13
戦いの余韻が消えた転移の森を後にし、
ライルとミナは北方へ向かって歩いていた。
目的地は「影の谷」。
ギルド本部が密かに設けた緊急避難ルートの終着地であり、
ライルの古い知り合いが身を潜めている場所でもある。
だが――
そこは同時に、監察局の“通過点”でもあった。
影部の者たちが数多く任務に就いた場所。
闇が濃く積もり、血と秘密の匂いが染み付いた谷底。
ミナは森の出口で深呼吸をした。
「……なんだか、空気が重いですね」
「影の谷は、そういう場所です。
亡霊のような記憶が住みつく場所と言われています」
「亡霊……」
ミナは思わずライルの手を握った。
その瞬間、ライルの横顔に、わずかに影が差した。
(……ライルさんにも、この谷で何かあったんだ……)
ミナは強く手を握り返した。
「大丈夫です。私、ちゃんとついていきます」
ライルは驚き、すぐに柔らかく微笑んだ。
「……はい。ありがとうございます」
その温かさが、ミナの胸に灯る。
けれど――それが束の間の平穏だと、二人とも理解していた。
◇◇◇
谷へ近づくにつれ、空気の匂いが変わる。
湿った土に混じる、鉄のような匂い。
そして、木々が急に少なくなった。
谷底へ通じる細道は、急斜面の岩肌を削ったような狭さで、
馬は通れない。
人間が横一列で進むのが精一杯の幅だ。
谷の入口で、ライルは足を止めた。
「この先は視界が悪くなります。
ミナ、俺の後ろをついてきてください」
「はい……!」
だがミナは、そこでひとつ気づいた。
(……ライルさんの声が、少し震えてる……?)
谷に入る前から、彼の背中に微かな緊張が走っていた。
(やっぱり……ライルさんは、この場所が苦手なんだ……
私が支えなきゃ……)
ミナは小さく息を吸い、ライルの背に近づいた。
◇◇◇
谷底に足を踏み入れると、
外よりも暗く、生ぬるい空気が二人を包んだ。
岩壁に染みついた黒い跡。
人の気配が消えたような静寂。
耳鳴りがするほどの深い沈黙。
ミナは背筋を強張らせた。
「ここ……静かすぎませんか……?」
「音が吸収されるんです。谷全体がそういう地形なんです」
「音が……吸収……」
声を出した瞬間、
自分の声が“薄い霧”に溶けて消えていくようだった。
ミナの心臓が早鐘のように鳴る。
(こわい……でも……)
彼女はライルの背中をずっと見つめ続けた。
――ライルが前にいる。
それだけで歩ける。
◇◇◇
だが谷の中央まで進んだ瞬間、
ライルの足がピタリと止まった。
「……気配だ」
ミナの背筋に冷たいものが走る。
前方の岩陰から、ひとつ、またひとつと人影が現れた。
灰色の外套。
「……灰影部隊……!」
ミナが小さく声を上げる。
ライルはすぐにミナを背にかばった。
しかし、今回は違った。
兵士たちは矢を構えず、
ただ規則正しく並んで道を塞いでいる。
「待ち伏せ……?」
ミナが問いかけた瞬間、
谷の上から声が落ちた。
「ようこそ――影の谷へ」
聞き慣れた声。
だが、聞きたくない声。
ライルの表情が硬直した。
崖の上に立っていた男が、
ゆっくりと降りてくる。
黒い外套。
冷たい目。
監察局直属・灰影本隊の隊長――
「……レン・カーディス」
ライルがその名を絞り出すように呟いた。
ミナは彼の反応から悟る。
この男は、ただの敵ではない。
レンは地面に降り立つと、肩を軽く回した。
「久しいな、ライル。
“影部の裏切り者”」
ミナの胸が強く締めつけられる。
ライルの過去。
影部。
そして――裏切り者。
レンは冷笑しながら続けた。
「逃げ回っていた割には元気そうだな。
勇者に庇われて、生き延びていたか?」
ミナの目が怒りで揺れる。
「ライルさんは……あなたたちの道具なんかじゃない!」
レンはミナに視線を向けた。
その瞳には一切の感情がない。
「勇者。
君は自分がどれだけ危険な存在なのか、まだ理解していない」
「危険なんかじゃありません!」
「いや危険だ。
君が“個人の感情”で力を使った瞬間、
世界の均衡は崩れる」
ミナの胸に怒りと恐怖が入り混じる。
(どうして……
みんな“人の気持ち”を否定するの……?)
