37
白霧の街に、朝の光が静かに降り注いでいた。
霧は完全に姿を消し、澄んだ空気が街路を満たしている。
石畳は朝露を帯び、家々の白い壁は柔らかな陽射しを反射していた。
かつて“心を映す霧”に覆われていた街とは思えないほど、穏やかな朝だった。
(……本当に、晴れたんだ……)
リュミエは胸に手を当て、ゆっくりと息を吸い込んだ。
胸の光は静かで安定しており、街の空気と溶け合うように落ち着いている。
昨夜の祝祭の余韻が、まだ街のあちこちに残っていた。
片付けられた机や椅子、消えかけの灯り、そして家々の窓から漏れる穏やかな寝息。
エアルはその光景を、少し緊張した面持ちで見つめていた。
「……あさ……」
その小さな呟きに、リュミエは振り向いて微笑む。
「うん。もうすぐ、出発だね。」
エアルは胸のペンダントに手を添え、小さく頷いた。
「……ちょっと……どきどきする……」
(初めての旅だもんね……)
(でも……それ以上に、不安が少ない……)
リュミエはそう感じていた。
以前のエアルなら、この場に立つことすらできなかったはずだ。
街を離れるなんて、想像するだけで泣き出していたかもしれない。
それが今は――
不安を抱えながらも、前を見て立っている。
(ちゃんと……前に進んでる……)
胸の奥が温かくなる。
そこへ、街の人々が少しずつ集まってきた。
長老を先頭に、昨日笑顔を取り戻した住民たちが、静かに一行を見送ろうとしている。
「リュミエ様……本当に、ありがとうございました。」
長老は深く頭を下げた。
その背中は、昨日よりも少しだけ軽く見えた。
「この街は……もう霧に怯えることはないでしょう。
心の弱さを、互いに隠さず話せるようになったから。」
リュミエは慌てて首を振る。
「私がしたのは、きっかけを作っただけです。
街の皆さんが、ちゃんと向き合ったから……霧は晴れたんです。」
長老は穏やかに微笑んだ。
「それでも……あなたの光がなければ、私たちは向き合う勇気すら持てなかった。」
その言葉に、胸の光が小さく揺れた。
(……“光をつなぐ”って……こういうことなんだ……)
エアルが一歩前に出て、街の人々を見回した。
小さな胸が上下し、緊張が伝わってくる。
「……みんな……」
声が震えそうになるのを、必死にこらえている。
「ぼく……いってきます……」
一瞬、静寂が走った。
次の瞬間――
街のあちこちから、優しい声が上がった。
「行っておいで、エアル。」
「気をつけるんだよ。」
「帰ってきたくなったら、いつでも戻っておいで。」
エアルの目に涙が滲む。
「……うん……」
小さな手が、ぎゅっと握られた。
(怖い……でも……)
(ひとりじゃない……)
その想いが、胸の光に確かに宿っていた。
ライルが一歩前へ出て、街の人々に向けて一礼する。
「我々は、外界を巡る旅の途中です。
この街での出来事は、必ず胸に刻み、次へとつなげます。」
ゼクスが腕を組んで笑う。
「坊主を預かる以上、半端な旅にはしねぇ。安心しな。」
ルアナが手を振る。
「エアルくん、またね!成長したら、ぜったい見せに来てね!」
エアルは小さく笑って、うなずいた。
「……うん……!」
リーネは静かに付け加える。
「白霧の街は、これから“霧ではなく光で知られる場所”になるでしょう。」
その言葉に、街の人々の顔が誇らしげに輝いた。
準備は整った。
街の門の前で、一行は立ち止まる。
リュミエは振り返り、もう一度、白霧の街を見渡した。
(ここで出会った光……)
(エアルくん……街の人たち……)
(全部……私の中に残ってる……)
胸の光が、確かな重みをもって応える。
リュミエは前を向いた。
「……行こう。」
その言葉に、皆が頷く。
一行は、朝の光の中へ歩き出した。
白霧の街には、もう霧はない。
けれど――
確かに“光”は残っていた。
それは、リュミエの胸に、エアルの胸に、
そして街の人々の心に、静かに灯り続けている。
白霧の街の門をくぐった瞬間、外の世界の空気がはっきりと変わった。
街の中に残っていた柔らかな温もりとは違い、外界の風は少しだけ冷たく、けれど澄んでいる。草原の向こうには低い丘が連なり、その先にまだ見ぬ土地が広がっているのが分かった。
