3-2
伽耶子はそんな僕の思いをよそにどんどん腐っていった。白い肌が赤黒く変色し、やがて融ける。気づいた時には一言も口も利かなくなっていた。
足取りもゆっくりと頼りなくなっていた。伽耶子がちゃんと後ろをついて来ているか、見たくないのに僕は何度も振り返って確かめなければならなかった。
伽耶子の落ち窪んだ眼窩からずるりと落ちるものを見てしまった時、僕は思わず両手で口を覆った。だが大きく叫ぶように開いた口からは、声は出て来なかった。穴の開いた袋のように、息だけが漏れた。よくホラー映画で人が絶叫しているけどあれはウソだ。恐ろしすぎると声も出ない。
もう耐えられなかった。僕は駆けだした。
遠くへ、ほんの少しでも遠くへ。伽耶子から。僕はただ、伽耶子から離れたかった。
ただ闇雲に走った。伽耶子は追いかけてきたりはしないのに。なぜか涙がボロボロ溢れて、前がよく見えなかった。最後には足がもつれ、つんのめった。
河原には柔らかな草が茂っていて、僕を受け止めてくれた。青臭い空気を痛む肺にせわしなく吸い込んでは吐き出しながら、僕はいつまでも倒れたままでいた。
僕はすでに昔読んだ絵本の内容を思い出していた。初めのうちは忘れていた、でもどこかにひっかかっていたあの部分だ。
あの神話──黄泉の国へ妻を迎えに行った男は、妻の腐った姿を見て逃げ出すのだ。
僕はあの話を読んだ時、子供心に男はひどい、と思った。恋いこがれ、黄泉の国にまで迎えに行くほど愛していたんじゃないか。例え姿は恐ろしく変わってしまったとしても、男の気持ちが本当なら、逃げ出したりする筈がない。見た目が変わっただけで気持ちも変わるなんて、男の愛は本物じゃなかったんだと──
「……っ」
僕はしゃくり上げた。鼻の奥がつんと痛くなり、再び涙がこみ上げてきた。
あの男は僕だ。幼い僕が軽蔑し、怒りを覚えたあの男は、そのまま今の僕自身だった。
だけどどうしようもない。僕にはわかったのだ。
人は弱い。すぐに惑い、あっけなく心も変わる。頼りなく、信じるに足らぬ存在。だけど僕は自分が大事だった。だから苦しかった。自分もまた、愚かで卑小な人間だということが。
亡者の列が僕の脇を通り過ぎた。草むらに伏した僕など目に入っていないようだ。
僕は何の感慨もなく彼らを見送った。僕はもう彼らには慣れていて、特別な感情を持たなくなっていた。
いっそ伽耶子に対しても、同じ気持ちになれればいいのに…………
僕はそう思った。
預かり物の荷物のように、何の思いもなくただ伽耶子を引きずって渡し場まで連れて行き、船頭に託せたらどんなにラクだろう。
僕は起きあがり、見るともなく彼らの去った方向に目を向けた。彼らは陽炎のように揺らめきながら、草影の向こうに消えようとしていた。
彼らはいつもただ歩いていた。彼らは何処へ行こうとしているのか……どこか、目指す場所があるのだろうか……
僕はぼんやりと、それぞれの亡者の列がこの国の何処かで出会い、やがてひとつの大きな列となって、何処かへとゆっくり去っていく様を想像していた。
彼らはいつも数体で歩いていたけれど、彼ら自身の考えでそうしているとは到底思えなかった。はっきりとはしないけれど、僕はそこに何か大きな、それぞれのものではない「意志」のようなものを感じていたのだ。
「……っ!」
唐突にひとつの考えが僕の脳天を刺した。
──伽耶子! 伽耶子が亡者の列について行ってしまう……!
僕は慌てて立ち上がり、再び元来た方向へ駆けだした。なぜそんなことをするのか、自分でもわからなかった。
伽耶子があの列に加わって何処かへ消えるなら、その方が僕には都合がいいはずだ。伽耶子にだって、その方がきっといい……僕に疎まれ、恐れられながら一緒に旅をするよりは──
それでも僕は、伽耶子の姿を求めて走った。
僕が伽耶子を置き去りにした辺りを少し探すと、伽耶子は簡単に見つかった。少し離れたところに所在なげに立っていた。
「……伽耶子」
荒い息をつきながら声をかけると、伽耶子はぼんやりと僕の方に顔を向けた。
「ごめんな、伽耶子……いきなり走り出したりして……」
なぜか切なく、悲しくなった。僕は手を差し出した。
「……行こう……」