
「申せ、ライル・グレイアード」
「勇者様の力は、まだ安定しておりません。過剰な使用は生命の危険を伴います。
神殿による“研究”は、勇者様の命を危うくする恐れが――」
「黙れ」
王の声が響いた。
「王の命を疑うか?」
「滅相もございません」
「ならば、忠実に従え。勇者は王国の栄光だ。
その光を、民のために最大限に使わねばならぬ」
ライルは唇を噛んだ。
“民のため”――その言葉ほど、権力者が都合よく使うものはない。
◇◇◇
謁見を終えた後、廊下でミナが小さく呟いた。
「……ライルさん。私、怖いです」
「当然です。今、あなたは“希望”として祭り上げられた。
けれど、その裏で誰かが糸を引いている」
「嘘の報告、ですよね」
「はい。彼らは真実を都合よく書き換える。
“勇者は神の祝福を受け、人々を救う存在”――そう記すために」
ミナの手が震えた。
「じゃあ、私は……本当のことを言っちゃいけないんですか?」
「言えば、消されます」
「……そんなの、間違ってる」
「間違っていても、正しいとは限らない」
ミナは俯き、拳を握りしめた。
その手の中で、光が微かに揺れる。
ライルはその光を見て、静かに息を吐いた。
――これが、最初の“嘘”だ。
だが、この嘘がなければ、彼女は守れない。
「……報告書は俺が書きます。あなたは何も言わないでください」
「ライルさん……」
「俺の仕事は、“支えること”ですから」
ミナの瞳に、涙が滲んだ。
その光は、王都のどんな灯りよりも真っ直ぐで、痛いほど眩しかった。
王城の石造りの廊下は、昼でも薄暗い。
陽の光が届かないその静寂の中で、書類を抱えた文官たちが忙しなく行き交っていた。
紙とインクの匂いが混ざる場所――王国の政治の心臓部。
ライルはその一角、勇者召喚局の事務室にいた。
机の上には厚く積まれた報告書の山。
その一番上にあるのが、今回の件――「北方辺境での勇者の奇跡」に関する正式報告だ。
だが、その報告書にはすでに“手”が入っていた。
内容の一部が書き換えられ、事実とは異なる文言が追加されている。
――『勇者ミナ、神の啓示を受け、奇跡を発動』
――『病に苦しむ民を救済し、聖光の奇跡を成す』
――『この功績により、王国教会の正式な加護対象とする』
すべて、嘘だ。
ライルはペンを置き、深く息を吐いた。
「……こうなると思っていたが、早すぎる」
机の向かいには、王国文官局の筆頭補佐官――ドレイスが座っていた。
小柄で神経質そうな男だが、その目だけは猛禽のように鋭い。
「おや、サポーター殿。何か不満でも?」
「事実が歪められています」
「歪めたのではなく、“整えた”のです。
陛下も教皇もお喜びですよ。勇者様が“神の子”として民に希望を与えたのですから」
「希望を与えるのは構いません。
ですが、命を削る行為を“神の祝福”と呼ぶのは、冒涜です」
「おや、ずいぶんと神経質なお考えだ。
勇者様の命も、王国のために使われるならば本望では?」
その一言に、ライルの手が震えた。
静かな怒りが、胸の奥から滲み出る。
「……勇者様は人間です。
王国の道具でも、神の器でもない」
「ですが、“そうあるべき”なのです」
ドレイスの目が冷たく光る。
「この国は、象徴を必要としている。
貴族も平民も、誰もが崩れかけた秩序に縋りたいのです。
――そのための勇者、ではありませんか?」
「違います」
「では、あなたは勇者様をどう思っている?」
「……支えるべき“ひとりの少女”です」
ドレイスは口の端を上げた。
「なるほど。噂通り、随分と勇者様に肩入れしておられる」
「仕事です」
「ええ、“職務”という名の恋心かもしれませんね」
皮肉な笑み。
ライルは何も返さなかった。
沈黙が返答代わりになることを、彼はよく知っている。
◇◇◇
その夜。
勇者宿舎の部屋では、ミナが報告書の写しを読んでいた。
読み進めるほどに、顔色が変わっていく。
「これ……全部、嘘じゃないですか」
「想定内です」
「想定してたんですか!?」
「はい。だから、あなたに署名はさせません」
ミナは信じられないという顔で報告書を見た。
“奇跡の場において勇者は神の声を聞き――”
“勇者は民の罪を浄化し、病を祓った――”
「私、そんなこと言ってないのに」
「言っていなくても、書かれてしまえば“真実”になる。それがこの国の政治です」
「じゃあ、本当のことを言う人はいないんですか?」
