3-1
「それ」に気づいたのはいつだっただろうか。
湖を背にした翌日か、それより数日経った後か──僕は伽耶子の白い頬に小さな染みを見つけ、自分の頬をつついて言った。
「ここ。汚れてるよ」
伽耶子は恥ずかしそうに自分の手で頬を拭った。だが染みは取れなかった。僕は手を伸ばし、伽耶子の頬に触れてそれを擦り落とそうとしたが、やっぱり染みはそこにあった。
その小さな染み──否、僕が染みだと思ったものが、その時から伽耶子を蝕み始めた。
腐り始めたのだ。少しづつ、伽耶子が。あの亡者達のように。
ぽつんと伽耶子の頬にできた小さな染みが何なのか気づいた時、僕は伽耶子に
「やっぱり戻ろう」と言った。
今ならまだ間に合う……僕は焦り、怯えていた。どこにあるかわからない渡し場を探すより、湖を越え山を目指す方が絶対に早い、と思ったのだ。早く「この世」に戻らないと、伽耶子が腐ってしまう──それは確信だった。
伽耶子はひどく嫌がり泣いていたが、僕は頓着しなかった。伽耶子のためなのにどうしてこいつは、という凶暴な気持ちが吹き上がってくるのを必死で抑えながら、引きずるようにして来た道を戻った。
だけどどれだけ探しても、湖へ至る道は二度と現れなかった。僕たちは疲れ切り、やがて重い足どりで再び川辺への道を辿った。
川辺では今しも太陽が向こう岸へと沈もうとしていた。とろりと熟したオレンジ色の円形が、茜色の空に浮かんでいる。燃え立つような朝陽とは対照的に、それは光を内側に閉じこめ、まさに今眠りにつこうとしているように見えた。
常世の国は日が沈むところにある──死にゆく太陽を見ながら、僕はやはり川の向こうが「あの世」なのだと悟った。そして伽耶子が、山の麓ではなく川の向こうへ、あれほど行きたがった本当の理由もようやくわかったのだった。
伽耶子とは、行けない……僕ははっきりとそう思った。僕と伽耶子では、すでに住むべき国が違っているのだ。
でも僕は伽耶子と約束した。だからせめて、渡し場までは一緒に行こう。
僕はそう決心し、自分に強く言い聞かせた。でも伽耶子が差しのべた手を、僕はもう取ることは出来なかった。
伽耶子は僕の仕打ちにひどく悲しそうだった。伽耶子の心は傷ついたと思う。だけど何も言わなかった。黙って手を引っ込めた。そんな伽耶子の様子に僕の心も痛んだ。腐り始めた伽耶子を僕はもうまともには見られなかったけれど、気持ちはまだ残っていた。
残ってはいたけれど──
こみ上げてくる嫌悪や不快、そして恐怖はどうしようもなかった。
目の前で見知った──それもごく近しい人が腐って融けていくのを、そのまま受け入れられる人間がいるのだろうか。しかもそれは、動いて自分に話しかけても来るのだ。あたかも生きているかように。受け入れるなんて、僕にはムリだ。
僕は自分で思うほど、伽耶子のことを好きではなかったのかも知れない。同じクラスだったあの時からずっと一緒に過ごしていれば、伽耶子がどんな姿になっても大切に思えたのかも知れない。だけど僕たちにはそんな共有した時間などなかったし、どれだけ考えたところで現実にムリなものはムリだった。
どうしてこんなことになってしまったんだろう……
思いつく原因と言えばひとつしかなかった。湖だ。僕は湖で、水面に映る伽耶子の姿を見てしまった。
──ほんの一瞬だったのに──すぐに目をそらしたのに──
そこにあったのは、目の前でもみ合っている伽耶子とは似ても似つかない姿だった。
──見たくなんか、なかったのに──
でも僕は見てしまったのだ。伽耶子の本当の姿を。僕の胸にあの神話の、忘れていた部分が蘇った。
伽耶子は本当は、最初から湖に映ったあの伽耶子だったのだ。ただ僕が気づかすにいただけだ。丁度あの、黄泉の国で妻と再会した時の男のように。
態度を豹変させた僕を、伽耶子はどう受け止めているのだろう。ぼくにはそのことも恐ろしかった。でも僕には、それを確かめることは出来なかった。
伽耶子が無口なのをいいことに、僕もまた口を閉ざし、顔を背けて旅を続けた。
自分が弱く身勝手な人間だということを、僕は認めたくなかった。だから伽耶子から逃げ出すことは考えなかった。否、考えないようにしていた。伽耶子を川の向こうへ送り出す……僕はそれだけを必死に考えていた。伽耶子を気遣う余裕など到底なかった。どうせ腐った死人じゃないか、脳味噌だって腐ってるんだ、感情なんてある訳ない──そんな風に考えては、つい先日までの伽耶子の様子や自分の気持ちが思い出され、また泣けてくるのだった。