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王都の夜は明るすぎた。
大通りの街灯は昼のように輝き、人々の笑い声が途切れない。
だが、その光が届かない場所が、確かに存在する。
王都西区、古い水路の地下に広がる“もう一つの市場”。
表の商人が口を噤み、衛兵ですら足を踏み入れぬ――闇市。
ライルは今、その薄暗い路地の入口に立っていた。
背後には、いつも通り勇者の少女、ミナがいる。
「……ねえ、ライルさん。ここ、なんか臭くないですか?」
「排水と香辛料の混ざった匂いですね。慣れれば食欲がなくなります」
「それ、慣れちゃダメなやつです」
ミナは鼻をつまみながら、辺りを見回した。
灯りは油と煤で濁り、商人たちは目を細めながら品物を並べている。
果実、武具、薬草、そして――鎖につながれた人影。
ミナが息を呑んだ。
「……また、奴隷」
「王国の許可証を持たない“闇取引”です。正規市場とは違い、捕らえられた者は身分さえ抹消されます」
「ひどい……」
彼女の拳が震えた。
前回の奴隷市場で見た光景が、脳裏に蘇ったのだろう。
ライルは低く告げた。
「勇者様。あくまで調査です。王命による監査の一環――無用な介入は禁じられています」
「……わかってます」
そう言いながらも、ミナの視線は明らかに怒りを宿していた。
◇◇◇
二人は偽装した身分証を使い、内部へと潜入した。
暗い通路の両側に並ぶ露店には、盗品や違法薬物、怪しげな護符が並んでいる。
人々の声は囁きに近く、交わされる金貨の音だけが生々しく響く。
ミナはそっとライルの袖を引いた。
「……ねえ、あそこ」
彼女が指差した先、木箱の陰に小さな人影が蹲っていた。
ボロ布に包まれた子供。
まだ十にも満たないほどの少年だ。
「売り物、ですか?」
「恐らく」ライルの声が冷えた。
「戦争孤児か、逃亡奴隷でしょう」
「なんで……こんな小さい子まで」
「この国の“経済”のためです」
ミナは歯を食いしばった。
子供の前に立ち、膝をつく。
「大丈夫? 名前、言える?」
少年は怯えたように首を横に振る。
すると、背後から低い声が飛んだ。
「おい、そこの嬢ちゃん。勝手に触るな」
現れたのは、粗末な革鎧を着た中年の男。
目には濁った光。
「そのガキは買い手が決まってんだ。見世物じゃねえ」
ミナが立ち上がり、男を睨む。
「子供を売るなんて、どうかしてます!」
「うるせぇ。口出しするなら、あんたも商品にしてやるよ」
男が腕を伸ばした瞬間、
――金属音が響いた。
ライルが男の手首を掴んでいた。
その動きは素早く、無駄がない。
彼の手の中の小型の魔道具が淡く光り、男の体が硬直する。
「神経麻痺の護符です。暴力行為は控えましょう」
「な、なんだと……!」
男が崩れ落ちる。
ミナは驚きと同時に、胸が締め付けられる思いだった。
ライルの冷静さの裏にある“諦め”のような色が、見えてしまったから。
「ライルさん……怒らないんですか」
「怒りでは人は救えません」
「でも――」
「怒りで救えるなら、この世界はもうとっくに救われています」
その声は、穏やかで、しかしどこまでも冷たかった。
◇◇◇
闇市の奥、もっとも奥まった区画。
そこには、王国の紋章を刻んだ木箱が並んでいた。
「……王家の物資がここに?」
ライルが眉を寄せる。
「まさか、王都の貴族が裏で流しているのか」
封印を確認すると、確かに王家の刻印がある。
“供給品”と記されたその箱には、兵糧や薬草が詰まっていた。
ミナが小さく呟く。
「戦場に送るはずの物資を……ここで売ってるんですか」
「この国の“影”ですよ、勇者様。あなたが光を浴びるほど、こうした影も濃くなる」
ミナの唇が震えた。
「……じゃあ、私は、そんな国のために戦ってるんですか?」
「戦う相手は国ではありません。
けれど、あなたが守ろうとする“人々”の中には、こうした者たちもいる」
しばしの沈黙。
やがてミナが顔を上げた。
「それでも……救いたいです」
「理由を聞いても?」
「だって、誰かがそう言わなきゃ、何も変わらないから」
ライルは小さく笑った。
「……相変わらず、無茶な理屈ですね」
「そう言うライルさんが、結局いつも助けてくれるんですけど」
「それは職務です」
「またそれ!」
思わず笑い合う二人を、闇市の灯が淡く照らした。
◇◇◇
その夜、ギルド本部に戻ったライルは、密封された報告書を机に置いた。
封印の蝋に王家の紋章を押す。
表向きの報告には「不正の疑いなし」と記す。
――真実を報告すれば、闇に消される。
それがこの国の“常識”だった。
ミナは黙ってその様子を見ていた。
「嘘をつくんですか」
「生かすための嘘です。
本当の報告は、俺の手元に残ります」
そう言って、ライルは小さな黒革の手帳を取り出した。
その表紙には、無数の刻印――封印魔法。
「これは?」
「この国の“裏”を記録するためのものです。
いつか、真実を明るみに出す時のために」
ミナはじっと見つめ、そして微笑んだ。
「……じゃあ、私も手伝います」
「危険ですよ」
「大丈夫。私、光属性ですから。
闇を照らすの、得意なんです」
ライルは小さく息を漏らした。
「……本当に、あなたには敵わない」
闇市の記録が一つ、手帳に刻まれた。
その小さな一歩が、いずれこの国を揺るがすほどの光となることを、
この時の二人はまだ知らなかった。
◇◇◇




