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王都セリオンの空は、いつもより眩しかった。
雲一つない青が、まるで何もかもを祝福しているように広がっている。
勇者召喚から一月。
勇者・一ノ瀬ミナと荷物持ちのライル・グレイアードは、王都へ凱旋していた。
魔獣の脅威から村を救い、その報告が王へ届くや否や、王国中が勇者の名を知ることとなった。
王は急遽「勇者凱旋の式典」を開催。
その招待状には、勇者パーティの補助員であるライルの名も記されていた。
だが、ライルはその紙を見た瞬間から、胸の奥に不穏なものを感じていた。
◇◇◇
式典当日。
王都中央広場には、色鮮やかな旗と花々が並び、人々の歓声が響いていた。
中央に立つ壇上には、白いドレスに身を包んだミナの姿があった。
勇者に相応しい輝き――いや、それ以上に“この世界の外側”を感じさせる透明な美しさ。
彼女が微笑むたび、人々は手を叩き、子どもたちは名を叫んだ。
「勇者様!」「ミナ様!」
その声に、ミナはぎこちなくも笑みを返した。
しかし、ライルは群衆の中で一人、冷静にその様子を見つめていた。
王の背後――貴族たちの列の中に、見覚えのある男の顔があった。
市場を取り仕切る商会の頭領、リンドール侯。
先日、奴隷市場で彼が“鎖を握っていた”のをライルは見ている。
その男が今、勇者の功績を誇らしげに語っている。
「我らの王国の光、勇者ミナ様に祝福を!」
白々しい拍手の音が響いた。
――勇者を称える言葉が、まるで“利用宣言”のように聞こえた。
◇◇◇
式典が終わり、控室に戻ったミナはぐったりと椅子に座り込んだ。
「人に囲まれるのって……あんなに疲れるものなんですね」
「勇者様、表情だけは完璧でしたよ」
「褒めてるんですか、それ?」
「もちろん。演技としては百点満点です」
ミナはくすっと笑い、靴を脱いで足をぶらぶらさせた。
だが、その目にはほんのわずかな影があった。
「……ライルさん」
「はい」
「王様も貴族の人たちも、みんな“勇者様”って言うけど……なんか、私を見てない気がします」
ライルは答えず、机の上の紅茶をそっと彼女の前に置いた。
香り立つ湯気が、わずかに緊張を和らげる。
「勇者様という存在は、この国にとって“祈りの象徴”です。
あなた個人を見る者は、ほとんどいないでしょう」
「じゃあ……私ってなんなんですか?」
「王国にとっては、力。民にとっては希望。
そして俺にとっては――」
ライルは言葉を切り、少し考えた。
「――守る理由、でしょうか」
その言葉に、ミナは目を瞬いた。
それから、ふっと笑う。
「……なんか、ずるいですね。そう言われると何も言い返せない」
「職業病です」
そう軽口を叩きながらも、ライルの心には別の思いがあった。
――この国は勇者を“利用”する。
その影が、確実に近づいてきている。
◇◇◇
夜。
式典の祝宴が開かれ、城の大広間には灯がともる。
貴族たちの笑い声、音楽、ワインの香り。
ミナは王の隣に座らされ、形式的な乾杯を繰り返していた。
「勇者様、我が家の商会でも祝宴を開きたく思っております」
「い、いえ、そんな……」
「どうぞお気になさらず。王国の栄誉ですから」
リンドール侯の目が、爛々と光る。
その笑みの奥にあるものを、ミナは直感で感じ取った。
――彼は、自分を“人”ではなく“駒”として見ている。
ライルは会場の端でそれを見ていた。
背筋を伸ばしながらも、いつでも介入できるよう気配を探る。
「……勇者様、少々お疲れのようだ」
ライルが声をかけた瞬間、ミナは安堵の表情を浮かべた。
「はい、少し頭が……」
「では失礼を。勇者様を休ませていただきます」
リンドール侯の制止を無視し、ライルは彼女の手を取り会場を出た。
夜風が頬を撫でる。
ミナが深く息を吸い込んだ。
「……助かりました」
「勇者様はまだ“政治”の場に慣れていません」
「“政治”って、人を疲れさせる魔法みたいですね」
「慣れない方がいいですよ。あれは心を蝕みます」
ライルは空を見上げた。
王都の夜空は、明かりに満ちて星がほとんど見えない。
彼は小さく呟く。
「……光が強い場所ほど、影は濃くなる」
ミナは首をかしげた。
「なんですか、それ」
「この国の話です。
あなたが光なら、俺は影を見ておく」
「……ライルさん、それって」
「職務です」
「またそれ言う」
笑い合う声が夜風に溶ける。
だがライルの視線は遠く、王城の塔を越えた闇を見つめていた。
◇◇◇
数日後。
ギルド本部の会議室に、ライルとミナが呼び出された。
新たな任務の指令書が机に置かれている。
――「北方辺境への使節護衛任務」
ミナが目を通し、眉を上げた。
「護衛任務……魔王討伐じゃないんですね」
「ええ。勇者としての力を見せつけるための“外交の顔”です」
「なんか、戦うより疲れそう」
「俺もそう思います」
ミナは書類を見つめ、静かに言った。
「でも、行きましょう。きっと何か見える気がする」
ライルはわずかに微笑む。
「光を見るには、影を通るしかありませんからね」
二人は視線を交わした。
その先に待つのは、まだ知らぬ現実の深淵。
だが同時に、信頼という灯火が確かにそこにあった。
北方辺境への出立前日。
王都の訓練場には、朝日を受けて輝く甲冑の列が整然と並んでいた。
