8
レニス北部の戦場が沈静化した翌朝。
落ちきらない煙の匂いと、湿った土の冷たさが、夜明けの空気に残っていた。
森の片隅に組まれた簡易の野営地では、傷ついた兵士たちが静かに眠っている。
ミナもその中の一人、小さなテントの中で安らかな寝息を立てていた。
その外で、ライルは焚き火の前に座り、報告書を握りしめていた。
――戦いは止まった。
だが、それは一時の静寂にすぎない。
赤い風を鎮めたミナの奇跡は、すでに王都へ伝わった。
王政、軍部、教会――
すべてが“勇者という存在”の価値を再確認する内容だった。
同時にそれは、“勇者を手元に置きたい”という欲望でもある。
と、馬の蹄の音が遠くから響いた。
ゆっくりと、しかし重いリズムで近づいてくる。
ライルは焚き火から目を離し、森の影を見た。
「来たか……」
灰色の外套を纏った六人の騎兵が、野営地に入ってきた。
外套の胸元には“王国監察局”の紋章が刻まれている。
彼らは王国でもっとも厄介な存在――
“王命を告げ、監視し、処罰を下す” 特殊部隊。
隊の先頭に立つのは、白髪混じりの鋭い目を持つ男だった。
「勇者一行補佐官、ライル・グレイアード殿だな」
「はい。あなた方が“灰色の使者”ですか」
男――監察局次官ルドリックは、淡々と巻物を差し出す。
「王都より密命を携えてきた」
巻物の封を切ると、短い文面が目に入った。
『勇者ミナを速やかに王都へ連行せよ。
以後の行動は、王宮監察局の管理下に置くものとする。
抵抗の際は、補佐官グレイアードに全責任を問う』
ライルの呼吸がわずかに乱れた。
――ついに来たか、と。
「勇者は疲弊し、未だ意識が不安定だ。
連行など不可能です」
「王命は絶対だ。状態がどうであれ、連れ帰る」
ルドリックの声は砂を噛むように冷たい。
「“赤い風”を鎮めたのは、勇者であると確認した。
その力は国家最高戦略資源。
野に置けば危険、逃せばもっと危険」
「勇者は道具ではない」
「黙れ。
貴様がどれだけ優れたサポーターでも、王命に逆らえば反逆者だ」
その瞬間、ライルの背に静かな怒りが灯った。
だが表情は崩さない。
監察局の使者たちは、挑発に乗る者を即座に“粛清”することで知られている。
「……勇者は今、眠っています。
まずは容体を確認して――」
「必要ない。我々が診断する」
監察局の一人がテントへ踏み出そうとした瞬間、
ライルの足がその前に立ち塞がった。
「それ以上近づけば、王命とはいえ職務逸脱です」
「何?」
「勇者の体は衰弱している。粗雑な扱いをすれば――死ぬ」
監察官たちの足が止まる。
ルドリックはライルを鋭く見た。
「脅しのつもりか?」
「事実を述べただけです」
「……よかろう。勇者が目覚めるまで待つ」
言葉こそ引いたが、彼らの目は“獲物”を見る目だった。
待っているのは監視、拘束、利用――
その先に“勇者の未来”はない。
◇◇◇
テントの中。
ミナは薄く目を開けた。
「……ライルさん?」
「起きましたか」
「なんだか……体が軽いような、重いような……」
「まだ動かない方がいい。あなたは一昨日、自分の命を削って戦争を止めたんです」
ミナはぼんやりと天幕を見つめ、
次にライルの顔を見上げた。
彼の表情の陰に、いつもとは違う“緊張”を感じた。
「……何か、あったんですね」
「鋭いですね」
「だって……ライルさん、眉間のしわがいつもの二倍です」
少し笑ったあと、ミナは真剣な瞳になった。
「教えてください。何があったんですか?」
ライルはため息をつき、彼女の枕元に膝をついた。
「王都から“灰色の使者”が来ました」
「灰色の……? 誰ですか、それ」
「王国監察局の実働部隊です。