レンは手を軽く振り上げた。
灰影部隊の兵士が、一斉にミナへ向き直る。
「勇者拘束。
それが王命だ」
ライルがミナを抱き寄せる。
「ミナ、絶対に離れないで」
「うん……離れない……!」
ミナの手が震えているのに気づき、
ライルは囁いた。
「怖いなら、俺の背中を見ていてください」
ミナはその言葉だけで胸が温かくなる。
(この人となら……戦える)
◇◇◇
レンが一歩前に出る。
「ライル。
お前は“勇者を守る”と言ったそうだな」
「言った」
「愚かだ。
勇者は国家の管理下に置かれてこそ価値がある。
お前のような私情で動く者に任せるわけにはいかん」
ライルは静かに首を振った。
「ミナは人だ。
管理も所有も……間違っている」
ミナの目に涙が滲む。
レンは鼻で笑った。
「……ならばその信念ごと、今ここで潰してやる」
彼が右手を上げた瞬間――
灰影部隊がいっせいに走り出した。
谷の静寂が破られ、地面が震える。
「ミナ、後ろに!」
「はい!」
ライルは結界を展開し、そのまま敵陣の中心へ突っ込んだ。
ミナは後方から光を展開し、
ライルを包むように“拒絶の膜”を広げる。
攻撃と防御が重なり、
二人は完璧な連携で灰影部隊を押し返す――が。
レンは微動だにしない。
「……やはりお前らでは足りんか」
彼が地面に指を触れた瞬間――
谷全体に蒼白い紋様が浮かび上がった。
ミナが息を呑む。
「な……に、これ……?」
ライルが叫ぶ。
「ミナ、避けろ――!」
しかし遅かった。
谷底そのものに仕込まれた“巨大な転移術式”が動き出し、
空間が揺れ始めた。
レンが冷たく告げる。
「勇者と裏切り者。
二人まとめて――“影の底”に沈んでもらおう」
光が爆ぜ、谷が崩れるように歪む。
ミナが叫ぶ。
「ライルさ――!」
「ミナ!! 離れるな!!」
だが――足元の大地が裂け、
二人の手が再び引き裂かれる。
谷底へ吸い込まれるように落ちていく。
ミナの叫びが、谷に消えた。
「いやあああああッ!!」
◇◇◇
大地が裏返るような揺れとともに、
ミナの身体は光の渦へと吸い込まれた。
視界が白と黒に切り替わり、
重力の方向すらわからなくなる。
「いやッ……! ライルさん!!」
伸ばした指先は、空を切るだけだった。
光の渦の中、わずかに見えたライルの手は
まるで霧の向こう側で溶けるように遠ざかっていく。
――触れたい。
――離れたくない。
――この人を失ったら、私は……。
ミナは両腕を必死に伸ばした。
その瞬間、胸の奥で“光”が爆ぜた。
(届いて……!)
しかし、叫びも願いも光の渦に飲まれ――
ミナは奈落へと落ちていった。
◇◇◇
――ゴォンッ!
どれほど落ちたかわからない。
ミナは冷たい地面へ叩きつけられ、
息が詰まった。
「っ……く……!」
しばらく痛みにうずくまり、
ようやく身体を起こしたとき。
(ここ……どこ……?)