金属のきらめき、武具の音、馬の嘶き――それはまさに王国騎士団の威容そのものだった。
その最前列に立つのは、一人の女性騎士。
長い金髪を高く結い、白銀の鎧に赤のマント。
凛とした立ち姿に、周囲の騎士たちの視線が自然と集まる。
「――紹介しよう」
ギルドの副団長が声を上げる。
「今回の遠征に同行する王国騎士団第三師団隊長、エステル・レイヴァンス殿だ」
ライルはその名を聞いて眉をひそめた。
レイヴァンス――この国でも屈指の名家の出であり、王直属の剣士一族。
その名が持つ重みは、辺境の民すら知っている。
そして、彼女がこちらへ歩み寄ってくる。
硬質な足音が、訓練場の砂を踏みしめるたびに響いた。
「あなたが……勇者を補佐するサポーターね?」
「ライル・グレイアードと申します」
「ほう、冒険者崩れにしては礼儀がある」
挑発めいた口調。
ライルは微笑を崩さず、軽く頭を下げた。
「名家の方に比べれば、我々は粗野なものですので」
「その割には、王の信頼を得ているようね。勇者随行とは、なかなかの栄誉だわ」
「……はて、栄誉かどうかは分かりませんが」
エステルの唇に、わずかな笑みが浮かんだ。
「ふふ、面白い人ね。貴族相手にその物言い、嫌いじゃないわ」
そのやり取りを、少し離れた場所からミナが見ていた。
「……あの人、怖そう」
「勇者様。相手は国の剣です。気軽な発言は控えてください」
「う、うん……」
しかし、ミナの視線はエステルに釘付けだった。
まるで“強さそのもの”が人の形を取ったような彼女に、畏怖と憧れが入り混じっていた。
◇◇◇
その日の午後、遠征準備の確認を行うため、ギルドの戦略室にて合同会議が開かれた。
議題は護衛任務の詳細――王命によって派遣される使節団を、北方の都市国家まで無事送り届けること。
ルートの安全確保、補給地点の選定、宿営計画。
ライルは淡々と資料を読み、問題点をいくつか指摘した。
「この区間の橋は老朽化しています。馬車を通すなら補強が必要です」
「北方の山道は夜間の気温が急激に下がります。焚き火用の魔力石を倍に」
「補給所の配置が偏っています。中央部に臨時拠点を――」
そのたびに、エステルが短く頷く。
「いい判断ね。さすが王命付きの補佐官だわ」
「恐れ入ります」
「ただひとつ訂正。あなたは“荷物持ち”じゃなく、実質的な参謀よ」
ライルは驚いて顔を上げた。
エステルは書類を閉じ、静かに続ける。
「現場の経験がある者の言葉には重みがある。私の部下にも見習わせたいくらいよ」
「……光栄です」
そのやり取りを、ミナはぽかんとした顔で見ていた。
「なんか、ライルさん褒められてません?」
「仕事をしているだけです」
「えー、照れてる」
「照れてません」
エステルが口元を押さえて微笑む。
「勇者様は明るい方ね。あなたがいれば、兵たちも士気が上がるでしょう」
「本当ですか!?」
「ええ。ただし――戦場では笑顔より、覚悟を見せなさい」
その言葉に、ミナの笑顔が一瞬だけ止まった。
エステルの瞳はまっすぐで、氷のように澄んでいる。
そこに嘘はない。だからこそ、重かった。
◇◇◇
会議後、夕暮れの訓練場。
エステルは剣を手に、ひとり黙々と素振りをしていた。
その動きには無駄がなく、一撃ごとに空気が震える。
ライルが声をかけると、彼女は汗を拭いながら振り向いた。
「あなた、見てたのね」
「訓練場を通りかかっただけです」
「なら、少し見ていきなさい。これが“国を守る剣”の重みよ」
エステルは地面を蹴り、連撃を放つ。
その剣速に、ライルは思わず息を呑んだ。
ただの剣ではない。
魔力を最小限に乗せ、斬撃そのものを魔術のように操っている。
「……これほどの実力、王国でも一握りでしょう」
「お世辞は結構。私は“勝つ”ために剣を振ってる。誇りのためでも、栄光のためでもない」
彼女の瞳に、一瞬だけ影がよぎった。
「……戦場で何かを守ろうとすれば、必ず失う。だから私は、“守る”と口にする者が嫌いなの」
ライルは黙って彼女を見つめた。
それは、誰かを失った者の言葉だった。
しばらくして、エステルが剣を収める。
「あなたはどうなの? 勇者を守ると言いながら、何を信じてる?」
「……そうですね」
ライルは少し空を見上げた。
「俺は、“信じたい”と思える人を信じるだけです」
「単純ね」
「単純だから、続けられるんです」
エステルがふっと笑った。
「あなた、いい目をしてる。……気に入ったわ」
「は?」
「今度、手合わせしてみたいの。あなたの“守り”がどれほどのものか」
「戦闘能力ゼロですが」
「だから面白いのよ」
そう言って彼女は背を向けた。
夕焼けに照らされたその背中は、誇り高く、どこか寂しげだった。
◇◇◇
夜。
宿舎の部屋でミナがライルの報告書を覗き込みながら言った。
「エステルさんって、かっこいいですよね。でも、なんか……怖い」
「強い人ほど、孤独を背負うものです」
「ライルさんも?」
「俺は違います。人に振り回される方ですから」
「ふふっ、たしかに」
笑いながらも、ミナの瞳には真剣な光が宿っていた。
「でも……あの人みたいに、ちゃんと“覚悟”を持てるようになりたいです」
ライルは少し考え、頷いた。
「なら、焦らずに覚えていきましょう。
“守る”という言葉が、どれほど重いかを」
窓の外では、北へ向かう風が静かに吹いていた。
それはまるで、彼らを次の試練へと導く風のようだった。




