第十三話:反撃のデュオ、戒律に響く声
犬童イツキという絶対的な「ルール」の前に全てを失い、深い絶望を味わったあの日から、一週間が過ぎようとしていた。
天沢凪のアパートの一室は、以前の虚無的な静寂とは異なり、微かな生活感と、そして二人の人間の体温で満たされていた。床に散らばっていた雑誌や空のペットボトルは、いつの間にか陽乃花によって片付けられ、ローテーブルの上には、彼女が買ってきたのであろう菓子パンの袋がいくつか置かれている。
「うーん、やっぱダメか……。あたしのデバイスじゃ、これ以上の解析は無理みたい」
ローテーブルに突っ伏しながら、雪村陽乃花が力なく呟いた。彼女はここ数日、師匠が遺したデータチップの解析に没頭していたが、強力なプロテクトに阻まれ、核心的な情報には辿り着けずにいた。彼女が着ているピンクのオフショルダーニットが、その憂鬱な仕草に合わせて滑り落ち、華奢な肩のラインがあらわになる。凪は、その光景に一瞬目を奪われつつも、自身もまた、焦りと無力感に苛まれていた。
「オレもや。ただ声を出してみるだけじゃ、何も変わらん……」
凪も、手元に置かれた沈黙したままのペンデバイスを眺め、深くため息をついた。あの日、@Yui_Musubiから送られてきた(と思われる)「声…響き…旋律…」というメッセージ。それは、新たな力の可能性を示唆していたが、今の凪にはその扉を開ける鍵が見つからなかった。敗北のトラウマは、彼の心に重くのしかかり、かつてのように自由な発想で「言葉」を紡ぐことすら難しくさせていた。
「もーっ! ダメダメ! こんな暗い顔してても始まんないって!」
沈黙を破ったのは、やはり陽乃花だった。彼女は勢いよく顔を上げると、何かを思いついたように目を輝かせた。
「そうだ! 凪くん、ちょっとこっち来て!」
「は? なんや急に……」
「いいからいいから!」
陽乃花は、床に座り込んでいた凪の手をぐいっと引っ張り、自分の隣、ソファの上に座らせた。そして、彼女は凪の前に立つと、おもむろに自分のデバイスを操作し、軽快な音楽を流し始めた。
「こういう時は、体を動かすのが一番! 師匠にもよく言われたんだよねー。『思考が行き詰まったら、まず心と体を解放しろ』って!」
彼女はそう言うと、音楽に合わせてバレエの経験を活かしたしなやかなストレッチを始めた。脚を高く上げたり、大きく開脚したり。その度に、彼女が履いているフレア気味のミニスカートが、危うげにひるがえる。
(アカン……どこ見たらええねん、これ……)
凪は、目の前で繰り広げられる無防備な光景に、思わず視線を逸らした。しかし、陽乃花はそんな凪の動揺などお構いなしだ。
「ほら、凪くんもやってみてよ! 体、ガチガチでしょ!」
「いや、オレは……」
「いーいの! はい、深呼吸してー、腕上げてー」
陽乃花は、凪の腕を取り、無理やりストレッチの体勢にさせようとする。その時だった。
「あっ! そうだ、これ忘れてた!」
陽乃花が、何かを思い出したように叫んだ。彼女はデータチップの解析に行き詰まった腹いせに、フォルダの中を適当に漁っていたところ、一つだけ開けることができなかったファイルの存在を思い出したのだ。
「凪くん、ごめん、ちょっと待ってて!」
彼女は、凪のすぐそばに置かれていた自分のバッグに手を伸ばすため、ローテーブルに片膝を乗せ、ぐっと身を乗り出した。
その瞬間、だった。
バランスを取るために突き出された彼女の臀部。そして、その無防備な動きによって、ミニスカートが重力に逆らい、完全にめくれ上がってしまった。
凪の視界に、真正面から飛び込んできた、あまりにも鮮烈な光景。
黒いニーハイソックスに縁取られた、柔らかな太ももの内側。そして、その奥で、スカートの下に隠されていたはずの、淡いレモンイエローの生地が、その存在をはっきりと主張していた。サイドが繊細なレースで飾られた、少し大人びたデザイン。布地に食い込むようにして走る縫い目が、そこにある柔らかな膨らみの輪郭を生々しく描き出している。
それは、もはや「チラ見え」などというレベルではなく、あまりにも直接的で、扇情的な光景だった。
「な……あ……」
凪は、息をすることすら忘れ、時間が止まったかのような感覚に陥った。思考は真っ白になり、ただ目の前の光景が、強烈な色彩と情報量をもって脳に焼き付いていく。
「あったあった、このフォルダ! プロテクトが特殊でさー……」
陽乃花は、自分の下半身がどんな状態になっているか全く気づいていない様子で、夢中になってデバイスを操作している。その無邪気さが、この状況の背徳感をさらに増幅させた。
「……ほ、陽乃花さん……その……」
凪がかろうじて声を絞り出すと、陽乃花は「ん?」と不思議そうな顔で振り返った。そして、自分の格好と、顔を真っ赤にして固まっている凪の姿を見て、ようやく状況を理解した。
「きゃあああああああっっ!!」
短い悲鳴と共に、彼女は慌ててスカートを押さえ、ソファの隅に転がり込むようにして蹲った。耳まで真っ赤になっている。
「み、み、見た!? 今、見たでしょ! 最低! スケベ! ど変態!」
「いや、不可抗力や! お前がそんな無防備な格好するから……!」
「あたしは悪くないもん! 凪くんのえっち!」
しどろもどろの罵詈雑言が飛んでくるが、その声は涙声で、明らかに動揺しきっていた。
部屋には、これ以上なく気まずい沈黙が流れた。
