エピローグ
ある男が教会の一番後ろの椅子に座っていた。その隣に見知らぬ女が座る。
「祈らないんですか?」
女は男を見ずに、前だけを見つめている。男はチラリと女に目をやって答えた。
「祈らなければいけませんか」
「いいえ。…神様を信じていないんですか」
女は未だ男を見ず、男も女に倣うように前を向いた。
「そんな非科学的なもの信じません」
男は何の迷いもなく言い切った。教会という神を奉る場にいるのに、口にしたその発言は異質だった。
「では、なぜここへ?」
ここでようやく女は男の方を向いた。男はそれに気づいたが、女の方を見ずに答える。
「どうしても教会に行かなければいけない気がする時があるんです」
男はぼんやりとどこか遠くを見ているように見えた。その顔を女はじっと見つめている。男の中に何かを探しているかのように。
「けど、それだけです。それだけだから、祈りません。祈ってはいけない気がするんです」
「そう、ですか…」
女はまた前を向いた。
「私と同じなんですね。私もどうしてか来てしまうんです」
その言葉に男は女の方を見る。その視線に惹かれるように、女は男と目を合わせた。
「教会と…後、時々神社にも」
女は困ったように笑った。男はそれを見て、緩く笑みを浮かべる。
「僕もです。キリスト教徒でも仏教徒でもないのに不思議ですよね」
その言葉に女は、そうですね、と柔らかく答えた。女は、よくわからない衝動を理解してもらえる相手が現れて、自分は幸福だ、と思った。男も同じで、途端に世界が美しいものであるような気がした。
「名前を聞いても?」
「ルナです。母がルシナという月の女神が好きで、それからとってルナ」
ルナは苦笑しながら答える。仰々しくて、自分の名前が苦手だった。
「いい名前ですね。気高く、美しい、あなたにぴったりだ」
ルナはびっくりして目を丸くした。そして、頬を染めてはにかむ。
「ありがとうございます。そんな風に言われたの初めてです。キツイ見た目にぴったりだとはよく言われるんですけど…。ふふ。嬉しいです」
嬉しそうに笑むルナは本当に月の女神のように美しかった。そして、あなたのお名前は?と男に尋ねる。
「僕はリンドウと言います」
リンドウは女の美しさに胸を打たれながら答えた。ルナはリンドウの名を聞いて、思わずリンドウの手を取った。
「私、リンドウの花好きなんです!後、紫苑の花も」
「本当ですか!僕も紫苑の花好きなんです」
リンドウは嬉しくなってルナの手を握り返した。そうして、勢いのままに言葉を紡ぐ。
「今度一緒に紫苑の花を見に行きませんか?」
ルナは幸せそうに笑って、是非、と答えた。そして、連絡先を交換しようとした時に、お互いの手を握りしめていることに気がついた。2人は照れて顔を赤くしながら笑い合った。
これが2人の出会いだった。
◆◆◆
窓の外には紫苑の花が揺れている。紫苑が咲き乱れる秋は2人が最も好きな季節だった。
暖かな部屋でソファに座っているルナは優しい手つきで大きなお腹を撫でていた。愛おしむようなその姿は、誰をも幸福にする空気を持っている。
「ルナ」
キッチンから戻ってきたリンドウは、温かいルイボスティーが入ったマグカップを2つ持っていた。それをテーブルに置いて、ルナの隣に座る。
「ねぇ、この子の名前思いついたの」
得意そうに笑って、ルナはリンドウを見る。それに、ニヤリと笑い返したリンドウは、俺も思いついた、と言った。ルナはその言葉に驚くこともなく、やっぱり?とお腹に視線をやった。
今、ルナは妊娠している。もう臨月だった。
「ふふ。せーのでいくわよ」
「せーの「シオン!」」
やっぱり同じだったわね、とルナは笑う。そんなルナを見てリンドウはケラケラと笑って、当たり前だろ、なんて言う。
