7
レニスの町に近づいた頃、風の色が変わった。
乾いた空気に焦げた匂いが混ざっている。
山の向こうから立ちのぼる煙――それは、焼け落ちた集落の跡を示していた。
「……まさか、もう始まっている?」
ライルは馬上で眉をひそめた。
「王国の報告では、まだ交渉段階のはずだが」
ミナは不安げに空を見上げる。
「煙、すごいですね……」
「風向きが南。火の手はレニスの東側です」
「行きましょう!」
馬車を飛び降り、ミナは走り出した。
その背にライルが声を掛ける。
「勇者様、待って――!」
けれど、彼女の足は止まらなかった。
焦げた草の匂い、倒れた柵、土に染みた赤。
焼け跡の村に足を踏み入れた瞬間、ミナの胸が締めつけられる。
――人がいない。
倒れた家の影で、微かに呻き声がした。
「誰か……」
ミナが駆け寄ると、血まみれの兵士が倒れていた。
王国軍の紋章をつけている。
「しっかりしてください!」
「……お、おまえ……光の……」
「大丈夫、すぐ治します!」
ミナが手をかざすと、淡い光が兵士の体を包んだ。
しかし、治癒の途中で男の腕がミナの手を掴む。
「逃げろ……もうすぐ、“赤い風”が来る……」
「赤い……風?」
男はその言葉を最後に、息絶えた。
「ライルさん!」
「聞こえました。“赤い風”……。
この地方での俗称ですね。暴風のことか、それとも――」
ライルが言葉を切るより早く、
――山肌の向こうから吹き荒れる突風が襲った。
熱を帯びた赤い砂が空を覆い、視界を奪う。
ミナが目を押さえた瞬間、風の中から黒い影が現れた。
「敵襲っ!」
砂塵の奥から現れたのは、褐色の鎧を纏った男たち。
王国に反旗を翻したレニス独立軍――通称「砂狼団」。
槍を構えた彼らは、燃える村を背に、容赦なく襲いかかってきた。
ライルはミナの前に立つと、腰の魔具を起動した。
淡い青光が盾の形を描き、炎を弾く。
「後ろへ!」
「でも、戦わなきゃ!」
「あなたは治す方です。殺す必要はない!」
ミナは唇を噛んだ。
だが次の瞬間、敵の矢が飛んだ。
ライルが咄嗟に防御結界を展開し、火花が弾ける。
「くっ……!」
盾越しに見た敵の瞳は、恐怖よりも怒りに満ちていた。
彼らもまた、この戦の“犠牲者”なのだ。
◇◇◇
戦いが終わったのは、夜だった。
レニス近郊の森に、かろうじて身を潜める。
ミナは膝を抱えていた。
「私、何もできませんでした……」
「生きて帰ってきた。それだけで十分です」
「違うんです……」
彼女の手が震えている。
戦場で見た光景――人が人を斬る音。
火と血と叫び。
あの世界にはなかった“現実”だった。
「ねえ、ライルさん」
「はい」
「私、怖いです。
この力を使えば、誰かを助けられるけど……
誰かを傷つけることも、できちゃうんですね」
ライルは静かに頷いた。
「勇者の力は“両刃の剣”です。
光であるほど、影を生む」
「……じゃあ、私の光にも影があるんだ」
「そうです。
けれど、影を知ってもなお光であろうとするなら――
それが本当の勇者ですよ」
ミナは涙を拭い、微かに笑った。
「……やっぱりずるいです、ライルさん」
「またですか」
「慰め方が上手すぎるんです」
「年の功です」
彼女は少し笑い、そして静かに立ち上がった。
「行きましょう。
“赤い風”の正体、確かめなきゃ」
ライルも立ち上がる。
「了解しました。
勇者様の判断に、従います」
夜空には、燃えるような赤が残っていた。
それはまるで、この地を呪う風そのもののように、
ゆっくりと北へ流れていった。
◇◇◇
夜明けの光が、煙に染まった空を照らしていた。
焦げた風がまだ残る。土の匂いの中に、鉄と血の臭いが混ざっている。
その冷たさの中に、ライルとミナは立っていた。
「……ここが“赤い風”の発生源?」
ミナが顔をしかめる。
目の前の谷には、無数の金属筒が並んでいた。
王国が開発した“魔力拡散兵器”――正式名《熱導式魔素噴射装置》。
魔力を圧縮し、熱波として放出する。