「いますよ。……消されましたが」
その冷静な口調に、ミナは言葉を失った。
「……そんなの、間違ってる」
「間違っていることを理解できるあなたが、まだ“外の人間”だからです」
ミナは俯き、両手を膝の上で握った。
「私、怖いです。
助けたのに、みんなが違うことを言ってる。
私がやったことが、全部“誰かの物語”に書き換えられる」
「それが“権力”のやり方です」
ライルの声は淡々としていた。
だが、その瞳の奥には確かな怒りが宿っていた。
◇◇◇
翌朝。
ライルは密かにギルドの地下書庫へ向かった。
そこは“表に出せない記録”を保管する場所。
監査部でもアクセス権を持つ者は限られている。
奥の机に座り、彼は羊皮紙を広げた。
報告書の“真実の写し”をそこに書き残すためだ。
“勇者の魔力暴走。生命力減退。行使は自発的行動による。”
“王命による許可はなし。奇跡は命力変換による犠牲を伴う可能性あり。”
書き終えると、彼は小さな黒い魔石を取り出した。
掌に光を集め、書面の一部を覆う。
魔法封印――“閲覧者指定”。
「閲覧権限:ライル・グレイアード。勇者本人。」
淡い光が書面を包み、すぐに静まる。
その瞬間、足音が近づいた。
「……こんな時間に、何をしているのですか?」
声の主は、エステル・レイヴァンス。
王国騎士団の女隊長にして、この任務の監督者だ。
「隊長殿。閲覧記録の整理を」
「ふぅん。ずいぶん真剣な顔でね」
エステルは机の上の封書をちらりと見た。
「これは……“勇者報告”の原本?」
「写しです」
「あなた、何を隠しているの?」
ライルは返さない。
沈黙が、すでに答えだった。
エステルの目が細くなる。
「嘘の報告に、耐えられないタイプね」
「正確には、“嘘に慣れてしまう自分”に耐えられないだけです」
「……なるほど。私も昔、似たようなことをしたわ」
ライルが驚いて顔を上げる。
エステルは笑った。
「報告書を改ざんされたの。
戦場で部下を救うために命令を無視したら、“裏切り者”と書かれた。
真実なんて、誰も求めていなかった」
「……それでも、あなたは騎士を続けた」
「“誰かが残らなきゃ、嘘だけが残る”からよ」
エステルは背を向け、去り際に言った。
「あなたも同じでしょ? 勇者を守りたいんでしょ」
「はい。
彼女だけは、誰の物語にも染めたくありません」
その言葉に、エステルの肩がわずかに揺れた。
「なら、気をつけなさい。
“真実を知る者”は、この国では生きにくい」
彼女の足音が消え、再び静寂が訪れる。
◇◇◇
夜。
ミナは王都の宿舎の屋上で星を見上げていた。
ライルが隣に立つ。
「ねえ、ライルさん。私が助けた子どもたちのこと、
“神の奇跡”って呼ばれてるの、やっぱり変ですよね」
「変です。でも、人は“名前”がないと信じられないものを恐れます」
「だから“神の奇跡”にしたんですか?」
「そうでしょう。信仰という名の脚本です」
ミナは少し考え、微笑んだ。
「……じゃあ、私は“嘘の中の勇者”なんですね」
「違います」
ライルは静かに言った。
「あなたは“真実の勇者”です。
嘘の中で、それでも人を救おうとした。
その一点だけで、本物です」
ミナの瞳が潤んだ。
「……ずるい。そう言われたら、泣けなくなっちゃう」
「泣いても構いません。人間ですから」
「じゃあ、泣きます」
彼女は笑いながら、頬を拭った。
遠くの鐘が鳴る。
その音は、まるで“真実”がまだ息をしていることを告げるような……
◇◇◇
翌朝、王都の空は曇っていた。
昨日までの陽光が嘘のように翳り、城の尖塔が灰色に沈む。
――天もまた、沈黙しているかのようだ。
王城の南翼、報告評議会室。
そこには王国上層部、教会代表、そして勇者召喚局の面々が集まっていた。
机の上には、一枚の羊皮紙。
“勇者報告書”――勇者ミナが北方で起こした「奇跡」について、正式に記録された文書だ。
その文面には、ライルが書いた報告とは全く異なる“真実”が記されていた。
――いや、“真実を装った作り物”が。
『勇者は神の啓示を受け、民を救済した。』
『王国はこの奇跡をもって、勇者を“聖女”に叙する。』
『勇者の行いは、全て神の御心に基づくものである。』
ライルは無言のまま、それを見下ろしていた。
昨夜、自分が封印した“本当の報告書”とは、似ても似つかない。
そして、筆跡も違う。――偽造だ。
◇◇◇
「勇者殿」
教皇代理のエルマンが口を開いた。
