3
翌朝、村を発ってから二日。
勇者一行は、再び大きな街道を南へと進んでいた。
目的地は、交易と工業で知られる都市国家トランゼ。
そこには王国直属の奴隷市場があり、勇者への正式な報告と補給を行う予定だった。
王国の命令書には“通過の際は市場の安全確認を行え”と書かれている。
ライルはそれを見て、内心で眉をひそめていた。
安全確認という言葉の裏には、常に人間の都合が隠れている――それを、彼は嫌というほど知っていた。
◇◇◇
昼過ぎ、街の石門をくぐった瞬間、ミナが息をのんだ。
通りの両側には立派な建物が並び、人々が行き交う。
だが、彼女の目にまず映ったのは、広場の片隅に設けられた鉄柵の囲いだった。
中には、首輪をつけた男女が整列している。
鎖に繋がれた手首。
無表情の目。
「……なに、これ」
ミナの声は、風にかき消されるほど小さかった。
けれど、そこにあった震えをライルは聞き取った。
「勇者様、ここは王国認可の奴隷市場です」
「奴隷……?」
「この国では、犯罪者や債務者が労働契約の代償として身を売る制度があります。違法ではありません」
ミナの表情が変わった。
言葉にならない怒りが、その小さな肩に宿る。
「人を……売ってるんですか」
「売買ではなく、労働契約です」
「どこが違うんですか!」
その声は通りに響き、周囲の人々が振り向いた。
商人たちの笑い声が止まり、空気が重くなる。
ライルは即座に彼女の腕を取った。
「勇者様、声を抑えてください。ここで波風を立てれば、衛兵が出ます」
「だって、間違ってる!」
「正しいか間違っているかは、時と場所で変わります」
「そんなの、理屈のすり替えです!」
彼女の瞳がまっすぐにこちらを射抜く。
ライルは一瞬、言葉を失った。
たしかに、彼女の言う通りだ。
誰かが涙を流す制度を“当然”と呼ぶことに、正義などない。
しかし、この国の仕組みを一日で変えることなど不可能だ。
それが“現実”だった。
「勇者様、あなたはこの世界を救う存在です。ですが、今ここで騒げば――誰も救えなくなります」
「……っ」
ミナは唇を噛みしめた。
その表情には、理解ではなく“納得できない悔しさ”が刻まれている。
彼女は静かに鉄柵の中の人々を見つめた。
その中のひとり、小さな少年が、弱々しく笑って彼女に頭を下げる。
“見ないでほしい”――そう訴えるような微笑みだった。
ミナの拳が震えた。
ライルは彼女の肩に手を置く。
「……この世界は、簡単に正義を許してくれません」
ミナは何も言わず、ただその手を振り払った。
◇◇◇
その夜。
宿屋の灯りが落ちたあと、ライルは気配を感じて目を覚ました。
扉の隙間から、ひとりの影が抜け出していく。
「……勇者様」
彼は小声で呟き、すぐに防御魔道具を身につけて後を追った。
夜の通りを駆ける足音は軽い。
向かう先は、昼間の奴隷市場だった。
闇の中で、鉄柵を前に立つミナの姿が見える。
周囲を見張る衛兵の気配。
どうやら、奴隷たちを解放しようとしているらしい。
ライルは息を呑んだ。
「勇者様、やめてください」
低い声が夜を裂く。
ミナが振り返った。
「……見てたんですか」
「見てなければ、今ごろあなたは牢の中です」
「彼らは、悪いことをしたわけじゃないんです! 飢えて、借金して、ただ生きようとしただけ!」
「それでも、この国の法はそう定めています」
「法よりも人の命の方が大事でしょ!」
ライルは一歩、彼女に近づいた。
焚き火の残り火が、彼の瞳を赤く照らす。
「勇者様。あなたの行動は崇高です。けれど、それは“無謀”でもあります」
「それでも……見捨てられません」
「では、あなたが彼らを逃がしたとして。その後はどうなります?」
ミナは言葉を詰まらせた。
ライルの声が静かに続く。
「鎖を断ち切っても、追手は出ます。
逃げた者は罪人として処刑され、あなたは反逆者として指名手配される。
――そして、誰も救われません」
沈黙が落ちた。
風が柵を揺らし、鎖の金属音が寂しく鳴る。
ミナはゆっくりと膝をつき、うつむいた。
「……じゃあ、どうすればいいの」
「簡単です。強くなってください」
「え?」