「俺らは紫苑がなければ、繋がらなかった縁だろ」
「そうね。あの日、教会の話だけじゃ、連絡先を交換なんてしなかったわ」
紫苑が私たちを繋いでくれた、とルナは初めて会った時のことをうっとりと思い出す。リンドウはそれが心底嫌で、顰めっ面になった。
「思い出すなよ。てか、忘れろ。あの時の猫被ってる自分がキモくて死にたくなる」
げっそりしているリンドウを見て、ルナはクスクスと可笑しそうに笑う。
「あれはあれでよかったわよ?優しくて誠実そうな感じがしたもの」
「あっちの方が良かったって?」
「それはないわ。今のあなたの方が好きだもの」
ね?とお腹に話しかけるルナを、リンドウは愛おしむように見ていた。
幸せだ、とリンドウは思う。そして、ようやく全てが揃ったような充足感を感じていた。ずっとこの日を待っていたような、そんな気持ちが胸に込み上げてくる。何がかはわからないけれど、ようやく…ようやくなのだ。
そんなことを思いながら、ルナを見ていると、何故かルナは苦しい覚悟を決めたような翳った表情を浮かべた。
「今度こそ幸せにするから」
「今度もだろ」
リンドウは優しくルナを抱きしめる。
2人ともどうしてそんなことを言ったのかわからない。ただ、口に出すことで、どうしても幸せにするんだ、という気持ちが強く湧いた。それと同時に、もう一度、という言葉が心を占拠した。そう、もう一度なのだ。この感覚が何なのかはわからない。ただ、この気持ちを大切にしなければいけないということだけは確信していた。
「そっか。今度も、ね」
柔らかい雰囲気に戻ったルナに、リンドウは体を離した。ルナはいつものように笑っている。そのままでいてほしい。その表情のまま生きてくれたら他に望むものはない、そう思う。
「あなたって本当に優しいわね」
言われている意味がわからなくて、リンドウは眉を寄せた。猫を被っているならまだしも、素の状態でそんな風に言われることは滅多にない。
「なのに、不思議なの。あなたのことを愛しているのに、時々他の道があったんじゃないかって思うの」
「なに、浮気でもしてるって?」
ルナが可笑しな話をするのもだから、リンドウは揶揄うように茶化した。別に不快だったわけではない。純粋に否定するルナを見たかったのだ。
「まさか。あなたが旦那様なのにそんなことする必要を感じないわ」
性格の悪さを除いたらあなたかなりハイスペックなのよ?とルナは酷い言い草だ。言い返したいところだけれど、リンドウ自身自覚があるのでそれはやめにして、違うことを口にする。
「完璧な人間といると心苦しくて、息が詰まるらしいけど?」
リンドウはそういいながらケラケラ笑う。自分が不快に思う返答など返ってくるわけなどないとわかっているからこそ、戯言を言って楽しめる。
「心苦しいねぇ。そんな殊勝な考え方私にはないわ」
ルナはリンドウの言葉を鼻で笑った。
そもそも心苦しく感じるような相手なら結婚なんてしていない。全てがぴったり噛み合ったからこそルナはリンドウを選んだし、リンドウもルナを選んだのだ。だから、こんなものただの言葉遊びだ。そして、2人はこんな時間が好きだった。
「まぁ、お前もハイスペックだしな。思う要素があんまりないのかねぇ」
「そんなことないわよ。ただ、あなたがいてくれて良かったって思うことが格段に多いだけよ」
ルナはなんてことない風に口にしたけれど、リンドウにとってその言葉は、なぜだか胸が震えるほど嬉しい言葉だった。それを誤魔化すために口を開く。
「あっそ。まぁ、俺も、お前の相手は俺じゃないな、って思うことあるしな」
リンドウはサラッとそう口にする。それは、ルナが感じるものと全く同じ感覚で、既視感のようなものと一緒に訪れる。
