10
夜明け前の北方。
黒樹林と呼ばれる深い森は、日の光すら飲み込むような暗さを湛えていた。
木々は太く高く、枝は絡み、空を覆い隠している。
森に入った瞬間、外の世界とは別の空気が流れていた。
――冷たい。
――湿っている。
――何かが潜んでいる。
ミナは足を止め、肌を刺す寒気に身を縮めた。
「……なんだか、怖い森ですね」
「北方は魔獣が強い。人の気配の少ない場所ほど、自然の力が濃いんです」
ライルは彼女の肩を軽く押し、道なき道を慎重に歩き始める。
森は暗く、足元が見えづらい。
倒木や湿った苔が滑り、何度も転びそうになる。
「ミナ、ここを越えれば川に出る。
そこに仲間との連絡地点があるはずだ」
「仲間……?」
「ギルド本部の人間です。
エステル隊長が用意してくれたルートです」
ミナは少し安心したように息を吐いた。
だが、ほんの少し残る震えが、彼女の胸に引っかかっている。
――追われている。
――また誰かが傷つくかもしれない。
その恐れが、背中に冷たい影を落としていた。
◇◇◇
黒樹林の奥へ進むほど、不気味な静寂が広がった。
鳥の声はなく、虫の羽音すら聞こえない。
あるのは、自分たちの足音だけ。
ミナが息を呑む。
「……まるで、誰かが“音”を吸い込んでるみたい」
「実際に、この森には“音を食う魔獣”がいます」
「食うんですか!?」
「すべてを食べます」
冗談か本気かわからない口調。
ミナは半分怯えながら、ライルの背中を見つめた。
――心細くても、この人がいると安心する。
その思いが胸に広がりかけた時、
――乾いた枝の折れる音が背後から響いた。
ミナの体が跳ねる。
ライルが素早く手を伸ばして彼女を庇い、
森の影を鋭く見据えた。
「……来たな」
黒樹の影の間から、灰色の外套が揺れた。
一人、二人……五人。
静かに、しかし確実に包囲するように現れている。
「王都監察局第七班、“灰影部隊”。
あなた方を連行する」
隊長格と思しき人物が前に出る。
その声は驚くほど静かで、まるで森の闇そのものと同化していた。
ミナは一歩後ずさる。
「やばい……」
「ここで捕まれば、終わりです」
ライルは低く呟いた。
敵は森の技術に長けた追跡専門の部隊。
しかも、この場所は圧倒的に不利だ。
光を使えば彼らにも位置がバレる。
逃げ場もない。
「ミナ、走れ」
「えっ!?」
「俺が少し引きつけます。あなたは川へ」
「無理!一人じゃ――」
「行け。俺は死にません」
ミナは唇を震わせた。
「……そんなの、嫌です……!」
ライルの瞳が柔らかく揺れた。
「大丈夫。あなたがここで捕まる方が……ずっと辛い」
ミナの胸の奥で、言葉にならない熱が生まれた。
だが――その瞬間。
森の奥から轟音が響いた。
地響きのような振動。
木々が倒れ、土が揺れ、葉を散らしながら何かが迫ってくる。
灰影部隊の隊員が警戒の声を上げた。
「魔獣かッ!?」
「こんな時間に……なんで!」
ミナとライルも目を凝らした。
――黒い影。
――巨大な牙。
――血の匂い。
「……《夜哭き狼》か」
ライルが低く呟いた。
夜哭き狼。
北方に生息する群れで狩る大型魔獣。
群れを刺激すると一気に襲われる。
そして敵味方の区別などつけない。
灰影部隊も一斉に武器を構えた。
夜哭き狼の咆哮が森を震わせる。
ライルはミナの腕を掴み、
「今しかない。ミナ行くぞ!」
「う、うん!」
二人は魔獣の方向とは逆へ全力で走った。
森が揺れ、追跡の足音も混ざる。
夜哭き狼の咆哮が闇を突き破り、灰影部隊の怒号が続く。
ミナの心臓が激しく鼓動する。
――逃げなきゃ。
――ライルさんを失いたくない。
その一心で、彼女は森を駆け抜けた。
◇◇◇
川に辿り着いた頃には、空は薄青く染まり始めていた。
