11
北方黒樹林を抜ける頃、空はすでに灰色の雲を孕み、太陽の光は細い線のようにしか差し込まなかった。
息をするたび、森の奥に渦巻いていた濃密な魔力の残滓が胸にまとわりつく。
ミナは川の匂いを含んだ冷たい風を吸い込みながら、自分がまだ“逃げているだけ”であることを強く実感していた。
「……外に出たと思ったら、今度は崖ですか……」
思わず本音が漏れた。
城下町の通学路しか知らなかった女子高生の足には、断崖の獣道など拷問のように思えた。
だが、ライルは控えめに笑いながら言う。
「すみません。ここが一番安全なんです」
「安全の基準が“落ちたら死ぬ”なのはどうなんですか……」
「……“敵に殺されるよりはマシ”という意味で」
ミナは返す言葉もなく、ただライルの背にしがみつくように歩いた。
黒樹林の恐怖、灰影部隊の追跡、魔獣の咆哮。
一つひとつは、ミナがいた世界では到底考えられなかった危険だ。
だが、それらすべてを“現実”として受け入れなければ、いま生き残ることはできない。
足元の石が崩れ、ミナは短く悲鳴を上げた。
「きゃっ……!」
「ミナ!」
ライルがすぐに腕を支えた。その手は温かく、確かで、揺るぎない。
しばらくして呼吸が整ってくると、ミナは言った。
「ライルさん……もしかして、怒ってます?」
「怒ってませんよ。心臓が止まりそうになっただけです」
「……怒ってるじゃないですか……」
そう言って小さく笑うと、ライルもまた微笑んだ。
重苦しい空気の中で、この微笑みだけがミナの心を支えてくれる。
◇◇◇
断崖の中腹にある、わずかに平らな岩場に到達したのは、それから二十分後のことだ。
「ここで少し休みましょう」
「……倒れます……」
文字通りへたり込むように座ると、ミナは深く呼吸を整えた。
周囲は絶壁と深い谷。風が強く吹くたびに草が揺れ、かすかな音が遠くへ吸い込まれていく。
ミナは川の音に耳を傾けながら、少しずつ心を落ち着けた。
――でも、落ち着きかけたときほど、不安はこみ上げてくる。
「ねえ、ライルさん」
「はい」
「……あの人たち、本当にずっと追ってきますよね?」
「ええ。監察局は一度標的を定めれば、諦めることはありません」
ミナの喉が小さく震える。
「どうして、そこまで“勇者”に執着するんですか……?」
「勇者は“力”だからです。
あなたの力を手に入れれば、王国は、どんな反乱も異民族も、すべて制圧できる」
「……そんなの、勇者じゃない……」
ミナはぎゅっと膝を抱えた。
戦いを止めるために使った光が、今度は戦争の道具として狙われる。
彼女が最も恐れる未来だ。
そのとき、ライルは言った。
「……実は、過去の私の所属と関係があります」
ミナの目が揺れる。
「影部、ですよね?」
「ええ。監察局の下部組織。
“国のために不要なものを排除する”役目でした」
ライルの声は淡々としているが、その裏には深い痛みがあった。
「私はそこで、守るべき人を――救えなかった」
「……!」
ミナは反射的にライルの腕を掴んでいた。
「それって……」
「詳しくはまた話します。
ただ、だからこそ……私はあなたを見捨てたくないんです」
まっすぐな言葉が胸に突き刺さる。
ミナは俯きながらも、その言葉の重みを噛み締めた。
◇◇◇
そのとき――断崖の上で“カツン”と乾いた音が響いた。
ミナは身体を強張らせ、ライルの袖を握る。
「い、今の……」
「……足音です」
ライルは瞬時に防御魔具に手を伸ばし、周囲を見回した。
黒い影が、崖の縁に沿って動いている。
風が止まり、空気が冷たく凍る。
「――発見」
低く、淡々とした声。
断崖の縁に数人の灰色の外套が揺れ、
“灰影部隊”の兵士たちが姿を現した。
ミナの視界が狭まる。
心臓が高鳴り、呼吸が浅くなる。
「どうして……こんな早く……!」
兵士のひとりが弓を構え、声を張り上げる。
「勇者ミナ! 王命により拘束する!」
「補佐官ライルは反逆罪で処断対象とする!」
ミナが震える。
「処断……って……」
ライルはミナの肩を抱き寄せた。
「ミナ。俺を信じてください」
「……信じます」
その瞬間――
上空から黒い影が降り注いだ。
“無音の矢”。
「伏せて!」
ライルが防御陣を展開し、光の盾が矢を弾く。
火花が散り、崖の岩が砕けた。
しかし、それは序章にすぎなかった。
――彼らの“動き”が異常なのだ。
呼吸も、足運びも、腕の振りも。
まるで感情のない“機械のような人間”の動き。
ミナは恐怖に染まった声で呟く。
「ライルさん……あの人たち……普通じゃない……」
「精神封鎖処置を受けています」
「精神……封鎖……?」
ライルの目が細められる。
その瞳には、怒りと哀しみが混ざっていた。
「“自我を奪い、命令だけで動く兵士”ですよ」
ミナの心臓が凍りつく。
そんな兵士を追手にした者たちが、どれほど彼女を奪いたいか――痛いほど分かった。
ライルは短く息を吸い込んだ。
「ミナ、ここは危険だ。
崖を下りて川へ飛び降ります」
「と、飛び……!?」
「今はそれしか生き残る道がありません!」
ミナは躊躇したが、ライルの真剣な目を見て頷いた。
「……分かった。ライルさんとなら」
ライルは強く頷き、
「せーの――」と跳躍準備に入った。
その瞬間。
崖の側面に仕込まれた魔術陣が、不気味に輝き始めた。
――ゴォッッ……!
