4回目
その日は少し急いでいて、普段は通らない人気のない路地裏を歩いていた。人がいない道は考え事に適していて、ぼんやりと考え事をしながら歩く。
私は生まれた時から何か大事なもの無くしてしまっているような気持ちを抱いていた。けれど、それが何かわからなくて、ずっと胸の奥が気持ち悪い。最近ではなぜか焦燥感まで感じる始末だ。今日だって、胸がざわついていて、どうにかしなければいけないと叫んでいる。焦燥感は酷くなるばかりだ。
けれど、考えたところで解決するはずないことはわかっている。まあ、わかっていても時間があるとついつい考えてしまうのだけれど。
私はその無くしてしまった大事なもの囚われていた。
ふと、向こうから男が歩いてくるのが見えた。その男はやたらニコニコしていて、私のことを見ている。その顔はちゃんと笑っているのに、目の奥がドロリと濁っているように見えた。それが、少し怖い。けれど、急いでいるので知らないふりをしてすれ違ってしまおうと足を早めた。
もうすぐすれ違うというところまで来た時に、男は私に呼びかける。
「雪花ちゃん」
その声は蕩けるように甘い声だった。けれど、私の名前は雪花ではない。雪花ではないのに、私はなぜか足を止めていた。
それは、きっと恐怖の所為だけれど、それ以外の感情も存在していて、けれど、それが何かわからない。
ただただ体が凍りついたように動かない。
「リンドウ死んじゃったんだぁ」
その男は私の目の前に立っている。ニコニコと嬉しそうに。
私にはリンドウが何か分からない。文字通り花のリンドウなのか、リンドウというペットがいるのか、誰かの名前なのか。
考えようとしたけれど、すぐにそれどころではなくなった。その男はポケットから、サバイバルナイフを取り出した。私は逃げようと後ずさる。
「やめて!こっちに来ないで!やだっ!」
早く逃げなければ。叫びながら逃げようとするも、足が震えて上手く走れない。私はその場から数歩も動けなくて、今にも倒れそうだった。そんな私をさっきと変わらぬ表情で見ていたその男は、ゆっくりと私の腕を掴んだ。悲鳴をあげる私を気にすることなくその男は、ぐっと腕を引いて、そのまま腹の柔らかい部分に刃を突き立てた。逃して貰えるはずがなかったのだ。
刺された瞬間、何が起きたか分からなかった。ただ、腹部から激痛がして、声すら上げられない。歯を食いしばって立っているのがやっとだ。チラリと目線を下にやると腹からナイフが生えている。ナイフ、が。
それに気づくともう冷や汗が止まらない。だくだくと流れる冷や汗の所為か、段々と寒くなってくる。なのに、ナイフが刺さった腹部は熱くて熱くて、何も考えられない。脳内は痛いという言葉で埋め尽くされる。
───痛い痛い痛い痛い痛い。誰か助けて。誰か。×××!
「ごめんね。俺も逝くから赦して」
声を聞いて男の存在を思い出した。けれど、もう何を言っているか分からない。視界も暗く霞んで、どんな表情をしているかも分からない。
体の力が抜けていく。立っていられなくなった私を男が抱き止めて、そして、そのままその場に座り込む。胡座をかいた男は足の上で私を横抱きにして抱きしめた。
「でも、雪花ちゃんもリンドウも覚えてないのが悪いんだよ?」
男の声はもう音の羅列ということしかわからない。蕩けるような甘い声だということはわかるけれど。
「…置いてっちゃったのが悪いんだよ」
男は話し続ける。話せば話すだけ、辛そうな声音になっていく。何故だろう。私まで悲しくなってくる。
目元に何か熱いものが触れた。多分、私を抱きしめている男の手だ。
「泣かないで雪花ちゃん」
言っている言葉なんて1ミリもわからないのに、何かがダブって見えた。
「やっぱり泣いた顔より怒った顔が見たいよ雪花ちゃん…」
その声、その言葉、聞いたことがある…?私は。わたしの名前はなんだっけ。これをいったのはだれだった?いつきいたの?おもいだせない。おもいだしたいのに。わたしはこんなことちゃいけなかったはずでしょ…?わたしは。わた、しは…。
あ、あ、だめだ。も、う、いきを、するの、も、しん、どい。こ、きゅ、う、が、と、ま…
「雪花ちゃん…。死んじゃった?」
男は嗤っている。
「やっと…?やっと死んでくれた」
嗤っている。
「アハ、ハハ、ハハハハハ」
まるで狂人のようだ。なのに。
「アハハハハハハハハハハハハハハハハ」
どうして泣いているように聞こえるだろう。
「大丈夫、ちゃんと死ぬよ」
男はわたしの腹に刺さったサバイバルナイフを抜き、そのまま自分の喉に突き立てた。
鮮血が宙を舞い、血溜まりが広がっていく。男は私を抱きしめたまま倒れた。
───これは、心中、に、見える、だろう、か。もし、見える、なら、それなら、いい、や