「力と影響力を得てください。あなたが世界を動かせるほどの存在になれば――この理不尽を変えることができる」
ミナは顔を上げた。
その瞳に涙が浮かぶ。
だが、そこには迷いのない光も宿っていた。
「……分かりました。じゃあ、強くなります」
「いい覚悟です」
「でも、そのときは――ライルさんも一緒に戦ってくれますか?」
「……俺は戦えません」
「じゃあ、隣で見ててください。絶対、変えてみせますから」
ライルはその言葉を聞いて、小さく笑った。
“無謀”ではある。だが、その愚直さが――どこか羨ましかった。
「了解しました。勇者様。あなたが道を踏み外さぬよう、俺が隣で監視します」
「うん、それでいいです」
ミナが小さく笑う。
その笑みは、夕暮れよりも強く、夜明けよりも優しかった。
◇◇◇
翌朝、ライルが目を覚ますと、宿の外は賑わっていた。
どうやら市場の一角で、鎖の壊れた檻が見つかったらしい。
奴隷たちは逃げ出していなかったが、柵の鍵がひとつ、なぜか“錆びて外れていた”。
ミナが何気なく朝食のパンを齧りながら、言った。
「不思議ですね、錆びてたみたいですよ」
「……偶然でしょう」
「偶然、ですかね?」
ライルはパンを口に運び、黙った。
彼女が何をしたのか、深くは聞かない。
だが確かに――彼女の中で“何か”が変わり始めていた。
それは、ただの理想ではなく、“この世界で生きる覚悟”だった。
ライルは湯気の立つスープを見つめながら、心の中で呟いた。
「勇者様。あなたの正義はきっと、誰かの救いになる」
そして同時に、胸の奥に小さな不安が芽生える。
――いつかその正義が、世界の秩序と衝突するとき、彼女を止められるのは誰なのか。
彼の手が、カップの取っ手を強く握った。
その痛みは、現実を確かめるように静かで鋭かった。
王都へ戻る道のりは、静かだった。
ミナは馬車の窓から流れる景色を見つめ、何も言わない。
街道沿いの風は心地よいが、空気の奥にどこか張りつめた気配がある。
――彼女はまた何かを背負おうとしている。
ライルには、それが手に取るように分かった。
村での事件、奴隷市場の出来事。
そのすべてが、彼女の心を確実に変えていた。
かつての無邪気さは薄れ、代わりに静かな決意が宿りつつある。
それは悪い変化ではない。だが、彼女が“戦うこと”を覚えてしまうのが――少しだけ怖かった。
◇◇◇
王都に到着すると、城門前には大勢の人々が集まっていた。
勇者の帰還を祝う群衆の歓声が、広場いっぱいに響く。
ミナは思わず目を丸くし、ライルの袖を引いた。
「……わたし、なんか、有名になってません?」
「勇者様ですから」
「いや、でも私まだ魔王どころか、ゴーレム一体しか……」
「それでも“救世の少女”という肩書は人々に希望を与えます」
その“希望”という言葉を聞いた瞬間、ミナの表情が少しだけ曇った。
彼女にとって希望とは、人を救いたい願いの象徴である一方、
その裏で多くの“救えない人々”を見てしまったばかりだった。
「……希望って、難しいですね」
「難しいからこそ、価値があるんです」
王城の門が開くと、騎士たちが整列し、国王が姿を現した。
重厚なマントを翻しながら、彼は笑顔でミナを迎える。
「勇者よ、よくぞ戻った。そなたの働きは王国中に伝わっておるぞ」
「は、はあ……」
「我が臣民を救ったその勇気、まことに見事。
礼として、勇者一行に報奨金を下賜しよう」
周囲の拍手が鳴り響く。
だが、ミナの視線はその背後――王の傍らに立つ一人の官僚へと向けられていた。
奴隷市場の運営を統括する高官。
昼間、彼が監督していた場所で、人々は鎖に繋がれていた。
ミナの拳がわずかに震えた。
ライルはその動きを見逃さない。
そして、彼女の前に一歩進み出て、頭を下げた。
「陛下。勇者様は長旅でお疲れです。詳細な報告は後日に」
「ふむ、そうか。では休息を取るがよい」
王が頷くのを見届けて、ライルは彼女を連れ出した。
広場を抜け、静かな中庭に入る。
人の目がなくなると同時に、ミナが小さく息を吐いた。
「……止めてくれて、ありがとうございます」
「止めたというより、先に読めただけです」
「やっぱり、顔に出てました?」