川辺には朽ちた船着き場と、小さな小屋がある。
ライルは周囲を暗視魔具で確認し、
「追手は……いないようです」と息を吐いた。
ミナは膝をつき、肩で息をしながら笑った。
「はぁ……はぁ……死ぬかと……思いました……」
「あなたが死ぬ前に、俺が死にますよ」
「それはもっとダメです……!」
二人は思わず笑い合った。
緊張と恐怖と安堵が混ざり、涙ぐむほどだった。
だが――遠くで狼の咆哮が再び響いた。
灰影部隊もまた、夜哭き狼との応戦を終え、追い直しているかもしれない。
ライルは小屋の扉を開け、古い床板を剥がした。
そこには細い地下通路が続いていた。
「ここが、ギルドが用意した隠しルートです」
「これ……隠す気ありました?」
「壊れててもギリギリ隠しルートです」
ミナは苦笑しながらも頷く。
「ミナ」
ライルは真剣な声で言った。
「これからもっと、追跡は厳しくなります。
それでも……俺と行きますか?」
ミナは迷わず言った。
「行きます。
……ライルさんと一緒なら。
たとえ世界全部を敵に回しても、私は進めるから」
ライルの胸の奥が熱くなった。
言葉にならないほどに。
彼は静かに頷いた。
「はい。なら、行きましょう。
光が届く場所まで」
そして二人は地下通路へと消えていく。
背後では、朝の光が黒樹林を照らし始めていた。
追跡者の影は、まだ消えていない。
だがこの瞬間だけは――
二人の歩む道に、確かに温かい光が差し込んでいた。
◇◇◇
地下通路は人ひとりがようやく通れるほど狭かった。
木の板を敷き詰めた天井は湿気を吸い、軋むたびにかすかな音を立てる。
ミナはライルの背中に手を添えながら、慎重に進んだ。
「こんなところ……本当に通れるんですか?」
「ギルド本部の緊急ルートです。
古いですが、秘密保持は完璧なはずです……“はず”ですが」
「はず……?」
「少し不安です」
ミナの顔が曇る。
逃げ道すらも、完全な安心にはならない。
この世界では、信頼できるものがどれほど少ないかを痛感させられる。
通路はやがて下り坂になり、湿った石畳へと変わった。
暗闇の中でライルは小さな照明魔具を取り出し、
淡い光を周囲に灯す。
「出口まであと少しです。川沿いに沿って東へ出るルートのはずですが……」
ミナは歩きながら、ふと思い出したように言う。
「ねえ、ライルさん」
「はい」
「さっき、灰影部隊が私たちの位置を把握したこと、変ですよね?」
「……気付いていましたか」
ライルは小さく息を吐いた。
ミナの鋭さに、ほのかに嬉しさが混じる。
「そうです。
森の中であれだけ正確に位置を追えたのは……
恐らく、内部情報が流れている証拠です」
ミナの眉がひそめられる。
「内部……情報?」
「はい。
私たちの逃走ルート、方向、休息地点……
監察局はすべて事前に知っているような動きをしていました」
ミナはぎゅっと胸を掴んだ。
「それって……
ギルドの中に、裏切り者がいるってことですか……?」
ライルはわずかに目を伏せ、
「可能性は高いですね」と静かに答えた。
ミナの心はざわめき、胸に不安が広がる。
“味方”だと思っていた存在が、いつ敵になるかわからない。
そんな世界で、彼女の支えとなるものはひとつだけだった。
ミナは小さく囁くように言った。
「……ライルさんは、裏切らないですよね?」
ライルは驚いた顔をし、
すぐに安心させるように微笑んだ。
「当たり前です。
私はあなたを守るために生きているようなものですから」
その言葉に、ミナの胸の不安が少しだけ溶けた。
◇◇◇
通路の先に微かな外光が差し込み始めた。
出口が近い。
だが、ライルは突然ミナの前に腕を伸ばし、彼女の肩を押さえた。
「止まってください」
「え?」
彼は静かに膝をつき、地面に触れた。
