38
丘を越えた先の大地は、白霧の街とはまるで別の顔をしていた。
草は低く、地面は硬く乾き、風が流れるたびに空気がわずかに軋むような感触を残す。
空は同じ青であるはずなのに、どこか色が薄く、遠くの景色が滲んで見えた。
ここが“外界の分岐域”。
リーネの言葉どおり、力の流れが交差し、安定しきらない土地だった。
リュミエは胸に手を当て、慎重に一歩ずつ歩を進める。
(……ざわつく……)
(光が……落ち着かない……)
胸の奥で脈打つ光は、これまでのどの場所よりも不規則だった。
一定のリズムを保っていたはずの光が、時折途切れ、時折鋭く跳ねる。
まるで――
複数の“声”が、同時に干渉し合っているかのようだった。
エアルも同じ感覚を覚えているのか、歩調が少し遅れている。
「……リュミエ……ここ……へん……」
小さな声が震える。
リュミエはすぐに立ち止まり、エアルの前にしゃがみ込んだ。
「大丈夫?無理してない?」
エアルは胸のペンダントを握りしめ、こくりと頷く。
「……だいじょうぶ……でも……ひかりが……あちこちから……」
(やっぱり……)
(この分岐域……光同士が、ぶつかり合ってる……)
ライルが周囲を見渡し、低く告げる。
「視界が歪んでいる。魔獣の気配は薄いですが……油断できません。」
ゼクスが舌打ちする。
「ちっ……こういう場所は嫌いだ。何が起きてもおかしくねぇ。」
ルアナは空気を探るように、目を閉じた。
「……ここ、音が変。風の音が……途中で消えてる……」
その言葉と同時に、空気が一瞬だけ“沈んだ”。
リュミエの胸の光が、ぎゅっと縮こまる。
(……来る……)
次の瞬間――
視界の端で、影が揺れた。
地面に落ちるはずのない影。
形を持たず、しかし確かな“存在感”だけを残す影。
ライルが即座に剣を抜いた。
「警戒!」
ゼクスも剣を構え、前に出る。
「……出やがったな。」
影は一つではなかった。
いくつも、いくつも。
地面、岩、空気の歪みの中から、ゆっくりと浮かび上がる。
それらは魔獣ではない。
しかし、生き物とも言い切れない。
リーネが息を呑む。
「……影霊……外界核の歪みによって生まれる、感情残滓です……!」
影霊。
人の恐怖、後悔、怒り、絶望。
そうした感情が、光の流れを失った場所で凝り固まった存在。
エアルが小さく悲鳴を上げる。
「……こわい……!」
リュミエはすぐにエアルを抱き寄せた。
「大丈夫。ここにいるよ。」
胸の光が、エアルの光と共鳴する。
しかし――
その共鳴が、影霊たちを刺激した。
影がざわめき、音のない叫びを上げる。
――ひかり
――うばう
――にくい
――こわい
直接聞こえる声ではない。
けれど、胸の奥へ直接流れ込んでくる感情。
リュミエは歯を食いしばった。
(……これ……白霧の街のときとは違う……)
(この影たち……誰かを救いたいんじゃない……)
(光を……奪おうとしてる……)
ライルが低く叫ぶ。
「リュミエさん、下がってください!これは……危険です!」
ゼクスが一歩踏み出し、影霊へ斬りかかる。
刃は確かに影を裂いた。
だが――
次の瞬間、裂けた影は霧のように散り、すぐに別の場所で形を取り戻した。
「くそっ!手応えがねぇ!」
リーネが魔法陣を展開する。
「物理攻撃は効果が薄い……感情の塊なら……浄化が必要です!」
ルアナが歯を食いしばる。
「でも……数が多すぎる……!」
影霊たちがじりじりと距離を詰めてくる。
その中心で、ひときわ濃い影が揺れた。
他よりも大きく、重く、歪んだ存在。
胸の光が、激しく警鐘を鳴らす。
(……あれ……)
(中心核……?)
影の中心から、圧迫するような感情が溢れ出す。
――にくい
――ひかり
――うばわれた
――ゆるさない
リュミエの視界が、一瞬だけ暗転した。
(……これは……)
(ただの影じゃない……)
(誰かの“強い後悔”……)
エアルが震えながら、リュミエの服を掴む。
「……リュミエ……あれ……いたい……」
胸のペンダントが熱を帯びている。
リュミエは、はっと息を呑んだ。
(エアルくんの光を……狙ってる……!)
その瞬間、影霊の中心が大きく脈打った。
空気が歪み、地面が軋む。
影が、一斉に動き出す。
リュミエはエアルを庇いながら、前を見据えた。
(……逃げられない……)
(でも……)
胸の光が、静かに、しかし確かに答えた。
(“つなぐ”だけじゃない……)
(今は……“守る”……)
リュミエは一歩、前に出た。
「……来るなら……私が相手だよ。」
その声は震えていたが、逃げてはいなかった。
影霊たちは、音もなく距離を詰めてきた。
風は止み、分岐域の空気そのものが息を潜めているかのようだった。
影が地面を這い、岩の陰から滲み出し、空間の歪みから生まれる。
数は多く、逃げ場はない。
リュミエはエアルを背に庇い、胸に手を当てた。
(……落ち着いて……)
(怖い……でも……)
(この子を……守らなきゃ……)
胸の光が、これまでよりも低く、深く脈打つ。
白霧の街で人々の心に寄り添ったときの柔らかさとは違う。
今は、守るための重い光。
影霊の中心核が、ぐにゃりと歪んだ。
――ひかり
――よこせ
――うばわれた
――かえせ
直接聞こえないはずの声が、頭の奥に流れ込んでくる。
リュミエは歯を食いしばった。
(奪われた……?)