「ええ。戦う時よりもずっと、怖い顔をしていました」
ミナは苦笑したが、すぐに真剣な表情へ戻る。
「ライルさん、私……やっぱり間違ってないですよね?」
「何を、です?」
「この世界の仕組みを、変えたいって思うことです」
「それは勇者様の使命ではありません」
「でも、“救う”ってそういうことじゃないですか?」
ライルは答えず、空を見上げた。
夕暮れが金の光を街に落とし、王都の塔が影を伸ばしている。
「救う、という言葉は、危ういものです」
「危うい?」
「誰かを救うために、誰かを踏みつけてしまうことがある」
「……それでも、見捨てるよりはいい」
「そうですね」
彼の口元がわずかに緩む。
その微笑みには、諦めでも冷笑でもなく、静かな肯定があった。
「なら、俺は支えます」
「え?」
「あなたがどんな選択をしても、俺はそれを支える。
それが“支える者”の役目ですから」
ミナの目が大きく見開かれた。
頬を紅潮させ、言葉を失う。
――支える。
それは、彼にとってただの職務であり、彼女にとっては初めての“信頼”だった。
◇◇◇
その夜。
城下町では、勇者の帰還を祝う祭りが開かれた。
通りに灯がともり、人々が歌い、踊る。
ライルは屋台の脇で、静かに杯を傾けていた。
隣では、串焼きを頬張るミナが満足そうに笑っている。
「うーん、これおいしい! やっぱり焼きたてが最高ですね」
「勇者様、口の周りにソースが……」
「え? あっ、やばい!」
「……ほら」
ライルがハンカチを差し出すと、ミナは少し照れくさそうに受け取った。
「ライルさんって、ほんと面倒見いいですよね」
「職業柄、癖みたいなものです」
「でも、それだけじゃない気がします」
「どういう意味です?」
「なんか……いつも私のこと、ちゃんと見てくれてる感じがするんです」
ライルは一瞬、視線を逸らした。
その言葉に、心臓の鼓動がわずかに速くなる。
「見ていないと、あなたはどこへでも飛び込むでしょう」
「ふふっ、図星ですね」
ミナの笑顔が夜の灯りに照らされる。
その横顔を見て、ライルは思った。
――ああ、この子は本当に“勇者”なんだ。
無鉄砲で、危なっかしくて、それでも世界の理不尽に正面から挑む。
そんな存在を、誰が支えられるというのか。
たぶん、彼しかいない。
◇◇◇
祭りが終わる頃、王都の外れで爆音が響いた。
兵士たちが慌ただしく走り出す。
ライルとミナもすぐに駆けつけると、そこには暴走した魔獣の群れがいた。
商人の護送車が襲撃され、衛兵が倒れている。
ミナは即座に前へ出た。
「ライルさん、下がって!」
「待ってください、無計画に突っ込むのは――」
言い終える前に、ミナは光をまとって跳躍した。
剣を振るう。光が閃き、魔獣の頭部が爆ぜる。
圧倒的な力。
だが同時に、その魔力の波動が周囲の結界を破壊し始めていた。
「くっ、また暴走の兆候が――!」
ライルはアイテムボックスを開き、古代魔導の防御札を取り出した。
手の甲に魔力を流し込み、周囲に結界を展開する。
魔力を流しすぎれば、自分の神経が焼ける。
それでも、彼は手を止めなかった。
暴走しかけた光が、結界にぶつかる。
その瞬間、激しい閃光が夜空を裂いた。
爆音の後、すべてが静まり返る。
結界の中心で、ミナがうずくまっていた。
彼女の腕には傷跡、頬には血。
だが生きていた。
「……間に合った」
ライルはその場に膝をつき、安堵の息を漏らした。
ミナは震える唇で言った。
「また、助けられちゃいましたね」
「仕事ですので」
「もう……そういう言い方、ずるいですよ」
涙と笑いが混じった声。
ライルはその頭を軽く撫でた。
「俺の結界は、勇者様専用ですから」
「え、なにそれ……特別みたいで、嬉しい」
微笑みながら、彼女は目を閉じた。
遠くで、夜明けの鐘が鳴り始める。
その音を聞きながら、ライルは静かに呟く。
「……勇者様。あなたを守るこの役目が、悪くないと思えてきました」
夜の闇が薄れ、東の空がわずかに明るむ。
旅の始まりからわずか数週間。
それでも二人の間には、確かな信頼の灯が灯っていた。
“戦う勇者”と“支える者”。
――その絆こそが、これから訪れる長い戦いの礎となるのだった。