周囲は暗く、湿気を含んだ空気が肌にまとわりつく。
視界はぼんやり青白く、天井には無数の光苔が散っていた。
そこは――
谷の下方に広がる巨大な空洞。
影の底。
古くから、影部の処刑場として使われてきた場所だった。
ミナは足を抱えて震えた。
「こわいよ……ライルさん……」
返事はない。
谷を落下した先は、当然別々に落ちている。
ミナは俯き、息を整えようとするが、
涙が勝手に溢れてしまう。
「……うわあぁぁん……!」
泣き声が洞窟に反響する。
その寂しさが、余計にミナの胸を締めつける。
(いや……泣いてるだけじゃ……だめ……)
ミナは両手で目を拭き、深呼吸した。
(ライルさんに……会いに行かなきゃ……
一緒に逃げるって……言ったんだから……)
震えながら立ち上がり、
胸に手を当てる。
光が、また少しだけ温かく灯った。
◇◇◇
一方その頃――
ライルもまた、別の空洞へと落ちていた。
「ぐっ……!」
衝撃で肩が鋭く痛み、
崖で負った傷が再び開く。
立ち上がりながら、ライルは周囲を見回した。
音が吸い込まれるような静寂。
そして、奥から漂う、嫌な気配。
(影の底……あの男め……)
かつて影部員として送り込まれた任務で、
ライルはこの空間を知っていた。
――裏切り者はここへ落とされる。
――そして誰も戻れない。
その記憶が脳裏に浮かび、
背筋に冷たいものが走る。
(ミナ……絶対に探し出さないと……)
ライルは胸の痛みを押し殺しながら歩き出した。
◇◇◇
すると――
洞窟の奥からカチャリ、と足音が響いた。
影の中から現れたのは、
灰影部隊とは違う漆黒の外套。
ライルは目を見開く。
「……お前……まだ生きてたのか」
黒外套の男は、フードを外した。
その顔はライルよりも少し年上。
鋭い目線と鋼のように引き締まった表情。
「やあ、ライル。
久しぶりだな」
かつての戦友――
“影部最強”と名高い男。
ゼイン・アルヴァ。
ライルの足が止まった。
「ゼイン……どうしてここに……?」
「監察局に“拾われた”んだよ。
裏切り者のお前と違ってな」
ゼインの言葉は短く、冷たい。
「勇者を追うのは俺の任務だ。
お前が邪魔するなら――排除する」
ライルの拳が震えた。
(ゼイン……
俺の帰りを信じていたはずの男が……
どうして……)
だが、ゼインは容赦なく言い放つ。
「影部は仲間を“捨てる”場所だ。
その事実を忘れたか?」
ライルの胸が痛む。
ゼインは短剣を抜いた。
「ミナは渡さない。
勇者は国家に帰属する」
そして静かに宣言した。
「――ライル。
俺はお前を殺す」
◇◇◇
その頃ミナは。
光苔の淡い光に導かれるように洞窟を歩いていた。
足元は滑りやすく、
壁には古い血痕のような黒い跡がついている。
不意に、岩壁に刻まれた印に気づいた。
(……これ……)
“影部の符号”。
ライルが使う術式の基礎となる、
影部流儀の記号だった。
ミナはそっと触れる。
(ライルさん……どんな気持ちで……
こんな場所に来てたんだろう……)
胸が痛くなる。
しかし――
この符号は“ある場所”を示す合図だった。
ミナは目を見開いた。
(道標……!
ライルさん、どこかで生きてる……!
私を導こうとしてくれてる……!)
胸の奥が熱くなる。
(絶対……会いに行く……!)
◇◇◇
闇の奥。
ライルとゼインは静かに睨み合った。
ゼインは短剣を回し、
その切っ先をライルへ向ける。
「お前が影部を捨てた時、
俺は“裏切られた”と思った」
ライルは息を呑む。
ゼインは続けた。
「仲間を救えなかった日。
お前は泣いていた。
そんなお前を俺は信じたかった」
ライルの胸が締めつけられる。
「……ゼイン……」
「だが結局、その敗北から逃げた。
勇者を連れて王都を出て……
“影の宿命”から逃れようとした」
ゼインの目には怒りよりも哀しみがあった。
「そんなお前を……俺は許せない」
短剣が鋭く振り下ろされる。
「――ライル!!」
刃が空気を裂き、
ライルは寸前で身を翻した。
金属音が洞窟に響く。
(ゼイン……!