(この影……)
(“光を失った”誰かの……)
次の瞬間、影霊の一体が跳ねるように襲いかかってきた。
ゼクスが即座に前へ出る。
「させるかっ!」
剣が振り下ろされ、影を切り裂く。
だが、影は裂けても消えない。
霧のように散り、別の形を取って再び集まる。
「くそっ……本当に斬れねぇ……!」
リーネが叫ぶ。
「通常の攻撃では不十分です!影霊は“感情”そのもの!切り離しても、また繋がってしまう!」
ルアナが歯を食いしばる。
「じゃあどうするの!?このままじゃ……!」
影霊たちは次第に、リュミエとエアルを中心に包囲を狭めていく。
エアルが小さく震え、声を絞り出した。
「……リュミエ……ぼく……ひかり……なくなっちゃう……?」
その言葉に、胸が締め付けられる。
(この子は……)
(やっと……光を……)
リュミエは、はっきりと首を振った。
「なくならない。私が……守る。」
その声は、自分自身に言い聞かせるようでもあった。
ライルが剣を構え、低く言う。
「リュミエさん。あなたが前に出るのは危険です。しかし……」
彼は一瞬、言葉を選んだ。
「……この影たちは、あなたの光に反応しています。」
リュミエは静かに頷いた。
「うん……わかってる。」
(“つなぐ光”……)
(今までは……誰かの心に寄り添うための光……)
(でも……)
胸の奥で、何かがはっきりと形を持ち始める。
(今は……)
(奪わせないための……光……)
リュミエは、一歩前に出た。
ライルが即座に隣に立つ。
「……無理はしないでください。」
「大丈夫。ひとりじゃないから。」
その言葉に、ライルの表情がわずかに揺れた。
影霊の中心核が、大きくうねる。
――ひかり
――かえせ
――おれのだ
圧迫感が一気に増し、胸の光がきしむように軋んだ。
リュミエは、あえて目を閉じる。
(……この影……)
(怒りだけじゃない……)
(すごく……悲しい……)
胸の奥に、誰かの記憶の断片が流れ込む。
暗い場所。
差し伸べられなかった手。
助けを求める声。
そして――間に合わなかった後悔。
(……この影は……)
(“守れなかった”後悔……)
リュミエは、はっと目を開いた。
「……あなた……」
影霊の中心を、まっすぐに見据える。
「光を……守れなかったんだね。」
その言葉に、影が一瞬だけ揺らいだ。
――ちがう
――うばわれた
――まもれなかった
リュミエは、ゆっくりと胸の光を解放する。
強く、鋭く、しかし――拒絶するためではない。
「……私は……奪わない。」
「あなたの後悔を……否定しない。」
胸の光が、影霊へ向けて静かに伸びていく。
エアルが息を呑む。
「……リュミエ……」
影霊たちがざわめき、後退する。
中心核の影が、苦しそうに歪んだ。
――ひかり
――ちがう
――こわい
リュミエは一歩、さらに踏み出した。
「怖かったよね。守りたかったのに……失って……」
胸の奥が痛む。
(私も……)
(誰かを救えないかもしれないって……怖い……)
光が、影と触れ合う。
しかし今回は、“つなぐ”のではない。
“境界”をつくる。
影が、光を喰らおうとした瞬間――
光は柔らかく、しかし確かな“壁”となった。
影が弾かれ、呻く。
――あああ……
リーネが驚きの声を上げる。
「……拒絶……?いえ……違う……これは……」
ライルが息を呑んだ。
「……守護……」
光は影を消し去らない。
だが――
近づくことを、許さない。
影霊たちは、次々と形を崩し、分岐域の地面へと沈んでいく。
中心核だけが、最後まで残った。
リュミエは、その影へ静かに語りかける。
「……あなたの後悔は……ここに置いていって。」
「これ以上……誰かの光を奪わなくていい。」
影は、かすかに震え――
やがて、風に溶けるように消えた。
分岐域に、静寂が戻る。
張り詰めていた空気が、ふっと緩んだ。
リュミエはその場に膝をついた。
「……はぁ……」
エアルが慌てて駆け寄る。
「リュミエ……!」
リュミエは、かすかに笑った。
「大丈夫……ちょっと……疲れただけ……」
胸の光は弱まっていたが、消えてはいない。
ライルがすぐそばに膝をつく。
「……無茶をしましたね。」
「うん……でも……」
リュミエは、エアルを見上げた。
「守れた……」
エアルの目に、涙が浮かぶ。
「……ありがとう……リュミエ……」
その言葉に、胸の光がわずかに温かく応えた。
リーネが静かに告げる。
「今のは……新しい段階です。あなたの光は……“つなぐ”だけではない。」
ゼクスが腕を組み、苦笑する。
「まったく……とんでもねぇ役目だな。」
ルアナがほっと息を吐いた。
「でも……ちゃんと、守れたね。」
リュミエは深く息を吸い、立ち上がる。
(……光をつなぐ……)
(そして……守る……)
(この旅……まだまだ……簡単じゃない……)
それでも、胸の奥に迷いはなかった。
分岐域を越えた先に、また新たな光と影が待っている。
それでも――
彼女は、歩みを止めない。
守ると決めた光が、そこにある限り。




