33
風裂きの谷を抜けた瞬間、空気は一変した。
谷の強烈な風が嘘のように静まり返り、代わりにひんやりと冷たい湿気が肌に触れる。空気は重く、湿った静寂が一行を包み込んだ。
目の前には、一面を満たす白い霧。
ゆっくりと揺れ、呼吸に合わせて脈を打つように膨らんでは縮むその霧は、ただの自然現象ではないとひと目で分かる異様さを放っていた。
(ここが……白霧の街……)
リュミエは胸に手を添えたまま、震えるような霧の気配を感じ取る。
胸の光は弱いが確かな揺れを見せ、まるで霧の中にいる“誰か”を探しているかのように、一定のリズムで明滅を続けていた。
「……静かですね」
ライルが霧の向こうを見つめながら呟く。
ゼクスが鼻を鳴らした。
「静かっていうより……気味悪ぃな。普通の霧ならもっと風に流されるもんだろ。こいつは“立ってる”」
リーネが淡々と観察を続ける。
「この霧は“心を映す霧”。外界核の力が濃く残った土地で起きる特異現象です。近くを歩く者の感情と反応し、時に映像のような形で幻影を生むことがあります」
ルアナがリュミエの腕を軽く握り、心配そうに見上げた。
「リュミエ、大丈夫?苦しくない?」
リュミエは胸の光の震えを確かめながら、小さく息を整える。
「……苦しいけど……まだ大丈夫。でも……霧の奥で、誰かの“心”がすごく揺れてる。怖がってる感じがするの」
「“光持ち”ですね」
ライルが静かに断言する。
「この霧の性質と胸の光の反応……間違いないでしょう」
リュミエは霧へと一歩踏み出そうとして、思わず足を止めた。
霧はただの白い薄布のように見えるのに――身体が触れようとすると、まるで意志を持つように“拒む気配”を感じた。
(怖い……)
(なんで……?霧なのに……こんな……冷たくて……)
胸の光が小さく跳ねる。
その恐怖に反応するように、霧の表面に薄い影が揺れた。
ぼんやりと、誰かの背中のような影。
泣き叫ぶように震える影。
助けを求めるように手を伸ばす影。
リュミエは息を呑む。
「……見える……」
ライルがすぐに反応し、前に立つ。
「何が見えるのですか、リュミエ」
「人……みたい……でも、違う……“心の影”……誰かの不安が形になってる……」
ゼクスが肩を引き締める。
「なるほどな。“心を映す霧”ってやつか。こっちの不安がミラーハウスみたいに映し出されるのかよ」
リーネが冷静に続ける。
「ええ。その影は実体を持ちませんが、心を揺さぶります。無視できません。最悪、自分の感情に飲まれて正気を失う場合もあります」
ルアナが手を握る力を強め、リュミエの腕に顔を寄せた。
「リュミエ、あんまり奥へ行かないでね。ここ……人の心が迷子になっちゃうところだから……」
リュミエの胸がきゅっと締め付けられた。
(怖い……でも……)
(この奥で……誰かが泣いてる……)
(助けを……求めてる……)
その瞬間、胸の光が強く脈動した。
「っ……!」
リュミエは胸を押さえながら、霧の奥を見つめる。
「ライルさん……行かなきゃ……!あの人……もう限界だよ……!」
ライルは迷いなく頷いた。
「分かりました。では、霧の中へ入ります。皆さん、心を強く保ってください」
ゼクスが大きく息を吐いた。
「しゃーねぇ。行くか。こんな霧にビビってられるかよ」
リーネは杖を掲げ、小さな魔法の光を灯した。
「最低限の視界は確保します。ですが、霧が強い場合はすぐに吸収されます。油断しないでください」
ルアナはリュミエの手をしっかり握って微笑む。
「大丈夫。みんな一緒だよ。ひとりぼっちじゃないから」
その言葉にリュミエは胸の震えが少し和らぐのを感じた。
(うん……ひとりじゃない……)
(私だって……ずっと怖かった……)
(でも今は……みんながいる……)
「……行こう」
リュミエは霧の中へと最初の一歩を踏み入れた。
足が霧に触れた瞬間、世界の音がすべて消えた。
風の音も、仲間の声も、草のざわめきも、全てが……消えた。
霧の中は、まるで水の中にいるような静寂だった。
「……っ……!」
リュミエの身体が震える。胸の光が強く反応し、周囲を照らす。
だが、その光の中で――霧がゆっくり形を取り始めた。
影。
涙。
震える両手。
何かに怯えて後ずさる小さな姿。
(こんな……小さい……子……?)