「貴女の奇跡は、この国に再び希望をもたらしました。
今後は、王国教会の庇護のもとで、その力を人々のために用いていただきます」
ミナはうつむき、黙っていた。
彼女の隣で、ライルはわずかに前へ出た。
「……勇者様の意志は確認されたのでしょうか?」
「無論です」
「彼女本人は、教会の指導を受け入れてはいません」
「それは形式的な手続きを省略しただけです」
エルマンは淡々と告げた。
「勇者は“神の器”です。器に意志は不要。
ただ、光を宿し、神意を伝える存在であればよい」
その言葉に、ミナの肩がぴくりと震えた。
ライルの拳も、机の下で握り締められる。
「……その“器”に、命が宿っていることを、お忘れでは?」
「命など、神が与え、神が奪うものだ」
「違う」
ライルの声が、低く響いた。
「命は、本人のものだ」
会議室の空気が一瞬で凍る。
誰もが言葉を失い、ただライルを見た。
王の近侍が口を開こうとした瞬間――
王が片手を上げてそれを制した。
「グレイアード。お前は勇者補佐の立場を理解しているか?」
「はい。ゆえに申し上げます。
勇者様は人としてこの世界に立ち、人のために力を振るっておられます。
教会がそれを“神の意志”と称するのは、勇者様の意思を奪う行為です」
「……口が過ぎるぞ」
ドレイスが低く唸った。
「サポーター風情が、王政と教会に口を挟むとは」
「職務ですので」
「またそれか」
エルマンがため息をついた。
「では、問おう。勇者ミナ殿、貴女自身はどう思われますか?」
突然の指名に、ミナは顔を上げた。
その瞳は揺れていた。
けれど、逃げることはしなかった。
「……私は、助けたいと思って魔法を使いました。
神様に言われたわけじゃない。
私が“そうしたい”と思ったからです」
室内がざわめく。
それは勇者が“神の指示”を否定したことを意味する。
エルマンが眉をひそめた。
「勇者殿、それは神への冒涜とも取れる発言です」
「そうですか? でも、助けられた人たちは笑ってくれました。
それで十分じゃないですか?」
静かな声だった。
だが、その言葉の一つ一つが、真っすぐだった。
エルマンは無言のまま立ち上がった。
「勇者殿には、信仰教育を施す必要があるようだ」
「待て」ライルが前に出る。
「彼女は勇者であって、教会の信徒ではない」
「黙れ」
その瞬間、ライルの肩に騎士の手が置かれた。
「補佐官殿、これ以上の発言は不敬にあたります」
エステルの声だった。
しかし、その表情はどこか複雑だった。
目だけが、“我慢しろ”と告げている。
ライルはゆっくり息を吐き、言葉を飲み込んだ。
――今ここで戦っても、勝てない。
◇◇◇
会議が終わり、廊下を歩く二人。
ミナは黙っていた。
足取りが重く、靴音だけが響く。
「ライルさん……私、間違ったこと言いました?」
「いいえ。
ただ、正しいことを言うには、この国は少し“窮屈”なんです」
「でも、嘘をつくよりマシです」
「ええ。だから俺が代わりに嘘をつきます」
ミナが立ち止まった。
「……なんで、そこまで」
「職務です」
「……またそれ」
小さく笑ったその顔に、涙が滲んでいた。
ライルは彼女の頭にそっと手を置いた。
「泣かないでください。まだ、戦いは終わっていません」
「戦い?」
「剣ではなく、言葉と真実の戦いです」
◇◇◇
その夜。
ライルは再び地下書庫にいた。
封印した“真実の報告書”を再確認するためだ。
――だが、机の上にあったはずの黒封筒が消えていた。
「……誰かが持ち出した?」
冷たい汗が流れる。
閲覧権限は、自分と勇者本人のみ。
となれば――誰かが“封印を破った”ということだ。
机の上に、一枚の紙片が残されていた。
『真実は、光に晒される前に燃えるものだ。』
署名はなかった。
だが、その筆跡をライルは知っている。
――ドレイス。
「……やられたか」
彼は深く息を吐き、そして苦く笑った。
「なら、次の一手を打つまでだ」
◇◇◇
翌朝、勇者宿舎。
ミナが目を覚ますと、机の上に一枚の紙が置かれていた。
そこにはライルの字で、短くこう記されていた。
『真実は消された。
だが、希望はまだ残っている。
――今日も笑っていてくれ。』
ミナは紙を胸に抱きしめた。
「……はい。任せてください」
窓の外、朝日が昇る。
王都の空に、新しい光が差し込む。
それは嘘を塗りつぶすような、静かな黄金の光だった。




