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バルストの町を発って二日後。
勇者一行は、山間の小さな村に辿り着いた。
草の匂いが濃く、森を抜ける風に混じって、獣の匂いがする。
「ここが依頼のあった村か……」
ライルは地図を確認し、村長の家へと向かう。
彼らが受けたのは、村を襲う魔獣退治の依頼だった。
とはいえ、詳細な情報はない。
何が相手なのか、被害の規模も不明。
勇者パーティの初任務にしては、あまりに曖昧すぎる内容だった。
「勇者様、まずは状況の聞き取りを――」
「うん! 任せて!」
ミナは元気よく答え、村長の家の扉をノックした。
出てきたのは、腰の曲がった老人だった。
「おお……お主らが勇者様か。ありがたい、ありがたい……」
その手は震えており、目の下には深い隈がある。
ライルが簡潔に質問を重ね、被害状況を把握していく。
どうやら、夜になると畑を荒らす巨大な影が現れ、家畜を喰らうという。
人間の犠牲者も、すでに二人。
「恐らく、中型以上の魔獣だな」
「倒せばいいんですね?」
ミナは軽い調子で言うが、ライルは険しい顔をした。
「夜行性の獣が相手です。姿を見ないまま突っ込むのは危険すぎます」
「でも、放っておけないでしょ?」
ミナの声には迷いがなかった。
老人の震える手を見つめ、拳を握りしめている。
ライルは息を吐いた。
こうなると、もう止めても聞かないのは分かっている。
「……せめて罠と結界を張ってからにしましょう。敵の出現位置を絞るんです」
「分かりました!」
◇◇◇
夜が訪れた。
月のない暗闇の中、森の影が不気味に蠢く。
ライルは結界石を地面に埋め、結界を展開する。
その中心でミナが剣を構えた。
突如、地面が震えた。
木々がざわめき、草を踏み割る音が近づいてくる。
闇の中から現れたのは、岩のような体を持つゴーレム。
土と魔力でできた、暴走型の魔獣だった。
「でかっ……! あれ、倒せるの!?」
「勇者様、落ち着いて! 攻撃は俺の合図を待ってください!」
ライルが叫ぶより早く、ミナは踏み出していた。
彼女の周囲に青白い光が集まり、瞬く間に大気が震える。
「――《ディバイン・ブレイク》!」
閃光が走り、森の一角が吹き飛んだ。
ゴーレムの腕が砕け、粉塵が舞う。
しかし、その威力は制御を超えていた。
魔力の奔流が暴走し、ミナの足元の地面が裂ける。
「きゃっ……!」
「勇者様!」
ライルは駆け寄り、携帯していた防御魔道具を展開。
淡い光の膜が彼女を包み込み、飛び散る魔力を弾いた。
その瞬間、彼の防御結界が軋む音を立てる。
結界を維持するたびに、腕に激痛が走った。
「……ライルさん! 離れて!」
「無茶を言うな。勇者様を放って逃げたら、俺の職務放棄だ」
結界が割れる寸前、ミナが震える手で印を結ぶ。
「お願い……止まって……!」
光が一瞬にして収束し、暴走は静まった。
倒れ込むミナを支え、ライルは息を吐く。
「だから言ったでしょう。無理をするなと」
「……でも、助けなきゃって、思って……」
「その気持ちは、立派です。けれど、次は俺にも相談してください」
涙を浮かべる少女に、ライルは静かに微笑んだ。
背後では、崩れ落ちたゴーレムの残骸が静かに光を失っていく。
◇◇◇
翌朝。
村人たちは安堵の声を上げ、ミナを囲んで感謝を述べた。
彼女は照れくさそうに笑いながらも、視線はどこか遠くを見ていた。
「……ライルさん」
「はい」
「私、怖かった。自分の力が、どうなるか分からなくて」
「怖いと思えるうちは、まだ大丈夫です」
彼は穏やかに言った。
「本当に恐ろしいのは、恐れを忘れることですから」
その言葉に、ミナは小さく頷いた。
――この旅は、ただの魔王討伐ではない。
それぞれが、自分の“弱さ”と向き合う旅になる。
ライルは朝焼けに染まる空を見上げ、心の中でそっと呟いた。
「勇者様。どうか、無茶だけはなさらないように」
そして次の瞬間。
彼の背後で、ミナが元気な声を上げた。
「ライルさん! 村の子供たちに“かくれんぼ”誘われました!」
「……今ですか」
「うんっ! 朝活って大事ですよ!」
ライルのため息が、朝の風に混ざって消えていった。
◇◇◇
夜の森は静まり返っていた。
