12
森の空気が一瞬にして張り詰めた。
黒樹林の外縁――「転移の森」と呼ばれる場所は、常に薄い魔力が漂っている。
そのため、魔力を帯びた者に反応し、時に“意図せぬ転移”を引き起こす危険な地帯でもあった。
強制転移陣によってライルと引き裂かれたミナは、
転移の森の一角に放り出され、危険な森をさまよっていた。
だが――
ミナの前に現れた黒外套の男は、
“ただの追手”ではない。
「勇者。君は王都へ返す。
世界の秩序維持のために」
その声には怒りも喜びもない。
ただ淡々とした命令の音。
ミナは震えながらも、男の正体がわかってしまった。
「あなた……ギルドの人ですよね……
どうして私を……?」
男はフードをわずかに外した。
ミナは息を呑む。
――見覚えがある。
王都冒険者ギルドの副本部長。
ライルと幾度も作戦を交わしたことのある、あの男。
「“灰の協定”……知らないでは済まされないのですよ、勇者」
協定。
それはギルドと監察局の間で結ばれた、闇の取り決め。
ミナは言葉を失う。
「あなたたちは……味方じゃなかったんですか……」
「味方? そんなものは幻想だ」
男は静かに一歩近づく。
「勇者。あなたの力は人類の力。
それを個人が自由に持つなど、危険極まりない」
ミナは怒りで顔を上げた。
「私は……自由に使いたいなんて言ってません!」
「ならば、王の管理を受けなさい」
ミナの胸が締め付けられる。
“管理”。
それは、あの王都の部屋。
光を奪われた生活。
笑うことも泣くことも許されない日々。
もう……戻りたくない。
ミナが一歩後ずさったとき――
森の奥から凄まじい怒号が響いた。
「ミナから離れろォォォ!!!」
その声が聞こえた瞬間、
ミナの胸が破裂しそうなほど震えた。
「ライルさん……!!」
木々が揺れ、土が跳ね上がる。
息を切らしながらライルが森の奥から駆けてきた。
顔には傷、服には血。
崖での戦闘の痕跡がありありと刻まれている。
だが、そんなことはどうでもいい。
ミナは走り出しそうになった。
けれど、ライルは鋭く手を伸ばした。
「ミナ! 動くな!!」
その声に動きが止まる。
男の足元で、淡い青い魔術陣が光を帯びていた。
転移陣。
ミナを“奪う”ための罠。
ミナは震えた。
「こ、怖い……」
「大丈夫だ。絶対守る」
ライルの声は低く静かだったが、
その中に燃えるような強い意思が宿っていた。
◇◇◇
黒外套の男――副本部長は、
ライルを見ると表情を変えた。
「久しぶりだな、グレイアード」
「……貴様か、ガルデル」
ミナは驚きに瞳を揺らした。
「知り合い……?」
ライルは短く頷いた。
「こいつはギルド副本部長。
俺を“影部”から引きずり出そうとした男だ」
ガルデルは不気味な笑みを浮かべた。
「引きずり出そうとした? 違うな。
“飼い慣らそうとした”の間違いだ」
ミナの胸がざわめく。
ガルデルは冷たい目でミナを見た。
「勇者。お前もだ。
力は支配のために使われるのが正しい。
個人の情動など、国の邪魔でしかない」
ミナは震える声で返した。
「人を……救いたいって思う気持ちが……邪魔なんですか?」
「当然だ。力を持つ者に“意思”は不要」
その瞬間、ミナの瞳の色が変わった。
光が、胸の奥から溢れそうになる。
(そんなの……間違ってる……!
私の光は……誰かを傷つけるためのものじゃない……!)