「そうでしょ?」
「…俺もお前のこと愛してるんだけどなぁ。なーんか、違う気がするんだよな。けど、違うやつと結婚するくらいなら、絶対俺の方がいいし、俺の方が幸せにできるって思う」
不思議な感覚だよなぁ、とぼやきながらリンドウは言い切った。リンドウにとってこれは間違いない真実なのだ。
こうして感覚的なところを共有できることは2人にとって欠かせないことだった。2人はなぜだか1人では抱えきれないような感情や感覚を感じることがある。それは今のようなものもそうだし、どうしても教会に行かなければ、と思う心もそうだった。
だから、こうして、違う道があったのではないか、と考える癖に、2人は自分たちの出会いを運命だと思っている。
「あ、今蹴ったわ!」
お腹を撫で続けていたルナが、嬉しそうに声を上げる。さっきまでの不思議な空気は霧散し、幸せな家庭の空気が戻ってくる。
「私、この子の靴下でも編もうかしら。初めてだけど、それくらいならどうにかなる気がするの」
「なら、その前に俺になんか編めよ」
いつものように、リンドウがふざけた調子で言うものだから、ルナもふざけた調子で言葉を返す。
「なあに、ヤキモチ?」
ルナがニヤニヤと笑ってリンドウを見ると、リンドウは少し口を尖らせた。
「んなわけないだろ」
リンドウはそう言って、ルナから視線を逸らして、そして、柔らかく愛おしげな笑みを浮かべた。そんな顔初めてで、ルナは少し驚いていた。
「ただ言わなきゃいけない気がしたんだ」
リンドウはルナの方を見てニッと笑った。そして、意地悪そうな笑みを浮かべ、続ける。
「なーんか、コイツのことイジメ倒さなきゃいけない気がするんだよなぁ」
そうして、優しくルナのお腹に手を当てる。リンドウの表情は、シオンのことが愛おしくてたまらないことを素直に表していた。
「最低ね」
ルナはツンとした表情でそう言ったけれど、耐えられなくて笑ってしまっていた。リンドウは、クスクスと笑うルナの頬を突いて遊ぶ。
「お前だってなんか感じただろ」
リンドウは愉しげに笑ってルナに問いかける。
「私はどうにかしてインドアな子にしなきゃいけない気がしてるの。この子外に出たら事故に遭うと思うの」
ルナは、笑いながらも眉を下げて困っている。そして、さらに続けた。
「この子が死んだら私死んじゃうから…。あなたもそうでしょう?」
「………そうだな」
2人は胸を締め付けられるような感覚に陥った。どうしてこんな感覚に襲われるのかわからないけれど、もう死なせない、と誰かが叫んでいる気がする。
「もう縁起悪そうな話、やめようぜ。シオンもルナも俺が守るから」
真面目な顔で話すリンドウを見ていたルナは、無性に泣きたくなって、それに逆らわず、涙を流した。見ると、リンドウも泣いている。
2人は互いの頬に手を伸ばして涙を拭い、微笑いながら泣いた。
どうしてこんなに涙が溢れるのかわからない。けれど、この涙は絶対に必要なものだと2人は感じていた。
「私ね」
泣き止んで目を腫らしたルナが、幸せそうにお腹を撫でる。
「シオンのことが誰よりも愛おしいの。別に血をわけた子供だからとかそういう理由じゃなくて、ただ純粋にこの子のことが愛おしくて恋しい。もちろんあなたよりも」
ルナは悪戯っぽく笑って、リンドウにそんなことを言う。リンドウは呆れたように、知ってる、と答えた。理由なんてわからないけれど、それでも知っているのだ、と。
「そんなお前を愛してるからそれでいいよ」
リンドウは優しくルナの頭を撫でる。ルナはまた少し泣いた。
2人は、否、3人は、これから幸せに生きていく。これからずっと。いつか願ったように。
これが私たちのハッピーエンドだ。




