切腹したい
「んー、あなた、よくない霊に取り憑かれてるわねぇ。詳しく言うと、昔の……そう、お侍さんね」
「やっぱりそうか!」
と、おれが思わず声を上げたところ、占い師はビクッとして、少し身を引いた。
え、まさか正解? といった顔を一瞬見せたので、やはりこの占い師はインチキで適当なことを言ったのだろう。しかし、我ながら都合がいいもので、おれは占い師にそう言われたことで確信めいたものを抱いた。
おれは幽霊に取り憑かれている。
異変を感じたのは一ヶ月くらい前だ。当初は、体に纏わりついているこの倦怠感は仕事の疲れだろうと思っていたのだが、一人なのに周りに誰かの気配を感じる瞬間があったり、ふと死にたいという希死念慮を抱いたり、ある夢を見たりと、最近では感じたその人の気配というのがどうも男であるようだと徐々に明らかになってきていたのだ。
そして、占い師に幽霊が取り憑いていると言われたことをきっかけに、その幽霊の姿が夢の中に色濃く現れるようになった。
髷を結い、白装束を着た男。侍の霊だ。しかし、おれに取り憑いたその理由がわからなかった。当然、墓を蹴り倒すなど罰当たりなことはしていないし、肝試しに行った覚えもない。質の悪い風邪を引いたと思ってひとまずは理由は置いておくにしても、この状態のまま放置して治る、つまり成仏するかどこか他に行ってくれる保証はない。
だから、おれは夢の中でその幽霊に話しかけてみることに決めた。何か未練があるのかもしれない。
「なあ、あんたは誰だ……」
『……』
「何がしたいんだ」
『……』
「おれに何かしてほしいことがあるんだろう。それは何だ?」
『……』
初めはうまく行かなかった。髷に白装束を着ているとわかったと言っても、その姿は朧気であり、こちらの言葉が届いているのかわからない。
しかし、その姿が夢だけでなく現実にも、眠る直前や起きた直後にも見えるようになった頃、その幽霊はおれの質問に答えた。
「なあ、いったい何があったんだ?」
『……切腹』
「切腹……させられたのか」
取り憑かれたことは迷惑でしかなかったのだが、おれの中に少し同情心が湧いた。おそらく、この男は悪いやつに罪を着せられ、切腹を強要されたのだ。そして、実行した。ああ、無念、無念とこの世を去ったのだろう。いや、去れなかったのだ。なるほど、確かに誠実そうな男だ。その顔も最近はよりハッキリと見えるようになってきていた。
『切腹……したい』
「ん……?」
『切腹したい』
「切腹したい……?」
逆に、罪を着せた側だったのだろうか……。切腹すべきは自分だった。罪を着せた男は腹を切って死に、自分は罪悪感に蝕まれながら生きて、そして寿命で死んだが、後悔からこの世を去れずにいる、と……。
針の穴に糸を通すように集中すると、おれの頭の中に幽霊の心情が流れ込んできた。……ん? え? これは――
「切腹……できなかった? 怖くて? は?」
驚いたことに、この幽霊は普通に犯罪者だった。そして武士らしく腹を切れと場を整えられ、切腹を促されたものの、怖くなり泣きわめき「武士じゃないもん!」などと口走り、ならば一般市民として罰を受けよと言われ、死罪にされたのだ。
名誉も何もあったものではない。代々続いたお家は取り潰され、身内からは恨まれ、知り合いからは蔑まれ、人々に笑われ……。
『だから、切腹させてくれまいか……?』
「えっと、それは……おれの体に乗り移って?」
幽霊はコクンと頷いた。いやいやいや、冗談じゃない。
『今ならできる気がする……』
「そりゃそうだろ。他人の体だからな」
『半分だけでもいいから……』
「重症だよ」
『じゃあ、先っちょだけ……』
「それでも、まあまあ痛いだろう。刺して切るんだろ」
『うわぁ……』
「想像して痛がるなよ」
『痛みは全部、そっちが引き受けて……』
「都合が良すぎる」
これは想像を超えていた。当時、悪あがきしていた姿が目に浮かぶ。
おれは当然、幽霊の申し出を断ったのだが、その日を境にならばとばかりに、倦怠感はさらにひどいものになっていった。
そして、ある日おれは仕事で、普段ならあり得ないミスを犯してしまった。
「き、君、今日は直接、取引先でプレゼンのはずだろう? もうとっくに時間を過ぎているじゃないか! な、なにを会社に来て、のほほんとしているんだ!」
「も、申し訳ございません! あの、すぐに向かいます!」
「もういい! 君のペアが一人で大丈夫だと言っているよ!」
クソッタレめ。おれの背後で幽霊がニヤニヤしているのを感じる。奴のせいだ。しかし、そんなことを上司に言えるはずもなく、平身低頭。叱責を浴び続けた。だが、上司は最近のおれのミスに相当鬱憤が溜まっていたらしく、怒りが収まる様子はなかった。
「大体、君、最近どうかしているぞ! 出張のはずが『有給を取っていたと思ってました』とのたまうわ、会社の備品は壊すわ、それに――」
だから、すべて奴のせいなんだ。きっと奴は生きていた頃も、人にたくさん迷惑をかけていたに違いない。奴が腹を切るに至った理由もきっと、お上に何か無礼を働いたからなのだろう。
『違う……』
じゃあ、何だと言うんだ。犯罪者であることは間違いないのだろう。この前、確かにそう感じたぞ。
『……』
ええい、教えろ! 探らせるんだ! 抵抗するな……と、なに? 世話になっていた武士の女房に手を出そうとし、拒否されて頭にきて切り捨てた、と。最悪じゃないか……。
「だから切腹します」
「……は?」
「えっ」
「え、じゃないよ。君、いま切腹しますと言ったな? はははは! 切腹ぅ? で、できるものしてみなさいよ!」
「します、絶対に切腹します!」
と、どういうわけかおれの口が勝手にそう動いた。もしや、奴の心の深層を探ろうとしたことで、奴もまたおれの心の奥深くに入り込み、肉体の主導権を得たのではないのだろうか。
おれは自分を俯瞰的な視点で見ているような感覚になった。また、競馬、あるいは声を出してスポーツ観戦をしている時のような陶酔感にも囚われた。それはおそらく、幽霊が操っているおれが大声を上げることにより、アドレナリンが分泌されているからなのだろう。そして、それは上司も同じようであった。
「切腹します!」
「やってみろ!」
「切腹します!」
「やってみろ!」
「切腹します!」
「やってみろ!」
「切腹!」
「やれ!」
「切腹!」
「やれ!」
言い合いを続けるおれと上司。幽霊の奴はおれの肉体を支配していたが、やはり口先だけで切腹する度胸はなさそうだった。オフィス内にあるであろうカッターやハサミなど、腹を切れそうなものを探そうともしていなかった。
「もういい、クビだクビ!」
あ、これはどういうことだろうか……。上司から解雇を言い渡された瞬間、どういうわけかおれの体がフッと軽くなった。肉体の主導権はおれに戻り、久しぶりに清々しい気持ちで心が満たされていた。
いや、そうか。切腹には首を切る介錯人が付き物だ。奴は上司に首を切られたことで満足し、成仏したのだ。
あの晴れやかな上司の顔。もしかすると、上司もまた介錯人に取り憑かれていたのかもしれない。しかし、それを話したところで無駄だろう。今からたとえ切腹したところで、おれの首は繋がりそうにはなかった。