エアルは一度だけ振り返り、街の白い屋根を見つめた。
(……ここが……ぼくの、帰る場所……)
胸のペンダントが小さく揺れ、心臓の鼓動と重なる。
リュミエはその様子を横目で見守り、声をかけた。
「大丈夫?」
エアルは少し考え、ゆっくりと頷いた。
「……うん。さびしいけど……こわくない。」
その言葉に、リュミエの胸が静かに温かくなる。
(本当に……強くなった……)
以前のエアルなら、「離れたくない」と泣き出していただろう。
けれど今は、寂しさを抱えたまま前に進もうとしている。
ライルが地図を広げ、進行方向を確認した。
「次の目的地ですが……大樹から示された方角を辿るなら、この丘を越えた先になります。」
指先が示す先には、遠くかすむ山影が見えた。
リーネが補足する。
「この一帯は“外界の分岐域”と呼ばれています。光や魔素の流れが交差しやすく、異変が起きやすい場所です。」
ゼクスが眉をひそめる。
「つまり……次も平穏じゃねぇってことだな。」
ルアナが苦笑しながら肩をすくめた。
「でも、その分……新しい出会いも多い場所だよ。」
その言葉に、リュミエの胸の光が小さく揺れた。
(新しい光……)
(エアルくんみたいに……誰かが、きっと待ってる……)
丘を登り始めると、風景が少しずつ変わっていく。
草の色は淡く、風の流れが複雑に絡み合っているのが肌で分かる。
目には見えないが、外界の力がここで交差しているのだと、胸の光が教えてくれていた。
エアルがふと立ち止まった。
「……リュミエ……」
リュミエはすぐに足を止め、振り返る。
「どうしたの?」
エアルは胸に手を当て、少し困ったような顔をしている。
「……ひかりが……さっきから……ちょっと、ざわざわする……」
リュミエは自分の胸にも意識を向ける。
確かに、わずかな違和感がある。
白霧の街を離れた直後よりも、胸の奥が落ち着かない。
(これ……)
(遠く……すごく遠くから……)
ライルも異変に気づいたようで、周囲を警戒した。
「……私も感じます。何かが……こちらを“見ている”ような……」
リーネが静かに言葉を重ねる。
「恐らく、強い光……もしくは、それに近い存在です。まだ正体は掴めませんが……無関係ではないでしょう。」
ゼクスが剣の柄に手をかける。
「歓迎されてねぇ感じだな。」
ルアナがエアルの手を取る。
「大丈夫だよ。みんな一緒だから。」
エアルは小さく頷いたが、視線は丘の向こうから離れなかった。
(……なんだろう……)
(こわい……でも……)
(助けを……呼んでる……?)
リュミエの胸の光が、はっきりと脈打つ。
(これは……白霧の街の時と、少し違う……)
(もっと……鋭くて……)
(でも……消えかけてる……)
リュミエは深く息を吸い、仲間たちを見渡した。
「……この先に……“助けを待ってる光”がある。」
その声は静かだったが、確信に満ちていた。
ライルは一瞬も迷わず頷く。
「ならば、行きましょう。あなたの光が示す方へ。」
ゼクスが苦笑する。
「相変わらず、厄介ごとに一直線だな。」
リュミエは少しだけ困ったように笑った。
「……でも、放っておけないんだ。」
エアルが、リュミエの服の裾を握った。
「……ぼくも……いっしょに……いく。」
その声には、恐怖よりも覚悟が勝っていた。
リュミエはエアルの頭を優しく撫でる。
「ありがとう。エアルくん。」
丘の頂に立った瞬間、風景が一気に開けた。
谷、川、森、そして遠くの山々。
そのどこかに、次の“光”がある。
しかし同時に――
胸の光が、今までにないほど強く、そして重く脈動した。
(……これは……)
(光だけじゃない……)
(影も……同時に動いてる……)
リュミエは無意識に胸を押さえた。
ライルが静かに声をかける。
「……感じましたね。」
リュミエは小さく頷いた。
「うん……次は……簡単じゃない……」
それでも、彼女の足は止まらなかった。
光をつなぐ者として、
守るべきものを知ってしまった者として。
一行は丘を下り、新たな地へと歩み出す。
白霧の街に残した光を胸に、
そして――次に待つ“試練”の気配を感じながら。