王の命令を絶対に遂行する、“勇者を連れて帰るための部隊”です」
ミナは静かに息を呑んだ。
「……私を?」
「はい」
ミナはしばらく黙っていた。
その顔には、不安と怒りと、ほんの少しの諦めの色が混ざっている。
「王様は……まだ私のことを“神の子”って思ってるんですか?」
「ええ。
そして、神の子は“所有物”だと思っている」
ミナは目を伏せた。
「……ねえ、ライルさん。
私、怖いです。
またあの王都の部屋に閉じ込められて、
教会に囲まれて、
どんどん“私じゃない誰か”になっていくのが」
震える声。
ライルは彼女の手を握った。
「大丈夫です。あなたは、あなたです」
「でも……!」
「俺が支えます」
その言葉を聞いた瞬間、ミナの瞳から涙が溢れた。
「……信じて、いいですか?」
「はい。
あなたが俺を信じられなくなっても、俺はあなたを信じ続けます」
◇◇◇
夕暮れ。
灰色の使者たちは野営地の外で陣を組み、
勇者の護送準備を進めていた。
ライルはひとり、木陰で書簡を広げていた。
それは王都ギルド本部の“隠し符号文”――
信頼できる数少ない仲間が送ってきた秘密文書だ。
『監察局は勇者を“国家神殿中央区画”へ移送予定。
実質的な拘束。
反対勢力も動いている。
――君の判断に任せる』
“任せる”。
それはつまり――「ライル、お前はどうする?」という問いだ。
彼は手紙を握りしめ、夜空を見上げた。
月は出ていない。
風が冷たい。
――ミナを渡せば、彼女はもう“自分の意思”を持てなくなる。
――渡さなければ、自分が反逆者として処刑される。
どちらを選んでも、痛みは避けられない。
しかし――彼は決めていた。
“あの子を守る”と。
“あの子の光だけは誰にも奪わせない”と。
そう心に誓った瞬間、
背後から足音が近づく。
「決めたようですね」
振り返ると、月のない夜に紛れるように、
エステル・レイヴァンス隊長が立っていた。
王国騎士団の名将。
かつてライルの上官でもある。
「……盗み聞きとは、らしくない」
「あなたの顔に“覚悟した”って書いてあったから分かったのよ」
エステルは肩をすくめて言った。
「監察局の目的は勇者の保護じゃない。“制圧”よ。
ミナを渡せば、二度と外には出られない」
「知っています」
「じゃあ、どうする? ライル」
ライルは静かに言った。
「――俺は、勇者を渡しません」
その言葉を聞いたエステルは、
ほんのわずかに微笑んだ。
「……そう来なくちゃ」
そして彼女は、外套の中から一つの封書を差し出した。
封蝋には“ギルド本部”の印章。
「裏ルートで逃げられるよう、道を作っておいたわ」
「あなたは……味方なのか?」
「味方でも敵でもない。
ただ、“真実をねじ曲げるやり方”が大嫌いなだけよ」
エステルは背を向け、
「行きなさい、ライル。
勇者を“救えるのはあなたしかいない”」
そう言い残し、闇の中へ消えた。
◇◇◇
深夜。
ライルはミナの手を取り、静かに声をかけた。
「逃げます。覚悟はありますか?」
ミナの瞳には、恐れと決意の混じった光が宿っていた。
「……はい。
ライルさんと一緒なら、どこへでも」
彼女の声は震えていた。
だが、胸の奥には確かな信頼があった。
外では、灰色の使者たちが監視を続けている。
だが、二人は闇の中へと走り出した。
これから向かうのは未知の旅路、
“追われる勇者”と“裏切り者の補佐官”の逃避行。
それでも――
夜の風は冷たく、
星は一つも見えなかったが、
ミナは小さく笑って言った。
「……大丈夫です。
ライルさんがいてくれるから」
その言葉が、
ライルの胸の奥深くまで刺さった。




