9
王都監察局――通称「灰色の使者」。
彼らは王命の影となり、禁忌の捜査と諜報を担う者たち。
その足が、ついに勇者一行へと迫っていた。
深夜の森。
冷えた風が木々を揺らし、小枝が折れる音が静寂を裂く。
その中を、ライルとミナは息を潜めて進んでいた。
「……大丈夫、歩けますか?」
「はい……まだいけます……」
ミナは肩で息をしながらも頷いた。
体はふらつき、魔力欠乏から立ちくらみが続いている。
赤い風を鎮めた代償は、まだ深く彼女に残っていた。
ライルは彼女の手を引きながら、慎重に足場を確認して進む。
後方には、まだ消えぬ松明の明かりがちらついている。
――灰色の使者はすでに追ってきている。
逃げ道は多くない。
早く、山を越えなければならない。
「ライルさん……」
「はい」
「さっきから……震えてませんか?」
「寒いだけです」
「……嘘つき」
ミナが弱く笑う。
だが、その微笑みには怯えと不安が混ざっていた。
「怖いんですよね……私が捕まったら」
「……当たり前です」
ライルは少しだけ強く彼女の手を握った。
「あなたを手放したら、この世界は、本当に取り返しがつかなくなる」
「世界、なんて……そんな大きな話じゃなくても……
私は、“私として”いられなくなるのが、怖いです」
その言葉は、夜風に溶けるように小さかった。
「このままじゃ……また王都に閉じ込められて……
私じゃない“誰かの勇者”にされる……」
ライルは立ち止まり、ミナの肩を包む。
「大丈夫だ。
俺が……俺だけが……あなたの“本当の姿”を見ている。
誰が何を言おうと、あなたはあなただ」
ミナの目が潤み、息が震えた。
「……信じてもいい?」
「もちろんです」
その瞬間、風向きが変わった。
――足音。
複数。
重装備の兵士が、森を包囲するように近づいてくる。
「来た……!」
「ミナ、走りましょう!」
二人は木々の間を駆け抜ける。
湿った土が靴にまとわりつき、枝が頬を掠める。
「勇者ミナ! 王命により連行する!」
「抵抗すれば、補佐官グレイアードの命の保証はない!」
灰色の使者たちの声が、冷え切った夜気に響く。
ミナは振り返り、小さく唇を噛んだ。
「どうして……どうして私じゃなくて、ライルさんを脅すの?」
「あなたには“価値”があるからですよ……!」
「……そんなの、間違ってます!」
涙が零れそうになるのを堪え、
彼女は走り続けた。
◇◇◇
森を抜けると、崖に沿うように細い山道が続いていた。
息を切らしながら登る二人。
背後では、灰色の使者たちが迫っている。
「ライルさん……あれ……!」
ミナが指差した先。
山の影に、低くうねるような音が広がっていた。
――黒い霧。
魔物の群れだった。
夜行性の魔獣が、追手にかすかに反応して動き始める。
「最悪のタイミングですね……!」
ライルはミナの前に立ち、防御魔具を展開した。
淡い青色の盾が霧の気配に反応して震える。
「ミナ、絶対に下がらないでください!」
「でも……魔物が……!」
「今のあなたが魔法を使えば、また倒れます!」
ミナは歯を食いしばり、後退した。
魔物の赤い目が暗闇に光り、唸り声が響く。
灰色の使者たちもまた、魔物に遭遇し足を止めた。
その混乱が、僅かな時間を二人に与える。
ライルは腰のポーチから小瓶を取り出し、地面に投げた。
「……支援魔具《退魔霧散》、起動!」
瓶が割れ、白い霧が立ちこめる。
魔物の視覚を奪い、動きを鈍らせる特殊霧だ。
だが効果は短い。
一分もすれば消えてしまう。
その間に、ライルはミナの手を強く引いた。
「今です、ミナ! 行きますよ!」
「うん!」
二人は細い山道を駆け上がった。
背後では魔物の咆哮、監察局の怒声、兵士たちの混乱――
それらが渦巻き、夜の森が混沌に沈む。
◇◇◇
山の中腹。
古い避難小屋がひっそり建っていた。
ライルはミナを中へ押し込み、扉を静かに閉じた。
外からはもう足音は聞こえない。
だが油断はできない。
ミナは荒い息を整えながら、ライルに尋ねた。
「逃げ切れた……んですか?」
「しばらくは安全でしょう。
ですが、ここに長く留まることはできません」
ミナは静かに座り込み、震える手で自分の胸を押さえた。
「私……役に立てなくて……ごめんなさい」
その声には、悔しさと無力感が滲んでいた。
ライルは膝をつき、彼女の目線に合わせた。
「ミナ。
あなたは戦うためにここにいるんじゃない。
あなたは……誰かを救うためにここにいるんです」
「でも……私は昨日、戦いを止めたのに……
今日、逃げることすらまともにできなかった……」
「逃げることは悪じゃありません」
ライルは彼女の手をそっと包んだ。
「この世界には、“信念を守るために逃げる戦い”もあるんです」
ミナの瞳に涙が浮かび、彼女は小さく頷いた。
「……ライルさんが言うなら……信じます」
「ありがとうございます」
ライルは扉に背を預け、外の気配を探る。
まだ遠くで狼のような吠え声が響いている。
「ミナ」
「はい」
「今日から、俺たちは“追われる身”になります」
ミナの表情が固くなる。
「王都は、あなたを取り戻すまで追跡を続ける。
監察局だけじゃない。
いずれ教会、軍部、貴族派閥も動き出すでしょう」
ミナは息を呑んだ。
「……そんなにたくさん?」
「あなたは“希望”でもあり、同時に“権力”なんですよ」
その言葉に、ミナはしばし絶句した。
希望であり、利用される象徴。
その事実が彼女の胸に重くのしかかる。
しかし、ライルは強く言った。
「だからこそ、あなたは“自分の光”を選べる場所に行かないといけない」
「自分の……光……」
ミナはその言葉を胸に繰り返す。
やがて、瞳が静かな意志の色を帯びた。
「ライルさん」
「はい」
「私……逃げるんじゃなくて、“進みたい”です」
その言葉は、弱い声なのに、不思議と強かった。
「王都に行かない。
でも、人を助ける旅はやめたくない」
ライルは目を見開き、
次の瞬間、小さく笑った。
「……なら、俺はその旅の先に立ちます」
「え?」
「あなたが迷わないように。
あなたの光が曇らないように」
ミナは頬を赤らめ、視線を落とした。
けれど、その横顔はどこか誇らしげだった。
◇◇◇
夜明け前。
小屋を後にした二人は、北の隠しルートへ進んでいた。
逃亡者としての旅が始まった瞬間、
東の空に、灰色の狼煙が上がった。
――監察局の追跡合図。
ミナが震える声で言った。
「……来ますね」
「来ます。でも――」
ライルはミナの手を握り、前を向いた。
「俺たちも、進みます」
その言葉とともに、朝日が昇り始めた。
夜は終わり、新たな逃避行が始まる。