霧の影は幼い子どもの姿へと変わり、胸を抱えて震えている。
リュミエの胸が痛む。
「……怖いの……?」
影は顔を上げない。ただ震え続ける。
その震えが、胸の光へ直接伝わってくるようだった。
(この子じゃない……この“影”の元になっている本人が……どこかにいる……)
(この影はその人の“心のくるしさ”……)
リュミエはその影へ一歩近づこうとした。
――その瞬間。
空間の奥から、鋭い叫びが響いた。
「来るなぁぁぁあああああ!!」
霧が激しく揺れ、影が一気に弾け飛んだ。
背筋が凍る叫びだった。恐怖でも怒りでもない――絶望から絞り出された声。
リュミエは息を呑む。
(この声……!)
(この人が……“光持ち”……!?)
胸の光が、今までにないほど強く、痛いほどに脈動した。
「みんな……!この先に……!」
リュミエが振り向きかけたその瞬間――霧が裂け、黒い影が突風とともに飛びかかってきた。
「っ――!」
リュミエの身体が咄嗟に後ろへ跳ねる。
影は悲鳴のような風を撒き散らしながら目の前に姿を現した。
その形は、人間にも獣にも見える。
だが何よりも異様だったのは、その瞳――
霧の色と同じ真っ白な瞳が、恐怖と狂乱に染まっていた。
リュミエは確信した。
(この人が……光を持つ者……!)
(でも……心が壊れかけてる……この霧のせいで……!)
影が凄まじい叫びをあげ、リュミエへ飛びかかってくる。
その一瞬、胸の光が弾けるように輝いた。
「やめて……!」
光が霧へ広がり、影の動きがわずかに止まる。
その隙に――後方からライルの叫びが響いた。
「リュミエ!!」
霧の中に響いたライルの声は、まるで途切れそうな光をつなぎ止めるように強く鋭かった。
リュミエは反射的にその声の方向へ身を向けようとした。しかし、その一瞬の隙を突くように、影が再び襲いかかってくる。白霧の濃さで輪郭が歪み、怒りと恐怖が混ざった叫びが霧気を震わせた。
(来る……!)
影の手が伸び、爪のような形をつくり、リュミエの心そのものを掴もうとするように迫ってきた。
リュミエは胸の光が激しく脈打つのを感じた。
(やめて……この人は……本当は……!)