その表情が険しくなる。
「ミナ……罠です」
「罠?」
そこにあったのは――
通路の出口付近に仕掛けられた、魔術式の“封鎖陣”。
踏めば出口全体を崩落させ、外へ出られないようにする罠だ。
ライルは歯を食いしばった。
「……ギルド側に裏切り者がいるのは、間違いありません」
「なんで……なんでそんなことを……」
ミナは唇を震わせる。
逃げ道すらも、操られている。
世界が彼女を追いつめるように閉ざしていく。
ライルはミナの手を握り、力強い声で言った。
「大丈夫です。抜け道は必ずある」
「本当に……?」
「あなたを王都に連れ戻したくない人間も、確かにいます」
「エステルさん……?」
「はい。そして……もう1人」
ミナは首をかしげる。
「もう1人?」
「――“俺自身”です」
ミナは一瞬、呼吸を止めた。
「俺はもう……あなたを失うのが耐えられない」
それは、いつもの優しい口調ではなく、
胸の奥の本音が零れ落ちるような声だった。
ミナの胸が熱くなる。
その言葉は、どんな魔法よりも強く、
不安を包み込んでくれる。
だが、次の瞬間。
外で雷鳴のような轟音が響いた。
……ドォォォォンッ……!
ミナが驚いて声を上げる。
「い、今の何……!?」
「魔力感知兵器……だと思います」
ライルの顔が強張る。
「監察局が使う高位探査魔具です。
この森全体を探るもの……
恐らく、こちらの位置を正確に把握したはずです」
ミナの顔から血の気が引いた。
「じゃあ……またすぐ追いついてくる……?」
「はい。おそらく“数分以内”です」
ミナは震える膝で立ち上がった。
「逃げなきゃ……でも、出口は罠だし……」
「別ルートに賭けるしかありません」
ライルは地面の罠を解除しようとしたが、
魔術式は三重構造で、時間がかかりすぎる。
「ミナ、俺の後を」
「うん……!」
二人は通路の壁を調べ、
違和感のある石を発見した。
ライルが押すと、ガコンと重い音がして、
壁の一部が僅かに奥へスライドした。
「隠し扉……?」
「ギルド本部が昔使っていた“脱出ルート”の一部です。
正式には封印されていますが……」
ライルは薄い笑みを浮かべた。
「非常時には役に立つんですよ、こういう“忘れ去られた道”は」
ミナは思わず笑った。
緊張と恐怖の中で、
彼が見せるわずかな余裕でさえ、胸を温めた。
二人は扉を抜け、急な階段を駆け上がる。
背後では、通路の奥から複数の足音が迫っていた。
「ミナ――!」
ライルの叫びとともに、二人は地上へ飛び出した。
◇◇◇
外に出た瞬間、眩しい光が二人を包んだ。
黒樹林の東端――急流の川のほとりだ。
ミナが川の音に気づき、顔を上げる。
「助かった……の……?」
「いえ……戦いはこれからです」
ライルは後ろを振り返る。
通路の入り口から、灰影部隊の影が次々と姿を現し始めていた。
森を覆うような静圧。
逃げ場は、もうほとんどない。
ミナは川の水音を聞きながら、勇気を振り絞った。
「ライルさん」
「はい」
「……怖いです。でも、逃げるのはやめません」
ライルは彼女を見つめ、深く頷く。
「ええ……あなたの決意なら、俺は信じます」
そして彼は最後に一つ呟く。
「ミナ。
もし俺の過去があなたの足を引っ張ることがあっても……
それでも俺を信じてくれますか?」
ミナは瞳を丸くした。
「ライルさんの……過去?」
「いつか話します。
でも今は――」
追跡者たちの影が、木々の間から迫る。
ライルがミナの手を握りしめた。
「進みましょう。
また、二人で」
ミナは強く頷いた。
「……うん。一緒に――行こう」
そして二人は川沿いの道へ走り出した。
背後で、灰影部隊の影が密林を覆い、
その視線には
“逃がす気はない”
という冷えた意思が宿っていた。




