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王都セリオンの朝は、いつも荘厳だった。
神殿の鐘が七度鳴ると同時に、王城の大広間では一世一代の儀式が執り行われていた。
魔導士たちの詠唱が重なり、空気が震える。
床に描かれた巨大な魔法陣が眩く輝き、その中心に、ひとりの少女が現れた。
肩までの焦げ茶の髪。灰色の制服。手には薄い黒い板――スマートフォン。
彼女は瞬きを繰り返し、ぽつりと呟いた。
「……え、ここどこ?」
静寂が広間を満たした。
王も神官も騎士も、誰もが言葉を失う。
召喚の間に立ち会っていたギルド専属サポーター、ライル・グレイアードは、ため息をひとつ落とした。
彼の仕事は本来、冒険者たちの行動支援や物資補給、危機管理である。
戦闘とは無縁。剣も魔法も扱えない。
それでも王命が下り、彼はこの儀式の「後方監督」として派遣されていた。
そして、今目の前にいる少女が――神託により選ばれた“勇者”だという。
「これが……勇者様、ですか」
ライルの呟きに、隣の魔導士が頷く。
「神託は確かです。異界より救世主が現れると」
「……救世主、ね」
ライルは眉間を押さえた。
召喚された少女は、依然として状況を理解していない。
不安そうに周囲を見回しながら、スマートフォンを掲げた。
「ねえ、これ、電波入ってる? あ、Wi-Fiは? え、圏外? マジで?」
誰も理解できない単語を並べる彼女を前に、宮廷魔導士が青ざめた。
王は咳払いをひとつして、威厳を保ちながら口を開く。
「勇者よ。そなたは神に選ばれし者。この世界を脅かす魔王を討ち、平和を取り戻す使命を負う者である」
「……魔王?」
少女――一ノ瀬ミナは小首をかしげた。
「それって……ゲームのラスボス的なやつ?」
空気が凍った。
ライルは心の中で深く祈った。
――どうか、この世界が今日一日だけでも滅びませんように。
任命式が終わると、ギルドの使者が王に進言した。
「勇者の管理には、ギルド本部から専属の補助員をつけるべきかと」
「うむ。誰が適任か?」
「……このライル・グレイアードでございます」
名を呼ばれた瞬間、ライルは顔を引きつらせた。
「陛下、それは誤解です。私は物資管理専門で――」
「心得ておる。ゆえにそなたに任せる」
命令は絶対だった。
こうして、彼は“非常識な勇者”の監督役として同行することになった。
◇◇◇
初日の同行は、王都を出てすぐに波乱へと変わった。
街道を歩く勇者は、見たこともないものにいちいち反応しては立ち止まる。
「わっ、馬! 本物の馬だ! かわいい〜!」
「勇者様、隊列を乱さぬようお願いします」
「だって触りたいんだもん!」
「噛まれますよ」
ライルの忠告は、軽やかに無視された。
昼食の際にはさらに混乱が広がる。
携帯食糧を取り出すライルを見て、ミナは眉をしかめた。
「え、これパン? ……お米ないの?」
「この地方では麦が主食です」
「えぇ〜、パン飽きるんですけど」
「……贅沢を言わないでください」
勇者というより、修学旅行中の高校生だった。
しかしライルは、彼女を責めることはできなかった。
召喚されて数時間。見知らぬ世界に放り込まれた少女が、冷静でいられるはずもない。
彼は現実主義者だが、人の心の機微には敏感だった。
この異世界に適応できるようになるまで、時間が必要なのだ。
そう理解しながらも――胃痛だけは止まらなかった。
◇◇◇
日が傾き、最初の宿に着く頃。
ミナは馬車の中で丸くなり、スマートフォンの画面をじっと見つめていた。
光らない画面に、映るのは自分の顔だけ。
「……帰りたい」
かすかな声が漏れた。
ライルは、その言葉を聞かなかったふりをした。
彼女にかける言葉を、まだ持ち合わせていなかった。
代わりに荷台から毛布を取り出し、そっと彼女の肩に掛けた。
「風が冷えます。今日はもう休んでください」
「……うん。ありがと」
その一言に、彼は小さく微笑んだ。
――守る対象としてではなく、“ひとりの人間”として見られた気がした。
◇◇◇
翌朝、ギルド本部から緊急の伝令が届いた。
近隣の村が、魔獣の群れに襲われているという。
勇者パーティへの初任務が、早くも舞い込んだのだ。
ライルは頭を抱えた。
まだ準備も整っていない。武器の扱いも知らない少女を、危険地帯へ連れていくなど――。
「待ってください。訓練もなく現場に出すのは――」
彼の反対を、王の使者は一言で切り捨てた。
「命令です。勇者様の力を示す好機とせよ」
ミナはそんな空気をよそに、瞳を輝かせた。
「人が困ってるなら、助けに行こう!」
ライルは言葉を失った。
その笑顔には恐れも疑いもない。
ただ、真っすぐに“人を救いたい”という意思だけが宿っていた。
「……了解しました」
彼は深く息を吸い、いつもの冷静な声で応じた。
「勇者様、準備を始めましょう。食料、水、薬草、予備の装備――全て俺が用意します」
「ありがとう、ライルさん! 頼りにしてる!」