本気で俺を……!)
ゼインの動きはまるで影のように滑らかで速い。
影部最強の名に恥じない攻撃。
ライルは必死に受け流し、
回避し、反撃するが――
(く……! 速すぎる……!)
血が滲む。
呼吸が荒くなる。
ゼインは静かに呟く。
「ライル。
勇者を諦めろ。
あの少女に未来はない」
ライルの目が激しく揺れた。
そして怒りを爆発させる。
「ミナは……未来がある!!
俺が絶対に守る!!」
ゼインが一瞬だけ目を見開いた。
その弱い隙を――
ライルは逃さなかった。
「――すまん、ゼインッッ!!」
ライルは結界を指先に集中させ、
ゼインの足元の地面を砕いた。
岩が崩れ、ゼインの体勢が大きく崩れる。
ライルは踵を返し、
迷わず洞窟の奥へ走り出した。
背後でゼインの声が響く。
「ライルゥゥゥ!!
逃げるのか!?」
「ミナを……助けに行く!!」
「勇者は――国家のものだァァ!!」
ゼインの怒号が洞窟を震わせた。
しかしライルは振り返らない。
◇◇◇
一方ミナは、
何枚もの影部符号を追っていた。
その先に小さな“光の結晶”が置かれている。
ミナはそれを拾い上げ、胸が震えた。
(これ……ライルさんの魔具……!
ライルさん……生きてる……!
近くにいる……!)
涙がこぼれた。
その光を胸に抱き、ミナは走り出す。
◇◇◇
広い空洞の中央。
ミナはついに、誰かの影を見つけた。
「ライルさ――!」
しかしその影は振り向かない。
背丈も違う。
影はゆっくりと振り返る。
監察局。
灰影部隊。
そして――
「……ガルデル……!」
ミナは息を呑んだ。
ガルデルは薄い笑みを見せた。
「あの男は強いな。
お前を守るためなら、自分がどれだけ傷つこうと気にしない」
ミナは睨む。
「当たり前です……!
ライルさんは、そんな強い人なんです……!」
「強い?
違うな。
あれは“弱い”」
ガルデルの低い声が洞窟に響く。
「勇者に情を移し、任務よりも個人を優先する。
影部では最も忌み嫌われる性質だ」
ミナは胸の奥に怒りが湧く。
「“情”があるから……私はここまで来れたんです!」
「愚かだ」
「愚かでいい!!」
ミナの光がまた強くなる。
ガルデルはその光を測るように見つめる。
「……やはり進化している。
勇者の力は、感情に共鳴するのか」
ミナは胸の前で光を両手に集める。
「私は……ライルさんのためなら……
何度だって立ち上がる……!」
ガルデルが一歩踏み出す。
「勇者。
君は“国家のもの”になる」
そして手を伸ばす。
「来い」
ミナは後退しながら、
涙を浮かべて叫んだ。
「私は――
ライルさんの“仲間”ですッ!!」
その瞬間。
洞窟の奥から叫び声が響いた。
「ミナァァァァ!!!」
ミナは振り返った。
光苔の道の先――
傷だらけで、息を切らし、
血まみれになりながらも走ってくる影。
「ライルさん……!!」
耳を塞ぎたくなるほどの心臓の鼓動。
涙が溢れ、膝が震える。
――彼は、生きていた。
――来てくれた。
ガルデルが舌打ちした。
「しぶとい……!」
しかしミナは、その男を見た瞬間、
胸の奥の光が爆ぜるのを感じた。
ライルが叫ぶ。
「ミナァァ!!
絶対……離さない!!」
ミナも叫び返した。
「私もですッッ!!!」
互いへ向かって走る。
影の底という地獄で、
たった二つの光が重なろうとしていた。
その瞬間、
洞窟全体に亀裂が走り――