ミナが叫ぶように言う。
「私は……“私の意思”で光を使う!」
ガルデルは冷笑した。
「ならば――奪うだけだ」
魔術陣が点灯し、ミナの足元が淡く揺れる。
「ミナァ!! 動くな!!」
「ライルさん……!!」
ライルは腰の魔具を抜き、
左手を地面に叩きつけるように置いた。
「――“第四式・捕縛解除陣”!!」
青い閃光が走り、ガルデルの魔術陣が一瞬だけ弾け飛ぶ。
ガルデルの目が鋭く光った。
「ほう……まだ“影部”の術式が抜けていないとはな」
ミナは困惑した。
「影部……?」
ライルは答えない。
だが、その沈黙が何より多くを語っていた。
ガルデルは続ける。
「ライル。
勇者を連れ帰れば、お前の罪は帳消しにしてやろう」
「お断りだ」
「愚か者。
お前が守った少女は、いずれ“国に従属する道具”になる。
お前がどれだけ抗おうが無駄だ」
ミナの胸が強く締め付けられた。
(道具なんかじゃない……
私は……私は――)
だが、そのとき。
森の奥から灰影部隊の無機質な足音が迫ってきた。
規則正しく、狂いなく。
「補佐官ライル、捕縛対象確認」
「勇者ミナ、確保」
ガルデルが薄く笑う。
「――始めろ。優先は勇者だ」
灰影部隊十数名が一斉に動き出す。
無音の矢。
精神封鎖兵の乱れない足音。
転移術式の兆候。
ミナは咄嗟に叫んだ。
「ライルさん! 逃げて!」
「逃げない!!」
ライルはミナの前に立つ。
彼の動きは、ミナが知る中で最も鋭く、速かった。
ガルデルが冷笑しながら言う。
「ライル。その体では勇者を守れん」
ライルは低く呟いた。
「……俺は、お前の知ってる“影部の俺”じゃない」
ミナの胸が熱く震える。
次の瞬間――
ライルはミナを抱き寄せ、耳元で囁いた。
「ミナ。
絶対に――離れないでください」
ミナは震える声で答えた。
「うん……離れない……!」
その瞬間。
ガルデルの手が上がり、
灰影部隊が一斉に突撃した。
ライルはミナの手を握り、叫んだ。
「ミナ――行くぞ!!」
森が揺れ、戦いが始まる。
◇◇◇
森が裂けるほどの衝撃が走った。
ライルはミナの手を引き、灰影部隊の突撃をかろうじて回避する。
矢が木々に深く突き刺さり、腐朽した幹が粉々に砕け散る。
その攻撃力は、かつて王都で見たどんな精鋭部隊よりも異質だった。
「ミナ! 伏せて!」
「はいっ!」
ミナが地面に身を伏せた瞬間、
ライルは魔具で半円状の結界を展開する。
「――《偏光結界》、最大展開!」
光が弾け、灰影部隊の矢が曲線を描くように弾かれる。
だが、彼らの動きは止まらない。
足音は乱れず、呼吸のリズムすら同じ。
完全な無意識――精神封鎖。
ライルは歯を噛む。
(こいつら……本当に殺す気で来ている……!
王都の監察局がここまでやるとは……)
しかしその時、
ミナの叫びが耳を打った。
「ライルさん、後ろ!!」
振り向くと、背後――
別の個体が無音で接近し、短剣を振り下ろしていた。
「ちっ……!」
ライルは結界を強引に捻じ曲げ、短剣を弾く。
金属音が森に響き、火花が散った。
◇◇◇
その光景を数歩離れた場所から見ていたガルデルは、
不快さを隠そうともせず、鼻で笑った。
「さすがは“影部の遺物”といったところか」
ミナは弾かれた光の隙間から彼を睨みつけた。
「どうして……どうしてこんなことするんですか!」
「どうして?」
ガルデルは冷笑した。
「勇者は“戦争の均衡装置”だ。
その力が民間に漏れれば、世界は崩壊する」
ミナは絶句する。
「崩壊……? 私がいるだけで?」
「君は自覚がない。
だからこそ危険なんだ」
ミナの手が震えた。
ガルデルが手を伸ばす。
「勇者。君は王都へ戻るべきだ」
「戻りません……!」
胸の奥から光が溢れそうになる。
震える声で、それでも叫んだ。
「私は……ライルさんといたい!」
ガルデルの表情がわずかに歪む。
「……ライルか」
吐き捨てる声。
「君が“国家の道具”でなくなる最大の要因……
それがあの男だ」
ミナは目を見開いた。
(ライルさんが……?
私を“人”として見てくれたから……?)
ガルデルは無感情に続ける。
「だから排除する」
ミナの胸に、深い怒りが燃え上がった。
「排除……?
ライルさんは……私の支えなんです……!」
光が溢れ――
ミナの掌に淡い紋様が浮かび上がる。
治癒魔法とは違う。
攻撃魔法とも違う。
“心を守るための光”。
それは勇者の新しい能力。
彼女が自分の意思で目覚めさせた光だった。
◇◇◇
一方その頃、ライルは灰影部隊に囲まれていた。
肉体強化された兵士が次々と襲いかかり、
ライルは結界を破られないよう、必死に身体を動かす。
呼吸が荒くなる。
肩から血が流れ始めていた。
(まずい……あと数分で防御結界が壊れる……!)