空気が震え、崖全体が脈打つ。
ライルが顔色を変えた。
「ミナ、下がれ!!」
「えっ――」
遅かった。
魔術陣が展開し、ミナの足元の空間が裂けた。
――強制転移陣。
ミナの身体が白い光に包まれ、宙へと浮き上がる。
「ライルさん!!」
「ミナ!! 手を伸ばせ!!」
二人の指先が触れかけ――
寸前のところで、空間が鋭くねじ曲がった。
ミナの視界が白に染まる。
最後に見えたのはライルの伸ばした手。
届かない。
触れられない。
離れたくないのに――。
「――いやだぁぁぁ!! 離れたくない!!」
ミナの叫びが、世界から消えた。
◇◇◇
白い光が世界を満たした瞬間、ミナの身体は空間に浮かび、上下すらわからなくなった。
目も開けられないほどの眩しさ。
次に感じたのは、急激な寒さだった。
――ドサッ。
地面に叩きつけられ、ミナは息を呑む。
冷たい苔の感触。湿った土の匂い。
目を開けると、そこは黒樹林とは違う、“別の森”だった。
「ここ……どこ……?」
声は震えていた。
身体の奥がまだ光に引き裂かれたように痛む。
崖の魔術罠――強制転移陣。
ミナを“単独で隔離する”ために設置されていたもの。
「ライルさん……!」
叫ぶが、返事はない。
風の音だけが虚しく森を抜けていく。
ミナの胸の奥に、冷たい恐怖が広がった。
――ライルがいない。
その事実が、全身の力を奪っていく。
◇◇◇
その頃、断崖では。
「ミナ……ッ!!」
ライルの叫びが山に響いた。
白い光が消えると同時に、ミナの姿は断崖から完全に消えた。
魔術陣は既に崩壊し、残ったのは焦げた石と魔力の残滓だけ。
ミナがどこへ飛ばされたか、痕跡は何一つ残っていない。
灰影部隊の隊長格が冷たい声で言った。
「勇者ミナ、転移完了。補佐官は処断する」
ライルの目が鋭く細められた。
「……貴様ら……!」
怒りに震える声。
決して声を荒げない男が、今、明確な殺意を背負っていた。
だが灰影部隊は無表情のまま迫る。
その動きは異様なほど均質で、命令に忠実。
「補佐官ライル・グレイアード。王命により排除対象」
「抵抗は不要。あなたに自我は不要」
その言葉が、ライルの奥底で何かを引き裂いた。
「……ふざけるな」
その瞬間、灰影部隊が一斉に飛びかかった。
◇◇◇
森の中。
ミナは足元もおぼつかないまま立ち上がり、必死に周囲を見回した。
「ライルさん……どこ……?」
返ってくる答えは風だけ。
森は深く、暗く、寒い。
「……怖い……」
胸が苦しく、涙が滲む。
でも、このまま泣き崩れても、誰も助けに来ない。
ミナは震える指で胸に触れた。
赤い風を止めたときと同じ、あの淡い熱が胸の奥に残っている。
(私……また守られてるだけじゃダメだ……
ライルさんがいないなら……私が探しに行かなきゃ……)
そう決めると、不思議なことに、胸の奥から温かい光がじわりと広がった。
「……これ……?
