35
霧がゆっくりと晴れゆく白霧の街に、ようやく柔らかな光が差し込み始めた。
街の奥や家々の間から、扉をそっと開く音が次々と響いてくる。
それは長い眠りから目覚めるような、かすかな気配だった。
リュミエはエアルの手を握ったまま、霧が薄れた街路をゆっくり歩き出す。
(良かった……街の人たち、無事だったんだ……)
(でも……あの“心の化物”が生まれるほど……みんな、不安と恐怖を抱えていたんだ……)
胸の光が、その思いに共鳴するように優しく揺れた。
やがて、一番近くの家の扉が音を立てて開いた。
そこから姿を現したのは、年配の女性だった。
女性は震える手で胸を押さえながら、霧の晴れた街を見回している。
「……ああ……本当に……霧が……」
その瞳は恐怖と安堵の間で揺れ、涙が滲んでいた。
エアルはその姿を見た瞬間、びくりと肩を跳ねさせ、リュミエの背に隠れた。
「……あのひと……」
リュミエはエアルの頭をそっと撫でた。
「大丈夫だよ。エアルくんは悪くないから」
女性はゆっくりと二人へ近づき、目を見開いた。
「……その子……まさか……エアルなの……?」
リュミエの背に隠れていたエアルの手が震える。
「……いやだ……」
リュミエは優しくエアルの手を包み、女性へ向き直った。
「エアルくんを探していたんです。この街の人たちも、ずっと心配していたんじゃありませんか?」
女性は胸に手を当て、震えながら頷いた。
「ええ……ええ……そうよ……!でも……あの子に触れると、心が乱れて……怖くなってしまって……!」
その声には後悔と罪悪感が滲んでいた。
エアルはリュミエの背で小さく震えている。
リュミエは一歩前に出て、女性へ静かに言った。
「エアルくんの光のせいじゃありません。あなたが怖くなったのも……エアルくんが悪かったわけじゃない。お互いが知らなかっただけなんです」
女性は目を見開き、小さな声で呟いた。
「知らなかった……?」
「はい。光を持つ人は、普通の人より心が強く揺れやすいんです。触れた相手の感情に反応してしまって……悪気なんて、少しもないんです」
女性の瞳に、ゆっくりと理解の色が広がっていく。
そして、震える声で言った。
「……エアルに……謝りたいの……」
エアルがその言葉に小さく反応し、リュミエの服を掴む手に力が入った。
「……ほんと……?」
女性の目から涙が溢れた。
「ええ……本当よ。あのとき、恐怖に負けてしまったのは私たち。あの子にひどいことを言ったわ……でも……怖かったの……どうしようもなかったの……」
その告白には苦しみと後悔が込められていた。
(エアルくんだけじゃなかったんだ……みんな……心が揺さぶられて……怖くて……どうしたらいいか分からなくて……)
リュミエはエアルの背をそっと押した。
「エアルくん……聞いてあげられる?」
エアルはゆっくり顔を上げ、女性を見た。
恐怖と不安が入り混じった瞳。
でも、その奥に――小さな希望の光が揺れた。
女性は震える手を胸に当て、深く頭を下げた。
「エアル……ごめんなさい。怖がって……あなたを傷つけて……本当にごめんなさい……!」
エアルの瞳から一筋の涙がこぼれた。
「……ぼく……こわかった……でも……でも……」
エアルは小さく震える声で言った。
「リュミエは……こわくない、って……」
女性は顔を覆って泣き崩れた。
「ごめんなさい……!ありがとう……リュミエさん……!」
リュミエはそっと首を振った。
「いいえ。エアルくんの気持ちが届いたからです」
胸の光が優しく脈を打ち、三人の心をそっとつなぐ。
そのとき――
街の奥から新たに数人の住人が集まってきた。皆、エアルとリュミエを見てざわついている。
「エアル……!」
「生きてたのか……!」
「よかった……でも……どうして霧が……」
人々の視線にエアルが再び怯えかけたその瞬間――
リュミエはエアルの手をしっかり握った。
「大丈夫。エアルくんは悪くない。怖がる必要なんてないよ」
街の人々はリュミエの胸の光に息を呑んだ。
「それは……光……?」
「彼女も……光持ちなのか……」
リュミエは静かに頷いた。
「私の名前はリュミエ。“光をつなぐ者”です。エアルくんの光は……人を傷つけるものじゃありません。誤解されていただけです」
ざわめく人々の中で、若い男性が勇気を出して一歩前へ出た。
「俺たちは……エアルを怖がって逃げた。でも……本当は助けたかった。どうしたらいいか分からなかったんだ……」
その言葉に、エアルは小さく震えながらも聞き入っている。
リュミエは一歩前に進み、皆に向けて言った。
「光は……怖いものじゃありません。誰かの心が揺れるのは、それだけ大事な気持ちがあったからです。エアルくんの光だって……あなたたちの光だって……本当はつながれるんです」
街の人々が息を呑み、静かに耳を傾ける。
リュミエの胸の光がゆっくりと浮かび上がり、淡い金色の輝きが周囲に広がる。
エアルの胸の光も、それに応えるように揺れ――
街の霧はさらに薄れていった。
住民の表情に、安堵と希望が戻り始める。
「エアル……もう一度……私たちと……」
「大丈夫だよ、エアル。今度は逃げたりしない」
「一緒に……暮らそう……」
エアルは大きく瞳を揺らし、リュミエを見上げた。
「……リュミエ……ぼく……みんなと……いていいの……?」
リュミエは微笑んで頷いた。
