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霧がゆっくりと晴れはじめると、周囲の景色が少しずつ輪郭を取り戻していった。
外界の強い光ではなく、霧越しの柔らかい光が街を満たし、建物の白い壁面がぼんやりと浮かび上がる。どの家も木と石で作られ、全体が霧に溶け込むように淡い色合いで統一されていた。
しかし、その美しさとは裏腹に街には人の気配が――ほとんどなかった。
(この街……まるで眠ってるみたい……)
リュミエは胸に手を添えたまま、霧の中で倒れている少年にそっと視線を落とす。
少年は細い身体を丸め、震えながら呼吸をしていた。白い髪は霧と同じ色をしていて、まるでこの場所こそが“彼の居場所”であるかのように馴染んでいる。
だが、その表情は苦しげだった。
リュミエはそっと名前を呼んだ。
「……聞こえる?あなた……」
少年のまぶたがわずかに動く。
その瞬間、胸の光が淡く揺れた。
(この子……やっぱり“光持ち”……)
リュミエの胸に宿る光が反応するように、少年の胸の奥からも微弱な光が滲み出していた。ただし、その光は不安定で、霧に揺られればすぐ消えてしまいそうだった。
ライルが少年の脈を取り、静かに言う。
「命の危険はありません。ただ……精神が極限の状態にあります。霧の影響でしょう」
ルアナが心配そうに覗き込む。
「かわいそう……こんなになるまで、ずっとひとりで怖かったんだ……」
ゼクスが街の奥を見回しながら眉を寄せる。
「にしても、人がぜんぜんいねぇな。街の規模からしてもっと住民がいてもおかしくねぇのに」
リーネが分析するように続ける。
「霧の影響で避難している可能性もあります。あるいは……心を映す霧に精神を蝕まれ、家から出られなくなっているのかもしれません」
リュミエは少年の手をそっと握った。
(この子も……その一人……)
少年がかすかに唇を動かした。
「……さむい……こわい……」
その声は小さく、震えていて、必死に何かにすがろうとする弱さに満ちていた。
リュミエの胸が強く締め付けられた。
(わかる……その気持ち……わかるよ……私もずっとそうだった……)
胸の光が、優しく少年の光へ寄り添うように明滅する。
「大丈夫……もう一人じゃないよ……」
リュミエがそう囁くと、少年のまつ毛が震え、ゆっくりと瞳が開いた。
霧と同じ白。
しかしその奥には、深い恐怖が焼き付いたまま残っていた。
「……だれ……?」
怯えた声に、リュミエは微笑んだ。
「私はリュミエ。あなたのこと、助けに来たの」
少年は瞬きをし、リュミエの胸の光を見つめる。
「……ひかり……?」
そのひと言と同時に、少年の胸の奥がわずかに震えた。
リュミエの胸が熱くなる。
(気づいた……?私の光に……)
「うん……あなたと同じ、光だよ」
少年の瞳が揺れた。
「……ぼく……」
その声はかすれ、霧に溶けそうだった。
ライルが静かに促す。
「名前を……教えてくれますか?」
しばらく沈黙が続き――
やがて少年は唇を動かした。
「……エ……アル……」
リュミエは柔らかく微笑む。
「エアル……いい名前だね」
エアルという名前を呼ばれた瞬間、少年の表情にわずかに安堵の色が差した。
(ずっと……誰にも名前を呼んでもらえなかったの……?)