数分後、ようやく落ち着きを取り戻した陽乃花が、まだ少し潤んだ瞳で凪を睨みつけた。
「……今の、忘れてくれなきゃ、一生口きいてあげないんだからね」
「……善処する」
「絶対忘れなさいよ!」
そんなやり取りの後、陽乃花は咳払いを一つすると、先ほどの隠しフォルダを再び開いた。
「……で、でも、見て! あったんだよ! 師匠が遺してくれた、緊急用のプロトコルが!」
画面に表示されていたのは、『リミッター解除シークエンス:コード“SPARKLE”』という文字列と、いくつかの複雑なプログラムコードだった。
「これ、多分あたしのバトルブーツのリミッターを強制的に外すためのものだよ! 師匠、万が一のために、こんなものまで遺してくれてたんだ……!」
陽乃花の瞳に、涙が滲む。それは師匠への感謝と、再び戦えることへの喜びに満ちていた。
「ほんまか!?」
「うん! これで、ブースターの出力が戻るどころか、前よりもっと速く動けるようになるかもしれない!」
陽乃花の言葉は、停滞していた空気を一変させる、希望の光だった。
「それに、凪くん!」陽乃花は、さらに画面をスクロールさせる。「師匠のメモに、TENJIN COREの“影”についての記述があった! 『極めて強力な法則支配型の“影”。その力は使用者の“声”による《ディクテーション》が起点となる。対抗するには、それを上回る“響き”による干渉、あるいは発動前の詠唱を妨害する必要がある』だって!」
「声による……響き……」
その言葉は、凪の脳裏に眠っていた、@Yui_Musubiからのメッセージと、そして先ほどまで忘れていた、自分の原点である「音楽」と、鮮やかに結びついた。
「……これや」凪の瞳に、光が戻る。「陽乃花、あんたのその新たな力と、オレのまだ不確かなこの“声”。二つを合わせれば、あいつのルールに一矢報いることができるかもしれん」
「あたしのスピードで隙を作って、凪くんが“声”でルールの発動を止めるってこと?」
「ああ。無茶な作戦なのは分かっとる。けど、これがオレたちの唯一の勝ち筋や」
「……よし、わかった!」陽乃花は、凪の目を見て力強く頷いた。先ほどのハプニングのせいか、彼女の頬はまだ少し赤い。「でも、その前に一つだけ! 凪くん、さっきの、忘れてないでしょ?」
「え?」
「あたしのパンツ。黄色だったでしょ? 黄色は金運だけじゃなくて、勝負運も上げるんだって! だから、今日のあたしたちはツイてるってこと! 絶対勝てるよ!」
「……そ、そうか」
彼女の強引すぎる理屈と、あっけらかんとした態度に、凪は毒気を抜かれ、思わず苦笑した。だが、そのおかげで、彼の緊張も少しだけほぐれた。
二人は、決意を新たにヴァルドギアに接続した。目的地は、因縁の場所、TENJIN COREのNexus Square(ネクサス広場)。
「――また来ましたか。学習能力のない方々ですね」
広場の中心で、犬童イツキ(ルーラー)が、変わらぬ無表情で二人を迎えた。
「うるさいわ、ルール野郎! 今日は、あんたのそのふざけたルール、あたしのスピードでぶち破ってやるんだから!」
陽乃花は叫ぶと同時に、リミッター解除シークエンスを起動させた。
「リミッター解除! コード、“スパークル”!!」
彼女のバトルブーツが眩いピンク色の光を放ち、その姿が掻き消える。次の瞬間には、ルーラーの死角に回り込み、強烈な蹴りを放っていた。
「おや、スピードが上がっていますね。ですが……」
ルーラーは冷静に陽乃花の攻撃をいなしながら、新たなルールを宣告しようと口を開く。
「《ディクテーション》――」
「させへんわ!」
その詠唱の瞬間に合わせ、凪は全ての感情を込めて叫んだ。それはまだ技として確立されていない、魂からの純粋な「響き」。自分の内なる「こだま」を、世界に叩きつける。
「うおおおおおおっっ!!」
凪の声が衝撃波となり、ルーラーの周囲の空間を揺さぶる。ルーラーの詠唱が一瞬だけ乱れ、彼の顔に初めて「不快」という感情が浮かんだ。
「今だ!」
その僅かな隙を、陽乃花は見逃さない。彼女の蹴りが、ついにルーラーの体勢を僅かに崩した。
「ちっ……ノイズの多い“声”ですね」
ルーラーは体勢を立て直し、再びルールを紡ごうとする。
「《ディクテーション》――『雪村陽乃花は、移動を禁ずる』」
(来る……!)
凪は、ルーラーの詠唱に合わせ、@Yui_Musubiのメッセージと、自分の音楽の記憶を必死に手繰り寄せる。
守りたい。陽乃花を。そして、自分たちの未来を。
その想いが、彼の口から具体的な「言霊」となって迸った。
「――その声よ、響きを失せろ(キャンセル)!」
凪の言葉は、ただの叫びではなかった。それは、明確な意志とリズムを持った「音の刃」となり、ルーラーが構築しようとしていたルールそのものに干渉し、霧散させた。
「なっ……!?」
ルーラーの顔に、今度は明確な「驚愕」の色が浮かぶ。
自分の絶対的なルールが、ただの声によって無効化された。その事実は、彼の論理的な思考を大きく揺さぶった。
「ポーン、すごい!」
「……いける。これなら……!」
凪は、この戦いの中で、自分の新たな力の使い方――〈Echo Drive〉を完全に覚醒させた。
パワーアップした陽乃花のスピードと、凪の覚醒した声の力。反撃のデュオは、今、絶対的な支配者に牙を剥く。
二人の共鳴が、TENJIN COREの歪んだ法則を打ち破ろうとしていた。
(第十三話:了)