焚き火の赤い光がゆらゆらと揺れ、パチリ、と薪が弾ける。
その音が、昼間の戦いの余韻をかすかに思い出させる。
ライルは焚き火のそばで、割れた防御結界具を手にしていた。
魔力の過負荷で焦げた金属片は、もう再使用できない。
だが、彼はそのひび割れた欠片を指先で撫で、静かに息を吐いた。
「……命の方が、よく持ったものだな」
勇者の暴走魔力に包まれたあの瞬間、あと一歩でも遅れていれば、自分も少女も焼き尽くされていただろう。
彼の腕にはまだ熱傷の痕が残っている。痛みというより、火照りのような鈍い灼け跡だ。
ふと視線を上げると、焚き火の向こうでミナが毛布にくるまり、じっとこちらを見ていた。
目が合うと、彼女は気まずそうに笑う。
「……ライルさん、寝ないんですか?」
「このくらいの夜番なら慣れています。勇者様こそ休んでください」
「でも、なんか眠れなくて……」
ミナは焚き火の炎を見つめながら、膝を抱えた。
その表情には、昼間の快活さはない。
光と影が頬をなぞり、どこか現実の重さが滲んでいた。
「……怖かったんです」
「え?」
「自分の力が、勝手に動くのが。人を傷つけたらどうしようって思って」
ミナの声は小さく震えていた。
ライルは少し考え、穏やかな声で返した。
「怖いと思えるのは、いいことですよ」
「いいこと?」
「恐れを持てる人は、制御しようと努力します。恐れを忘れた者は、暴力に溺れるだけですから」
焚き火がぱちりと鳴った。
ミナはしばらく黙っていたが、やがて微笑みを浮かべた。
「ライルさんって、なんか先生みたい」
「……生徒に胃痛を与えられている先生、でしょうね」
「ふふっ、それはごめんなさい」
くすくすと笑う声が夜に溶けていく。
ライルは視線を火に戻した。
この数日で、彼の中の“勇者像”はずいぶん変わった。
最初は、王命に従うだけの任務だった。
常識知らずで手のかかる少女の監督役。
それだけのはずだった。
だが、ミナの真っすぐな言葉や、恐怖を隠せない顔を見ていると――どうしても放っておけない。
“勇者”ではなく、“一人の女の子”として、守らなければならないと感じてしまうのだ。
「……勇者様」
「なに?」
「次に危険な任務があった時は、必ず俺の指示を待ってください」
「うん、わかった。……でも、もしライルさんが危ない時は?」
「それでもです」
「ダメです。私が守ります」
その言葉に、ライルは思わず笑ってしまった。
焚き火の光が彼女の瞳を照らす。まっすぐすぎるその光に、言葉が詰まった。
「……勇者様に守られる荷物持ち、ですか」
「いいじゃないですか。持ちつ持たれつですよ」
「そう言う割には、あなたはずっと無茶をしてばかりです」
「だって、助けたいんですもん」
その一言に、ライルは返す言葉を失った。
理屈ではない。
彼女の行動原理はいつだって、“助けたい”の一点にある。
無鉄砲で、無計画で――けれど、誰よりも正しい。
彼はふっと笑い、頭をかいた。
「……本当に、あなたは俺の心臓に悪い」
「心臓?」
「ええ。鼓動がうるさくて眠れそうにない」
ミナはきょとんとした顔をしたが、すぐに意味を察して、頬を赤らめた。
「……それって、ちょっと照れるんですけど」
「いや、ただの比喩です」
「そういうところがずるいんですよ」
ふたりの間に、焚き火の音だけが残る。
夜風が吹き抜け、木の葉がさざめいた。
やがて、ミナが小さく呟く。
「ねえ、ライルさん」
「はい」
「この旅が終わったら、私はどうなるんでしょうね」
「……それは」
ライルは答えられなかった。
召喚された勇者は、使命を終えると元の世界に還る――それが通例だ。
だが、目の前の少女をこの世界から消す未来を想像するだけで、胸の奥が締めつけられた。
「……考えるのは、まだ早いですよ」
「そうですね。今は……今日の夜を無事に過ごすことが先ですね」
ミナは微笑み、毛布に身を沈めた。
そのまま、まどろむように目を閉じる。
ライルは焚き火を見つめながら、ゆっくりと立ち上がった。
冷えた空気の中で、ひとり呟く。
「勇者様。あなたを守るのが俺の務めです――たとえ、その先に何が待っていようと」
火の粉が舞い、夜空に溶けて消えた。
その光はまるで、二人の距離を照らす灯火のように見えた。




