39
影霊が完全に消え去ったあとも、分岐域の空気はすぐには元に戻らなかった。
風は弱く、音は遠く、まるで世界そのものが慎重に呼吸を再開しているかのようだった。
リュミエはその場に座り込み、胸に手を当てたまま、浅い呼吸を繰り返していた。
(……重い……)
(胸の奥が……ずっと……)
光は消えていない。
けれど、いつものような温かさではなく、重りを抱え込んだような感覚が残っている。
守れた。
確かに、エアルを守れた。
それなのに――。
「……リュミエさん。」
ライルが膝を折り、視線の高さを合わせた。
その声は静かで、責める響きは一切なかった。
「……少し、休みましょう。」
リュミエは小さく頷いた。
「……うん……」
それだけ言うのが、精一杯だった。
エアルは彼女のすぐそばに座り、ぎゅっとペンダントを握りしめている。
小さな身体が、まだ緊張から解けきっていない。
「……リュミエ……」
呼ばれて、リュミエは顔を上げた。
「……ごめんね……」
その言葉に、リュミエは目を見開いた。
「え……?」
エアルは俯いたまま、続ける。
「ぼく……ひかり……ねらわれて……」
「……ぼくが……いたから……」
その声は震えていて、自分を責める色が滲んでいた。
リュミエの胸が、きゅっと締めつけられる。
(この子……)
(もう……自分を責めることを覚えてしまった……)
リュミエは、ゆっくりと身体を前に倒し、エアルを抱き寄せた。
「違う。」
はっきりと、迷いのない声だった。
「エアルくんがいたから、私は……守ろうって思えた。」
エアルが顔を上げる。
「……ほんと……?」
「うん。本当。」
胸の光が、わずかに応える。
「守るって……怖いよ。失うかもしれないって、ずっと考えちゃう。」
「でもね……」
リュミエはエアルの小さな背を、そっと撫でた。
「大切な人がいるから、立てることもあるんだよ。」
エアルの瞳が、揺れながらもリュミエを映す。
「……じゃあ……ぼく……いても……いい……?」
その問いは、とても小さく、でも切実だった。
リュミエは、少しだけ笑って頷いた。
「いてほしい。」
エアルの目から、静かに涙がこぼれた。
「……うん……」
その様子を、少し離れた場所で仲間たちが見守っていた。
ゼクスが腕を組み、低く呟く。
「……重てぇ戦いだったな。」
リーネが頷く。
「守護の発現は、精神的な負荷が非常に大きい。特に……彼女の光は“拒絶しない”性質です。」
ルアナが心配そうに言う。
「じゃあ……リュミエ、だいじょうぶなの……?」
ライルは少し考え、静かに答えた。
「……大丈夫ではありません。」
その言葉に、皆が息を呑む。
「ですが……折れてはいない。」
ライルの視線は、エアルを抱きしめるリュミエに向けられていた。
「彼女は……守ることを知ってしまった。」
リーネが小さく頷く。
「守る光は……つなぐ光よりも、孤独になりやすい。」
その言葉が、静かに場に落ちた。
(……孤独……)
ライルは、ゆっくりと立ち上がる。
「だからこそ……我々がいる。」
彼は仲間たちを見回した。
「誰か一人に背負わせるための旅ではない。」
ゼクスが苦笑する。
「……言うようになったじゃねぇか。」
ルアナが小さく笑う。
「うん……それ、大事。」
リーネも静かに頷いた。
「支える構造がなければ、守護は続かない。」
そのとき、リュミエがゆっくりと立ち上がった。
まだ、足取りは少し重い。
けれど――目は、前を見ていた。
「……ありがとう。」
仲間たちの方を見て、静かに言う。
「一人だったら……多分、怖くて……光を閉じてた。」
ライルは、わずかに目を細めた。
「閉じなかったのは……なぜですか?」
リュミエは、少しだけ考えてから答えた。
「……エアルくんが……そこにいたから。」
エアルは驚いて、目を丸くした。
「ぼ、ぼく……?」
「うん。」
リュミエは、少し照れたように笑う。
「守りたい人がいるって……強いよ。」
胸の光が、ほんのりと温かさを取り戻す。
分岐域の空気も、少しずつ落ち着きを見せはじめていた。
リーネが地形を確認しながら言う。
「この先で、分岐域は抜けられます。ですが……」
言葉を区切る。
「今日の戦いは……明確な“境界”でした。」
リュミエは頷いた。
「うん……わかる。」
(もう……戻れない……)
(つなぐだけの光には……)
それが怖くないわけじゃない。
でも――。
リュミエは、エアルの手を取り、前を向いた。