私の……光?」
小さな光の粒が掌に集まり、淡く輝いている。
それは治癒の光に似ているが、少し違う。
――これは、“探すための光”。
ミナの魔力が、危機によって新しい形を作り始めていた。
◇◇◇
一方その頃。
断崖の岩場で、ライルは灰影部隊に囲まれていた。
魔具の盾が激しく振動し、矢が次々と弾かれて火花が散る。
(こいつら……以前の灰影部隊とは動きが違う……!
精神封鎖に加えて、強化処置まで……!)
呼吸を整え、ライルは敵の弓兵と間合いを測った。
「貴様は不要。勇者だけで足りる」
「補佐官、不要」
「勇者の光、必要。補佐官、排除」
まるで壊れた人形のような声。
だが――
その言葉の一つひとつが、ライルの心に鋭い刃となって刺さる。
「……俺をどう評価しようが構わない」
ライルは静かに魔具を構えた。
「だが一つだけ言っておく。
ミナに触れた瞬間――
お前たちを、俺は許さない」
灰影部隊が一斉に動いた。
ライルの足元の岩が砕け、矢が雨のように降る。
ライルは地を蹴って跳躍し、敵の間をすり抜けながら結界を展開する。
「第五式《偏光結界》!」
光が走り、敵の攻撃が一瞬だけ逸らされる。
その隙にライルは崖を降り、ミナの転移痕を探すため谷側へ飛び移った。
(ミナ……どんな場所に飛ばされた……!?
どうか、無事でいてくれ……!)
◇◇◇
森の奥へ歩き始めて数分後。
ミナは木々の間に奇妙な痕跡を見つけた。
「……何これ……?」
地面に“均等に並んだ足跡”。
しかも、人間のものとは思えないほど一直線でぶれがない。
(……まさか……灰影部隊……?
ここにも来てるの……!?)
胸がざわつく。
転移陣は自動ではなく、誰かが“操作して発動”させた可能性が高い。
(私を……隔離した……?
誰かが……私を捕まえようとしてる……?)
そのとき、森の奥から小さな光が瞬いた。
ミナは身を潜めながら耳を澄ませる。
――ザッ、ザッ。
規則正しい足音。
灰影部隊と同じ無機質な歩調。
「……いや……いやだ……!」
膝が震え、喉が潰れそうになる。
ライルがいない今、敵に見つかれば即拘束だ。
(逃げなきゃ……!
ライルさんに……会わなきゃ……!)
ミナは全力で走り出した。
だが、数分走ったところで――
不意に風が止まり、森全体が静かになった。
「っ……!」
耳の奥で、低い声が囁く。
「――勇者」
ミナは反射的に振り返る。
暗い木々の間に、灰色の外套の影が立っていた。
無表情で、感情の欠片もない瞳。
「……見つかった……」
恐怖が喉を塞ぐ。
灰影兵がゆっくりと手を伸ばす。
その指先には白い魔力。
――転移。
「嫌……!!」
ミナの手から光が生まれた。
無意識に放たれた光は、淡い帯となって敵の腕をはじいた。
「……え?」
ミナの身体が震える。
「今の……私……?」
治癒でも攻撃でもない。
“拒絶”の光。
ミナの中で、新しい何かが芽生えていた。
◇◇◇
その瞬間、遠くで雄叫びが響いた。
「ミナァァァァ!!!」
森を揺らす声。
ミナの胸の奥に深く刻まれた、大切な人の声。
「ライルさん……!」
ミナは涙をこぼしながら駆け出す。
ライルも同じく、灰影部隊を振り切り、ミナへ向かって全力で森を駆けていた。
しかし――
そのふたりの間に、別の“影”が入り込む。
黒い外套。
灰影部隊とは違う、もっと嫌な空気を纏った者。
「やはり……勇者は一人のほうが扱いやすい」
低く冷たい声。
ミナは立ち止まり、その影を見る。
――“裏切り者”。
ギルドから情報が漏れているとしたら、
この男がすべての中心にいる。
「あなた……誰……?」
影は答えず、ゆっくりとフードを上げた。
その顔を見た瞬間、ミナは息を飲んだ。
「……ギルドの……!」
だが言葉を言い切る前に、影は言った。
「勇者。君は“王”に返す」
次の瞬間、森の空気が裂け――
ミナと影の間に巨大な魔術陣が展開した。
ミナは恐怖で足がすくむ。
(だめ……こんなとこで……!
ライルさんに……会えないまま……!)
影の手が、ミナの肩へ伸びる。
その瞬間。
「ミナから離れろォォォ!!!」
ライルの叫びが、森を切り裂いた。
ミナの胸に、ぱっと光が灯る。
――ああ、来てくれた。
その一瞬の光が、
ミナの運命を大きく動かそうとしていた。




