21
鳥のさえずりが、夜明け前の空気を震わせていた。
泉の水面には薄い霧が漂い、
焚き火の残り火がかすかに赤く瞬いている。
ミナは毛布の中で身じろぎし、
ゆっくりと瞼を開いた。
「……ん……朝……?」
視界に映ったのは、
薄橙色に染まり始めた空と、
焚き火の向こうで静かに立つライルの背中だった。
風で揺れる黒髪。
腰に下げた防御魔道具の青い輝き。
背筋の曲がらない、細身の頼もしさ。
ミナは寝起きのぼんやりした頭のまま、
その背中にじんわりと胸が温かくなるのを感じた。
(……昨日のこと……夢じゃない……
ライルさんが守ってくれて……
ゼクスさんも助けてくれて……
私……生きてる……)
胸の光が小さく灯り、
心音と重なるようにやわらかく揺れる。
◇◇◇
そばでは、ゼクスが木の根に背を預けて眠っていた。
珍しく深い眠りのようで、
彼の短剣は手の届く位置に置かれたまま、
無防備とまではいかなくても、
普段よりは緩い警戒だった。
ミナはそっと呟く。
「ゼクスさん……疲れてたんだ……」
昨日一日、彼は二人を逃がすために走り、戦い、
崖道の終点でも追手を撒くため動き続けていた。
ミナは胸の前で小さく手を握った。
(守ってくれる人が……こんなに近くにいる……
それだけで……こんなに安心できるんだ……)
◇◇◇
その時。
ライルが音もなくミナの方へ目を向けた。
「……おはようございます、ミナ」
ミナは肩を跳ねさせ、
自分の胸がドキッと高鳴るのを感じながら返す。
「お、おはようございます、ライルさん……!
……あ、あれ、もう見張り……交代になってませんでしたか……?」
ライルは微笑む。
「いえ。
ミナがぐっすり眠っていたので、起こしたくなくて」
ミナの頬が一気に赤くなる。
「そ、そんな……!
ライルさんだって疲れてるのに……!」
ライルは静かに首を振った。
「あなたの顔が安らかだと……
それだけで、俺は休めている気がします」
ミナの心臓が跳ね上がる。
(そんな……そんな優しいこと言われたら……
胸が……苦しい……)
胸の光がふわりと揺れる。
◇◇◇
その一方で。
彼らの会話とは別の場所――泉の対岸で、
草むらが微かに揺れていた。
ライルが気づく。
「……?」
表情がわずかに硬くなる。
ミナが不安げに寄る。
「ライルさん……何か……?」
ライルは手で制し、耳を澄ませた。
「足音……軽い……
魔獣ではありません。人の気配です」
ミナの顔が青ざめる。
「騎士団……!?」
「いえ。足取りが違います……近づいてきます」
ミナがぎゅっと胸を押さえたその瞬間――
草をかきわけ、
一人の影が姿を現した。
◇◇◇
ミナは息を呑んだ。
現れた人物は、小柄な女性。
深緑色のフードコートを羽織り、
腰には何本もの巻物と魔法具、
背中には小ぶりの杖。
目元は穏やかで、どこか影のある微笑み。
女性は二人から距離を取ったまま、
丁寧に会釈した。
「……お騒がせしてしまいましたね。
おはようございます、勇者さま」
ミナは完全に警戒態勢に入り、
ライルの背へ隠れ込むように立つ。
「え、えっと……あなたは……?」
女性は胸元に手を当て、静かに名乗った。
「私は《ルノワ支部・情報屋》の
リーネ・アスターと申します」
ミナが驚き、ライルも眉をひそめた。
「ルノワ支部……ゼクスさんと同じ……?」
リーネは優しく微笑む。
「はい。ゼクス様から連絡を受けて、
あなた方を迎えに参りました」
◇◇◇
その時、
寝ていたはずのゼクスが影のように立ち上がった。
「……お前か。
来るのが早ぇよ」
ミナは驚いて声を上げる。
「ゼ、ゼクスさん!? 起きてたんですか!?」
ゼクスは眉間を押さえ、
面倒くさそうにリーネを睨む。
「リーネ……なんで来た。
迎えは昼頃でいいって言ったろ」
リーネは悪びれもせず言った。
「えぇ。それが、王都側の動きが少し早くて。
安全を確保するため、急ぎました」
ゼクスは舌打ちした。
「チッ……マジかよ。
あいつら、もう森を抜けたのか?」
リーネは首を横に振る。
「いえ。森の外れに“精鋭隊”を配置しています。
特に……勇者確保のために新たな指揮官が来ています」
その言葉に、空気が一気に張り詰めた。
ミナは震える声で尋ねた。
「……し、新しい指揮官……って……誰……?」
リーネは一瞬だけ言葉を迷わせた後、
静かにその名を告げた。
「――王都直属特務隊《黒鷲》
隊長、レオニス・アークライト」
ミナの背筋が凍りついた。
「レオニス……
レオン隊長の……兄……?」
ライルの顔も険しくなる。
ゼクスが短く吐き捨てた。
「レオンより遥かに厄介だ。
戦闘力も、頭も、冷徹さも、全部あいつのほうが上だ」
ミナの胸の光が大きく揺れた。
(まだ……追ってくるの……?
まだ私を……捕まえに……?
