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分岐域を越えた瞬間、空気がはっきりと変わった。
歪んでいた風の流れが整い、空の色が少しだけ濃くなる。
大地は安定し、草はしっかりと根を張り、足元の感触に迷いがなくなった。
――越えた。
その事実を、誰もが無言のうちに理解していた。
リュミエは、ゆっくりと息を吐いた。
(……終わった……)
(分岐域は……越えた……)
そう思った瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだ。
「……っ……」
小さく息が詰まり、視界が一瞬だけ揺れる。
自覚よりも先に、身体が反応した。
ライルがすぐに気づき、腕を伸ばす。
「リュミエさん。」
その声は、近くて、確かだった。
リュミエは一歩踏み出そうとして、足を止める。
(……あれ……)
(……力が……)
胸の光が、いつもより遠い。
消えてはいない。
けれど、確かに――薄い。
まるで、深い場所へ沈み込んだような感覚。
エアルが不安そうに顔を覗き込む。
「……リュミエ……?」
リュミエは反射的に笑おうとした。
「だいじょ――」
言葉が、途中で止まった。
喉が、うまく動かない。
リーネが即座に状況を見極める。
「……魔力ではありません。生命力でもない。」
「これは……“光そのもの”の消耗です。」
その言葉に、場の空気が静まった。
ゼクスが眉を寄せる。
「……つまり?」
リーネは、リュミエを真っ直ぐ見た。
「守護の光は、あなたの“意志”を燃料にします。」
「拒絶せず、否定せず、境界を保つ――その行為は、極めて精神的負荷が大きい。」
リュミエは、胸に手を当てる。
(……やっぱり……)
(……ただじゃ……済まないよね……)
ルアナが、思わず声を上げる。
「じゃあ……リュミエ……もう……」
リーネは首を振った。
「失ったわけではありません。ただ――」
言葉を選び、続ける。
「今は、“深く沈んでいる”。回復には……時間が必要です。」
エアルの顔が、さっと青ざめた。
「……リュミエ……ぼくの……せい……?」
その言葉に、リュミエははっと顔を上げた。
「違う。」
即答だった。
声はかすれていたが、迷いはなかった。
「エアルくんのせいじゃない。」
胸の奥が、きしむ。
「私が……選んだこと……」
守ると決めた。
拒まないと決めた。
奪わせないと、決めた。
その“決め続ける意志”が、確かに代償を伴っただけ。
ライルが、そっと言う。
「……あなたは、限界を超えました。」
その言葉に、責める響きはなかった。
「それは……誇るべきことではありません。」
「しかし……無意味でもない。」
リュミエは、静かに頷いた。
(……そうだ……)
(無意味じゃない……)
守れた。
エアルを。
そして、影に飲まれかけた“後悔”を。
それだけで――。
だが、身体は正直だった。
足に力が入らず、視界がわずかに暗む。
ライルは迷わず、彼女の前に立つ。
「ここから先は、私が判断します。」
その声は、はっきりとしていた。
「今日は、進まない。」
ゼクスが一瞬驚いたように目を見開き、すぐに頷く。
「……ああ。妥当だな。」
ルアナも、ほっと息を吐く。
「うん……ちゃんと、休も。」
リーネが地形を確認する。
「この先に、小規模な岩陰があります。野営には十分です。」
リュミエは、申し訳なさそうに視線を落とした。
「……ごめん……」
ライルは、即座に否定する。
「謝る必要はありません。」
「あなたが“前に出なかった”なら……私たちは、もっと大きな代償を払っていた。」
その言葉が、胸に静かに落ちた。
(……支える……)
(……こういうことなんだ……)
エアルが、リュミエの手をぎゅっと握る。
「……ぼく……そばにいる……」
その温もりが、今は何よりもありがたかった。
リュミエは、小さく笑った。
「……うん……ありがとう……」
分岐域を越えた先の地は、穏やかだった。
だが、その穏やかさの裏で――
確かに、“静かな代償”は刻まれていた。
それは痛みでも、喪失でもない。