その明るい声に、彼の心はわずかに揺れた。
――そうか。
この旅は、予想よりも厄介で。
けれど、思っていたよりも――退屈ではなさそうだ。
王都を出発して三日。
勇者一行は、最初の目的地である交易の町・バルストへと辿り着いた。
高い石壁の向こうからは、荷馬車の車輪が軋む音、人々の喧噪、そして香辛料の匂いが漂ってくる。
ミナは馬車の窓から身を乗り出し、子供のように目を輝かせた。
「すごい……まるでテーマパークみたい!」
「……テーマパーク?」
隣の座席に座るライルは、聞き慣れない単語に眉を寄せた。
「遊ぶために作られた街のこと、です!」
「この町は交易と金のために作られました」
「えぇ〜、夢がないですね!」
ミナの率直な感想に、ライルは乾いた笑いを漏らした。
彼女は良くも悪くも真っすぐすぎる。
町の門番に旅券を見せ、関所を通過するまでのあいだも、興味津々であらゆる物を見つめていた。
「わあ、鎧着てる人がいっぱい! コスプレのイベントでもあるのかな?」
「……勇者様。彼らは衛兵です」
「えっ、本物? 剣も本物?」
「ええ。本物です。ですから不用意に触らないように」
ミナが一歩近づいた瞬間、衛兵のひとりが怪訝そうに睨んだ。
ライルは慌てて彼女の肩を押さえ、小声で諭す。
「この国では、兵士に触れるのは無礼とされています」
「そ、そうなんですか。……知らなかった」
落ち込んだように肩をすくめる彼女を見て、ライルは少しだけ胸が痛んだ。
異世界に来てまだ数日。
知らないことばかりなのは、当然だ。
それを怒るのは筋違いだと分かっている。
ただ――問題は、彼女が学習するよりも速く、次の非常識を披露していくことだった。
◇◇◇
市場に入ると、色鮮やかな屋台が軒を連ねていた。
香辛料、果物、織物、武具。あらゆる商品が並び、人々の声が飛び交う。
「すごい! 賑やかですね!」
ミナはきらきらした目で屋台を見回すと、唐突に言った。
「値札ってないんですか?」
「え?」
「だって、いくらか分からないと買えないじゃないですか」
商人たちが一斉に目を丸くする。
この国では、値段は交渉で決まるのが常識だ。
買い手が口を開く前に値を示すことは、“自らの商魂を腐らせる行為”とされていた。
「交渉制、です」
ライルが小声で説明すると、ミナは目を瞬かせた。
「え、じゃあ“値切り”放題?」
「……概ね、そうです」
「よーし! 任せてください、スーパーのセールで鍛えた交渉術!」
勇ましい宣言を残し、彼女は果物屋の前に突撃した。
「このリンゴ三個で一銀貨? 高い! 半分にしてください!」
「な、なにっ!? 勇者様、それは――」
「だって向こうの屋台はもっと安いですよ!」
「比べるな! 品質が違う!」
あっという間に周囲が騒然となった。
衛兵が何事かと駆け寄る中、ライルは頭を抱える。
彼女に悪意はない。
ただ、あまりにも“この世界を知らなすぎる”のだ。
ライルは慌てて間に入り、穏やかに場を収める。
「申し訳ありません。この者は異界からの召喚者でして、まだ慣れておらず……」
商人が額の汗をぬぐい、ため息をつく。
「頼むぜ、旦那。勇者様ならなおさら、言葉には気をつけてくれ」
「心得ています。以後、私が同行します」
ミナは反省したように頭を下げた。
「ごめんなさい……なんか、空気読めなかったみたいで」
「ええ、少しだけ」
「“少しだけ”って言い方が優しいですね」
「そう言わないと胃がもたないので」
そのやり取りに、周囲の緊張が少し和らいだ。
◇◇◇
昼下がり、宿の確保を終えた後。
ライルはギルド支部で報告書を書いていた。
勇者の行動記録、補給状況、旅程の安全確認――本来ならば、淡々と処理すれば済む仕事だ。
しかし今回は違った。
報告欄のほとんどが“想定外”の出来事で埋め尽くされている。
「勇者様、市場で値切り交渉を敢行。軽度の混乱を招く」
「勇者様、露天商に“ポイントカードはありますか”と質問」
「勇者様、街路樹の下で昼寝を試みる」
ライルはペンを止め、深く息を吐いた。
この調子で魔王討伐まで辿り着けるのか。
だが、不思議なことに――不安だけではなかった。
その日、宿の部屋の窓辺で。
ミナが猫のように窓枠に腰掛け、沈む夕陽を見つめていた。
ライルが声をかけると、彼女は小さく笑った。
「ねえライルさん、この世界って、ちょっと不便だけど……すごく綺麗ですね」
「そうですか?」
「うん。空気が澄んでるし、人の声が近い。スマホがなくても、ちゃんと温かい」
夕陽が彼女の頬を照らし、風がカーテンを揺らした。
その瞬間、ライルは言葉を失った。
――この少女は、ただの“異世界人”ではない。
どこか、この世界が忘れていた“まっすぐさ”を持っている。
「……勇者様」
「ん?」
「明日からは、もう少し周囲を見て行動をお願いします」
「えへへ、努力します!」
まるで子供のような返事だった。
ライルは苦笑し、窓の外に目を向ける。
――きっと、この旅は長く、厄介で。
けれどその分だけ、彼の世界を少しずつ変えていくのだろう。




