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夜明け前の空気は、静かで冷たかった。
焚き火はすでに落ち着き、残った熾火が赤く脈打っている。
星はまだ消えきらず、空の奥で淡く瞬いていた。
ライルは一人、野営地の端に立ち、地形と空の様子を確かめていた。
(分岐域は越えた……だが、完全に抜けたとは言い切れない……)
風の向き。
地面の硬さ。
魔素の流れ。
すべてが微妙に“揃っていない”。
(何かが……来る……)
確信に近い感覚だった。
彼は振り返り、焚き火のそばに横たわるリュミエを見る。
眠っている。
呼吸は安定しているが、胸の光はまだ深く沈んだまま。
(今は……前に立たせられない……)
それは、判断だった。
エアルは彼女の隣で丸くなり、無意識にその袖を握っている。
守られる側だった少年が、今は“離れない”ことで彼女を支えている。
(……いい関係だ……)
だが、その静けさを遠くの“気配”が、確実に削っていた。
ゼクスが、低い声で近づいてくる。
「……感じてるな。」
ライルは頷いた。
「はい。数は多くありませんが……質が違う。」
「影霊じゃねぇな。」
「ええ。もっと……意図的です。」
リーネも合流し、短く告げる。
「外界核の歪みが再収束しています。分岐域に引き寄せられた“観測者”……もしくは、“回収者”。」
ルアナが不安そうに息を呑む。
「……それって……」
「リュミエを狙っている可能性が高い。」
その言葉に、全員が沈黙した。
ライルは、静かに考える。
(予想通り……)
(“守護の光”を使った以上……)
(見逃されるはずがない……)
だが、だからといって、彼女を前に立たせるわけにはいかない。
ライルは、荷物袋へ視線を落とした。
そこには、仲間たちの装備、食料、予備の魔道具、そして彼自身が管理してきた“切り札”がある。
(……使う時が来たか……)
彼は深く息を吸い、皆に向き直った。
「これから先、私は……前に出ます。」
ゼクスが目を見開く。
「は?」
ルアナも驚いた表情を浮かべる。
「ライルが……?」
リーネは一瞬考え、すぐに理解したように目を細めた。
「……防御系魔道具群ですね。」
ライルは頷いた。
「はい。私の戦闘能力はゼロです。」
「ですが……“守るために前に立つ”ことは可能です。」
その言葉は、淡々としていた。
だが、その裏には、長い決断の積み重ねがあった。
(勇者パーティの荷物持ち……)
(役に立たない……戦えない……)
(そう言われ続けてきた……)
それでも、彼は知っていた。
前に立つことと、戦うことは同義ではない。
「相手の狙いは、リュミエさんの“光”。」
「ならば……私が“的”になります。」
ゼクスが低く唸る。
「……正気か。」
「正気です。」
ライルは即答した。
「今、彼女は回復に専念すべきです。」
「ここで再び光を使わせれば……次は、取り返しがつかない。」
リーネが、静かに言葉を補足する。
「理にかなっています。あなたのアイテムボックス……容量無制限。」
「防御系魔道具を、同時展開できるのは……あなたしかいない。」
ルアナが唇を噛む。
「でも……危ないよ……!」
ライルは、視線を落とさず答えた。
「危険なのは承知しています。」
「ですが……誰かが前に立たなければならない。」
その瞬間、リュミエが、かすかに身じろぎした。
「……ライル……さん……?」
眠りの中で呼ばれた名前。
ライルの胸が、わずかに軋んだ。
(……聞かせるわけには……)
(今は……眠っていてください……)
彼は静かに踵を返す。
「配置につきます。」
ゼクスが剣を握り直す。
「……ああ。背中は任せろ。」
ルアナが小さく頷く。
「……無茶、しないで。」
リーネは短く言った。
「三十秒。防御展開後、状況を解析します。」
ライルは一歩、前へ出た。
分岐域の境界付近。
夜と朝の狭間。
彼は、アイテムボックスを開く。
音もなく、空間が歪む。
次々と展開されるのは
盾。
結界杭。
魔力遮断布。
衝撃緩和フィールド。
すべて、防御のためだけに集められた魔道具。
(戦えなくていい……)
(倒さなくていい……)
(“通さなければ”……それでいい……)
遠くで、気配が濃くなる。
何者かが、こちらを“見ている”。
ライルは、深く息を吸った。
(……リュミエさん……)
(あなたの光は……今は……私が守ります……)
その背中は、剣を振る者のものではない。
だが確かに、“前に立つ者”の背中だった。
夜明けの光が、地平の端をわずかに染め始めた頃。
分岐域の境界線に立つライルの前で、空気が静かに歪んだ。
霧とも影とも違う。
けれど確かに“そこにいる”と分かる存在感。
ライルは、視線を逸らさなかった。
(来た……)
防御魔道具が、次々と起動していく。