影の瞳は真っ白で、意思も理性もすでに霧に蝕まれている。怯え、泣き叫び、何かにすがりたい気持ちが混ざり合い、形を失った心の暴走そのものだった。
リュミエは恐怖に震えながらも、そっと手を伸ばした。
「待って……!」
影が一瞬だけ動きを止める。
胸の光が淡く広がり、影の身体を包む。
光は優しく、温かく、触れられることを拒む者の心へそっと寄り添うように揺れた。
その瞬間、影の奥から微かな声が聞こえた。
――こわい
――だれも
――たすけてくれない
――いやだ
――さむい、さむい
その声は小さな子どもの泣き声のようで、必死に助けを求める叫びのようでもあった。
(この声……この人……本当に、ずっと一人で……怖かったんだ……)
「大丈夫……もう一人じゃないよ……」
リュミエがそう語りかけた瞬間――
影は激しく震え、今度は苦しげな叫びをあげた。
「う……あ……あああぁぁぁぁ!!」
霧が爆ぜるように舞い上がり、影が暴走する。
「リュミエ!!」
濃い霧を裂いてライルが飛び込んできた。
その瞬間、リュミエの背後に腕が回され、強く抱き寄せられる。
風を切る音と同時に、影の爪がライルの背を掠める。
「っ……!」
「ライルさん!!」
悲鳴にも似た声がリュミエの喉から漏れる。
しかしライルは痛みに顔を歪めながらも、リュミエをしっかり守るように身体を盾にした。
「大丈夫……この程度……問題ありません」
そう言う声は震えもせず、ただリュミエを安心させるために整えられた声音だった。
(どうして……どうしてこんな……私のせいで……)
胸の光が悲しげに揺れる。
そのとき、ゼクスとリーネ、ルアナの姿が霧をかき分けるように現れた。
「ライル!おい、生きてるか!」
「負傷しています!リュミエさんから離れて治療を――」
「ちょっと待って!!あれ……まだ来るよ!!」
ルアナが叫ぶ。
影が再び立ち上がり、霧を巻き込みながら形を変える。人型の輪郭がますます崩れ、まるで黒い風そのものが渦を巻いているかのようだった。
その中心から漏れ出るのは、先ほどとは比べものにならないほど強烈な“悲鳴”。
――いやだ
――さびしい
――たすけて
――こわい、こわい、こわい!!
リュミエは胸を押さえて膝をつきそうになる。
(苦しい……この気持ち……分かる……分かるよ……私もずっと……助けてほしかった……)
胸の光が呼応し、痛みのように脈を打った。
ライルがリュミエの肩に手を置く。
「リュミエ。あなたでなければ……この人は救えません」
リュミエは揺れる視界の中でライルを見つめた。
「でも……私、怖い……この人の心が全部押し寄せてきて……自分が消えそうで……!」
ライルは静かに首を振った。
「いいえ。あなたは消えません。あなたは“光をつなぐ者”。誰かの闇に触れても、自分の光を見失わない。私はそれを知っています」
その言葉は、霧の中で唯一確かな道標のように響いた。
リュミエの心が揺れる。
(どうして……そんなふうに信じられるの……)
(私はずっと……弱くて……)
するとライルはわずかに微笑んだ。
「あなたが、何度も私たちを救ってくれたからです」
胸の奥に熱が広がり、涙が滲む。
影が再び突風を巻き起こし、襲いかかってくる。
その瞬間、リュミエは立ち上がった。
「もう……やめて!!」
胸の光が爆発するように輝いた。
霧の白が一転し、黄金色の波となって一帯に広がる。
影の動きが止まり、霧そのものが震えた。
リュミエは影へ向かって手を伸ばし、叫ぶ。
「孤独だったよね……怖かったよね……!でも、もう一人じゃないよ……!」
影が震え、その奥でかすかな人影が見えるようになっていく。
泣き声。
震える肩。
小さく丸まった背中。
「あなた……ずっと、助けを呼んでたんだね……」
リュミエがそっと手を差し伸べる。
霧がその手に吸い寄せられるように集まり、影の形が崩れていく。
そして――霧の中から一人の少年が倒れるように姿を現した。
白い髪、細い体、怯え切った瞳。
リュミエの胸の光が柔らかく明滅する。
(この人が……“光持ち”……)
少年の胸にも、うっすらと光が揺れていた。ただし、その光はひどく弱く、今にも消えてしまいそうだった。
「大丈夫……もう大丈夫だよ……」
リュミエが膝をつき、少年の手をそっと握った。
冷たい。
震えている。
そして、泣いていた。
少年の瞳に、リュミエの姿が映る。
「……たすけて……」
か細い声が霧の中に溶けた。
リュミエは強く頷いた。
「うん。助けるよ。あなたは一人じゃないから」
胸の光が少年の光へ触れ、二つの光が共鳴するように淡く揺れた。
霧が静かに晴れはじめる。
白霧の街の中心で――
新しい“光”が確かにリュミエへつながった。




