黒い帰り道
男は猟をしに山へ入っている。この日は罠の様子を見に来ただけだが、念の為に鉄砲も持っていた。
男は罠を4つ仕掛けてあったが、3つは何も掛かっておらず、淡い期待を胸に4つ目の罠の場所へ向かうと、なんと罠には狐が掛かっているようだ。
その狐はどこか達観したように大人しくしており、妙な雰囲気に一種の神々しさを感じて、男は狐を逃してやることにした。括り罠を緩めてやると、狐は勢い良く跳び出し、一度男に振り返ると、脚を引き摺って山の奥に消えて行った。
もう掛かるなよ。
男はそれでもと思い、罠の場所を変えようと獣の痕跡を探して回っていると、良くないものを見つけてしまった。
酷い奴が居るものだ。
鹿の生首だった。岩の上に立てて置かれ、ドス黒い血で岩を濡らしている。近くの地面には胴体も無造作に転がされていた。欲しい部位だけ切り取って、要らないところは捨てていったのだろう。獲物は原則として持ち帰ることになっているが、これはそもそも命に対する尊厳を欠いた行為だ。
男も鹿や猪が掛かった時は、仲間を呼んで処理をする。流石に一人で引き摺って山を下りる気にはならないし、他人の不始末に仲間を呼ぶ気にもならない。気が引けるが、男はこれを見て見ぬ振りをすることにした。
風が変わった。何か生温く、ねっとりと首筋を舐めるような気持ちの悪い風だ。藪の中からも何かの視線を感じる。木々の枝からも何かに見下ろされている気がする。
気味が悪いな。あんな物を見てしまったからか。
男は罠を仕掛けるのを諦め、今日はこれで帰ることにした。
視界に一際濃い黒いものが見えた。何かの影だろうか。生き物の影の様であるが、この辺りには木しか見当たらない。それも妙に立体的に見える。見えるのではなく立体だ。二本の足で立つ大きな黒い生き物だった。
不味い、熊か。
男は鉄砲に弾を装填するためにひとつ取り出すが、弾からは黒い液体が垂れていた。
可怪しい。男が山に入る前に点検した時はこんな事になっていなかった。鉄砲の薬室からも黒い液体が垂れている。
鉄砲が使えない。
男は走った。熊から走って逃げ切れるなんて一縷の望みに命を賭けて男は走った。
黒いモノが追ってくる。男が熊だと思っていたそれは熊では無かった。それはひとつでは無かった。後ろからだけでは無い。横の藪の中からも、木の枝からも、黒いモノが湧いて出てくる。男の背後も、横も、上も黒く染まって、前方も黒に覆われてきている。
真っ暗。真っ暗だが、夜の真っ暗では無く、真っ黒だった。それでも男は走る。真っ黒の中でもナニカに追われる気配だけはする。隣のナニカは、耳元でくちゃくちゃと咀嚼音を鳴らしている。頭上のナニカは、目と鼻の先で男の顔を睨み付けている。背後のナニカの生暖かい息が、首筋に吹き掛けられている。
真っ黒の中に何かが飛び出してきた。それは黄金に輝く太陽の様に見えた。真っ黒の中に出来た一欠片の光に導かれ、男は走った。
小さかった光は次第に大きくなり、目を開けていられない程眩しくなった。
「馬鹿野郎!死にてえのか!」
男はけたたましいクラクションの音と、怒鳴り声で、自分が車道に飛び出した事を理解した。
男が辺りを見渡すと、既に日は沈み、辺りは真っ暗になっていた。