半透明の結界が何層にも重なり、地面に打ち込まれた杭が淡い光を放つ。
衝撃緩和の場が空気を押し広げ、魔力遮断布が背後の気配を断つ。
すべては――
後ろを守るため。
影が、形を持ち始めた。
人型に近い。
だが輪郭は曖昧で、顔の位置には“観測する意志”だけが漂っている。
――光を……確認……
――回収対象……反応……
直接聞こえる声ではない。
それでも、意味だけが脳裏に流れ込んでくる。
ライルは、静かに息を吐いた。
(やはり……“回収者”……)
(個としての悪意はない……だが……)
(目的のためなら……躊躇はしない……)
影が、ゆっくりと前進する。
結界に触れた瞬間空気が軋み、低い振動音が響いた。
だが、結界は破られない。
影は一瞬だけ動きを止め、次に“解析するように”動きを変えた。
(来る……)
ライルは、覚悟を決める。
影が、光ではなく“負荷”を投げつけてきた。
視界が揺れる。
重圧が、内側から押し潰すようにかかる。
(……精神干渉……)
(攻撃じゃない……“揺さぶり”だ……)
意識が引きずられそうになる。
耳元で、かつて聞いた声が蘇る。
――戦えない
――役に立たない
――ただの荷物持ち
胸が、きしんだ。
(……違う……)
(私は……)
ライルは、歯を食いしばる。
(……“支える者”だ……)
彼は、後ろを振り返らなかった。
そこに守るべきものがあると、知っているから。
影が、別の角度から干渉を試みる。
結界が一枚、音もなく砕けた。
ゼクスの声が飛ぶ。
「一層、抜かれた!」
ライルは即座に次の魔道具を展開する。
新たな防壁が、破れた部分を補う。
(足りない……)
(まだ……足りない……)
だが、彼は知っていた。
“完全な防御”など、存在しない。
必要なのは時間。
影が、わずかに苛立ったような波動を放つ。
――障害……排除……
その瞬間。
影の干渉が、一気に強まった。
視界が白く弾け、思考が散りかける。
膝が、僅かに折れた。
(……ここで……)
(倒れたら……)
そのとき、背後から小さな温もりが届いた。
「……ライル……さん……」
かすれた声。
振り返らなくても、分かった。
リュミエだ。
「……だめ……前に……」
喉が、思うように動かない。
「……まだ……」
影が、その変化を見逃すはずもなかった。
圧が、さらに増す、その瞬間。
胸の奥で、別の力が応えた。
それは、光ではない。
戦闘力でも、魔力でもない。
覚悟。
(……私は……)
(戦えなくても……)
(倒せなくても……)
(“立ち続ける”ことは……できる……)
ライルは、深く息を吸い込む。
そして一歩、前に出た。
結界の内側で。
盾の前で。
“逃げない”という選択。
影の干渉が、結界に叩きつけられる。
結界が、軋む。
砕ける。
だがそのたびに、次が立ち上がる。
ライルの額を、冷たい汗が伝った。
膝が震える。
それでも、立つ。
(……これが……)
(……私の……)
(……役目だ……)
影が、動きを止めた。
観測するように、こちらを見つめる。
――対象……
――光ではない……
――だが……障害……
一瞬の、静止。
そして影は、撤退を選んだ。
空気が、ふっと軽くなる。
結界の残骸が、光の粒となって消えていく。
ライルは、その場に膝をついた。
「……はぁ……」
背後から、慌てた足音。
「ライルさん!」
リュミエの声。
彼女は、まだ完全には回復していない。
それでも必死に、ここまで来た。
「……どうして……」
震える声。
「……一人で……」
ライルは、ゆっくりと顔を上げた。
疲労で、視界が滲む。
「……一人では……ありません……」
彼は、わずかに笑った。
「あなたが……後ろにいた……」
その言葉に、リュミエの目が見開かれる。
胸の奥で、眠っていた光がかすかに、応えた。
エアルが、泣きそうな顔で駆け寄る。
「……ライル……ありがとう……」
ゼクスが、乱暴に肩を叩く。
「……無茶しやがって……でも……」
「……悪くねぇ背中だったぞ。」
リーネは、静かに告げた。
「回収者は撤退しました。今すぐの再接触はありません。」
ルアナが、ほっと息を吐く。
「……よかった……」
リュミエは、ライルの前に膝をついた。
「……ごめん……」
「ありがとう」が、同時に溢れそうになって。
ライルは、首を振る。
「……謝る必要は……ありません……」
「これは……私の選択です……」
その言葉は、はっきりとしていた。
リュミエの胸に、熱が灯る。
(……支えられてた……)
(私は……)
(ちゃんと……支えられてた……)
朝日が、完全に昇る。
分岐域の影が、静かに消えていく。
この瞬間“荷物持ち”は、ただの役割ではなくなった。
戦えなくても、光を放てなくても。
盾になる覚悟は、確かにパーティを前へ進めていた。