「……行こう。」
声は、まだ少し震えていた。
それでも、確かだった。
守ると決めた光と共に、
分岐域を越えるための一歩を踏み出す。
分岐域の空気が、ゆっくりと動き始めていた。
先ほどまで張りつめていた重さが薄れ、代わりに、遠くから流れ込む風が微かな方向性を持ち始めている。
ここが“越えられる境界”であることを、大地そのものが告げているようだった。
リュミエは歩き出そうとして、ふと足を止めた。
胸の奥に残る違和感が、完全には消えていなかった。
(……まだ……少し……重い……)
(守れた……でも……)
守ることができた安堵と、次も必ず守れるとは限らないという不安。
その二つが、胸の中で絡み合っている。
その様子に気づいたのか、ライルが一歩近づいた。
彼はいつものように前に出るでも、指示を出すでもなく、ただ静かに隣に立った。
「……無理に歩かなくていい。」
その言葉は、命令ではなく確認だった。
リュミエは少し驚いて、彼を見上げる。
「……でも……」
「“進まなければならない”と感じているのなら、それはあなたの役目です。」
ライルは続ける。
「ですが……“支えなければならない”のは、私の役目です。」
その言葉に、リュミエの胸がわずかに震えた。
(支える……)
(……ライルさん……)
彼は、戦場の前に立つことはできない。
剣を振ることも、魔法を使うこともない。
それでも――
ここに立ち、誰よりも状況を見て、判断し、必要な言葉を選ぶ。
それが、彼の役目。
「……私……」
リュミエは、言葉を探すように視線を落とした。
「さっき……影の中で……“守れなかった後悔”を感じた……」
「もし……次があったら……」
言葉が詰まる。
「……次も……同じように……守れるか……わからない……」
それは、弱音だった。
だが、隠さなかった。
ライルは、その沈黙を否定しなかった。
「……わからなくて、いい。」
その即答に、リュミエは顔を上げる。
「守れるかどうかを、今ここで証明する必要はありません。」
「守ろうと“決め続ける”ことが……あなたの光です。」
その言葉は、柔らかく、しかし芯があった。
リュミエの胸の光が、わずかに落ち着きを取り戻す。
(決め続ける……)
(そうか……)
(一度決めたら終わりじゃない……)
エアルが二人のやり取りを見て、小さく歩み寄ってきた。
「……リュミエ……」
彼は胸のペンダントに手を当てながら言う。
「……ぼく……さっき……こわかった……」
リュミエは、そっと頷いた。
「うん。」
「でも……」
エアルは、ぎゅっと拳を握る。
「……リュミエが……そこにいた……」
「だから……ぼく……にげなかった……」
その言葉に、リュミエの目が見開かれた。
(……この子……)
(私が……支えられてた……)
胸の光が、今度ははっきりと温かさを取り戻す。
ライルは、その様子を静かに見つめていた。
「支え合い、というのは……上下ではありません。」
「前に立つ者と、後ろを守る者。」
「そして……前に立つ者を、存在そのもので支える者。」
ゼクスが、少し照れたように頭を掻く。
「……まぁ、要するに……誰か一人で背負うな、ってことだな。」
ルアナが頷く。
「うん……それ、大事……」
リーネが冷静に補足する。
「守護は、単独では破綻します。必ず、支える構造が必要です。」
リュミエは、仲間たちを見渡した。
前に立つ者。
分析する者。
斬り伏せる者。
そして――背後を整える者。
(……一人じゃない……)
(守るって……一人で立つことじゃないんだ……)
リュミエは、深く息を吸った。
胸の光が、静かに安定していく。
「……ありがとう。」
それは、誰か一人に向けた言葉ではなかった。
「私……まだ……怖い。」
「でも……この怖さを……一緒に抱えてくれる人がいるなら……」
リュミエは、前を向いた。
「……進める。」
ライルは、ほんのわずかに微笑んだ。
「それで、十分です。」
分岐域の境界線が、はっきりと見えてきた。
空気の歪みが薄れ、風が一定の方向に流れている。
ここを越えれば――
新たな土地。
新たな光。
そして、新たな試練。
リュミエは、エアルの手を握り、ライルの背を意識しながら、一歩を踏み出した。
守る者と、支える者。
その関係が、はっきりと形を持った瞬間だった。
分岐域を越えた先で、
この絆が試されることになるとしても――。
今は、進む。
光をつなぎ、
光を守り、
そして――支え合いながら。