どうして……私の意思を見てくれないの……)
怖さと悔しさと悲しさが胸に押し寄せる。
ライルはミナの手を取って、
揺れる光をそっと包み込む。
「ミナ……大丈夫です。
俺たちがいます」
ミナは涙をこらえながら頷いた。
リーネは穏やかな声で告げる。
「ここにいては危険です。
ゼクス様と私がご案内しますので……
すぐに移動を始めましょう」
ミナは揺れる胸の光を押さえ、
怖さを抱えながらも言った。
「……はい……
行きます……」
朝の光が三人と一人を照らし、
逃避行の新しい一日が始まった。
朝日が森の端を照らし、
草原に淡い光の筋が伸びていく。
泉のほとりで荷物をまとめた三人と一人は、
ゼクスの短い合図で歩き出した。
「急ぐぞ。
黒鷲が森を半包囲してる。
このままじゃ昼前に追いつかれる」
リーネが補足するように言う。
「森の南側に、安全なルートがあります。
そこに、私たちの“拠点”があります」
ミナはライルの袖をそっと掴み、
不安と期待が入り混じった声で尋ねた。
「拠点……って……本当に安全なんですか……?」
リーネは優しく頷く。
「ええ。
王都騎士団の探知網から外れた場所です。
表向きは“薬草屋”ですが、
本来はルノワ支部の“避難所”として機能しています」
ミナは少し安心したように、胸の光をおさえた。
(よかった……
少しだけ……呼吸ができる場所があるんだ……)
◇◇◇
四人は森の縁を歩きながら、
小さな丘陵を越えていく。
風は心地良いが、
空気には緊張の粒が混じっている。
ゼクスは前方を警戒し続け、
ライルはミナの歩幅に合わせながら周囲を見張る。
リーネは地図の巻物を開いて確認している。
その慎重な歩みの中で、
ミナはひとつの疑問を口にした。
「その……黒鷲って……強いんですか……?」
ゼクスが足を止めずに答える。
「戦闘力は王都最強。
勇者の補佐と“管理”を任される部隊だ」
ミナの背筋が震えた。
「じゃあ……
私を、無理矢理にでも連れ戻すつもり……?」
リーネは静かにミナを見る。
「勇者さまは“国の柱”ですから。
正しく扱われれば宝……
間違って扱われれば、兵器として扱われる」
ミナの目が揺れた。
(……兵器……
そんな風に呼ばれたくない……
私は……ただの人間なのに……)
ライルはその目の揺れを見逃さず、
歩きながらミナの手を取った。
「ミナ。
あなたは兵器ではない。
あなたは……ミナ・カミシロという一人の少女です」
ミナの胸が熱くなる。
胸の光がほんの少し弾むように揺れた。
◇◇◇
やがて、森の南側へ入る細い道へ差し掛かった。
リーネが先頭に立ち、
ゼクスが殿を務める形で進んでいく。
森の木々は高く生い茂り、
陽の光を細かく分けて地面へ落としている。
鳥のさえずりも徐々に少なくなり、
静寂が深くなる。
その沈黙を破るように、
ゼクスが低く呟いた。
「……ついてきてるな」
ミナとライルが振り返る。
「え……?」
「敵……ですか?」
ゼクスは短剣に手を添えたまま、
周囲を睨んだ。
「足音はねぇ。でも……
“目”で追われてる感覚がある。
黒鷲の連中は隠密もできるからな」
ミナは胸を押さえる。
「そんな……もう見つかって……?」
リーネが冷静に言う。
「黒鷲は“探知”が専門ではありません。
今はまだ、位置を特定されてはいません。
気配を追われているだけです」
ライルはミナを庇うように前へ出て、
きっぱりと言った。
「なら……急ぎましょう。
ミナを捕まらせるわけにはいきません」
ゼクスも続く。
「安心しろ。
黒鷲は正面から来る奴らじゃねぇ。
斥候が先に動いてるだけだ」
ミナは深く息を吸い、
ぎゅっと両手を握った。
(こわい……
でも……逃げるだけじゃなくて……
自分で立って進みたい……!)
胸の光がゆらりと灯る。
ゼクスがちらりとミナを見て、
ぼそっと言った。
「……光がぶれると、敵に位置を読まれる。
落ち着けよ、勇者」
ミナはびくっとして、慌てて謝る。
「ご、ごめんなさい……!
落ち着きます……!」
ミナの返答に、ゼクスは小さくため息をつく。
「……素直なのは良いけどよ、緊張すんな。
俺らが一緒だろ」
その言葉は不器用だったが、
ミナの胸には強く響いた。
◇◇◇
森の影が深まっていくにつれ、
リーネが突然立ち止まった。
「……着きました」
ミナとライルは目を見開いた。
そこは森の一角。
ただの茂みしかないように見える。
だが――
リーネが手元の巻物を広げ、
小声で呪文を唱えると、
――空気がふっと揺れ、
茂みの奥から古い木造の建物が姿を現した。
「わぁ……!」
ミナの目が輝く。
ゼクスはあくびをひとつして言った。
「ようこそ。
ルノワ支部の避難所《アトラの隠れ家》だ」
リーネが続ける。
「ここでしばらく身を隠せます。
勇者さま……どうか、お疲れを癒してください」
ミナの胸の光が、
安心したようにやわらかく明滅した。
ライルはミナを見て微笑む。
「ミナ……
やっと……休めますね」
ミナの目に涙が浮かんだ。
「ライルさん……ゼクスさん……リーネさん……
本当に……ありがとうございます……!」
リーネは優しく答えた。
「さぁ、中へ。
入ればわかりますが……
ここはただの避難所ではありません」
ミナは首を傾げた。
「え……どういう……?」
ゼクスが短剣を腰へ戻し、
ミナへだけ視線を向けて言った。
「ここには――
“お前たちを待ってた奴”がいる」
ミナの胸が大きく脈打つ。
(わたしたちを……待ってた……?)
ミナの光が、静かに揺れた。
そして――
四人は《隠れ家》の扉をくぐった。
その先で、
ミナたちを“見守る者”との運命が動き始める。