(こんなに怯えてる……こんなに小さいのに……)
胸の光が痛いほど脈動する。
ゼクスが街の奥を指差した。
「にしても……街の中、やけに静かだぜ。人の気配がしねぇ」
リーネが霧の濃さを確かめながら言う。
「おそらく、街の住民も霧の影響を受けていると思われます。霧が強く反応しているのは、エアルくんの心が限界だったからでしょう。他にも“光を持っていない人”の心の影も、至る所で発生している可能性があります」
ルアナが不安そうにリュミエと少年を見比べた。
「じゃあ……エアルくん、本当にずっと一人で……?」
リュミエは胸を押さえ、静かに言う。
「この霧……エアル君の心が呼び寄せたんだと思う。怖くて、寂しくて……自分の影に押しつぶされそうになって……」
エアルはその言葉に怯えたように肩を震わせた。
「……いや……ぼく……ちが……」
リュミエは優しく首を振り、彼の手を包み込むように握る。
「違わないよ。でも、悪いことじゃないの。怖くていいの。泣いていいの。だって……誰かに助けてほしかったんだよね」
エアルの瞳が大きく揺れ、次の瞬間――
ぽろり、と涙が頬を伝った。
「……っ……ひとり……だった……こわかった……!」
その声は霧の向こうまで震えるほどの悲痛さを帯びていた。
リュミエは彼をそっと抱き寄せる。
(大丈夫……もう一人じゃないよ……)
胸の光が、まるでエアルの涙に応えるように明滅する。
やがて、エアルはその光に安心するように呼吸を落ち着かせていった。
しかし――その瞬間。
街の奥から、異様な霧がうねる音が響いた。
ゼクスが警戒して武器を構える。
「おい……なんだ、あれ……!」
リーネが表情を強張らせる。
「……霧の濃度が急激に上昇しています。エアルくん以外にも……“誰かの心”が暴走している」
ライルが街の奥を見据えながら言う。
「行きましょう。この街全体が危険です。エアルくんの事情も聞かねばなりません」
リュミエはエアルの手を握り、ゆっくりと立ち上がった。
「エアル……一緒に来てくれる?」
少年は涙の跡を残したまま、小さく頷いた。
「……うん……リュミエ……」
その声は弱いが、確かにリュミエを呼んでいた。
霧が揺れ、街の奥へと道が開く。
そこにはまだ、“誰かの心”が叫んでいる。
リュミエは胸に手を添え、深く息を吸った。
(助ける……エアルくんだけじゃなくて……この街の人も……)
(光をつなぐ。それが……私の役目だから……)
「行こう。まだ……助けを待ってる人がいる」
一行は霧の奥へと歩みを進めた。
少年エアルを連れ、新たな“光”と“影”の中心へ――。
霧の奥へ進むにつれ、街の静けさはさらに濃くなっていった。
建物の窓は閉ざされ、扉には鍵がかかり、家の中からは微かな気配しか感じられない。まるで住人たちが“自分の心の影”を恐れるあまり、外へ出られなくなっているようだった。
リュミエはエアルの手を握り、慎重に歩を進める。
(この街……本当に、心の悲鳴で満ちてる……)
(エアルくん以外にも……誰かが叫んでる……)
胸の光が弱く震え、霧の揺れと同調するように脈打つ。
そんな中、エアルが小さな声で口を開いた。
「……ぼく……この街、にがて……」
リュミエは優しく問いかける。
「エアルくん……ここで、何があったの?」
エアルは少し迷ったあと、小さく呟いた。
「……みんな……ぼくを見て……こわい、って……」
その言葉にゼクスが眉を寄せる。
「怖い?なんでだよ、こんなちっこい子に」
エアルは自分の胸をぎゅっと押さえた。
「ぼく……ものを触ると……ひかりがうつるの……壊れちゃうみたいに……」
リーネがはっと息を呑んだ。
「“感情伝導”……ですか?」
ライルが頷く。
「……光を持つ者には稀にある現象です。触れた相手の心を過度に揺らし、恐怖や不安が増幅されてしまうことがある」
リュミエはエアルの手を握る力をほんの少し強めた。
「エアルくんのせいじゃないよ。光は悪いものじゃない。怖がったのは……光を知らなかった人たちだよ」
エアルの瞳に小さな涙が浮かぶ。
「……でも……みんな、ぼくを見て……こわい、こわいって……」
(この街……エアルくんの光を“災い”だと誤解していたんだ……)
(だから……エアルくんは一人で震えてて……この霧に飲まれかけた……)
胸の光が痛むように脈打つ。
ルアナがそっと言葉を添える。
「エアルくん……それはね、あなたのせいじゃないよ。だって……誰も、“怖い”って言われるの、平気じゃないもん」
エアルは震えながらリュミエに身を寄せた。
「……リュミエ……ぼく……もういやだ……」
「大丈夫。ここから先は私が一緒だよ」
リュミエの言葉に、エアルの震えが少し落ち着く。
しかし――その時。
街の中央から、強烈な霧の渦が巻き起こった。
リーネが驚愕の表情で叫ぶ。
「霧が……暴走している!?これは……一人の心の揺れではありません!」
ゼクスが剣を構え、身を低くする。
「おいおい……また面倒な気配かよ……!」
ライルが鋭く指示を飛ばした。
「皆、警戒!リュミエさん、エアルくんを守ってください!」
霧の渦は次第に形を取り始めた。
家の影、街路の影、人の影――
たくさんの影が蠢きながらひとつに集まり、“巨大な心の塊”となって姿を現す。
歪み切った顔。
泣き叫ぶ声。
助けを求める腕。
それらが混ざり合い、恐怖の化物のような姿を形作っていた。
エアルが怯えて叫ぶ。
「いやぁっ!!あれ……ぼく、みたことある!!みんなが……ぼくを見て……こわいって言ったときの、声……!」
リュミエは彼を抱きしめた。
(この化物……街の人の“恐怖”……!)