しかし――
ライルの足は一歩も退かなかった。
ミナがいる。
それだけで、身体は前へ進む。
兵士の一人が首元へ短剣を振り下ろす。
ライルはその腕を掴み、地面へ叩きつけた。
「退け……どいつもこいつも……!」
その声には怒りと焦燥と、
“ミナを守りたい”だけの感情が詰まっていた。
◇◇◇
その隙に、ガルデルがミナへ向かって手を伸ばす。
「――来い、勇者」
ミナは後退し、涙をにじませながら叫ぶ。
「来ないで!!」
光が彼女の周囲を包む。
森の風が光を反射し、淡い金色の渦を生み出す。
ガルデルはまったく怯まない。
「その光……治癒ではないな。
“拒絶の光”か。
勇者の力は、やはり進化する……!」
手の動きが加速し、
ミナの腕へ触れようとした、その時。
「ミナァァァァ!!!」
ライルの声が、風を切った。
次の瞬間――
ライルが灰影部隊を突破し、ミナの前に飛び込んだ。
「触れるな!!!」
ライルはガルデルの腕を掴み、
力任せに弾き飛ばした。
衝撃でガルデルは数メートル後方へ削られるように滑る。
ミナは息を呑んだ。
「ライルさん……!」
「ミナ、大丈夫ですか……!?」
ライルは血を流しながらも、ミナの頬に触れた。
その手は震えていたが、温かかった。
ミナはその手を両手で包む。
「ライルさん……怖かった……!
離れたくなかった……!」
ライルは答える代わりに、彼女の頭を抱き寄せた。
「離しません。
もう二度と……あなたを一人にはしない……」
ミナは胸が熱くなった。
その温もりが――
彼女自身の光をさらに強くする。
◇◇◇
二人の間で光が溢れ、
ガルデルは不快な顔でその光を睨みつけた。
「……愚か者ども。
感情は弱さだ。
国家を蝕む毒だ」
ライルは静かに答えた。
「感情があるから……人は人なんだ」
「無意味なものだ」
「あなたは間違っている」
ガルデルの表情がわずかに歪む。
ライルは続ける。
「ミナは“道具”じゃない。
彼女は……彼女自身の意思を持つ、一人の少女だ」
ミナは涙をこぼした。
ガルデルはため息をつき、背後にいる灰影部隊へ指示を出す。
「やはり……始末する」
灰影部隊がミナへと矢を向ける。
ライルは身体を張ってミナを覆う。
「ミナ、俺の影に隠れて!」
「ライルさん!!」
だが――
その瞬間。
ミナの光が大きく膨れ上がり、
二人を包むように膜を作った。
矢が放たれ、膜に触れた瞬間――
“パリン”と音を立てて、矢が弾かれた。
ガルデルが目を見開く。
「これが……勇者の“拒絶領域”……!」
ミナは震える声で言った。
「私は……人を守りたい……
大切な人を……守りたい……
そのためなら……力を使う……!」
光がさらに強くなる。
森を照らし、灰影部隊が一瞬ひるんだ。
ライルはミナの肩を支えながら囁いた。
「ミナ……ありがとう……!」
その瞬間。
ガルデルはすばやく術式を展開し、全員の空間の魔力を乱した。
「――勇者の捕獲はまた後でいい。
今は退く」
灰影部隊は一斉に消え、森の奥へ退いた。
ガルデルも最後にミナを一瞥し、冷たく笑った。
「勇者。
いずれ必ず――お前を“国家”に戻す」
そして姿を消した。
◇◇◇
戦いの余韻だけが残る森で――
ミナは力が抜け、その場に膝をついた。
「はぁ……はぁ……」
ライルが慌てて支える。
「ミナ、大丈夫ですか!?」
「うん……大丈夫……
でも……怖かった……」
ミナの瞳に涙が溢れた。
ライルは彼女をそっと抱きしめる。
「ミナ。
本当に……よく頑張りました」
ミナは震えながら、ライルに抱きつく。
「ライルさん……
私……あなたがいないと……」
ライルは少しだけ顔を寄せ、
彼女の耳元で静かに言った。
「俺も……あなたがいないと、生きていけない」
森の木々が風で揺れ、
二人を包む光が静かに消えていく。
世界はすでに動き始めている。
ガルデルの影。
監察局の本隊。
勇者を巡る争奪戦。
だが――いまだけは。
ミナとライルは互いの温もりを確かめ、
“断ち切られた鎖”を胸に刻んでいた。