「もちろん。だって……あなたの光は、ずっとみんなを呼んでたんだよ」
エアルの頬を涙が伝い――
その小さな手が、今度は自分の意思で街の人へ向けて伸ばされた。
人々もまた、その手へそっと手を伸ばす。
光がつながった瞬間――
街を覆っていた霧が、完全に晴れた。
白霧の街に、光と温かさが戻り、人々の表情にようやく確かな安堵が戻りはじめた頃。
街の中央広場には、リュミエたちと住民たち、そしてエアルが集まっていた。普段は市場が開かれる場所なのだろう。今は霧の後遺でひんやりと湿っているが、どこか温かさが戻りつつあった。
エアルはリュミエの隣で小さく息を整えていた。
その胸に宿る光はまだ弱いが、先ほどよりずっと安定している。
(良かった……少しずつ、戻ってきてる……)
(この街の人たちが“受け入れた”ことで……エアルくんの光も安心してる……)
胸の光が、共鳴するように静かに脈打つ。
そこへ、街の長と思しき壮年の男性が一歩前に進み出た。
威厳のある姿だが、病み上がりのように疲れが漂っている。
「……白霧の街を救ってくれた方々に、心からの礼を言わせてほしい。」
男性は深々と頭を下げた。
リュミエたちは驚き、慌てて姿勢を正す。
ライルが代表として言葉を返す。
「私たちはできることをしただけです。街の皆さんが互いを信じられたからこそ、この霧は晴れたのだと思います。」
その言葉に街の人々が頷き合い、なかには涙を拭う者もいた。
長は震える声で続けた。
「……エアルのことも、私たちは正しく理解してやれなかった。恐怖に怯え、結果としてあの子を孤独に追いやってしまった……」
エアルがリュミエの服をそっと掴む。
リュミエはエアルに寄り添い、小さく頷いた。
「……もう、大丈夫だよ。街の人たち、ちゃんとわかってくれたから。」
長は膝をつき、エアルと目線を合わせた。
「エアル……すまなかった。君の光を“災い”と恐れたのは、私たちの無知だ。守るべき街の子を、守れなかった……どうか許してほしい。」
エアルは長をじっと見つめていたが、やがて震えながら言う。
「……ぼく……こわかった……でも……もう、だいじょうぶ……」
長の目に涙が浮かぶ。
「ありがとう……エアル……ありがとう……!」
その場にいた住民たちからも、安堵の声がたくさん上がった。
「よかった……」
「エアル……戻ってきてくれてありがとう……!」
「今度は、ちゃんとみんなであなたを守るからね……!」
エアルは胸に手を当て、リュミエへ視線を向けた。
「リュミエ……ぼく、ここにいていい……?」
リュミエは迷うことなく微笑んだ。
「もちろん。エアルくんの場所だよ。」
その言葉に、エアルは初めて“安心”という表情を浮かべた。
(光は……ちゃんと、届くんだ……)
(怖くて、逃げてしまいそうでも……誰かが気づこうとしてくれるなら……)
胸の光が温かく広がる。
そんな穏やかな空気の中、ルアナが手を上げた。
「ねぇねぇ!せっかくだし……お祭りとかしない?霧が晴れた記念で!」
ゼクスが苦笑しながら肩をすくめる。
「おい、こんな時に……いや、まぁ悪くはねぇけどよ。」
しかし、住民たちの間から笑いが生まれた。
「いいね……!」
「ずっと霧に閉じこもってたから……明るいことをしたいわね。」
「エアルも、一緒にどうだい?」
エアルが驚いたように目を瞬く。
「ぼくも……?」
リュミエはそっと背を押す。
「うん。みんなが、エアルくんと“一緒に”って。」
エアルの胸に宿る光が、ふわりと明るくなる。
「……うん……やってみたい……!」
その声はまだ小さくても、確かな前へ進む意志が宿っていた。
街の人々がさっそく準備に取りかかり、色とりどりの布を広げたり、食材を運んだりし始めた。
霧で閉ざされていた時間を取り戻すように、活気がゆっくりと満ちていく。
リュミエはその光景を見守りながら、胸に手を添えた。
(この街……こんなに温かい場所だったんだ……)
(エアルくんの光も……きっと、ここなら……)
そんな中、ライルが近づいてきた。
「リュミエさん。あなたのおかげで、この街は救われました。」
リュミエは首を振った。
「私一人じゃ無理だったよ。みんなが心を開いてくれたから。」
「いいえ。それを開かせたのは、あなたの“光”です。」
ライルは静かに続ける。
「……光をつなぐ者。あなたの在り方は、きっとこの先も多くの人を救うのでしょう。」
その言葉はまっすぐで、リュミエの胸に深く響いた。
(私……そんなふうに見えてるの……?)
(怖くて逃げたこともあったのに……)
(でも……ライルさんは……信じてくれてる……)
胸の奥で小さく熱が灯り、リュミエは赤くなった頬を押さえた。
「……ありがとう。私……もっと頑張るね。」
ライルは微笑んで頷いた。
その温かな空気の中、エアルが駆け寄ってくる。
「リュミエ!ぼく、おまつりの準備、てつだってもいい?」
「もちろん!一緒にやろう!」
エアルが嬉しそうに笑い、リュミエの手を取った。
(あ……笑った……)
(エアルくん、こんなにかわいい笑顔ができるんだ……)
胸が温かくなる。
こうして白霧の街には光が戻り、
影に覆われていた心が、少しずつ、やわらかな光へ溶けていった。
そして、リュミエにとっても――
ここで救った光は、新たな旅路への力となっていくのだった。