(エアルくんの光に揺さぶられた街全体の心が……霧の中で暴走してる……)
影の化物が苦しげに叫び声をあげる。
その声は、人々の恐怖、混乱、そして後悔が混ざっていた。
――こわい
――ちがう
――でもしらない
――どうして
――いやだ
――ゆるして
無数の声が重なり、リュミエの胸に突き刺さる。
「……こんなに……苦しんでるの……」
ライルが霧の化物を睨み、前へ出ようとする。
「危険です。しかし、彼らを放置すれば街が――」
「待って!」
リュミエが叫ぶ。
「これは……倒す相手じゃない!この霧は……この街の人たちの心……!」
ゼクスが振り返る。
「じゃあどうするってんだよ!?このままじゃ襲われるぞ!」
リュミエは胸の光に手を当て、深く息を吸った。
(エアルくんだけじゃない……この街も……ずっと怖かったんだ……)
(光を知らないまま、ただ揺さぶられて……自分の影に飲まれそうになってた……)
胸の光が静かに輝く。
「……つながなきゃ」
その言葉にライルが目を見開く。
「つなぐ……?」
「エアルくんの光と……この街の心を。だって……みんな、本当は……誰かに“怖いよ”って言いたかっただけなんだもん……!」
リュミエは一歩、化物へと近づいた。
その背後で、ライルがすぐに支えられるよう構える。
「無茶はしないでください。しかし……あなたなら届くかもしれない」
リュミエは頷き、影の化物へ胸の光を向けた。
「みんな……怖かったよね……」
化物が叫び、霧がうねり狂う。
「でも……エアルくんだって、怖かったんだよ。知らない力が出て、どうすればいいか分からなくて……!」
霧が揺れ、化物の動きが一瞬止まる。
リュミエは続ける。
「ねぇ……逃げないで!あなたたちの声、ちゃんと聞くから……!」
その瞬間、胸の光が弾けるように広がった。
霧の白が淡い金色に染まり、街全体へと優しい光が広がっていく。
化物が震え、叫びながらしぼんでいく。
――こわい
――ごめん
――しらなかった
――ゆるして
最後の叫びを残し、霧の化物は霧そのものに溶けて消えた。
街の霧がゆっくりと薄くなり、静けさが戻る。
エアルは胸に手を当てたまま、小さくつぶやいた。
「……リュミエ……ぼく……すこし……あったかい……」
リュミエは微笑んで頷いた。
「うん……今、みんなの心が……エアルくんに“つながった”んだよ」
エアルの光がわずかに強くなる。
ライルは静かに呟いた。
「……あなたはやはり、“つなぐ光”だ」
ゼクスが大きく息を吐く。
「はー……死ぬかと思ったぜ……心の化物なんて初めて見たわ」
ルアナが笑うように涙を拭った。
「でも……よかった……街の人たち……救われたんだよね……」
霧が晴れた街の奥から、かすかな灯りが揺れた。
住人たちが、ゆっくりと家から出てくる気配がした。
リュミエはエアルの肩に手を置いた。
「エアル……行こう。あなたの光をちゃんと見てもらおうね」
「……うん……」
その瞳には、先ほどまでの恐怖ではなく、わずかに――希望の色があった。
リュミエの胸の光も、静かに、力強く応えていた。