風のように吹き荒れ、町を焼き尽くす。
「……王国の兵器?」
「はい。恐らく実験段階だったものが、暴走したか、意図的に使用されたか」
「つまり……これを使ったのは、王国側?」
「可能性が高い」
ミナは信じられないように首を振った。
「だって、王都では“和平交渉中”って……!」
「戦争はいつも、報告より先に始まります」
言葉が、胸に重く沈んだ。
ミナは拳を握る。
「どうして……どうして“人を守るための国”が、こんなものを作るの?」
「守るために作った兵器が、守る対象を変えることはよくあります。
“支配する平和”を作るために」
風が吹く。
赤い砂が舞い、頬を打つ。
それはまるで、戦争そのものが“風の姿”をしているかのようだった。
◇◇◇
山腹の小さな洞窟。
避難していた子どもたちと負傷兵が、弱々しい声を上げていた。
ミナは次々に治療を施しながら、息を切らしていた。
光が手から溢れ、汗が頬を伝う。
「ミナ様! もう魔力が――!」
「大丈夫です……まだ、いけます……!」
その目は強く、まっすぐだった。
“誰かを救うために力を使う”――それが彼女の信念。
けれど、治癒魔法を重ねるたび、ミナの肌は蒼白に変わっていく。
ライルが彼女の肩を掴んだ。
「もう限界です。命力が減衰しています!」
「でも、まだ助けを求めてる人が――!」
「あなたが倒れれば、誰も助けられない!」
ライルの声に、ミナの動きが止まる。
沈黙の中、遠くで爆発音が響いた。
「……また、兵器が」
「ええ。撤収を急ぎましょう。残存部隊が近づいています」
◇◇◇
夕暮れ。
空が真っ赤に染まる中、ライルとミナは丘の上に立っていた。
その下では、王国軍とレニスの反乱軍が衝突を始めている。
火と煙が混じり、風が血の匂いを運んでくる。
ミナは震える声で言った。
「止めないと……! あんなの、誰も幸せになれない!」
「無理です。今のあなたでは、この規模の戦は止められない」
「それでも、何かできるはず!」
ミナの光が強まる。
胸の奥に残る最後の魔力が燃え上がる。
「ミナ!」
「ライルさん、お願いがあります」
彼女は真剣な瞳で彼を見た。
「もし私が、暴走したら……止めてください」
「そんなことは――」
「お願いします!」
その声には、迷いがなかった。
ライルはしばらく黙り、ゆっくりと頷いた。
「……分かりました。約束します」
ミナは微笑み、両手を広げた。
風が強まり、光が広がる。
その輝きは戦場全体を包み、兵士たちの動きを止めた。
「お願い……戦わないで……!」
声が届いた瞬間、光が爆ぜた。
赤い風が一瞬で消え、空気が凪ぐ。
兵士たちの剣が手から落ち、
熱気が消え、炎が鎮まる。
――沈黙。
それはまるで、世界が息を止めたようだった。
しかし次の瞬間、ミナの体が崩れ落ちた。
「ミナ!」
ライルが駆け寄る。
彼女の体は熱を失いかけ、光は弱く脈動していた。
「また……無茶を……」
「でも……戦いは、止まった……でしょう?」
「代償が大きすぎる」
「ううん……これで……よかった」
ミナは微笑みながら目を閉じた。
「ねえ、ライルさん」
「なんですか」
「人が……人を救えるって、やっぱり……本当でしたね」
ライルはその手を強く握った。
「ええ。あなたが、それを証明した」
遠くで風が吹いた。
もう、赤くはない。
澄んだ透明な風が、二人の頬を撫でていく。
◇◇◇
夜。
野営地の灯の中で、ライルは報告書を開いていた。
筆が震える。
――“勇者ミナ、赤い風を鎮め、戦乱を一時停止せしむ。”
――“魔力消耗甚大。生命力低下。意識混濁。”
報告書の最後に、彼は小さく一文を加えた。
『勇者は、誰よりも“人間らしく”光を放った。』
彼は視線を夜空に向ける。
月が雲間から顔を出し、静かに輝いていた。
その光は、ミナの中の“本物”の光にどこか似ていた。
「……あなたの光は、まだ消えていませんよ」
ライルの呟きは風に溶け、
再び穏やかな夜が訪れた。