けれど、無視できない“重さ”。
そしてそれは、この旅が次の段階へ進んだ証でもあった。
リュミエは、仲間に支えられながら歩き出す。
岩陰に設けた簡素な野営地は、分岐域を越えたばかりの土地にしては驚くほど静かだった。
風は穏やかで、夜の冷えもまだ浅い。
遠くで聞こえるのは、虫の羽音と、火にくべられた薪が弾ける小さな音だけ。
リュミエは毛布に包まれ、焚き火のそばに横になっていた。
身体は動く。
意識もはっきりしている。
けれど――胸の奥だけが、深い水底に沈んでいるようだった。
(……眠ってる……)
(光が……すごく、深いところで……)
呼びかけても返事はない。
ただ、完全に消えたわけではないと、微かな感覚だけが伝わってくる。
それが、余計に不安を誘った。
焚き火の向こう側で、仲間たちが声を落として話している。
「……やっぱり、無茶だったな。」
ゼクスの低い声。
「結果的には、正解だった。」
リーネの冷静な返答。
「でも……本人の負担が大きすぎる。」
ルアナが小さく言う。
「……リュミエ、強いけど……強すぎるって、怖いよね……」
その言葉が、胸に刺さる。
(……強くなんて……)
(なりたいわけじゃ……)
ただ、守りたかっただけ。
エアルの寝息が、すぐそばで聞こえた。
彼はリュミエの隣で、同じ毛布にくるまっている。
小さな手は、無意識にリュミエの袖を掴んだまま離れない。
(……エアルくん……)
(この子……眠ってても……)
(離れない……)
その事実が、胸を締めつけると同時に、少しだけ温めた。
やがて、足音が近づく。
ライルだった。
彼は焚き火の反対側に腰を下ろし、しばらく何も言わずに炎を見つめていた。
沈黙は、気まずさではなかった。
必要な間だった。
「……眠れませんか。」
静かな問い。
リュミエは、少し考えてから答えた。
「……眠いけど……」
「……寝るのが……怖い……」
その言葉は、正直だった。
「目を閉じたら……光が……そのまま……」
消えてしまう気がした。
ライルは否定しなかった。
ただ、静かに言う。
「……消えません。」
断定でも、慰めでもない。
事実としての声だった。
「眠っているだけです。」
リュミエは、焚き火の光に目を向けた。
「……どうして……そんなふうに……言えるの……」
ライルは、少しだけ視線を落とす。
「あなたの光は……意志に応じて形を変えました。」
「それは……枯渇ではありません。」
「“深く使った”だけです。」
リュミエは、ゆっくりと呼吸を整える。
(……深く……)
(使った……)
「……でも……次……また……」
言葉が、続かなかった。
次に守る場面が来たとき。
この光が、応えてくれるかどうか。
その不安が、喉に絡む。
ライルは、静かに続けた。
「……次は、あなたが前に立つ必要はありません。」
その言葉に、リュミエは驚いて彼を見る。
「え……?」
「支える役目は、入れ替わります。」
ライルの声は、穏やかだった。
「あなたが眠るなら……我々が前に出る。」
「あなたが弱るなら……我々が判断する。」
「それでも守れないものがあるなら……」
ほんの一瞬、間を置く。
「……それは、“誰の責任でもない”。」
その言葉が、胸に落ちる。
(……責任……)
(……全部……自分で……背負わなくて……)
いいのだと。
エアルが、寝言のように呟いた。
「……リュミエ……」
小さな声。
無意識に、指が少しだけ強く握られる。
リュミエは、その手を包み返した。
「……ここにいるよ……」
ライルは、その様子を見て、ゆっくりと立ち上がる。
「……眠りなさい。」
「今は……支えられる側です。」
その言葉は、命令ではなく許可だった。
リュミエは、深く息を吸い――
ゆっくりと吐いた。
(……大丈夫……)
(消えない……)
(私は……一人じゃない……)
焚き火の音が、遠くなる。
胸の奥で、眠る光が――
かすかに、温もりを返した気がした。
それは、回復の兆しではない。
けれど、確かな“存在”の証。
守る者が、守られる夜。
支える者が、支えられる時間。
分岐域の先で、
リュミエは初めて、“光に身を委ねる”ことを覚え始めていた。




